茨城県尾崎前山製鉄遺跡







            茨城県尾崎前山製鉄遺跡

1. 初めに

    少し古い話で恐縮だが、2011年12月、この年のミネラル・ウオッチング納めを群馬県
   桐生市の茂倉沢鉱山で行った。

    ・      2011年 ミネラル・ウオッチング納め
     群馬県桐生市茂倉沢鉱山の『鈴木石』
     ( Last Mineral Watching 2011 , SUZUKIITE from Mogurasawa Mine , Gunma Pref. )

    その帰路、茨城県八千代町を通りかかると、道路脇に「尾崎前山製鉄遺跡」の看板が
   あり、気がかりなので訪れてみた。

    崖っぷちの上に、復元した製鉄炉が据え付けてあり、附近には製鉄で生じた鉱滓(こう
   さい)、製錬・加工の段階で生じた薄い鉄片、そしてこれらの作業に従事した人々が使っ
   たと思われるものを含め、縄文〜平安(?)まで、各年代の土器片を観察できた。

    古代から近代にかけての製鉄といえば、すでに何回かHPにも掲載した播磨国(兵庫県)
   宍粟(しそう)郡や出雲国(島根県)が余りにも有名だ。茨城県での古代製鉄と言えば、太
   平洋岸では『浜砂鉄』を用いて行われていたことは知っていたが、このような内陸部でも
   行われていたことは初めて知った。

    ・播磨國(兵庫県)泉屋鉄山
     ( Izumiya Iron Mine , Harima Province , Hyougo Pref. )

    現地にあるこの遺跡の説明板によれば、「尾崎前山製鉄炉」は9世紀に操業したとある。
   この時期、地方の豪族が新田開発に必要な農具や領地の攻防戦に必要な武器を作る材
   料としての鉄の需要が急速に伸びた時期で、日本各地で製鉄が行われ、「尾崎前山製鉄
   遺跡」もそれらの1つだったのだろう。

    鉱物としての興味は、ここでの製鉄原料の「砂鉄」はどこで採掘したものかだ。製鉄の
   採算性を示す俚諺(りげん)に『粉金(こがね:砂鉄)7里に炭3里』がある。八千代町は太
   平洋岸から直線距離でも約60km(15里)もあり、7里の2倍以上離れていて「浜砂鉄」を
   運んだとは思えない。そうすると近くの川床に堆積した砂鉄を採掘したことが考えられる。
    八千代町の東約4kmを鬼怒川が北から南に流れていて、この川では砂鉄が採集できる
   とのインターネット情報があり、地形を見ると古い時代には、もっと八千代町寄りを流れて
   いた可能性があり、容易に入手できた可能性が高い。

    鉱物は、私たちの生活に必要な鉄、銅、鉛などの有用鉱物を得るためのものだった。つ
   まり、『用の美』が基本だろう、と新年に思う。
    ( 2011年12月訪問 2012年1月掲載 )

2. 場所

    茨城県南西部下妻市の西に八千代町があり、その南端部、尾崎地区に「尾崎前山製鉄
   遺跡」がある。
    県道20号線(結城・岩井線)には、遺跡への案内板も出ているので判るはずだ。

    
                       「尾崎前山製鉄遺跡」地図

3. 古代関東地方の製鉄

 3.1 「尾崎前山製鉄遺跡」
    ここは、八千代町の指定文化財になっていて、正式な名称は「尾崎前山遺跡製鉄炉跡」
   だ。
    現地に備え付けてある案内パンフレットから、遺跡の概要を知ることができる。
    (  )は、私の注釈

