栃木県西沢金山の鉱物と遺物

1. 初めに

   2006年7月、西沢金山を初めて訪れ、「マチルダ鉱」「ルビーシルバー(淡紅銀鉱)」
  そして「マンガン重石」など、産出する鉱物のユニークさに惹かれた。
   それにも増して、2006年8月、『第2錫鉱記念碑』の取材で岐阜県中津川市を訪れ
  その碑面に、またしても”高橋 源三郎”の名を認め、栃木県の山奥の西沢金山と
  岐阜県の錫鉱が一本の糸で結ばれていたことを知り、何か縁を感じて、2006年は
  足繁く西沢金山を訪れた。

   2007年GWの前半は恒例のミネラルウオッチングを楽しみ、後半は、「著名人シリーズ」
  と題して、人名の付いた鉱物を求めて、群馬県、栃木県の産地を回ることにした。
   西ノ牧(あるいは、西牧:さいもく)鉱山の次に訪れたのは、ミス・マチルダを求めて
  栃木県栗山村の西沢金山であった。

     早春の西澤金山跡

   東京の石友・Mさんと「マチルダ鉱」が集中的に産出したとされる周辺を探索したが
  一向に姿を現さなかった。

   『 何も採れないよりは 』 と、「ルビーシルバー(淡紅銀鉱)」や「黄粉銀鉱」が確実に
  採集できるポイントに移動しながら、昔製煉所があったとされる場所で、何気なく地面を
  見ると、『 貴鉛 』 の塊が落ちていた。
   さらに、医局や分析所跡では薬品ビン、学校跡では硯(すずり)やおはじきやビー玉
  などの遺物を採集できた。

   もちろん、「ルビーシルバー(淡紅銀鉱)」や「黄粉銀鉱」もシッカリ確保できた。さらに
  Mさんが思いもかけない場所で石英の晶洞の中に「黄粉銀鉱の自形結晶」を採集する
  など、この産地のユニークさに改めて眼を見張った。

   ミス・マチルダとの出会いは、願っても叶うものではなさそうで、気長に女心を解きほぐ
  すしかなさそうだ、と達観(?)した。

   今回は、ミネラルウオッチングよりも産業遺物ウオッチングに重点が移ってしまったが
  同行いただいた石友・Mさんに厚く御礼を申し上げる。
   ( 2007年5月採集 )

2. 産地

    栃木県日光戦場ヶ原と栗山村川俣温泉を結ぶ山王林道沿いに西沢金山跡がある。
   以前は、「西沢金山跡」の看板もあったと文献にあるが、現在では確認できていない。
    ( Mさんの話では、朽ちて倒れているらしい )

        西沢金山の位置

3. 産状と採集方法

    「西澤金山大観」には、大正5年(1916年)1月に作成された鉱山の色刷りの実測図が
   記載されている。

     この地図の北側(地図の上)から南(地図の下)を見た、「西澤金山全景」の絵葉書が
    「西澤金山の絵葉書」に掲載されているされている。

       
            西沢金山実測図【「西沢金山大観」から引用】

       
         西沢金山全景【「西沢金山の絵葉書」に追記】

     これらの地図、写真と現在の地形を対比して見ると、坑口、選鉱場、製煉所、分析所
    医局(診療所)、学校そして坑夫飯場(従業員住宅)などがあった位置を読み取ることが
    でき、採集にあたって、大いに参考になっている。

     つまり、鉱石がどの坑道から掘り出され、どのように運ばれ、どのように処理され
    ズリ(捨石)はどこに堆積したのかを推理できる。
     また、発見した遺物がどこのものだったか、逆に言えば、ここにあった施設からは
    このような遺物が見つかるはずだと、予測することもできる。
     このように、”宝探し”の要素も加わり、ミネラルウオッチングを一段と楽しいものに
     してくれる。

