赴任にあたって、日立製作所の創業者・小平浪平(おだいら なみへい)の経歴と
日立製作所創業の理念などを調べ直してみたくなった。
(一応、今でも日立製作所の株主であることだし・・・・・)
小平浪平は、明治33年(1900年)東京帝国大学電気科を卒業し最初に入社した
のが秋田県小坂鉱山で、その後いくつかの会社を経て、明治39年(1906年)日立
鉱山に移り、明治43年(1910年)独立して日立製作所を創業した。
つまり、節目、節目で”鉱山”とかかわっていたことになる。
オークションで、小坂鉱山局印が押された小平浪平自筆の手紙と日立鉱山局印
が押された荒井志げ(お手伝いさん)の手になる手紙を落札した。
それらを読むと、小坂鉱山時代と日立鉱山時代の小平浪平の姿がおぼろげなが
らわかったので、HPにまとめてみた。
日立鉱山から生まれた日立製作所が日本の電機産業の中核となり、石川県小松市
の遊泉寺銅山から建設機械の雄・小松製作所が育ったのは周知のとおりである。
このように、鉱山が新しい産業を産み、育てる”揺り籠”の役割を果たした事
実を忘れてはならない。
( 2007年2月調査 )
年号(西暦) | 事 蹟 | 備考 | 明治7年(1874) |
栃木県合戦場で 生まれる | 現在の栃木市 | 明治33年(1900) |
東京帝国大学電気工学科卒業 藤田組小坂鉱山(秋田県)入社 | 久原房之助の招請 | 明治37年(1904年) |
小坂鉱山から 広島水力電気に移る | 明治38年(1905年) |
東京電灯入社 駒橋発電所(山梨県猿橋) 工事に参加 | 明治39年(1906年) 7月15日夜 学友・渋沢元治と猿橋近くの 「大黒屋」で会談 『 国の産業発展のため 電気機械国産化が不可欠』の 自説を吐露 |
明治39年(1905年) |
10月、日立鉱山入社 | 小平より先に小坂鉱山を 去った久原房之助は 明治38年(1905年) 赤沢銅山を買収 「日立鉱山」を開業 |
明治43年(1910年) |
11月、電機修繕場を 「芝内製作」と改称 新工場を建設 「日立製作所」とも呼ばれた | 「日立製作所創業」 |
明治45年・大正元年 (1912年) |
1月、「日立製作所」を 日立鉱山から分離 「久原鉱業所 日立製作所」発足 | |
昭和26年(1951年) |
死去 | 77歳 |
略歴を眺めると、鉱山での仕事を通して電気技術者として己の技術に自信を持
つと同時に、外国製の電気機械の設置や修理に明け暮れる中で、『 わが国の産業
発展のため電気機械を国産化することが不可欠、日本人にはそれができる 』と
いう思いがつのり、日立製作所の創業に至った、と想像できる。
当時の小坂鉱山は、土鉱( 東北地方の諸鉱山の露頭部に産出した銀鉱の
一種で泥状・砂状の鉱石 )が枯渇し、明治25年(1892年)をピークに生産
は低落し、明治30年(1897年)の金本位制移行による銀価格の暴落が追い討
ちをかけ、閉山の危機にあった。
土鉱の下に膨大な黒鉱( 閃亜鉛鉱、方鉛鉱などが密に混じった”真っ黒”
い鉱石) が埋蔵されていることを知り、その製錬法の開発に鉱山長の久原房之助
以下が心血を注ぎ、試験操業にこぎつけたのが明治33年(1900年)であった。
新しい製錬法「自溶製錬法」の採用に伴う動力源の確保が重要課題となり
小坂鉱山での小平浪平の仕事は、新たに発電所を建設することだった。
小坂鉱山の第一号発電機(150KW)は、明治30年(1897年)に運転を開始し
明治30年(1900年)に二号機(500KW)を増設していた。この年に入社した小
平浪平は、止滝発電所の建設を任された。
この発電所は、11,000ボルトという当時国内最高の高電圧で、650KWの電力
を16.5km離れた小坂鉱山まで送電するものであった。
工事は、発電機、変圧器、送電線といった電気工事だけでなく、堰堤(ダム
隧道(トンネル)を含む水路、水車、放水路までの土木工事までを含む幅広い
知識と経験が要求されるもので、早朝から深夜まで発電所建設に全力を尽くす
