新潟県蓮華銀山(鉱山)と三島由紀夫

       新潟県蓮華銀山(鉱山)と三島由紀夫

1. 初めに

   冬が近づくにつれ、フィールドでのミネラルウオッチングから古書店や骨董市での
  鉱物・鉱山関係の資料の入手や鉱物関係の文献の読破などに主眼が移っている。
   古い「地学研究」を読んでいると、畑辺 秋夫氏の『文学作品に見る鉱山史』 と
  題する寄書が目に留まった。ドイツの文豪・ゲーテにちなむ”Goethite(針鉄鉱)”を
  持ち出すまでもなく、文学者と鉱山や鉱物は縁の深いものであった。
   2005年11月、兵庫県の石友・Nさん夫妻に案内していただき、新潟県の橋立金山跡を
  訪れ、同じ糸魚川市近くにあった蓮華銀山(鉱山)の名を初めて知ったが、「そんな鉱山
  もあったのだ」くらいにしか感じていなかった。
   ノーベル賞候補に名前が挙がった事もある三島由紀夫が、昭和45年(1970年)11月に
  自決して35年が経った2005年11月、猪瀬 直樹著「ペルソナ 三島由紀夫伝」を読む
  機会があった。
   この本には、祖父・平岡定太郎、父・梓の官僚としての歩みと大蔵官僚として
  スタートしたものの、早々に文学者(小説家)に転向し、悲劇的な自決を迎えた三島
  由紀夫(本名 公威(きみたけ))の3代記が書かれている。
   この中で、祖父・定太郎が大正の初め、新潟県糸魚川市の外れにあった蓮華鉱山
  合資会社の社長を務めていたことが明らかになり、三島 由紀夫と鉱山が縁があった
  ことを初めて知り、改めてタイミングと言うか”縁(えにし)”を感じたので、このページを
  まとめてみた。
  ( 2004年12月 調査 )

2. 『文学作品に見る鉱山史』

   畑辺 秋夫氏の『文学作品に見る鉱山史』として紹介されている文学作品、作者
  舞台となった鉱山(炭坑を除く)などを一覧表に示す。

 作品名 作 者   舞台となった鉱山
   (時 代)
    あ   ら   す   じ 備 考
○:蔵書
佐渡流人行松本清張新潟県・佐渡鉱山
  (江戸時代)
 水替え人足の重労働を
リアルに描く
坑夫夏目 漱石栃木県・足尾銅山
  (明治中期)
 手配師に連れられ坑夫になる積りで
足尾銅山に行ったが、坑道の危険や
恐ろしさと坑夫としては無理と判断され
事務職として1年余り働き、東京に戻る
おりん口伝松田 解子秋田県・荒川鉱山
(明治20年代〜明治末)
 主人公・おりんの鉱山労働者への
嫁入りから、活況を呈する荒川銅山の
様子が描かれ、その中で最初の夫
そして2番目の夫の死
 自らも選鉱婦として働き、力強く
生き抜く。

戯曲もあり
続おりん口伝松田 解子秋田県・荒川鉱山
(明治末)
 日露戦争後の銅価格暴落を補う
増産に明け暮れる荒川鉱山
 「明日また掘り、明日また割り
明日また溶鉱炉にくべる」
終焉杉本 苑子島根県・大森鉱山
 (江戸・享保の頃)
 勘定方幕臣・井戸平左衛門が
大森銀山領の代官として赴任
 豪商や富農から冥加金を召し上げ
一方で他国から雑穀を仕入れ
領内農民へ給付するなど人間らしい
施政を行う。
 蝗(いなご)の大発生に困窮する農民
坑夫のため、独断で幕府の米倉を開放
 責めを負い解任され、送致される
途上、自刃する。
豪商三代咲村 観愛媛県・別子鉱山
 (江戸初期〜中期)
 住友家初代・理右衛門が粗銅から
銀を取り出す”南蛮絞り”に成功
 2代目・理兵衛は大阪で銅吹所
(精錬業)を起す。
 3代・友信は、秋田の阿仁銅山
山形の幸生(最上)鉱山、岡山の
吉岡鉱山などを手がけ、鉱山採掘に
進出
 元禄3年(1690年)別子露頭の発見
開坑。そして元禄7年(1694年)山火事に
よる支配人・助七ら百数十名が落命する
悲劇を乗り越えて磐石の体制を作り
上げる。
住友王国邦光 史郎愛媛県・別子鉱山
 (江戸初期〜明治以降)
 創業から明治以降までの
別子銅山の興廃をつづる
住友の大番頭邦光 史郎愛媛県・別子鉱山
    (明治)
 明治期、別子銅山を再興した
広瀬宰平、伊庭貞剛の足跡を描く
 
