栃木県西沢金山の銀鉱物

1. 初めに

   2006年4月、東京の石友・Mさんと「北関東の水鉛鉛鉱」産地を訪れ、その帰りに以前
  から訪れてみたいと考えていた西沢金山を案内してもらおうとした。川俣温泉側から林道
  を進むと、無常にもゲートが閉じられており、開通するのは1週間後であった。

   茨城県ひたちなか市にある、最先端半導体工場から技術コンサルタントとして
  招請され2006年7月に赴任した。
   仕事が軌道に乗るまでは、『ハンマに封印』してという決意で赴任したが、最初の
  1週間の現状分析で、改善策の粗筋が読め、2週間目の週末には骨董市やミネラル
  ウオッチングで産地を回る余裕も出てきた。
   真っ先に訪れて見たい場所の1つが、「西沢金山」であった。石友・Mさんから産地の
  情報をいただき、初めて訪れたのは7月中旬であった。
   教えられたズリで、いとも簡単に「淡紅銀鉱」と「黄粉銀鉱」が採集でき、これは幸先が
  良いわい、と思ったのが甘かった。その後は、訪れるたびに採集しにくくなってきた。

   以前読んだ文献で、日本に数冊しかないだろうという稀観本『西沢金山大観』の
  存在を知り、入手したいと念じていたところ、偶然手にすることができた。
   この本に、”西沢金山開発者・高橋 源三郎”の名前を認め、何となくどこかで目に
  した名だと思っていた。

   2006年8月、『第2錫鉱記念碑』の取材で岐阜県中津川市を訪れると碑面に、またしても
  ”高橋 源三郎”の名を認め、栃木県の山奥の西沢金山と岐阜県の錫鉱が一本の糸で
  結ばれていたことを知り、何か縁を感じて、足繁く西沢金山を訪れた。
   その結果、「ルビーシルバー」「鉄マンガン重石」「マチルダ鉱」など、この産地を代表
  する鉱物を一通り採集できた。
   産地を案内していただいた栃木県の石友と採集のたびに同行、案内していただき
  採集品の一部を恵与いただいた石友・Mさんに厚く御礼申し上げます。
   また、高橋源三郎や西沢金山に関する資料を送付していただいた千葉県の石友・Mさんに
  厚く御礼申し上げます。
   ( 2006年7月初訪山、7月再訪、9月 3〜5回目訪山 )

2. 産地

 2.1 位置
    栃木県日光戦場ヶ原と栗山村川俣温泉を結ぶ天王林道沿いに西沢金山跡がある。以前は
   「西沢金山跡」の看板もあったと文献にあるが、現在では確認できていない。

        西沢金山の位置

 2.2 地質と鉱床
    「西沢金山の地質および鉱床」と題して、渡辺 渡工学博士が「西沢金山大観」に
    寄せた記事を引用させていただく。この底本となっているのは、今からほぼ100年前
    明治38年(1905年)6月に発行された、「日本鉱業会誌第224号別刷『 希(稀)有ノ良鉱ヲ
    出セシ西沢金銀山 』である。

    『 本山附近ニシテ最古地層ハ、大古代ノ粘板岩及珪岩ニシテ・・・・・・現今全鉱区
     ヲ構成シ本山ノ鉱床ヲ夾有スル所ノ岩石ハ該地層ヲ貫キテ迸発シタル石英斑岩及石英
     粗面岩ノ二種ニ過ギズ

      本山ノ鉱床ハ石英斑岩中ノ裂目ヲ填充スル所ノ石英鉱脈ニシテ・・・・・ 
     其鉱質及生成ノ順序ニ拠リテ・・・・・四種ニ分類セラルゝガ如し
      第一種ノ鉱脈ハ白色石英及黄鉄鉱ヨリ成リテ稍々縞状構造ヲ為ス、最モ古キ鉱脈ニ
     属シ一モ有望ナルモノナキガ如シ
      第二種ノ鉱脈ハ本山主要ノ銀鉛鉱脈ニシテ白色及黝色石英閃亜鉛鉱、方鉛鉱、輝銀
     鉱及黄鉄鉱ヨリ成リテ往々縞状構造ヲ為スモノ
      第三種ノ鉱脈ハ金銀鉱脈ニシテ黝色及白色石英 輝銀鉱自然金及少量黄銅鉱トリ成
     リ時ニ輝蒼鉛銀鉱ヲ混有シ常ニ縞状構造ヲ為スモノ
      即チ旭坑大直リノ鉱脈是ナリ・・・・・既往ノ産出金銀及蒼鉛ハ悉皆旭坑中ノ本脈
     ヨリ採取シタルモノナリ
      第四種ノ鉱脈ハ白色ノ石英脈ニシテ何等ノ有用鉱物ヲ含蓄セルモノナシ即旭坑内ニ
     於テ金銀鉱脈ノ破片ヲ包有スルモノ是ナリ・・・・・・・・・・・・ 