     施設の規模がどのようなものであったか、大正4年(1915年)11月現在の西澤金山
    探鉱株式会社の鉱業所のあらましを「西澤金山大観」から拾い出してみた。

区分項目数量備考
従業者と
その収容施設
役宅(管理職住宅)22棟(566坪)1戸平均26坪
長屋(坑夫住宅)53棟(1,613坪)1戸平均30坪
事務所付属12棟(468坪)病院・学校・倉庫・賄所(共同食堂)
販売所(売店)含む
寺院1棟(24坪)西澤山金剛寺
日光輪王寺が管掌
人口1,284名 
衛生病院1棟実測図の「医局」
隔離病棟1棟実測図の「避病院」
医師1名 
助手1名 
看護婦1名 
教育学校1棟私立・西澤金山小学校
明治45年(1911年)5月開校
大正2年(1913年)高等小学校を併置
校長1名 
教員3名 
生徒 男 (65名)
女 (50名)
 
坑内の起業坑道の延長(1年間)3,483尺(約1,050m)総延長35,354尺(10.6km)
山神坑7,650尺(約2,300m)旭坑に通じる
旭坑7,550尺(約2,300m)大黒坑に通じる
大黒坑3,540尺(約1,060m) 
開運坑4,200尺(約1,260m) 
オログラ坑540尺(約160m) 
坑外の設備選鉱所手選鉱場(1棟)
機械選鉱場(1棟)
 
手選鉱男(15人)
女(58人)
 
機械選鉱男(16人)
女( 2人)
 
製煉所工場(1棟)青化製煉
鉱石を粉砕した砂鉱を7昼夜
青化カリ溶液に浸し、金銀を抽出

4. 採集鉱物(遺物)

 (1)貴鉛(きえん)/床尻鉛(とこじりなまり)【Precious Lead】
     精錬所跡付近は、昨年秋ごろに、何の目的かは知らないが、土木機械を使って山を崩
    して、平坦にする工事が行われていた。
     ここに、表面に硫酸鉛鉱と思われる白い粉を吹いた、鉛の塊が落ちていた。科学的な
    分析を行っていないので、断定できないが、”灰吹き法”で金銀を精錬する際の中間製品
    で、銀鉛合金の「貴鉛」だろう、と考えている。

        
           製煉所跡                貴鉛

     鉛塊の重量は、640グラム、体積は57cm3なので、比重(S.G)を私のHPにある方法を
    応用して測定すると

     S.G=640/57=11.22

     銀鉛合金と仮定すると、鉛(Pb)の比重は、11.36であり、銀(Ag)は、10.49 なので
    銀の割合を x とおくと、次の式が成り立つ。

     11.36(1−x)+10.49x=11.22
     ∴ x=0.16

     つまり、この鉛の塊は、銀を 16% 含んだ 「貴鉛」(正式名:床尻鉛(とこじりなまり)
    と思われ、”灰吹き法”で金銀を精錬する際の中間製品で、銀鉛合金であろう。

     鉛の中に銀がどのくらい固溶するのか調べていないが、島根県石見銀山跡の18世紀の
    地層から出土した貴鉛は、分析の結果、約15%の銀を含んでいるので、上の数値とも
    符合する

     西澤金山では、採掘した鉱石の製煉に非常に苦心したことが、「西澤金山大観」に書
    かれている。

     『 鉱石の精錬は、明治30年(1897年)より、福島県半田銀山流の樽混汞法を採
      用したが成績が悪く、明治31年(1898年)最上鉱を東京に送り、曹達灰でこれを
      溶かし、金銀と蒼鉛を得た。
       明治33年(1900年)、栃木県河内郡篠井に於て、三井鉱山会社の精錬所を
      借り受けて青化収金法及び溶解精錬法を試みたが、好い結果が得られず
      明治34年(1901年)にはこれを止めた。
       明治35年(1902年)になって、西澤金山の精錬所に
日本吹床を加設し、上鉱を
      溶解精錬する目的で試験吹きを開始した。
       同年9月28日、この地方を襲った台風の影響で、精錬所を初めとする諸設備
      を流失するという大災害の遭遇した。これによって、西澤金山は休止せざるを
      得ない状況となった。   』