別子開坑
二百五十年史話
住友鉱業愛媛県・別子鉱山
(戦国〜昭和14年)
 開坑〜昭和14年にいたる
別子銅山の正史

3. 蓮華鉱山(銀山)

    私が蓮華銀山の名前を知ったのは、2005年11月、兵庫県の石友・Nさん夫妻に案内
   していただき、新潟県の橋立金山跡を訪れたとき、製錬所跡の看板の説明書きに
   次の一行があったからである。

    『 ・・・・天保年間(1830〜1843)には雪倉岳の蓮華銀山と共に開鉱され、・・・・・・・・』

    地図を見ると、糸魚川市の最南端、富山県との県境に雪倉岳があり、その東麓に
   蓮華温泉がある。すぐ南は、長野県である。

       
      橋立金山製錬所跡            蓮華銀山地図

    「日本鉱産誌」で探してみると、今銀鉱床ではなく、銅・鉛・亜鉛鉱床の分冊に掲載
   されている。
    それによると、蓮華温泉から4km、輝岩、花崗岩、蛇紋岩あり。鉱脈数10条、主な
   露頭15 方鉛鉱や閃亜鉛鉱を採掘した。銀の品位の高いものでは、532g/トンあり
   鉛3.3〜11.3%、銅0.2%、亜鉛6.6%の分析データが残されている。
    銀品位が高かったことから”銀山”と呼ばれたものであろう。

4. 蓮華銀山と三島由紀夫

 4.1 「ペルソナ」と蓮華銀山
     猪瀬 直樹著 「ペルソナ 三島由紀夫伝」の中から、蓮華銀山に関わる部分を少し
    長くなるが引用してみる。(  )は私の注記

