せっかく北関東まで行くのだから、骨董市や鉱山跡、そして世界遺産に内定した「富岡製糸場」
などを4日間かけて巡るノンビリ旅を計画した。
旅の初日、朝3時に起き、高速を乗り継いで、北関東の骨董市に着いたのは7時だった。すでに
ほとんどの店が荷を並べ終え、”掘り出しもの”を探す客も多かった。日記帳をみると、ここの骨董
市を最後に訪れたのは2013年1月だから、ほぼ1年半ぶりだ。
この日は、ここだけの予定なので、ジックリ時間をかけ、隅から隅まで見て回る。私が探している
物を欲しがる人が少ない(いない?)のか、面白い品をいくつか手に入れることができた。
・ 「クリノメーター」
・ 「佐渡金山絵巻物」
・ 「寛永通宝 背久二 (常陸太田鋳)」 母銭と通用銭
・ 「半銭銅貨 明治10年 角ウロコ」
だれも見向きもしない(気付かない)品は骨董商のストックとして溜まっていき、自然に鉱物界で
いうところの”漂砂鉱床”が形成され、私にとっては”富鉱帯”になっているようだ。
この後巡った古い鉱山跡も同じように、しばらくぶりに訪れると自然に再生していて、その産地の
目玉標本をいくつか入手できた。
( 2014年5月 訪問 )
1) 宝さがし
どちらも、探して手に入れるのは、「骨董品」、「鉱物標本」というお宝だ。「鉱物標本」だ
と、ある産地でしか採れない鉱物もあるが、「骨董品」はどこで何が獲れるか予想もつか
ないことが多い。
店主に箱の隅から探し出した一枚の古銭の値段を聞くと、「そんなのがあったのか」、と
言うくらいで、店主すら何があるか判らないことも多い。
2) 発見の喜び
「骨董品」のうち、古銭(コイン)や切手などの「郵趣品」は専門カタログが発行されてい
て、今までに発行された種類とそれぞれの市場での価値(=市場価格)も明らかなので
”掘り出した”お宝の価値が金額換算できるのはストレートに楽しい。
「ジュース代(100円)でいいや」、と言われて購入した古銭や古い封筒が、カタログでは
数千円から○十万円のこともある。骨董市は店主と客の『鑑定眼対決の場』でもある。
貴重なものほど売る気がない私にとって、カタログの表示価格は経済的な意味はない
のだが、”誰も気づかなかった”標本を”掘り出した”喜びは、ミネラル・ウオッチングの喜び
に通じるものがある。
3) 鑑定眼=知識の量×本物を見た回数
「骨董品」に『贋物(にせもの)』はつきものだ。特に市場価値が高いものほど贋物が多
い道理で、”掘り出しもの”と喜んだのもつかの間、帰宅してよくよく調べてみると贋物で
”ヌカ喜び”に終わることもないわけではない。
「骨董」の世界では、”だまされる方が馬鹿”、と言われるほどだ。鑑定眼を養うために、
カタログ類を暗記して知識を増やし、買わ(買え)なくても、本物を手に取って見せてもらい
特徴を脳裏に画像として焼き付けておく。
ルーペと磁石(マグネット)を必ず携行するのもミネラル・ウオッチングと同じだ。
鉱物の場合、産地が違えば、「産状」や「結晶の形」が違うものもあり、難しい点があるが
「骨董品」の場合、”本物と違うのは贋物”だから鑑定は比較的簡単だ。
「走向」とは、傾いた地層面、岩脈壁、節理面、断層面、片理面、鉱床などが水平面と交わる
直線の方向である。英語ではStrikeだが、フランス語のDirectionのほうがピンとくる読者も多い
のではないだろうか。
使い方は、クリノメーターの長辺を層理面にあて、水準器の気泡が真中にきて水平になった
時の磁針の方位を読む。北を基準に読むルールなので、北磁針(色のついている方)が東(E)
西(W)を結ぶ線より北側にないときは、クリノメーターを180度回転する。
上のクリノメーターの読みだと、北磁針が北(N)より30度東(E)寄りを指しているので、走向は
『N30°E』となる。クリノメーターの東西は普通の方位磁針と逆になっているので注意が必要
だ。
「傾斜」は、走向に直角な方向が水平面となす角だ。
「傾斜」の方向は、走向の読み方の図にも示したように、走向と直角方向で、普通の方位磁
針でSE(南西)だ。上のクリノメーターの読みで、錘は40を指しているので、傾斜は『40°SE』
となる。
(2) 「佐渡金山絵巻物」
着物などを吊るしてある店先のワゴンの中を見ると、くたびれた箱の表書に「佐渡金山絵
巻物」とあった。店主に断って箱を開けてみると、”巻物”が入っている。佐渡金山の観光土産
