東日本大震災の時、私は千葉県に単身赴任していた。震源に少し近いせいで、甲府よりも1段階強い、関
東大震災の時と同じと言われる『震度5強』を体験した。
震源地近くの親類や山梨の家族に安否を確認しようと携帯電話をかけても、つながらなくて、比較的つながり
やすいといわれた公衆電話の前に寒空の下、長い時間並んだことを思い出す。
関東大震災で人的・物的に壊滅的な被害を受けた東京と横浜では、当然郵便事業にもその影響は及ん
だ。 保管してあった切手類が焼失し、印刷しようにも機材が焼け、大阪の「精版印刷」に委託した。
9月3日、東京市内宛郵便物の引受け停止が地方局に指示され、解除されたのは22日だった。出された
郵便物は途中の局に留め置かれるか、返戻された。
9月6日から東京中央はじめ24局で郵便受付が開始されたが、自由に差し出せたのではなく、@ 罹災者から
地方あての書状・葉書 A官公署発で急を要するもの B官報に限る などの制約があった。
罹災者たちは速報性や即時性に優れる電信や電話も利用した。9月5日、火災を免れた東京中央郵便局
内に臨時通話所を設置した。これだけでは不足し、東京に34か所、横浜に10か所設置され、全て廃止された
のは大正15年1月19日だった。
震災の前、電話局で電話をかける際の料金は、「通話券」に切手を貼って支払い、その局で「収納印」を押
した。震災直後は切手だけでなく「通話券」もない局が続出し、10月25日から現金での支払いを認めざるを得
なかった。
しかし、予想以上に速い復旧で、「震災切手」が出現し、翌13年春になると電話事業も復旧し、従前の料金
収納方法に戻っていった。
臨時通話所での「通話券」に貼られた切手の収納印は、基本的には櫛形印だが、表示形式と使い方が
東京と横浜では違っていた。
収納印の表示形式や割り印として使っている横浜の方が告示に忠実とされる。
東京のC欄は「電話所」なのだが、タイトルなど、正式名の「(臨時)通話所」を使用した。
( 2017年2月 作成 )