明治事物起原 「黄玉の始」

         明治事物起原 「黄玉の始」

1. 初めに

   2006年末、千葉県の石友・Mさんから、各種の文献・資料を恵送していただい
  た。冬の間、寒くてフィールドでのミネラルウオッチングが難しく、HPの更新も
  滞るだろうからと、ネタを提供していただいた訳である。

   それらの1つを読むと、石井研堂著の「明治事物起原」に「黄玉の始」なる一文
  があり、わが国で黄玉(トパズ)が知られるようになったのは、いつ頃、誰に
  よってか、が記されている。

   それによると、明治3年(1870年)、神田小川町金石舎の主人高木勘兵衛によ
  って発見された、と記されている。
   しかし、『 美濃國ゑな郡苗木山の畠の砂中より、細くして糸の如きを得たる
  を口きりとなす。勿論、黄玉などゝ知る由なく、唯、水晶と稍異なると思いし
  位にすぎざるなり 』 
とあるように、その当時は、一寸変わった水晶、と思われ
  た程度で、黄玉(トパズ)とは、知らなかったようだ。明治10年(1877年)になっ
  ても、『 当時高木は、(黄玉を)尚何物とも知らざりし 』と記載されている。

   明治41年(1908年)に研堂が「明治事物起原」を編むに際して、当時神田小川町
  に金石舎という「金石宝玉類販売及琢磨細工所」を構え、”トパーズ勘兵衛”とも
  呼ばれた、高木勘兵衛(1837年―1911年)の話を聞き書きしたと考えられる。

    金石舎広告【HPから引用】

   岐阜県苗木地方の黄玉(トパズ)は、質量ともに日本一で、多くの鉱物ファン
  を惹きつけていた。採石場が次々と閉鎖に追い込まれ、ガマから採集できる可能
  性は少なくなったが、パンニングでは、思いがけない大物に出会うことがある。
   名古屋の石友・Iさんの情報では、今年は苗木地方も雪が少なく、水の中での
  パンニングも苦にならない、とメールをいただいた。
   単身赴任先から戻り次第、訪れてみたいと考えている。
  ( 2007年2月調査 )

2. 石井研堂と「明治事物起原」

 2.1 石井研堂

    石井 研堂【HPから引用】

    慶応元年(1865年)、現在の福島県郡山市生れ、明治4年(1871年)寺子屋
   に入門し、明治7年(1874年)郡山小学校に入学した。
    明治16年(1983年)、福島県小学教員検定試験に合格し、訓導として母校
   郡山小学校で教鞭をとる。明治18年(1885年)、同校を辞して上京、岡鹿門の
   漢学塾に入塾する。ついで、東京府高等小学校教員試験に合格したが、脚気の
   ため帰郷し静養する。郷里滞在中、皆既日蝕を観察し、処女作『明治二十年皆
   既蝕紀事目録』をまとめた。また、初めての出版となる『福島県地理問答』を
   著した。

    明治21年(1888年)、再び上京し、東京教育社に入り、書方改良会の機関誌
   『国民必読』の編集を担当したが廃刊になる。翌22年(1889年)、東京府有馬
   尋常小学校の訓導となる。まもなく、小学校低学年向き雑誌の編集依頼があ
   り、『小國民』を創刊する。
    創刊号のほとんど全てを書いたのは研堂である。これが予想を上回る売れ行
   きで即再版となり、当初月刊だったものが14号から月2回刊行となる。1年
   前に創刊された『少年園』とともに、近代日本初期の児童雑誌である。『小國
   民』の内容は、歴史、地理、理科、修身読み物、子どもたちの投稿文から成る。
    科学読物に重点を置き、事実に基づいて書くことが、研堂の基本的姿勢であ
   った。
    連載が好評で単行本になったものに『動物会』があり、前年出版された『十
   日間世界一周』とともに人気を博す。
    明治28年(1995年)、「海軍の信号」という絵入り手旗信号の記事により
   海軍の機密維持法違反で告発される。さらに「嗚呼露国」が治安妨害に当たる
   として発行禁止処分を受ける。それからおよそ2ヵ月後、『少國民』と改題し
   発行を続けたが、発行元の学齢館が経営不振に陥り、発行所が北隆館に移り、
   明治32年(1899年)には編集主任を退いた。
    その後発行した叢書『理科十二ヶ月』、続編『少年工芸文庫』は、理科読物
   知識読物として高い評価を受けた。
   さらに、数種の少年雑誌の編集に携わり、明治41年(1908年)、『実業少年』
   を創刊したが、明治44年(1911年)、同誌の廃刊をもって、少年雑誌の編集か
   ら離れ、著述生活に入る。