      ここにある、『 日本吹床 』 が、『 灰吹き法 』 を示していると思われ、この
     鉛塊は今から100年以上前、明治35年(1902年)の台風でも、その重きがゆえに
     流されずに残ったものと考えられる。

 (2) ガラス・陶磁器製品【 Glass China Wares 】
      建物跡と思われる周辺には、ガラスや陶磁器製品が散乱している。ほとんどが
     破片で、完全なものは少ないが、ここに「西澤金山」があったことを物語る名前の
     入ったものもある。

       下のガラス瓶には「西澤金山醫局」とあり、水薬を入れた薬ビンと思われる。
       湯のみには「西(澤金山?)」 とある。

        
       薬ビン【接合品】         湯のみ
              ガラス・陶磁器製品

 (3) 学用品、遊び道具
      学校跡地周辺から、硯、おはじきそしてビー玉が見つかった。大正4年(1915年)
     の私立・西澤金山小学校の生徒数が115名で、就学前の子供も含めれば、こども
     の数は200名を超えたのではないだろうか。
      その子供たちが、標高1,500mの山奥の学校で勉強し、休み時間や放課後に
     女の子はおはじき、男の子はビー玉で遊んでいた様子が眼に浮かぶ。

        
           硯(すずり)           おはじきとビー玉

5.おわりに

 (1) 今回は、ミネラルウオッチングよりも産業遺物ウオッチングに重点が移ってしまった
    感が強い。
     西澤金山跡の学術的な調査が行われたとも思われず、既にその一部は山王林
    道や砂防ダムの下に埋まってしまい、残ったものもこのまま朽ちてしまうのは、栃
    木県あるいは国の産業遺跡として大きな損失だと思うのだが・・・・・・・。

 (2) 今回採集した「銀鉱物」の一部を紹介する。ルビーシルバーは、黄鉄鉱を伴う石
    英の中にくることが多い。母岩の外周には、銀黒や硫化鉱物が見られないケース
    も多く、採集確率を高めるには、”割ってみる”のが一番である。
     標本が小さくなる欠点を補うため、標本の角を試しにごく一部欠いてみるという
    知恵も最近身についた。
     「黄粉銀鉱」のほうが「淡紅銀鉱」より産出が希だが、それでも30%〜50%の
    ルビーシルバーには「黄粉銀鉱」を伴っているようだ。

        
             母岩          淡紅銀鉱と黄粉銀鉱
                ルビーシルバーの産状

 (3) ミス・マチルダに会いたくて、2006年には10回前後西澤金山跡を訪れた。

    ミス・マチルダとの出会いは、願っても叶うものではなさそうで、気長に女心を解き
   ほぐすしかなさそうだ、と達観(?)した。

6.参考文献

 1)梁木 毅六編:西沢金山大観,不明 ,大正5年
 2)栃木県:栃木県史 第十巻 産業経済編,栃木県,
 3)鉱山懇話会編:日本鉱業名鑑,同会,大正2年〜大正7年
 4)抗火石工業株式会社HP:企業の沿革,同社,2006年
 5)渡辺 渡:西沢金山調査書,日本鉱業会誌第224号別刷,明治38年
 6)藤原町(現日光市):藤原町史 通史編,藤原町,平成3年
 7)栗山村(現日光市):栗山村誌 −西沢金山の発展−,同村,1998年
 8)佐藤 壽修:歴史と文化第4号 −西沢金山にみる日本の動き・世界の動き−
         栃木県歴史文化研究会,1995年
 9)喝破禅師:新下野 創刊号 −悲観乎 楽観乎 西沢金山の将来−
         新下野社,大正7年
 10)小林 利喜造、関根 定吉、野島 幾太郎共述:西沢等の各鉱山と鬼怒川の将来
                          三共社,大正6年
 11)野島 幾太郎述:栃木県会と鬼怒川の各鉱山,三共社印刷所,大正7年
 12)松原 聡:日本の鉱物,株式会社学習研究社,2003年
 13)松原 聡、宮脇 律郎:日本産鉱物型録,東海大学出版会,2006年
 14)井上、興野、登根:西澤金山の絵葉書,日本地学研究会,2006年
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