2007年GWの前半は恒例のミネラルウオッチングを楽しみ、後半は、「著名人シリーズ」
と題して、人名の付いた鉱物を求めて、群馬県、栃木県の産地を回ることにした。
西ノ牧(あるいは、西牧:さいもく)鉱山の次に訪れたのは、ミス・マチルダを求めて
栃木県栗山村の西沢金山であった。
東京の石友・Mさんと「マチルダ鉱」が集中的に産出したとされる周辺を探索したが
一向に姿を現さなかった。
『 何も採れないよりは 』 と、「ルビーシルバー(淡紅銀鉱)」や「黄粉銀鉱」が確実に
採集できるポイントに移動しながら、昔製煉所があったとされる場所で、何気なく地面を
見ると、『 貴鉛 』 の塊が落ちていた。
さらに、医局や分析所跡では薬品ビン、学校跡では硯(すずり)やおはじきやビー玉
などの遺物を採集できた。
もちろん、「ルビーシルバー(淡紅銀鉱)」や「黄粉銀鉱」もシッカリ確保できた。さらに
Mさんが思いもかけない場所で石英の晶洞の中に「黄粉銀鉱の自形結晶」を採集する
など、この産地のユニークさに改めて眼を見張った。
ミス・マチルダとの出会いは、願っても叶うものではなさそうで、気長に女心を解きほぐ
すしかなさそうだ、と達観(?)した。
今回は、ミネラルウオッチングよりも産業遺物ウオッチングに重点が移ってしまったが
同行いただいた石友・Mさんに厚く御礼を申し上げる。
( 2007年5月採集 )
この地図の北側(地図の上)から南(地図の下)を見た、「西澤金山全景」の絵葉書が
「西澤金山の絵葉書」に掲載されているされている。
これらの地図、写真と現在の地形を対比して見ると、坑口、選鉱場、製煉所、分析所
医局(診療所)、学校そして坑夫飯場(従業員住宅)などがあった位置を読み取ることが
でき、採集にあたって、大いに参考になっている。
つまり、鉱石がどの坑道から掘り出され、どのように運ばれ、どのように処理され
ズリ(捨石)はどこに堆積したのかを推理できる。
また、発見した遺物がどこのものだったか、逆に言えば、ここにあった施設からは
このような遺物が見つかるはずだと、予測することもできる。
このように、”宝探し”の要素も加わり、ミネラルウオッチングを一段と楽しいものに
してくれる。
施設の規模がどのようなものであったか、大正4年(1915年)11月現在の西澤金山
探鉱株式会社の鉱業所のあらましを「西澤金山大観」から拾い出してみた。
区分 | 項目 | 数量 | 備考 | 従業者と その収容施設 | 役宅(管理職住宅) | 22棟(566坪) | 1戸平均26坪 | 長屋(坑夫住宅) | 53棟(1,613坪) | 1戸平均30坪 | 事務所付属 | 12棟(468坪) | 病院・学校・倉庫・賄所(共同食堂) 販売所(売店)含む |
寺院 | 1棟(24坪) | 西澤山金剛寺 日光輪王寺が管掌 |
人口 | 1,284名 | 衛生 | 病院 | 1棟 | 実測図の「医局」 | 隔離病棟 | 1棟 | 実測図の「避病院」 | 医師 | 1名 | 助手 | 1名 | 看護婦 | 1名 | 教育 | 学校 | 1棟 | 私立・西澤金山小学校 明治45年(1911年)5月開校 大正2年(1913年)高等小学校を併置 |
校長 | 1名 | 教員 | 3名 | 生徒 |
男 (65名) 女 (50名) | 坑内の起業 | 坑道の延長(1年間) | 3,483尺(約1,050m) | 総延長35,354尺(10.6km) | 山神坑 | 7,650尺(約2,300m) | 旭坑に通じる | 旭坑 | 7,550尺(約2,300m) | 大黒坑に通じる | 大黒坑 | 3,540尺(約1,060m) | 開運坑 | 4,200尺(約1,260m) | オログラ坑 | 540尺(約160m) | 坑外の設備 | 選鉱所 | 手選鉱場(1棟) 機械選鉱場(1棟) | 手選鉱 | 男(15人) 女(58人) | 機械選鉱 | 男(16人) 女( 2人) | 製煉所 | 工場(1棟) | 青化製煉 鉱石を粉砕した砂鉱を7昼夜 青化カリ溶液に浸し、金銀を抽出 |
