この日の宿・川俣温泉まで1時間足らずで、チェックインには早すぎるので、翌日訪れる予定だった西沢金山まで
足を伸ばすことにした。
ここを訪れるのは、2014年5月に北関東のT市で開催された同期会に出席するついでに北関東の骨董市、古い
鉱山跡、そして世界遺産(当時は内定、すぐ後に決定)を巡る3泊4日の旅の一環で、3年半ぶりだった。
・ 栃木県西沢金山の『マチルダ鉱』
( MATILDITE from Nishizawa Gold Mine , Tochigi Pref. )
この間に、西沢鉱山についてはいくつかの新しい関わりや出会いがあった。それらは、
1) 「西沢金山の盛衰と足尾銅山・渡良瀬遊水地」
2017年9月に出版されたばかりの新刊本で、西沢金山開発の端緒から終末までを、私が知らなかった
データをまじえて簡潔に記している。
2) 西沢金山創始者・高橋源三郎の曾孫(ひまご)との出会い
2017年6月、見知らぬ人から次のようなメールをいただいた。
『 初めてメールさせて頂きます。今まで何回か鉱物系のホームページで拝見させて頂きました。その中で、
高橋源三郎の記述がありましたので、関心をもって読ませて頂きました。高橋源三郎は私の曽祖父に
なり、今まで日光、新島には行きましたが、中津川のあたりで錫の採掘をしていたことに関して、具体的
には何も知りませんでした。
彼のこの地域での活動結果を残したものは何を基に調べればわかるのか、よろしければ、教えて頂けれ
ば幸いです。 』
メールの発信人は、岐阜県中津川市にある『錫鑛記念碑』と私が名付けた『第2錫鑛記念碑』のページを
読んだ源三郎の曾孫(ひまご)だった。
そんなわけで、前回とは違った眼で金山跡を見てみたいと思っていた。
( 2017年10月 訪問 )
私の車のカーナビでも、この金山跡はでてくるのだが、「西山金山跡」になっているのはご愛敬だ。また、カーナビに
「温泉マーク」があり、橋の上流でお湯が湧き出している場所があった、と聞いたが、現在は涸れているようだ。
この地図の北側(地図の上)から南(地図の下)を見た、西澤金山の全景が「西澤金山の絵葉
書」に掲載されている。
これらの地図、写真と現在の地形を対比して見ると、坑口、選鉱場、製煉所、分析所、医局(鉱山病院)、
学校、そして坑夫飯場(従業員住宅)などがあった位置を読み取ることができ、採集にあたって、大いに参考に
なっている。
つまり、鉱石がどの坑道から掘り出され、どのように運ばれ、どのように処理され、ズリ(捨石)はどこに堆積したのか
を推理できる。
また、発見した遺物がどこのものだったか、逆に言えば、ここにあった施設からはこのような遺物が見つかるはずだと
予測することもできる。
このように、”宝探し”の要素も加わり、ミネラルウ・オッチングを一段と楽しいものにしてくれる。
私の採集方法は、大きめのハンマーを「金床(かなとこ)」代わりに置き、この上でズリ石を割り、割れ口をルーペで
確認する。このときの注意点は、次の通りだ。
@ 割る時に飛び散らかさない。
1点でも「ルビーシルバー」を観察できた母岩には、脈が来ているので、割った時の勢い
で、片割れを飛ばさないよう、手加減して割る。
A キャップランプを点けて確認
季節や時間にもよるが、青葉が繁り、陽も傾いたころ、産地は薄暗く、照明が必要だった。逆に言えば、
木の葉がない早春か晩秋の晴れた日の午前中の採集なら照明は不要だ。
( 今回は、曇天で木の葉が茂った下での採集だったから、キャップランプを点けた )
B 照明付きルーペで観察
長野県の骨董市で照明付きルーペをみつけた。LEDが1つ付いているがテストしてみると点灯しなかった。
分解してみると、ボタン電池が3ケ入っている。電極部品が錆びていて接触不良か電池切れだろうと思い
修理できそうなので1つ300円で2つ購入した。最悪、レンズ倍率30倍、口径21mmで明るいので、LEDが
点かなくても、このままで使えそうだ。
帰宅してすぐに分解し、電極の錆びを落とし、新しいボタン電池を入れると、LEDが点灯し使えるように
なった。レンズ部を引き出すと自動的に点灯するのが良い。