に作られた摺りもの(印刷物)だ。
解(ほど)いて見ると、坑口から入ると坑道内での採掘・水替作業の様子が描かれ、鉱石を
背負って坑口を出ると、揺り分けによる選鉱・精錬・そして計量の様子が描かれていて、あた
かも佐渡金山での金の製造工程を順に見て回っているようだ。長さは、私の2尋(ひろ:両手を
広げた長さ≒身長)を超えるので、3.5mはありそうだ。
金山の作業
巻頭には絵巻物の正式な名前 『金銀山敷内稼方之図』とある。巻末には、原本者の名前
書き写した年号・人などの情報がある。
『 原本者
佐州雑田郡相川住
御絵師 山尾 次七 蔵書
文久三年癸亥二月 任望 山田氏 写之
佐藤 六郎 愚書 』
佐藤六郎が書き残した来歴によれば、佐渡島雑太郡相川に住んでいた絵師・山尾次七が
書いた原本を幕末文久3年(1863年)山田氏が写したようだ。
(3) 「寛永通宝 背久二 (常陸太田鋳)」 母銭と通用銭
寛永通宝は、寛永3年(1626年)から幕末(ひょっとすると明治初期?)まで、250年間近く造
られた庶民に馴染み深い銭(ぜに)だった。西欧の通貨が金属の板を型で押す圧印(あついん
:Press)で造られるのに対して、日本では江戸時代まで、溶かした金属を砂を固めた鋳型(い
がた)に流しこむ鋳造(ちゅうぞう:Cast)で「通用銭(つうようせん)」が多量に造られた。
鋳型を造るには、もとになる見本の銭が必要で、これを「母銭(ぼせん)」、あるいは「種銭(た
ねせん)」と呼んでいる。いずれも、母から子がうまれ、種は一粒万倍(いちりゅうまんばい)か
ら名付けられたものだろう。「母銭」は加工しやすいように、材質は錫や銅で造られているのと
流通時の摩耗がないため文字や縁(縁)の角が鋭いのが特徴だ。
「母銭」は「通用銭」を造るための型で、鋳銭所から出て市中に流通することは希だったため
現存数が少ないうえに美しいため、カタログでの価格は数百円の「通用銭」にくらべ、数万円と
高い。
とある店先の埃(ほこり)にまみれた木箱の中にコインがあるのを見つけ、店主に断って中の
古銭を1枚、1枚チェックさせてもらい、面白そうなものを抜き出すことにした。ある一枚を手に
取って見ると、四角い孔(こう)の上下に 久 ニ とある。材質は赤銅色だ。この銭の通用銭は
鉄だったから、『母銭だ!!』。このほか、「永楽通宝」、明治時代の銅貨やおなじころの外国
貨など、切り良く10枚まとめて1,000円で購入した。
入手した「母銭」は、背面に久ニと鋳こまれているところから、略称が『背久二(はいきゅうに)』
で、安永3年(1774年)から常陸太田(茨城県)で鋳造されたものだ。
こうなると鉄でできた「通用銭」が欲しくなり、別な店で探し出す事ができたので、並べて紹介
する。
溶けた金属は冷える時に体積が小さくなる”鋳縮み(いちじみ)”、という現象がおこる。それ
を見込んで、「母銭」は一回り大きくなっているのも特徴で、外形をノギスで計ってみると、「通
用銭」の23.5mmに対して、「母銭」は23.7mmで、約1%大きくなっている。
(4) 「半銭銅貨 明治10年 角ウロコ」
母銭を掘り出したのに気をよくしてアチコチ見て回っていると、コインを中心に商っている店が
あった。箱に入った古銭には値札がベッタリ貼られている。店主がカタログを見ながら値付けし
貼ったものらしい。
1000枚ほどの古銭の中に、明治10年発行の半銭銅貨が何枚かあった。この年の早い時期
に竜の鱗(うろこ)のデザインが変更され、以前と同じ「角ウロコ」のものは少なく、それ以降の
「波ウロコ」のものが数百円なのに数万円するカタログ評価になっている。
値札は肝心な竜の模様のついた面(年号がある面なので表)に貼ってあり、「ウロコ」を簡単
に見られない。普通の人は、値札が貼ってあるのは店主が確認済と思うらしく、値札をはがし
てまで確認しようとするのは私ぐらいらしい。
とある一枚の値札を苦労してウロコが見える部分だけはがしてルーペで見ると「波ウロコ」で
はなさそうだ。明治11年以降に発行された確実な「波ウロコ」品と、見くらべてみると明らかに
違う。100円の値札を元のように貼り直し、購入品の皿に入れた。このほか、国内外の銀貨、
銅貨など20枚あまりを850円で購入した。
帰宅後値札をはがし、糊を落してルーペで観察すると間違いなく「角ウロコ」だった。
夕食をとり、仮眠して、次の日に訪れる「西沢金山」に向かって車を走らせた。