    研堂は、民間説話収集にも関心を寄せ、『日本全国国民童話』を著した。そ
   の一部は関敬吾の『日本昔話集成』*4にも採録されるなど、今日でも評価され
   ている。
    他に、江戸時代の漂流記・漂流譚を子ども向けに紹介した『日本漂流譚』
   資料調査に加え、中濱萬次郎自身へのインタビューに基づく伝記『中濱萬次郎』
   創作読物『鯨幾太郎』『少年魯敏遜(ロビンソン)』など海事関係の著述も多い。

    大正13年(1924年)、明治文化研究会が結成され、創立メンバーとなる。晩年に
   は、明治研究の必読文献として高い評価を受けている『明治事物起原』など、児
   童文学、児童雑誌の向上に尽くすだけではなく、幅広い文筆活動に携わった。

    昭和18年(1943年)12月7日、死去。行年78歳

    研堂の著作物の中で、少年少女向けの理科・実業関係が占める比率が高い。
   これは、郡山小学校で教師・御代田豊から受けた近代的理数教育が影響してい
   ると思われる。
   

 2.2 「明治事物起原」
    「明治事物起原」が編まれたのは、明治41年(1908年)で、明治維新、文明
    開化から40年あまりが過ぎ、その当時広く流行したり、知られていた事物が
    いつ、誰によって、どのように始まったのかを知りたい、という民衆の要求
    と記録しておかねば、という石堂の思いがマッチして生まれたものであろう。

     その内容は、次のように人事から遊学まで、広範囲にわたっている。

第一類 人事
      明治号の出典
      東京の称
      御巡幸の始
      御臨幸の始
      万歳の始
      斬髪の始
      髯を生やす風俗の始
      年齢に二様有る始
      演説の始
      西洋留学生の始
      仏僧洋行の始
      軽業師洋行の始
      救世軍の始
      西洋へ招聘せられし始
      洋人富士登山の始
      寒中富士登山の始
      はがき恭賀新年の始
      和欧対訳掲示礼の始
      神葬式の始
      記念事物の始
      銀婚式の始
      新式の結婚
      華族と平民と結婚の始
      求婚広告の始
      婦人の眉を立て白歯の始
      女子の斬髪
      女学生の粗野
      婦人束髪の始
      ひさし髪の始
      丸ぽちや婦人を貴む始
      男女の混浴を禁せし始
      ゑんぎ物廃止の始
      女人結界を解きし始
      少女学生洋行の始
      年季娼妓解放の始
      新平民の始
      一夫一婦論の始
      宅地番号の始
      愚物を当百といふ始
      でんしんの始
      ハイカラの始
      新旧風俗の大混乱
      破壊的真相一班
      捧腹の浮説流言
      守旧家の大気煙

第二類 教育文芸
      鉛製活字の始
      輪転印刷機輸入の始
      銅版の始
      石版の始
      新聞紙の始
      新聞に広告の始
      記者の熟字の始
      従軍記者の始
      新聞縦覧所の始
      統計学会の始
      洋算の始
      簿記学の始
      カード式記帳法の始
      銀行学の始
      商業学校の始
      速記術の始
      人類学の始
      小学校の始
      教育勅語の始
      幼稚園の始
      女学校の始
      美術の熟字の始
      美術学校の始
      油絵の始
      洋書モデルの始
      東京高等工業学校の始
      師範学校の始
      帝国図書館の始
      博物館の始
      標本剥製の始
      気象台の始
      盲唖学校の始
      東京市養育院の始
      孤児院の始
      感化院の始
      アイノ教育の始
      ウエブスター字書輸入の始
      海外観戦記の始
      化学試験天覧の始
      説教の盛行
      明治初年の耶蘇教
      ローマ字論の始
      かな書き論の始
      国語問題
      小説文学の始
      〓俥の文字の始
      新体詩の始
      洋楽の始
      お雇外国人
      写真術の始
      写真乾板製造の始
      印画紙製造の始
      幻灯の始
      活動写真幻灯の始
      学術協会の始
      クラブの始

第三類 交通
      人力車の始
      馬車の始
      自転車の始
      三なき車の始
      自動車の始
      汽車の始
      トンネルの始
      自動鉄道の始
      鉄道馬車の始
      電気鉄道の始
      バツテイラの始
      三檣大船の始
      汽船の始
      汽船運転の始
      蒸気飛脚船の始
      汽船の汽鑵破裂の始
      洋式船大工の始
      郵便の始
      郵便切手の始
      記念切手の始
      私製絵葉書の始
      記念絵葉書の始
      電信の始
      無線電信実験の始
      日英間商業的電信の始
      電話の始
      車馬道人道区別の始
      道路左行の始
      鉄橋の始