鉛塊の重量は、640グラム、体積は57cm3なので、比重(S.G)を私のHPにある方法を
応用して測定すると
S.G=640/57=11.22
銀鉛合金と仮定すると、鉛(Pb)の比重は、11.36であり、銀(Ag)は、10.49 なので
銀の割合を x とおくと、次の式が成り立つ。
11.36(1−x)+10.49x=11.22
∴ x=0.16
つまり、この鉛の塊は、銀を 16% 含んだ 「貴鉛」(正式名:床尻鉛(とこじりなまり)
と思われ、”灰吹き法”で金銀を精錬する際の中間製品で、銀鉛合金であろう。
鉛の中に銀がどのくらい固溶するのか調べていないが、島根県石見銀山跡の18世紀の
地層から出土した貴鉛は、分析の結果、約15%の銀を含んでいるので、上の数値とも
符合する
西澤金山では、採掘した鉱石の製煉に非常に苦心したことが、「西澤金山大観」に書
かれている。
『 鉱石の精錬は、明治30年(1897年)より、福島県半田銀山流の樽混汞法を採
用したが成績が悪く、明治31年(1898年)最上鉱を東京に送り、曹達灰でこれを
溶かし、金銀と蒼鉛を得た。
明治33年(1900年)、栃木県河内郡篠井に於て、三井鉱山会社の精錬所を
借り受けて青化収金法及び溶解精錬法を試みたが、好い結果が得られず
明治34年(1901年)にはこれを止めた。
明治35年(1902年)になって、西澤金山の精錬所に日本吹床を加設し、上鉱を
溶解精錬する目的で試験吹きを開始した。
同年9月28日、この地方を襲った台風の影響で、精錬所を初めとする諸設備
を流失するという大災害の遭遇した。これによって、西澤金山は休止せざるを
得ない状況となった。 』
ここにある、『 日本吹床 』 が、『 灰吹き法 』 を示していると思われ、この
鉛塊は今から100年以上前、明治35年(1902年)の台風でも、その重きがゆえに
流されずに残ったものと考えられる。
(2) ガラス・陶磁器製品【 Glass China Wares 】
建物跡と思われる周辺には、ガラスや陶磁器製品が散乱している。ほとんどが
破片で、完全なものは少ないが、ここに「西澤金山」があったことを物語る名前の
入ったものもある。
下のガラス瓶には「西澤金山醫局」とあり、水薬を入れた薬ビンと思われる。
湯のみには「西(澤金山?)」 とある。
(3) 学用品、遊び道具
学校跡地周辺から、硯、おはじきそしてビー玉が見つかった。大正4年(1915年)
の私立・西澤金山小学校の生徒数が115名で、就学前の子供も含めれば、こども
の数は200名を超えたのではないだろうか。
その子供たちが、標高1,500mの山奥の学校で勉強し、休み時間や放課後に
女の子はおはじき、男の子はビー玉で遊んでいた様子が眼に浮かぶ。
(2) 今回採集した「銀鉱物」の一部を紹介する。ルビーシルバーは、黄鉄鉱を伴う石
英の中にくることが多い。母岩の外周には、銀黒や硫化鉱物が見られないケース
も多く、採集確率を高めるには、”割ってみる”のが一番である。
標本が小さくなる欠点を補うため、標本の角を試しにごく一部欠いてみるという
知恵も最近身についた。
「黄粉銀鉱」のほうが「淡紅銀鉱」より産出が希だが、それでも30%〜50%の
ルビーシルバーには「黄粉銀鉱」を伴っているようだ。
(3) ミス・マチルダに会いたくて、2006年には10回前後西澤金山跡を訪れた。
ミス・マチルダとの出会いは、願っても叶うものではなさそうで、気長に女心を解き
ほぐすしかなさそうだ、と達観(?)した。