この近くには、五無斎こと保科百助も訪れた「大日向鉄山(茂来山鉄山)」があることを
思い出し、十数年ぶりに訪れ、「”天然磁石”の磁鉄鉱」をはじめ、各種のスカルン鉱物を
採集できた。
「たたら遺跡」は発掘調査を待っている状況で、全貌が解明されるのを楽しみにして
います。
また、茂来山は、五無斎の「長野縣地学標本採集旅行記」にも登場する「長石」の
産地として古くから有名であり、事実、この本には、都沢の石絨(石綿)、高橋の輝石
(実際は角閃石らしい)などを採集した模様が記されています。
8月には、五無斎ゆかりの「九曜星」、「玄能石」などを訪れることができ、今後は
これら、佐久町にある五無斎ゆかりの産地を訪れてみたいと考えています。
(2004年8月採集)
一方、「信州の金属鉱山」によれば、大日方鉄山(別名 茂来山鉄山)の磁鉄鉱は
地元での製鉄材料として貴重な存在だったようです。
『 わが国の製鉄技術は、江戸時代中ごろに飛躍的に発展した。炉内に送風するフイゴや
炉の地下構造などが改良され、それまでの製錬操業ごとに炉を解体し、撤去しなければ
ならない「野だたら」に代わって、同じ場所で繰り返し操業できる「永代たたら」が
成立した。これらの改良により、鉄は生産量が増大し安定的に供給されるようになった。
幕末期になると、国内情勢の動揺や産業の進展などを背景に鉄の需要が増大する。
そのような中で、信州でも新技術を導入した製鉄が試みられた。
1848年(嘉永元年)、諏訪の金物商人・土橋 長兵衛は、南佐久郡大日方村(「現在の
佐久町大日方)の茂来山から採掘された磁鉄鉱を原料にした製鉄事業を開始した。
しかし、1853年(嘉永6年)に事業が失敗し、経営権は他の経営者に移され操業が
継続されたが、1862年(文久2年)山火事で「高殿」(たたら製鉄所)が焼失したことに
よって休止した。それまでの全出荷量は、約300トンと推定されている。
その後、1881年(明治14年)ごろになると、洋式高炉(製鉄所)が建設されて
近代的な製鉄が始まったが、1892年(明治25年)に撤去された。1905年(明治38年)に
再び高炉が建設されたが、試験操業しただけで撤去された。
鉄山の採掘は、休山を挟みながら1960年(昭和35年)まで続いた。特に、1934年
(昭和9年)から第2次世界大戦にかけてが最盛期で、重要鉱山として採掘された。
この期間の鉱石の出荷量は、約7万トンに達した。』
坑口付近にはズリ石は残っていませんが、山裾には、鉱山施設と思われる石組みが
残されており、その周辺や上の方には、褐鉄鉱に覆われた鉱石やズリ石が残されており
それらをハンマーで割り、新鮮な部分を採集する。
(ズリ石が、山すそに近いところにあるということは、さらに上の方に、坑口なり露頭が
あるという事ですが、大日鉱山での成果に満足して、上の方を探索しようという
意欲が萎えていたのも事実です。)
「信州の金属鉱山」に記載のある強磁性を示す”天然磁石”と呼ぶに相応しいものも
採集できた。
(2)灰鉄柘榴石【Andradite:Ca3Fe2(SiO4)3】
赤褐色の2mm以下の結晶の集合体として産出する。稀に、空隙部分に5mmを越える
結晶もあるが、褐鉄鉱や鉄銹で汚れて、綺麗な標本は、得がたい。
(3)方解石【Calcite:CaCO3】
磁鉄鉱や磁硫鉄鉱の隙間を埋める形で、透明で劈開明瞭な方解石を産する。これを見て
改めて大日方鉄山は”スカルン鉱床”であることに思い至る。
『 5月4日 火 晴後曇
・・・・・栄、海瀬、大日方の3校を歴訪し、大日方村古屋なる