      輝蒼鉛銀鉱ト同一ノ成分ヲ為スモノハ旭坑内ノ大直リ中石英ト蜜雑シ黝色石英ト白色
     石英トノ中間ニ幅一分(3mm)乃至二寸(6cm)ノ一帯ヲ為シテ多量ニ産出セリ
      其新破面ハ黝鋼色ヲ呈スレトモ数日ニチシテ忽チ暗黒色ニ変ス其薄片ヲ採リ顕微鏡ニ
     照ストキハ本鉱ハ樹脂状ノ群晶ヲ為シ自然金チ共ニ石英中ニ散往(在?)スルコトヲ認
     識スベシ ・・・・・・・・・・

      余ガ本鉱ガ輝蒼鉛銀鉱ナルコトヲ世ニ紹介シタル嚆矢ナリトトス   』

      これを読むと、「マチルダ鉱」は今から100年前の明治38年(1905年)当時は
     「輝蒼鉛銀鉱」と呼ばれていて、旭坑の大直(豊鉱帯)からのみ産出したとされてい
      る。

   2.3 沿革

  (1) 高橋源三郎の経営時代(明治28年〜明治35年)

    「西澤金山大観」によれば、古老の伝説などから、弘化年中(1844年〜1848年)、鉛を採掘
    したとされる。当時、この地域は日光社領に属し、金銀の採掘は禁止されていたので、鴻池
    伝衛門(?)は、鉛を掘ると偽って、銀と鉛を採掘していたが、たまたま発覚し、時の日光
    奉行・永井某(?)もまた連座し、本山は引上げ処分となり、以来、久しく廃坑となってい
    た。
     明治26年(1893年)、栗山村民17名が共同で本山の採掘を出願したところ、同年8月、高橋
    源三郎がこれを譲り受けた。

     高橋源三郎

     高橋源三郎は、万延元年(1860年)、日光の質屋を営む旧家に生まれ、西澤金山の鉱区を
    得て探鉱を開始したのは、彼が33歳の年であった。
     『 高橋氏は、最も”熱誠”の人にして』、と「西澤金山大観」にあるように、登山以来
    「大黒敷」と「竪坑」を開坑したが鉱脈に達せず中止したが、これに屈することなく明治28年
    (1895年)「棒日沢」と「本沢」との合流点の下流で鉛鉱脈をの露頭を発見した。
     ここの鉛鉱石には0.1%の銀を含んでいたが、すぐに鉱脈は切れ、大いに落胆したが、同年夏
    後の旭坑そばの滝の下で銀鉛鉱脈を発見し、地質調査所の分析で銀1.3%を含むことが
    判明した。直ちに旭坑を取明け、翌明治29年(1896年)春、旭坑内字大曲りで鉱脈に当たり
    同年秋、金銀鉱の大直り(豊鉱帯)に切り当たり、明治30年(1897年)は全盛期であった。
     明治31年(1898年)になると、豊鉱脈は薄くなり、同年秋の水害のため、34万貫目(1275
    トン)の貯鉱を流出した。
     次の3ケ年は、鉱区争奪の事件が起こり、事業は頓挫し、明治33年(1900年)になって
    「宝来坑」や「粘沢大滝」などで試掘したが芳しくなく、中止した。
     一方、鉱石の精錬は、明治30年(1897年)より、福島県半田銀山流の樽混汞法を採用したが
    成績が悪く、明治31年(1898年)最上鉱を東京に送り、曹達灰でこれを溶かし、金銀と蒼鉛
    を得た。明治33年(1900年)、栃木県河内郡篠井に於て、三井鉱山会社の精錬所を借り受けて
    青化収金法及び溶解精錬法を試みたが、好い結果が得られず、明治34年(1901年)にはこれ
    を止めた。
     明治35年(1902年)になって、西澤金山の精錬所に日本吹床を加設し、上鉱を溶解精錬する
    目的で試験吹きを開始した。
     同年9月28日、この地方を襲った台風の影響で、精錬所を初めとする諸設備を流失するという
    大災害の遭遇した。これによって、西澤金山は休止せざるを得ない状況となった。
     高橋源三郎の経営時代の金銀蒼鉛の産出量・金額は下表のとおりである。