第四類 軍事
      軍人洋装の始
      仏国式練兵の始
      洋式火薬処の始
      招魂社の始
      観兵式の始
      村田銃の始
      大観艦式の始
      軍楽の始
      軍歌の始
      日本赤十字社の始
      甲鉄艦の始
      海軍練習の始
      兵庫海軍練習所の始
      海軍海図の始
      海里と経度法定の始
      洋式船渠の始
      日本軍艦太平洋を航断せし始
      風船の始

第五類 実業
      国立銀行の始
      新貨幣の始
      公債の始
      火災保険会社の始
      生命保険会社の始
      専売特許の始
      商標登録
      店前立看板の取払
      金銭登録器の始
      外国博覧会への出品の始
      博覧会の始
      勧工場の始
      応用化学工芸伝習生の始
      硫酸製造の始
      麦稈真田輸出の始
      機械紋織の始
      洋式紡績の始
      時計製造の始
      洋紙製造の始
      わら紙製造の始
      擬氈紙の製造の始
      セメント製造の始
      硝子製造の始
      板硝子製造の始
      反射炉の始
      石炭採掘の始
      洋式ルツボ焼成の始
      煉瓦焼成の始
      桑茶栽培の流行
      製糸所の始
      微粒子毒研究の始
      華族の商業の始
      身代限
      広告取次業の始
      開業式紅灯の始
      イルミネーションの始
      布哇移民の始

第六類 暦日歳時
      紀元節の始
      天長節の始
      祭日に国旗を掲ぐる始
      天長節夜会の始
      午砲の始
      太陽暦の始
      時刻新称の始
      一六休暇の始
      日曜休暇の始

第七類 病医
      種痘の始
      義脚の始
      病院の始
      恐水病注射免疫の始
      ヂフテリア血清療法の始
      伝染病予防法策の始
      避病院の始
      ペスト発生の始
      女医の始
      看護婦会の始
      看護婦の始
      西洋歯科医の始
      調剤舗の始
      西洋歯磨の始
      梅毒検査の始
      防瘡袋
      癩病院の始

第八類 法刑
      横浜巡邏卒の始
      巡査の始
      代言人の始
      証券印紙の始
      地方官会議の始
      帝国憲法の始
      帝国議会の始
      政党の始
      勲章の始
      銃刑の始
      懲役の始
      囚人の赭衣の始
      囚徒教誨の始
      対等条約国人処刑の始
      改正条約実施後の第一犯罪外人

第九類 衣帛
      洋服の始
      襟巻
      かなきん
      シヤツ
      西洋織物類
      ジウタン
      ハンケチ
      とんび
      書生羽織
      兵子帯
      女学生の袴
      婦人の礼服

第十類 飲食
      氷水屋の始
      人造氷の始
      麦酒醸造の始
      ビーアホールの始
      珈琲の始
      ラムネ
      牛乳の始
      牛肉食用の始
      西洋料理店の始
      屠牛場の始
      パン
      巻煙草製造の始
      缶詰の始

第十一類 住居
      ホテルの始
      洋館建築の始
      煉瓦家屋の始
      煙突の始
      硝子障子
      陶製標礼の始
      西洋蝋燭
      ランプと石油
      瓦斯灯の始
      電気灯の始
      ペンキ

第十二類 器財小間物
      西洋小間物店
      石鹸の始
      洋式香油
      オルゴルの始
      オルガン製造の始
      山葉オルガンの補遺
      蓄音器の始
      指環
      黄玉の始
      靴製造所の始
      蝙蝠傘の始
      胴らん
      がま口
      短銃
      鉈豆煙管の始
      寒暖計の始
      懐中時計の始
      シヤツプ流行
      扣鈕
      日の丸国旗の始
      外国国旗掲揚の始
      金庫の始
      椅子
      ボールドの始
      洋式消防道具の始
      消火器の紹介
      裁縫器械の始
      メリヤス織器械
      西洋木匠具
      自動体量計の始
      石盤と石筆
      鉛筆の始
      コップ
      ブリツキ細工の始
      マッチ製造の始

第十三類 遊楽
      公園の始
      公園音楽堂の始
      動物園の始
      競馬の始
      和洋人競馬の始
      洋人曲馬の始
      平民乗馬の始
      婦人乗馬の流行
      足元悪き芸者
      西洋絵覗からくりの始
      ヂオラマ館の始
      パノラマ館の始
      紙まり風船の始
      器械体操の始
      端艇競漕の始
      野球の始
      庭球の始
      かるた会の始
      玉突の始
      小銃的射会の始
      放鳥射撃会の始
      人力牽の競走
      壮士役者の始
      男女同伴の逍遥
      海水浴場の始
      第十四類 動植物
      養兎の流行
      ラシヤメン
      洋犬の始
      器械孵卵の始
      麒麟の始
      百合根の輸出
      舶来の菜蔬果樹類
      野菜促成の始
      除虫菊の始