ルビーシルバーは、新鮮な状態だと”鮮やかな紅色で表面がギラギラ輝く”ので見逃すことはないのだが、
酸化が進んだものは表面が黒くなり、硫化鉱物と見分けがつきにくいものもあるので明るくしてルーペで観察
すると見逃しも少なくなるはずだ。
今回採集したいくつかの標本には、輝きが強い黄色・皮膜状の「黄粉銀鉱」が随伴している
ので、紅色鉱物は、「淡紅銀鉱」だろうと推定している。
加藤先生の「硫化鉱物読本」によれば、「淡紅銀鉱」は「黄粉銀鉱」の高温型にあたり、転位点(温度)は
192℃だ。
「淡紅銀鉱」、「濃紅銀鉱」ともに、『低温熱水鉱床』で生まれた、とされ、水晶(低温型石英)と共生する
”ルビーシルバー”があり、これを裏付けている。
しからば、私のような”甘茶”が、「淡紅銀鉱」と「濃紅銀鉱」を鑑別する方法はないのだろうか。そこで思い
ついたのは、組成(化学成分)の違いを利用する方法だ。先にも述べたように、「濃紅銀鉱」と「淡紅銀鉱」の
違いは、アンチモン(Sb)を含むか砒素(As)を含むかの違いだ。
アンチモンを含む鉱物が酸化すると、「黄安華」【STIBICONITE:Sb3+Sb52+O6(OH)】、名前の
通り”黄色いシミ”を生じる。つまり、ルビーシルバーの周囲に「黄安華」があれば、「濃紅銀鉱」だと言えるのでは
ないだろうか。
(2) 自然金【SILVER:Au】
針銀鉱【ACANTHITE:Ag2S】
石英脈の晶洞の中に、ルビーシルバーに伴って紐状の自然金が観察できる。その右側にある針銀鉱になった
輝銀鉱の側面からも紐状の自然金が観察でき、いずれの上にもルビーシルバーの結晶がついている。
4.2 遺跡・遺物
ある程度規模が大きな鉱山には、各種の施設が整っていた。当時は官庁だった郵便局を備えていた鉱山も
珍しくなかった。
「西沢金山大観 全」によれば、金山の建物数、人口は次のように推移し、最盛期とされる大正4年(1915年)
には、およそ1,300人の人々が生活していた。
年度 | 建物棟数(棟) | 建物面積(坪) | 人 口(人) | 備 考 | 明治40年 | 11 | 234 | 482 | 40年末の数値 | 41年 | 17 | 424 | 751 | 42年 | 30 | 881 | 851 | 43年 | 59 | 1,143 | 1,057 | 44年 | 89 | 3,143 | 1,088 | 大正元年 | 98 | 3,622 | 1,089 | 2年 | 108 | 3,931 | 1,291 | 3年 | 109 | 3,954 | 1,169 | 4年 | 123 | 4,535 | 1,284 | 内鉱山労働者 626人 |
大正10年(1921年)ごろから金山は経営不振となり休鉱した。昭和に入って、ゴールドラッシュの夢に憑(と)
りつかれた人々によって再興が目論まれたが叶わず、長い休鉱のあと、昭和47年(1972年)日本鉱業株式会
社の鉱業権は消滅し、廃鉱になった。
現在では鉱山稼行当時の建物はほとんどが壊され、坑口も閉鎖されたり埋没して位置すらわからなくなって
いる。さらに、戦場ヶ原光徳と川俣温泉を結ぶ「山王林道」の開削・舗装工事や治山事業での砂防ダムの建
設などによって当時の建物跡などが破壊されてしまっている。「西沢金山全景」の写真をもとに、それらの跡を
たどってみた。
(1) 鉱業所事務所跡
大正4年の西澤金山探鉱株式会社の組織は下図のようになっており、鉱業所所長の下、課・係の組織が
あり、金山事務所を中心に仕事が進められていた。創業者の高橋源三郎は筆頭株主ではなく、全株式の
10%(1,000株)を保有する2番目の株主で、専務という立場だった。
2017年10月現在、山王林道沿いの約5,000平米くらいのやや平坦なテラスがあり、ここが鉱業所事務所跡
だと思われる。建物は全く残っておらず、自動洗濯機の残骸やペットボトルなど後世の遺物の中に、創業当時
のものと思われる数少ない遺物がある。
その一つが、「分銀炉」だ。鉱山の死命を制するのは、『一に直利(なおり)、二に鉱価、三、四がなくて・・・』