    『 三島由紀夫の祖父・定太郎は、文久3年(1863年)、播州印南郡(現兵庫県)の平民の
    子に生まれ、回り道をして、東京帝大英法科を卒業したのは29歳のときであった。
     後に平民宰相といわれた内務大臣・原敬の引きを得て、43歳の若さで福島県知事に
    抜擢され、明治41年(1908年)、45歳で樺太庁長官に任命され、赴任した。
     大正2年(1913年)、定太郎の満鉄総裁就任の出世話が浮上したが、結局沙汰やみ
    となり、翌大正3年(1914年)4月、「樺太庁に疑獄の説起る」の活字が紙面を飾った。
     この直前、山本政友会内閣が瓦解、原が内相を退き、その余波が樺太まで及んだ
    のであった。窮した定太郎は6月辞表を提出、受理された。
     翌、大正4年(1915年)4月、東京地方裁判所で定太郎を被告人とする横領事件の
    予審が行われ、翌大正5年(1916年)「証拠不充分により無罪」の判決が下された。
     無罪にはなったが、樺太庁の切手、印紙の割引で生じた赤字補填のため自腹を
    切って10万円を差し出す羽目になった。(今の価値で3億円くらいか)
     以後、定太郎の消息は途切れ途切れにしか、歴史の表舞台に姿を現わさない。
     大正7年(1918年)版の「日本紳士録」によると、定太郎は「南洋製糖株式会社
    取締役」と「蓮華鉱山合資会社社長」となっている。蓮華鉱山合資会社は、大正5年
    (1916年)に資本金10万円で設立されている。
    大正8年(1919年)版には、南洋製糖の肩書きはなく、蓮華鉱山社長の肩書だけ残った。
     新潟県糸魚川市のはずれ、長野県境の北アルプスの尾根が日本海へ延び下って
    いくあたりに、寂れた湯治場がある。大正元年(1911年)生れの蓮華温泉2代目の
    主、田原善次は「小学校のころに蓮華鉱山の事務所があったが、鉱山設備は
    建設途中で止めたまま廃坑になっていた」 と記憶している。
     戦国時代の武将上杉謙信が発見した銀山という伝説があり、江戸時代には山師が
    群がったらしいが、幕末には打ち捨てられていた。
     定太郎は、銀山で一発当てようと考えたのか。この後、定太郎は、蓮華鉱山に
    片足を突っ込んだまま、原の密命を帯び、満州(現中国東北部)に向かう。
     やがて、大正9年(1920年)2月、原は国会を解散し、5月の総選挙で政友会は圧倒的
    多数を占め、10月、定太郎は東京市道路局長として公職に突如復帰する。ただ
    このタイミングの悪さは、いったいどういうことだろう。
     10月20日付の東京朝日新聞紙上に「新道路局長が初月給の差し押え」の見出しが
    載った。記事は、蓮華鉱山の後腐れ話である。「僕がある鉱山会社を起したとき
    上田、大原の両人から多量の針金を仕入れた(借金の)残額で、僕が責任者として
    裏書したものだが、会社が悲境に陥り債務を果たし得なかったのだ」という定太郎の
    コメントがある。
     タイミングが悪いというのは、表にでた途端に借金取りにでくわしたことのみを指す
    のではない。東京市道路局長に就任して3週間後の11月1日、明治神宮鎮座祭が挙行され
    50万人の人出があった。馬車の往来が繁く、付近の道路が雨で崩れ、その結果手抜き
    工事がバレた。さらに、市議会で政友会系市会議員の贈賄(収賄)事件が発覚した。
     「平民宰相」と持て囃した新聞は、一転して政友会攻撃に転じ、政友会系東京市長に
    代わり反政友会の大物後藤新平の就任が決まった。原の妥協人事であった。
     こうなると、定太郎は道路局長として居づらくなる。原に相談し、12月、在任3ケ月に
    満ず58歳にして、公職へのリターンマッチにも敗れた 』

     後藤新平は、大正12年(1923年)関東大震災の後、東京の大規模な区画整理を実施
    した事で知られ、定太郎が道路局長に留まっていれば、力を揮えたのであろう。
     公威(三島由紀夫)が生れるのは、この後、大正14年(1925年)1月14日である。

 4.2 「仮面の告白」と蓮華銀山
     三島由紀夫の出世作となった私小説「仮面の告白」には、ほぼ事実が書かれていると
    されている。その中で、祖父・定太郎についての記述が一箇所だけある。祖母は頻繁に
    登場するのに、彼の膨大な全作品、全評論を通じて1カ所しかない。あまり、触れたくない
    血脈なのだろうか。
     その部分を引用してみる。

     『 祖父が植民地(樺太)の長官時代に起った疑獄事件で、・・・・・・私の家は殆ど鼻歌
      まじりと言いたいほどの気楽な速度で、傾斜の上を辷(すべ)りだした。・・・・・・・
       祖父の事業欲と祖母の・・・・・・・とが一家の悩みの種だった。いかがわしい取巻き連の
      持って来る絵図面に誘われて、祖父は黄金夢を夢みながら遠い地方をしばしば旅した 』

      蓮華鉱山が失敗に終わっても、定太郎は、黄金の夢を捨てきれなかったと思われる。

5. おわりに

 (1) 古書店で105円で買った本を読み、三島由紀夫一家と蓮華鉱山との関わりを初めて知った。
    祖父・定太郎の栄達と挫折が作家・三島由紀夫の生き方、そして死に様にどのような影響を
    与えたのだろうか。
     親が子に、祖父母が孫に与える影響を考えさせられる1冊であった。

 (2) 蓮華銀山は、糸魚川周辺でのヒスイ採集や富山県、石川県でのミネラルウオッチングの
    途上に近いようなので、いつか訪れて見たいと考えている。

6.参考文献

 1)猪瀬 直樹:ペルソナ 三島由紀夫伝,文芸春秋,1996年
 2)日本鉱産誌編纂委員会編:日本鉱産誌 BT−b 銅・鉛・亜鉛
                    東京地学協会,昭和31年
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