越前面谷(おもだに)郵便局の消印

1. 初めに

    あなたが、「面谷」を”おもだに”、と正しく読めたなら、鉱物や鉱山に関する知識はまずまずの
   レベルにあると思っても良いだろう。
    越前国(現福井県)面谷には、かつて大きな銅山があり、数千人の人々が生活し、学校や郵
   便局もあった。
    ここは、「自然銀」、「蛍石」などの鉱物が産出する事でも有名で、三菱マテリアルの和田鉱物
   標本にも加えられている。

    2010年3月から千葉県に技術コンサルタントとして単身赴任し、畑仕事や産地案内などのっ
   ぴきならない用事がある時しか山梨県には戻らなくなっている。戻っても、日曜の朝一番の特
   急で帰る事が多い。それは、途中下車して、古書店、切手店そして骨董市などを回る楽しみが
   待っているからだ。

    切手店を久々に訪れ、使用済切手の「貼込み帳」をめくっていると、「越前面谷」郵便局の消
   印を押したU小判2銭切手があったので、鉱山町にあった郵便局なので手に入れた。

    面谷鉱山跡は、探査や石友を案内して過去に何度か訪れ、「蛍石」の美晶や「自然銅」を思
   わせる大きな塊を採集している。
    しかし、面谷鉱山そのものについては良く知らなかったので、この切手を入手したのを機に
   入手した古書などの情報から調べてみた。
    ( 2010年4月入手 5月調査 )

2. 「越前面谷」郵便局の消印

     

 U小判2銭切手に丸一印が
押してある。
( ○の中に、横棒が一本 )

 消印が押されたのは、明治
25年(1890年)9月12日

 2銭(0.02円)は、封書料金で
現在の80円に相当する。
 封筒から切り取ったと思われ
紙がついた状態
( 専門用語で、「オンピース」 )


3. 面谷鉱山の鉱床と歴史

 3.1 面谷鉱山の位置
      面谷鉱山は和泉村、九頭竜湖南岸の面谷(おもたに)川に懸かる面谷橋上流約3.5 qに
     ある。九頭竜湖が昭和43年(1968年)にできて以来、鉱山跡には大きく迂回して行くしかな
     いが、鉱山が盛況だった明治・大正期には、国道158号線側から九頭竜川を渡り、面谷川
     に沿うルートがあったのだろう。

      ダムができるまで、九頭竜川にはサクラマスが遡上し、それを大きな網でとらえる光景を
     描いた明治〜大正期の絵葉書を入手した。

     

 「九頭龍川魚留ノ絶景」と題する
明治〜大正期の絵葉書
 (仕切り線が1/3)

 「九頭竜峡」にある打波川と合流する
「魚留」では、大きな網で急流を遡る
サクラマスをすくい捕った、と文献にあるが
その光景を描く絵葉書は珍しいようだ。


 3.2 面谷鉱山の地質・鉱床
      大正3年に発行された「本邦重要鉱山要覧」によれば『地質は、砂岩及石英粗面岩にして
     安山岩を併発せり。鉱脈はこの石英粗面岩中に胚胎せる正規鉱床なりとす。主なる鉱脈は
     13条にして、竪間歩脈をもって其の最たるものとす。鉱幅は1尺(30cm)以下を普通とし
     3、4尺(90〜120cm)をもって最大とす。』

 3.3 面谷鉱山の歴史
      「本邦重要鉱山要覧」には、『口碑の伝えるところに拠れば、今より五百六十余年前
     康永(北朝年号、1340年ころ)年間、1猟師の発見に係ると云う。降りて、天正年間(1590
     年ころ)碓井 直左衛門更に開坑し、爾来村民各自稼行となり、一盛一衰継続し後、天保
     年間、大野藩主・土井氏鉱業を奨励し、稍々事業を拡張せり。維新頃より、再び村民の稼
     行に移り、杉村 次郎と共同して鉱業社なるものを組織して操業せり。
      明治14年(1881年)秋田彌左衛門之を継承し、明治21年(1888年)、三菱合資会社の所
     有に帰し、爾来事業を拡張す。』

      本格的な採掘は明治22年に三菱合資会社が経営に乗り出し、本格的近代鉱山が開始さ
     れてからだ。
      溶鉱炉も完成し精錬も行うようになり、国内最良の銅として評価も高く、戦時の砲弾、電
     線の需要に拍車をかけ、『面谷銅』の名で活況を呈した。
      大正にはいると、鉱脈の老朽化、第1次大戦後の銅の需要の激減、輸入銅に押され採算
     が取れなくなり、相次ぐ不況と価格暴落のため。大正11年、ついに長い歴史を閉じ、閉山と
     なった。
      昭和12年に大宝鉱業鰍ノより再開し、昭和41年まで稼行された。

4. 面谷郵便局の歴史

    面谷は、明治18年10月1日、面谷村郵便受取所として開局した。その後、面谷の大谷局が
   明治22年11月(8月?)16日に面谷と改称した。現在、大谷の地名は、国道158号線の「大谷
   橋」に名前をとどめている程度だ。
    面谷郵便局が、面谷鉱山に最も近い郵便局だったことは間違いなさそうだ。

   私が入手した切手の消印は明治25年9月で、開局して3年目のころだった。

5. おわりに

 (1) 面谷鉱山の鉱物
      面谷鉱山は、福井県でも岐阜県との県境近くにあり、豪雪地帯のようだ。石川県小松市
     周辺でのミネラル・ウオッチングの後福井市周辺で一泊し、翌日は、『赤谷鉱山の金平糖
     (自然砒)』、『中竜鉱山仙翁坑の水鉛鉛鉱(モリブデン鉛鉱)』を採集しても時間があり、最
     後に面谷鉱山を訪れ、その日の宿を岐阜県中津川市周辺にとるのが恒例になっている。

      面谷鉱山は、産地探索や石友を案内して既に5回以上訪れているだろう。直近では、兵
     庫県の石友・N夫妻や愛知県・T親子と2009年9月に訪れ、そのたびに、新しい発見がある。

     ・2009年9月 北陸ミネラル・ウオッチング【ダイジェスト版】
      ( Digest Version of Mineral Watching Tour in Hokuriku Area , Sep. 2009
       Nagano,Niigata,Ishikawa,Fukui & Gifu Pref. )

      千葉県からは少し遠く、今度訪れるのは少し先になりそうだ。

 (2) 福井県奥越地区の鉱山印
      福井県大野市以東を「奥越」と呼ぶと知った。この地域には中竜鉱山など大きな鉱山だけ
     でなく小さなものも数えると30近い鉱山があったと聞く。大きな鉱山には学校、売店、病院
     など、坑夫とその家族が生活するに必要なものはほとんどが揃っていたようだ。
      郵便局もあり、『○○鉱山』という消印を押した封筒や切手をごくまれに目にすることがあ
     る。切手を見ると、その鉱山が盛況だった時期がだいたい推測できる。
      単身赴任先には持ってきていないが、昭和15年ごろ発行された昭和切手に「中龍鉱山」
     の消印を押したものが何枚かあるはずだ。

6. 参考文献

 1) 和田 維四郎:日本鉱物誌,東京築地活版製造所,明治37年
 2) 農商務省鉱山局編:本邦重要鉱山要覧,東京製本合資会社,大正3年


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