と言われるように、直利とよぶ富鉱帯を発見できるか否かが鉱山経営の要諦だった。そのため、上の組織図の
鉱場課の中の探鉱係が、新しい露頭や切羽(きりは:坑道の採掘場所)から採集したサンプルを製錬課の
分析係が粉砕して坩堝に入れて炉で溶かして金銀の含有量を調べた。そのための炉を「分銀炉」と呼んでい
る。
同じテラスに、気象観測のための「百葉箱(ひゃくようばこ)」と「雨量計」の残骸があるが、後世の物かもしれ
ない。
なぜ「分銀炉」だと判断したかと言えば、一緒に鉱石を溶かす「坩堝(るつぼ)」と『灰吹き法』で金銀を分離
する灰吹き皿(cupel:キューペル)が出土したからだ。灰吹き皿には高温になっても消えないように鉛筆(黒鉛)
でサンプル番号 ”49” と書いてある。
粉砕した一定の重さの鉱石に木炭を加えて坩堝に入れ「分銀炉」で溶解すると比重の軽い石英分などは
鉱滓(スラグ)となって浮かび、比重の重い金銀銅などの金属は坩堝の底に溜まる。これらの金属塊に鉛を加
えて溶かし、銅などを取り除き「貴鉛(きえん:含金銀鉛)」を得る。
骨灰などで作った灰吹き皿に貴鉛をのせ,空気を吹き付けながら約1000℃に熱すると鉛分は酸化鉛になっ
て灰吹き皿に吸収され、金銀合金が残る。初めの金銀粉鉱量に対し、得られた金銀粒の重量比がその鉱石
の金銀品位である。
灰吹き皿を手に持ってみると”ズシリ”と重い。かなりの量の鉛を吸収しているためだ。念のため比重を測って
みると3.0ある。
比重を、鉛 11.35、灰吹き皿 2.6 として、含まれている重量百分率を x とすると、
2.6*(1-x)+11.35x = 3.0
x = (3.0-2.6)/(11.36-2.6) = 0.4/8.75 = 0.0457
約4.6%鉛を含んでいる計算だ。灰吹き皿の重量が 60 グラムだったから、吸収した鉛の量は
60*0.0457 = 2.742 グラムになる。
貴鉛に溶け込める金銀の量は、2007年に選鉱場跡で発見した「貴鉛」が約16%だったし、石見銀山遺跡
で発見された「貴鉛」が15%だというので、15%と仮定すると、この灰吹き皿で回収できた金銀粒の重量は、
2.742*0.15 = 0.41 グラムになる。
・ 栃木県西沢金山の鉱物と遺物
( Minerals and Reric from Nishizawa Gold Mine , Tochigi Pref. )
坩堝に付着している鉱滓(スラグ)の線まで水を入れ体積を測ってみると60ccだった。比重を3と仮定すると
溶解前に入れた金銀鉱粉の重量は、180グラムになる。
鉱石の金銀品位は、0.41/180 = 0.23 % となる。西澤金山の金と銀の比率は、坑や採掘時期によっ
ても違うが、およそ1:8だったから、金だけで鉱石1トン当たり300グラムという高品位だ。現在稼行している金山
は、鉱価が高いこともあって、1トンあたり数グラムで採算が採れ、国内で唯一稼行している高品位で騒がれた
菱刈金山ですら平均すると50グラム程度なことから考え合わせると、西澤金山がいかに高品位の金銀鉱を
産出したかが納得できる。
【後日談】
鉱山絵はがきコレクションの中に、「分銀炉」があった事を思い出し探してみた。小坂鉱山で銀を製錬する
分銀炉を描いた絵葉書だ。作業員の背丈と比べてみると、西澤金山のものより何倍か大きいことがわかる。
小坂鉱山のは量産用で、西沢金山のは分析用なのだから当然だ。
鉱石を品位を分析するのに各種の試薬が使われた。それらの空き瓶やその蓋が出土した。光を遮光する
ための黄色い瓶もある。
ほどんどのガラス瓶が破損している中で、”完形品”があった。高さ32mmほどと小さいことが幸いして割れず
に残ったようだ。これも試薬瓶で、口のところが”すりガラス”になっている特徴でわかるのだ。
ガラス製の実験器具があったが、それらの中にはウランガラスで作られたものがある。核分裂で莫大なエネル
ギーを生む性質があることが発見されるまで、ウランはガラスの着色剤くらいしか用途がなかったのだ。写真は、
薄紫色に色づいているウランガラス製だ。