玉田旅館に宿す。
5月5日 水 曇後雨
・・・・人足3人を雇い高橋に至り、輝石を採集す。・・・・
5月6日 木 雨
今日、雨降りなれば仕事を休み、大日方鉄山に至る。臨時休業にて
不得要領なり。
5月7日 金 曇後雨
人足3人を雇い中生代白亜紀の泥板岩を採集す。雨中の採集は余り
香ばしくなし。
5月8日 土 曇後晴
人足3人を雇い都沢に至り石絨を採集す。
5月9日 日 曇後晴
大日方滞在は5泊6日なり。毎日々々の雨やら曇天やらにて頗る厭に
なりたり。・・・・・・・・今日古屋にて人夫3人と共に
中生代の赴き松本支配人の案内にて(大日方鉄山の)構内を一覧し
同氏より磁鉄鉱6、70貫(225〜260Kg)の寄附を受け深く其好意を
謝し・・・・・』
これから、当時の大日方鉄山とその周辺の様子が、手にとるようにわかります。
@この当時も、”臨時休業”とあるように、大日方鉄山の稼行状況は、不規則だった。
A古屋は、古谷(こや)のことと思われ、現在は、商店も見当たらない集落ですが
その当時は、旅館もあるくらいの賑やかさを持っていた。
B「高橋の輝石」「都沢の石絨(石綿)」などが知られていたが、大日鉱山のある
石堂のクロム鉄鉱、ましてや灰クロム柘榴石は知られていなかった。
C五無斎は採集する標本の大きさにも拘り、9cm(3寸)×7.5cm(2.5寸)の
大きさで統一する積りだったようです。上の磁鉄鉱の写真のうち「塊状」が
ほぼこの大きさで、その重さは約350gです。五無斎は、明治42年の採集旅行では
600組の標本を調製する予定で、600個×350g=210kgとなり、6、70貫
(225〜260Kg)の膨大な量を寄附をしてもらう必要があった。
(実際に、長野県下の小学校から予約があったのは、270組前後で、中学校も含め
ると300校には販売できると目論んでいたが、何故その2倍の600組に
なったのかは、謎です。)
(2)山浦行宗の脇差
山浦兼虎は、刀匠正宗と並び賞される名工清麿(きよまろ)の甥で、山浦正雄の
息子である。
その兼虎が行宗と名乗っていた初期の作品に「信州佐久郡茂来嶽以磁石製鉄鍛」と
いう銘が残されている。”茂来嶽の磁石”とは、大日方鉄山の磁鉄鉱をさしている
と思われ、当時操業していた「茂来山たたら」で生産された玉鋼(たまはがね)を使用して
造られたと考えられます。
このように、刀匠が銘に原料の鉄の産地を刻むことは幕末期の他の鉄生産地でも認め
られる。このような銘に関して、これを刀工たちが良質な鉄を得るために自分で製錬した
鉄を用いて作刀した証拠と見る向きもあるが、その多くは「たたら」の経営者の注文で
製造されたいうのが実状とみられる。事実、行宗による磁鉄鉱製の刀は2作あるとされ
もう1振には「応土橋氏需」と刻まれており、当時茂来山鉄山の経営者であった諏訪の金物
商人・土橋 長兵衛の求めに応じて刀を鍛えたことが判ります。
(3)磁石石(じしゃくいし)
天然磁石は、全国各地で発見されているようです。地元では、”磁石山”とか”磁石石”
とか呼んでいるようです。
有名なものの1つに、山口県阿武郡須佐町「高山(こうやま)の磁石石」があり
昭和11年2月6日に、国の天然記念物に指定されています。
高山は、標高532mの斑レイ岩の山で、山頂付近の斑レイ岩は強い磁性を帯び
磁針を近づけると南北を正しく指さなくなるほど、と言われています。
磁石になった原因は、”落雷”によるものとされており、益富先生が「昭和雲根志」の
「雷管石」の章に書かれているように、天然磁石も”雷の化石”と言えるかも知れません。