3. 黄玉の始

   千葉県の石友・Mさんから、送っていただいた「第十二類 器財小間物 黄玉の始」
  の電子データをそのまま、引用させていただく。

   『 從來本邦人の寶石として珍重せしは、水晶瑪瑙等數種の普通品に過ぎず
    水精、黄玉の差別を知るものとて無かりし。然るに西洋金石學の傅わるに
    つれ、これを水晶中より區別するに至れり。黄玉は、水晶に比すれば其の
    比重大きく、大小八面柱を為し、其の光沢瑩滑澄潤水晶の比に非ず、花崗
    石層中に脉を為して存在し、長石水晶錫鑛等と共に含まれるゝこと常なり。

     本邦黄玉の發見者は、神田小川町金石舎の主人となれる、高木勘兵衛氏
    なり。 實に明治三年中、美濃國ゑな郡苗木山の畠の砂中より、細くして糸
    の如きを得たるを口きりとなす。勿論、黄玉などゝ知る由なく、唯、水晶と
    稍異なると思いし位にすぎざるなり。これより先高木は、支那人の眼鏡の
    原料用黒水晶を賣買して、相当の利益を得、居村中津川町の近傍なる蛭川
    高山、苗木、駒場、な ど各村の水晶採掘を業とし居おりたるなりき。この
    中津川村は、中仙道木曾川渓の左岸の小邑にてその周囲三里許りの圏内なる
    前記諸村は、各種の鑛物に富み、現に大學生の為の好金石教室となり居れり。

     時は明治十年のことなりし。高木は大黄玉の三つに割れたるを他より買ひ
    之を知人杉村次郎という者に三十圓に賣れり。然るに杉村は、その三分の一
    を一百圓にて、東京大學に納めたるが、この黄玉は今尚大學の標本室に在り。

     当時高木は、尚何物とも知らざりしが、杉山は、嘗て農商務省鑛山局課長
    を務めしこ とあり、後ち、大阪の伍代氏に仕へて、鑛山管理をせしこともあ
    り、金石學必携の著者にて、當時鑛物金石に新知識有する人なりし。

     高木始め職工等の、水晶にしては硬過ぎ、細工に困る品なりとせし位の
    黄玉なれども、追々發見の数も殖え、發見毎に價高く賣れたれば、漸く土地
    の者の注意を引き、河岸の砂を掘り起こし、或いは山の根を掘りなどして捜
    す者多くなり、杉村に賣りし二三年後、教育博物館にも賣れり。
     特に博物館よりは 、藤森といふ人を派遣し、更に百圓程の買い上げせしめ
    しが、高木は、初めてこの八角柱状の寶石を黄玉という一種の貴重品なるこ
    とを知るを得たり。今日までに、黄玉の發見されし地は、ゑな郡高山村と蛭
    川村となり。共に中仙道より三里ばかり奥の小村にて、多数發見されたり。

       この他、駒場苗木の二村よりも少しく出でし。近江國栗太郎郡の近傍より
    出でしとある外、他所より發見せしとは未だ聞かず。既に發見されし黄玉中
    最大の物は、三十六年の大阪博覧会に、美濃の人より出品されし、一顆なる
    べし。長さ四寸許長径二寸許のものにて、價は千圓とありたりし。     』

4. おわりに

 (1) 黄玉(トパズ)が日本で初めて発見されたのは、明治3年(1870年)、”トパー
    ズ勘兵衛”の異名をもつ高木勘兵衛によってだった、というのが「明治事物
    起原」が出版されて以来、通説になった、と考えられる。

     しかし、『 苗木山の畠の砂中より、細くして糸の如き 』 とある鉱物
    は、”黄玉(トパズ)”というよりは、”緑柱石”の特徴に近く、明治3年に
    発見されたものが本当に黄玉だったのかは、疑問がつきまとう。

 (2) 博物学者とされる石井研堂は、漢学を学んだことはあっても、鉱物学(当
    時は金石学)をかじった片鱗もうかがえないことから、自身の判断を加えて
    記述するには限界があり、勘兵衛のいう事を鵜呑みで書き留めたとも考えら
    れる。

 (3) 岐阜県苗木地方の黄玉(トパズ)は、質量ともに日本一で、多くの鉱物フ
    ァンを惹きつけていた。採石場が次々と閉鎖に追い込まれ、ガマから採集で
    きる可能性は少なくなったが、パンニングでは、思いがけない大物に出会う
    ことがある。
     名古屋の石友・Iさんの情報では、今年は苗木地方も雪が少なく、水の中
    でのパンニングも苦にならない、とメールをいただいた。
     単身赴任先から戻り次第、訪れてみたいと考えている。

5. 参考文献

 1)石井 研堂:明治事物起原 黄玉の始,国立国会図書館ディジタルライブラリー
         2007年
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