(2) 来客饗応
ここを山駕籠に乗って訪れた渡辺渡工科大学(現東京大学)学長が「稀有ノ良鑛ヲ出セシ西澤金銀山」
と紹介したこともあって、『日本の新クロンダイグ』と喧伝(けんでん)された西澤金山を一目己が目で見ようと
いう銀行家や株主たちの視察団が度々訪れたようだ。
【余談】
切手取集の大先輩・石川氏の祖父は埼玉県で製糸業「石川組」を明治26年に起業した。石川氏から、
「製糸工場をアメリカ人貿易商が訪れることがあり、田舎だと侮られないように赤レンガ造りの迎賓館を私が
生まれた大正12年に建設した」、と聞いた。工場はなくなったが、この迎賓館は国登録有形文化財「西洋
館」として現存している。
【後日談】
埼玉県入間市博物館で10/21〜12/10まで、「石川組製糸ものがたり」の展示が行われると知った。入間
市の広報誌にその予告が掲載された。そこには、石川氏の祖父・幾太郎が「西洋館」を建設したときの決意
が記されているので、引用する。
『 豊岡(製糸工場があった地名:現入間市豊岡)を見くびられてはたまらない。超一流の舘を造って迎え
よう 』
視察団を迎える西澤金山側の想いも同じだったと思われ、”こんな山の中で、こんな立派な食器を使い
最新流行のワインなどを振る舞っていた” という、驚きの事実が明らかになる。
カップの裏に ” NORITAKE NIPPON " とある。ノリタケは、1904年(明治37年)に森村市左衛門によって
日本陶器合名会社として創業された。前身の日本陶器は日本で初めて高級洋食器を生産し、明治時代
から戦前にかけて陶器商社の森村組の手で欧米に大量に輸出された。初期の製品はハンドメイドで絵付け
の美しさ、細工の繊細さで知られる。その後アール・デコを基調としたデザインの食器が大量に生産され、凝っ
たデザインで現在でも親しまれている。
このマークは、1911年(明治44年)から1921年(大正10年)に輸出品につけられたもので、色はブルー、
グリーン、レッドの3色ある中のグリーンだ。西澤金山の最盛期に購入したものだろう。
同じ場所から、同じ絵柄の皿が出て来た。ということは、これらノリタケ製品の食器セットでお客を饗応して
いたことがわかる。
料理を一段と美味しくいただくには、調味料が欠かせない。調味料容器も出土した。清潔感のある真っ白
いガラス製で、アールデコ様式とでもいうのだろうか、お洒落な形をしている。
私が注目したのは、蓋がアルミニュームでできていることだ。アルミニュームは、原料は豊富にあるのに純粋な
金属を取り出すのが難しく、今は1円玉に成り下がってしまっているが、昔は信じられないくらい高価な金属だっ
た。
1855年のパリ万博には、「粘土から得た銀」として、宝石類と並べて展示された。ナポレオン3世が開催した
その晩餐会で、特別な賓客にはアルミの食器、そうでない客には銀の食器が使われたというエピソードが残って
いるほどだ。
アメリカ人ホールとフランス人エルーが1886年にそれぞれ独自に近代的な融解塩電解法(ホール-エルー法)
を開発して、はじめて多量に生産できるようになった。アルミニュームは、「電気の缶詰」と形容されるように、
製造には多量の電力を必要とし、電力事情が悪い日本では相変わらず貴重な金属だった。
当然テーブルにのる飲料には最新流行のワインもあった。パントあるいはキック・アップとも呼ぶ瓶の底が大きく
凹んで”澱(おり)”が溜まりやすくしてある所から、ワイン瓶に違いないだろう。その底には、” RED BALL "
とある。「レッド・ボール」、つまり「赤玉」だ。
「赤玉」と「ワイン」で思い当たるのは「赤玉ポートワイン」だ。赤玉スイートワインは、壽屋(ことぶきや)洋酒
店(現・サントリー)が「赤玉ポートワイン」の名で1907年(明治40年)に発売した甘味果実酒だ。総合洋酒
メーカーとしてのサントリーの土台を築きあげた商品としてその名を知られ、今日まで発売され続けている。
当時は米1升が10銭する中で、赤玉ポートワインはその4倍に相当する40銭(現在の1,700円くらい)という