    『 尾崎前山遺跡は、南側に飯沼から入り込んだ谷津(やつ:低湿地帯)を望む台地に
     立地する。現状は山林・畑になっている。
      台地下の斜面から水田にかけて、多量の鉄滓(てつさい)が散布していたことから、
     茨城県立歴史館や東京工業大学によって、昭和53年から昭和55年にかけて発掘調
     査された。調査の結果、旧石器時代から縄文時代、弥生時代、平安時代の複合遺跡
     であることがわかった。
      特に、(町指定文化財に)指定された南斜面の部分からは、製鉄炉3基の他、木炭や
     炉を築くための粘土等の材料置き場、明らかに地形を成形して造った作業場等の施
     設が確認された。
      また、台地上からは、製鉄に携わったと見られる人々の住居跡や工房跡「鍛冶」が
     確認されており、当時の社会を考える上で大変貴重な遺跡である。
      製鉄炉は、出土した土器から9世紀に操業されたと考えられる。当時の炉の構造は
     近世の「たたら」、と異なり、地形の炉底の構造、また復元実験等から、南から斜面を
     かけのぼる風を利用した、自然送風による「竪型炉」と考えられている。
      出土した遺物は、八千代町歴史民俗資料館に展示・保管されている。       』

      現地の様子や復元された製鉄炉も外観などを下の写真に示す。

       尾崎前山製鉄遺跡全景



         
                  前から                       後から
                           復元した製鉄炉

      ここでの製鉄作業の様子を描いた復元図がパンフレットの表紙に掲載してあるので
     引用させていただく。
      この復元図は、昭和62年に「朝日百科 日本の歴史59」に掲載されたものらしいので
     山梨の自宅の8畳間の書庫(聞こえは良いが、ガラクタ部屋)にあるはずだ。

       尾崎前山製鉄遺跡復元図

      この復元図が正しいとして眺めているといろいろなことがわかってくるし、逆に本当に
     この図の通りだったのだろうか、と次のような疑問も湧いてくる。

      (1) 禿山(はげやま)
           「鉄山(かなやま)秘書」に、『一に粉鉄、二に木山』とあるらしい。製鉄に砂鉄
          が必要なのは当たり前だが、それを溶かす燃料の木炭の供給が問題になる。
           復元図には、炭焼きの煙が3筋描かれているが、周りの森林は鬱蒼(うっそ
          う)としている。
           古代に比べ熱効率の良い江戸中期の「たたら製鉄」でも1200貫(約4.5トン)
          の鉄を得るのに4000貫(約15トン)もの木炭を使った。比重が小さい木炭を
          4000貫も焼くには、ひと山を丸裸にするまで木を伐(き)らねばならない。
           操業の規模が違うとはいえ、熱効率が悪かった古代の製鉄では、木炭の使
          用量も多く、周りの森林の多くが禿山になっていたはずだ。

           千葉県成田市にある古墳時代終末期(6世紀末)の製鉄遺跡は、製鉄に好
          都合な場所に、何年あるいは何十年か経つと、再び炉が築かれ、工房が作ら
          れた。これは、砂鉄や木炭資源(=森林)が回復するのに合せて製鉄工人集
          団が巡回して操業した、とする論文もある。

      (2) 竪型炉
           復元された「竪型炉」は、近世の「たたら」、と呼ばれる「箱型炉」とは全く違っ
          た構造をしている。
           「たたら」では、鞴(ふいご)を使った強制的な送風機構で砂鉄が溶ける高温
          を得ていたとされるが、古代製鉄では崖下から吹き上げる風による自然通風
          で砂鉄を溶かしていたようだ。近世になるまで、「登り窯」、と呼ぶ陶器を焼く
          窯が斜面に造られ、自然通風で高温(Max1,300℃)を得ていたののミニチュア
          版と思えば良いのだろう。
           ただ、復元された炉を見ると、こんなに広い炉口(ろぐち:鉱滓を出すための
          穴)では、冷えてしまって溶けないのではないだろうか、との思いもある。

 3.2 古代関東地方の製鉄
      「常陸風土記」の香島(鹿島)の郡の章に、この地で製鉄が行われていたことを示す
     記述がある。

      『 慶雲元年(704年)、国の司・采女(うねめ)の朝臣、鍛佐備(かぬちさび)の大麿
       (おおまろ)等を率いて、若松の浜の鉄(まかね)を採りて、剣を造りき。此より南、
       軽野の里の若松の浜に至る間、三十余里ばかり、此は皆松山なり。・・・・・・・・
        その若松の浦は、すなわち常陸・下総二つの国の堺なり。安是(あぜ)の湖(みな
       と)にあらゆる(あるところの)沙鉄(すなごのあらがね=砂鉄)は、剣を造るに大だ
       (はなはだ)利(と)し。然れども、香島の神山為(な)れば、輙く(たやすく)入りて松
       を伐(き)り、鉄(まがね)を穿(ほる)ことを得ず。                     』