小平浪平の姿は、小坂鉱山中の耳目を集め、人々はいつしか尊敬の念すら抱く
ようになっていった。
明治35年(1905年)5月、試験運転に成功し、8月から本格運転を開始した。
入山から、2年足らずの短期間での快挙であった。
『 小坂鉱山発電所にて工事中に撮影せし発電機に御座候八五十馬力にて
只今は我国最大のものに御座候 』
という小平浪平の手になる説明文の中に並々ならぬ自信が読み取れる。
3.2 小坂鉱山の小平浪平
小坂鉱山で働いていたときの小平浪平がどのような思いで日々を過ごして
いたのかを知りたいと思っていた。
ある日、ネットオークションを検索すると、小坂鉱山郵便局の消印が押さ
れた一通の古い書留封筒があった。宛名には、生まれ故郷の”合戦場”とあ
り、実兄”小平儀平”宛てである。
発信日付は、明治34年2月22日とあり、入山して半年足らずの頃と思われる。
”中身入り”とあり、もともと自筆の書などが少ないとされる小平浪平が
書いた手紙に違いない、と読んで、強気に入札し、競り合って、○万円で落
札した。( 妻には3,000円と言ってある )
ここで、差し障りない範囲で内容を紹介してみたい。
『 拝啓 久しくご無沙汰に打過ぎ
・・・・
当地も旧正月にて、毎日の宴会にて殆んど
閉口仕る。漸く3日(?)を費やして
本日より例の通り執務致し居り
山の中なれば何でも酒なければ夜(?)も
明けぬ始末にて下戸□の困難御推察ください
本日金30円也御送り□□る
右を陳平殿療養費(2月、3月分)の内に
御繰入れ□度・・・・・
・・・・・・・・・・・
浪平
兄上様
侍史 』
これを読むと次のようなことがわかった。
(1)小平浪平は、下戸(酒が飲めなかった)
後年、久原房之助が小坂鉱山時代を回想し、『 ・・・・小平君ら
若い者は、だいぶ騒いでおったようだ・・・・・・・・・・・・・』
と残しているが、小平浪平にとって、連夜の宴会は苦痛ですらあった
らしい。
(2)仕送り
弟・陳平の療養費2ケ月分、30円(現在の約15万)を仕送りして
いた。
大学を卒業したばかりで月給70円、その後すぐ85円(現在の約40万
円)に昇給したらしい。一般の社員の給与が24円に比べ、破格の高給
であった。
仕事のことなどはこの手紙には書き残されていない。
3.3 小坂鉱山を去る
学生時代の専門知識を実地に生かしうる小坂鉱山での技術者生活は満足
すべきものであったろう。さらに、破格の高給も魅力であったに違いない。
しかし、小坂鉱山の”現実”に嫌がおうでも向き合わねばならなかった。
それは、電気機械のほとんどが外国製で、『 模倣を以て満足する限りは
日本の工業豈論ずるに足らむや 』 、との”理想論”と”現実”の狭間で、忸怩たる
想いをぬぐい去ることがではなかったのではないか。
もうひとつの理由は、久原房之助が小坂鉱山を去ったことであろう。
明治37年(1907年)、小坂鉱山を退社した小平浪平は、弟陳平、女中の
おしげ(荒井志げ)らと東京本郷区に住むことになる。
4.1 日立鉱山入りを決意
明治37年(1904年)小平浪平は、小坂鉱山から広島水力電気に移り、翌38
年(1905年)、東京電灯に入社し、山梨県猿橋にある駒橋発電所の工事に参
加する。
( この発電所と導水管は、中央自動車道から現在でも眺められる )
明治39年(1906年)7月15日の夕刻、小平浪平は、中央線の車中で偶然に
学友・渋沢元治( 当時 逓信省電気試験所技師 )と会い、猿橋近くの旅籠
「大黒屋」に宿をとり、夜を徹して語りあった。これが、後世「大黒屋会
談」と呼ばれるようになった。
その年の2月、欧米の留学から帰った渋沢元治は、最新の知識をもとに
『 わが国の産業発展のためには、水力発電の開発が急務 』の自説を曲
げず、小平浪平も『 電気機械の国産化が不可欠で、日立鉱山に行く 』
決意を吐露した。
最初、渋沢は『 東京電灯の栄職を捨てて、何も茨城県山奥の日立鉱
山に行くことはなかろう』、と引きとめたが、最後には、”渋々(!?)”