高級品で、しかも発売されて間もないワインをこんな山奥で飲めるとは、視察者たちには思いもよらないこと
だったろう。
物珍しさで、「ワイン」を口にしてはみたが、現在のワインとは違う”甘ったるい”味に馴染めず、日本酒を所望
する客も少なくなったようで、1升瓶の”栓”が多数出土する。明治時代から私が子どもの頃までは”エコ”な
時代で、空き瓶を持参してそれに酒や醤油などを詰めてもらう、量(はか)り売りが珍しくなかった。瓶の栓が
抜けないように、バネの力で押さえつける仕掛けになっている。
私が住む甲府には、今でも量り売りをしてくれるワイン店がある。そこに持参する空き瓶の栓は全く同じ構造
だ。
当然、お酒が飲めない人もいるはずだから、それらの人々のために「三ツ矢サイダー」や「牛乳」などが提供
されたのだろう。
1907年(明治40年)に「帝国礦泉株式会社」が設立されて炭酸水に砂糖を煮詰めたカラメルなどを加えた
「三ツ矢印 平野シャンペンサイダー」が発売され、1909年(明治42年)に「三ツ矢シャンペンサイダー」に改称
した。これも、売り出されて間もない、新しい飲み物だった。
新しい飲み物と言えば、コーヒーも飲んでいた。みなさんが初めてコーヒーを飲んだのはいつだろうか。私は、
昭和40年代の初めで、同じころにコーラも初めて飲んで、”カルチャー・ショック”を受けた覚えがある。
写真の瓶には、”コーヒー”とあり、食後などにお茶の代わりに飲んだのだろうか。どのようなものだったのか、
飲んでみたい気にさせられる。
当然一般の来客には日本茶が供されたはずで、湯呑み茶碗も出土した。茶碗の側面や蓋には西澤金山
の「西」のマークが入っている。
(3) 医局(鉱山病院)
西澤金山には、現在の鉱山病院に相当する「医局」と隔離病棟に当たる「避病院」があった。そこには、
医師1名、助手1名、看護婦1名が常駐し、鉱夫とほぼ同数いたその家族の健康を管理していた。
下のガラス瓶の破片には「西澤金山醫局」の一部が読め、水薬を入れた薬ビンだったと思われる。薬ビンと
思われる破片には、「大學目薬」、とある。私たちのミネラル・ウオッチングでもハンマで岩石を叩いた拍子に眼に
岩片が飛び込んで痛めることがままあるが、鉱脈を追って、四六時中岩を叩いていた坑夫らは眼薬のお世話に
なることが多かったはずだ。
(4) 学校
明治42年5月に建設された金山付属の小学校があり、大正4年時点で、男児65名、女児50名が通ってい
た。以前も児童たちが学校で使ったり硯や遊んだおはじきなどが出土したと紹介したが、今回もおはじきが出
てきた。
(5) 寺院
「西沢金山大観 全」には、「西澤山金剛寺というお寺が、鉱山の北東にあり、日光輪王寺の僧侶が特派
され布教活動や葬儀などを執り行った」、とある。塔婆を読むと、「西沢金山寺」とある。現在、寺の建物は
ないが、山王林道沿いの一段高くなったところにに墓石が何基か見られる。お墓にはさほど古びていない塔婆
が数本あるので、現在でもお参りする人々がいるようだ。
お客が多くないので、2つある「個室露天風呂」はいつも空いていて、夜と朝に使わせてもらった。川俣温泉は、
単純ナトリウム泉ということで、疲労回復に良いようだ。久しぶりのミネラル・ウオッチングで強(こわ)張ったふくら
はぎをお湯の中で揉んでおいたら、翌日には何ともなくなっていた。
料理は「地産地消」で、地元の魚肉・野菜・キノコなどが中心で、「イワナの塩焼き」や「アユの一夜干し」など
が美味しくて、ご飯をお代わりしてしまった。
(2) 真夜中の天体ショー
久しぶりに7,000歩ちかく歩き、大ハンマを振った疲れが出て、しかも満腹、アルコールが利いて9時前に寝て
しまった。
真夜中0時過ぎに眼がさめ、カーテンを開けて空を見上げると、寝る前には東の空に見えたほぼ満月が南天の
西寄りに見えた。良く見ると、この日の午後から天気が崩れると予報していた通り、薄い雲が空に広がっていて
月の周りに暈(かさ)が見える。
この暈も、雲の中の氷の粒がプリズムの働きをしてつくりだしているのだ。その理論については、2015年の南極
探検の時の次のページで紹介した通りだ。