        8世紀の初め、太平洋沿岸の茨城県鹿島郡で採れた砂鉄と松炭を使って鉄を採
       って、剣を造った。
        しかし、この地域は鹿島神宮の神域なので、松を伐ったり、砂鉄を掘ったりする
       ことはできなかった、 と言うような意味だ。

      こで造られた鋼を使ったと思われる2mを超す長大な直刀が鹿島神宮に伝えられて
     ている。
      茨城県で育った私が、結婚した後、帰省し、初詣で鹿島神宮を訪れ、この巨大な刀を
     見たときには”霊”が宿っているかのような荘厳な形とその大きさに圧倒された記憶が
     残っている。

      さて、司馬遼太郎の「街道をゆく 7 砂鉄のみち」を読むと、『 製鉄は、まぎれもなく
     朝鮮半島から伝わったと思われる 』
 、とあるように、砂鉄を原料にした製鉄法が北九
     州や出雲地方(島根県)、そして吉備地方(岡山県)に伝わったのが日本の製鉄の初
     めだった。
      その時期については、いくつかの説があるようで、早ければ紀元前後、遅くても6世
     紀半ばだった。
      鉄に先立つようにして日本に伝わった『米作り』が、北九州から関東に伝わるのに
     永い年月がかからなかったように、鉄も短期間に関東地方にも伝わった、と考えられ
     「風土記」にもあるように、8世紀初頭以前には常陸國(茨城県)で製鉄が行われ、内
     陸部の「尾崎前山」にも、9世紀には伝わっていたことになる。

      「金属の文化史」を読むと、茨城県ではなく隣の千葉県下の製鉄関連遺跡の数を
     時代別に分類したデータがあるので引用させていただく。

         時代 古墳 奈良 平安 中世 近世 不明 合計
製鉄遺跡数 1 13 9 10 5 108 146
鍛冶遺跡数 17 16 94 17 5 73 222
不明遺跡数 2 2 9 6 4 34 57
合計 20 31 112 33 14 215 425

      製鉄遺跡とは、砂鉄や鉄鉱石を溶解して鉄をつくることで、鍛冶遺跡とは、鉄を熱して
     農具や刀剣などを造る、いわゆる「鍛冶屋」の仕事だ。

      この表を見ると、平安時代の遺跡が一番多いのだが、そのほとんどが鍛冶遺跡で、
     製鉄遺跡が一番多いのは奈良時代(710年〜794年)のわずか100年足らずの期間で
     中世、 近世になるとその期間の長さに比べ遺跡の数は激減している。
      この傾向は、千葉県だけでなく、東日本に共通するらしい。

      時代不明の遺跡が多数あるのだから、これが正しいと言えない、という意見もあるが
     数少ない有力な製鉄基地が国内(出雲、吉備、播磨など)に成立したと考えるのが妥
     当であろう。

      茨城県で大規模な製鉄が試みられるのは、幕末19世紀半ばになって国防上の理由
     から「反射炉」を造るまで、1,000年の時が必要だった。

      しからば、関東地方(東日本)での製鉄が下火になってしまった理由は、『入手できる
     鉄原料の差』、とする説が有力だ。
      東日本の砂鉄に含まれるチタン(Ti)の含有量は、TiO2の形で10%を越え、これが溶
     けて鉱滓(こうさい)の粘り気が増し、操業が難しく、さらに得られるのは炭素の含有量
     が多い鋳物用の「銑鉄(せんてつ)」だった。
      他方、西日本、特に出雲地方の砂鉄は、チタンの含有量が少なく、得られるのが、「玉
     鋼(たまはがね)」に代表される、日本刀等に使える低炭素の鋼(はがね)だった。
      製品の用途の広さや大量生産によるコストなどから、東日本の製鉄は下火になり、
     西日本の製鉄製品が広まったと考えられる。