小平浪平を送り出す気持ちになった。
4.2 日立鉱山での発電所建設
「大黒屋会談」から、3ケ月、明治39年(1906年)10月、小平浪平は、日
立鉱山の地に立っていた。
ただ、家族で住めるような家はなく、妻・也笑(やえ)、長女・百合子
そして女中(荒井志げ)は水戸市白銀町に別居せざるを得なかった。
その当時の日立鉱山は、久原房之助が赤沢銅山を買収した後、本格的な
鉱山開発が軌道に乗り、鉱山機械の稼動に多くの電力を必要とし、次々に
発電所を建設や買収していた。
小平浪平が陣頭指揮で作った発電所の主なものは
明治43年(1910年)1月 石岡川発電所(2000KW)→(20km)→大雄院製錬所
フランシス型水車は、工作課製で当時日本一
4.3 電気機器国産化の夢と「日立製作所」の誕生
その当時、鉱山は多忙を極め、荒っぽい使い方をするので、排水ポンプ用
の電動機(モーター)は故障が多かった。これらのほとんどは GE (General
Electric)社やWesting House社など外国製だった。
『 故障しないモータが日本人の手で作れるはずだ、作れないのは、作ろう
としないからだ 』
との思いを強くした。
故障の原因を調べ、改良を加えて修理することで、徐々に、コイルが焼
きつく故障が少なくなり、自信をつけ、モーター全体を自分で作ろうと決
心した。
明治43年(1910年)、独立を決意した小平浪平は、収支計算書(原価計
算書)を久原房之助に示し、出資をお願いした。
久原は、あまり乗り気でない、というより嫌がっていた。鉱山(やま)の
利益率に比べ、電気事業は比べ物にならないほど薄利であった。
小平浪平の熱意を受け、久原も当時の金で6万円(現在の2〜3億円)の出
資を承諾した。
時に、明治43年(1910年)11月、「日立製作所」の誕生であった。
4.4 日立鉱山の小平浪平
日立鉱山で働いていた当時の小平浪平の生活がどのようなものであった
か、知りたいと思っていた。
ある日、届いたオークション誌をめくると、日立鉱山郵便局の消印が押さ
れた一通の古い書留封筒があった。宛名には、生まれ故郷の”合戦場”とあ
り、実兄”小平儀平”宛てで、小坂鉱山のものと同じである。
発信日付は、明治43年8月8日とあり、日立製作所創立まで後3ケ月の頃で
あった。
貼られている切手はありふれたもので、この手の封筒であれば2,000円で
落札できると読んだが、念のためその倍以上で入札した。
( 日立鉱山局は、明治40年12月1日に開局した。それまで、赤沢銅山があ
った村の名前・赤沢局だった。日立鉱山が大きく発展し、郵便局名が
変更になったらしい )
落札し、送られてきた封筒の発信人は、小平浪平本人ではなく、荒井志げ
(お手伝い)で、住所が「大雄院役宅(課長以上の社宅)小平方」となってい
ることから、このとき小平浪平は家族そして志げと一緒に住んでいたら
しい。
これも、差し障りない範囲で内容を紹介してみたい。
『 拝啓 炎暑に候にて・・皆様御変りなく
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
同封にて通帳郵送申上ぐる御手続き之程願たく
30円之方を当座に致し置き・・・・早々
・・御用事まで
御旦那様
志げより 』
(1) 志げは儀平が遣わしたお手伝いさん?
志げは、儀平を御旦那様、と呼んでいることから、面識もあり儀平が
浪平一家の面倒を見させるため、遣わしたお手伝いさんではなかろう
か。
(2) 日立製作所創業を前に、お金に困っていた風はない。
文面から、30円+アルファのお金を送るなど、金銭的にはゆとりすら
感じられる。
(2) 日立鉱山から生まれた日立製作所が日本の電機産業の中核となり、石川
県小松市の遊泉寺銅山から建設機械の雄・小松製作所が育ったのは周知の
とおりである。
このように、鉱山が新しい産業の産み、育てる”揺り籠”の役割を
果たした事実を忘れてはならない。
(3) 小平浪平をして、日立製作所創業に向けて強く突き動かしたものは、狭
量な国粋主義とは全く違った『 日本人の力を信じ、自分達の手で電気機
器を自分達で作りあげ、わが国の産業を隆盛させたい 』、との想いだっ
たのであろう。
私が、日立製作所の半導体部門に配属された当時、RCA社(Radio Corpo
-ration of America ) から技術供与を受け半導体を製造していた。私の
仕事の一部に、英語で書かれたRCA社のOI( Operation Instruction :作業
指導書 )を和訳して、生産ラインの装置の取り扱い説明書を作ることが
あった。
インチ( ≒25.4mm)で書かれた寸法をmm単位に換算しても、キリの悪い
数字にしかならず、mm単位で自分で装置を設計したいものだ、と何度も思い
今まで世の中にない、世界最初の自動機械を次々に開発した。
( それらの1つを、私が技術士資格を取得するときの論文に書いた )
それから10年ほどして、われわれの会社は、半導体業界で売り上げ世界一
を記録した。
これが、小平浪平が後輩に残したかった、『 創業の魂 』ではなかった
だろうか、と想いを馳せる昨今である。