4. 観察品

 (1) 磁鉄鉱【MAGNETITE:FeFe3+2O4
      ここで観察できる鉱物は、製鉄原料だった砂鉄、つまり磁鉄鉱だけだ。黒色、金属光
     沢の正八面体を基本とする結晶で、大きさは最大でも2mm程度だ。
      糸つき磁石を近づけると、勢いよく吸いつくので簡単にその存在を知ることができる。

       「磁鉄鉱」

5. おわりに

 5.1 『用の美』
      戦前(1945年以前)の小中学校では、「鉱物」が正式の授業科目にあり、そのための
     教科書も当然あった。
      たまの休みに、千葉近郊で開催される「骨董市」を巡っていると、それらの1冊に出会
     うこともある。

      大正から昭和初期(1920〜30年)の鉱物学教科書の扉には、色刷りで鉱物の絵が
     載っているものも多い。

       鉱物教科書

      目次を見ると、わざわざ『有用鉱物』、つまり、われわれの生活に役立つ鉱物を中心に
     構成してあるのが教科書の1つのスタイルだ。そうでないものでも、それぞれの鉱物の
     説明の中に、【用途】、いう項目を設けて、われわれの生活にどのように役立っている
     かを記述している。
      そして、「石油」、「石炭」、「琥珀(こはく)」そして肥料に使われる「燐鉱」も鉱物として
     扱われていたのには、時代を感じる。

      鉱物は、私たちの生活に必要な鉄、銅、鉛などの有用鉱物を得るためのものだった。つ
     つまり、『用の美』が基本だろうと新年に思い、最も身近な鉄を採りあげてみた。

 5.2 年頭雑感
      2012年が明けて1ケ月が経った。何よりも、今年の冬の寒さは尋常でない気がする。
     山梨県に比べ暖かいはずだと思って赴任した千葉県だが、朝夕の肌を刺すような寒さ
     は山梨以上ではないかと思うほどだ。

      ヨーロッパの信用不安に始まり、とどまる所を知らない円高で、赴任先の会社も厳し
     さを加えている。それだけに、リソースを集中し、将来に向けての製品開発・生産ライン
     構築が強く求められている。
      正月早々、社長へのプレゼンテーションがあり、「人、金を掛けてでも、早くやれ」、と
     のGoサインを出していただいた。

      兵庫の石友・N夫妻からのメールには、「仕事もホドホドにして、HPの更新楽しみに
     しています。・・・・・」、とあったのだが、もうしばらく、千葉でのコンサルタント家業を楽
     しませていただこうと思っている。

      放射能汚染が怖くて、イギリスに避難していた3男の孫娘が先週帰国した。平日だっ
     たが休みを取り、成田空港まで迎えに行った。
      すぐに、私の顔を思い出してくれ、家に帰って、ボール遊びをすると大はしゃぎ、膝の
     上に座らせて本を読んであげると、以前と同じように次々と本を持ってきて、半年近くの
     ブランクが嘘のようだった。
      ( ただ、傍(はた)から見れば、『爺馬鹿』、と写ることは間違いない )

      2012年は、ミネラル・ウオッチングに行く回数は一段と少なくなるだろうが、行けば
     『一期一会』、の気持ちで楽しもうと思っているので、石友の皆さま、よろしくお願いたし
     ます。

6. 参考文献

 1) 加藤 武男著:中等鉱物界教科書,富山房,大正9年
 2) 大築 佛郎、橋本 賢康著:鉱物綱要,帝国書院,昭和2年
 3) 黒岩 俊郎編:金属の文化史 −産業考古学シリーズ(1)−,アグネ,1991年
 4) 植垣 節也 校注・訳:風土記,小学館,1997年
 5) 司馬遼太郎:街道をゆく 7 砂鉄のみちほか,朝日新聞社,1997年
 6) 司馬遼太郎:週刊 街道をゆく No38 砂鉄のみち,朝日新聞東京本社,2005年
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