年月・区分金量銀量蒼鉛量金価格銀価格蒼鉛価格
明治30年10月〜12月1,389匁
(5.1kg)
18,688匁
(70.1kg)
 6,945円2,616円 
明治31年6,930.5匁
(26.0kg)
146,610匁
(549.8kg)
 34,652円20,525円 
同年
東京にて精錬
698.5匁
(2.6kg)
13,200匁
(49.5kg)
4,300匁
(16.1kg)
3,992円1,848円129円
明治32年2,680.5匁
(10.1kg)
42,050匁
(157.7kg)
 13,402円5,971円 
明治33年1,438匁
(5.4kg)
31,025匁
(116.3kg)
 7,190円4,343円 
明治35年7月〜9月金銀地金30,000匁
(112.5kg)
此の分流失
  金銀価3,295円 

  (2) 西沢金山探鉱株式会社の時代(明治39年〜大正5年)

      明治37年(1904年)、鉱業権は、高橋源三郎から小川源次郎と手束藤三郎の手に移り
     明治39年(1906年)7月、資本金25万円の西沢金山探鉱株式会社が発足した。
      会社は、その名のとおり、明治41年(1908年)上半期まで、探鉱を進めていたが、こ
     れでは収入が得られないので、探鉱を継続するため、品位の高い鉱脈を採掘することに
     した。
      しかし、精錬設備をもっていないので、採掘した鉱石をどのように換金するかが重大な
     問題であった。海外輸送案もあったが、結局兵庫県生野鉱山に売鉱することとなり、明治
     41年の下半期だけで、67,000円余りの純益をあげ、株主配当も4割とという高配当を記録
     した。
      しかし、鉱石を兵庫県まで輸送する費用が金の生産コストを引き上げ、会社の収益の足
     を引っ張ることとなった。そこで、自社の精錬設備を建設することを決め、20万円の増資
     を行い、明治42年(1909年)から明治43年(1910年)にかけて建設した。
      大正4年(1915年)ころ、鉱山は、従業員1,300名を擁する大鉱山となり、生徒数115名の
     私立・西沢金山小学校などの教育機関、病院などの医療機関そして西沢山金剛寺という寺院
     までが整った鉱山街が栃木県の山奥に出現していた。

  (3) 西沢金山株式会社以降(大正5年〜昭和47年)
       大正5年(1916年)、西沢金山株式会社と名前を改め、このころから鉱脈が枯渇しだし
      大正11年(1922年)、下野電力興業株式会社と改称する前後から、休鉱状態になった。
       その後、昭和7年(1932年)、日光鉱業株式会社となり、同年、日本鉱業株式会社の
      傘下に入り、鉱石は茨城県日立鉱山に送られ精錬された。戦後昭和47年(1972年)、鉱
      業権が消滅し、西沢金山の歴史に幕が下ろされた。

  (4) その後の高橋源三郎
      明治39年(1906年)、西沢金山探鉱株式会社の発足とともに、以降、高橋源三郎は、取
     締役あるいは取締役理事という肩書で、西沢金山の経営に携わっていたことが、鉱山懇
     話会編「日本鉱業名鑑」から読み取ることができる。
      同時に、この本の大正7年(1918年)の部分に、高橋源三郎名義の栃木県塩谷郡藤原村の
     「玉ケ澤鉱山」が記載され、大正4、5年(1915、16年)で、金銅の精鉱2万円余りを産出
     したとあり、実質的には西沢金山以外に力を注いでいたと考えられる。
      「抗火石株式会社」のHPによれば、高橋源三郎は明治43年(1910年)、東京都新島本村
     向山村有地の石材採掘権を取得し企業化し、大正元年(1912年)東京市京橋区明石町源商店
     石材部を創立した。
      「抗火石」とは、高橋源三郎と親交のあった渡辺渡博士の命名、とある。
      これに続き、大正2年(1913年)には、岐阜県中津川木積沢にあった錫鉱の採掘・精錬
     も経営していたことが『錫鉱紀念碑』に記録されている。高源三郎の活動拠点が東京市京
     橋区明石町にあったので、錫鉱紀念碑に『東都人高橋源三郎氏代経営』となった、と推定
     している。
      このように、東奔西走している姿は、”山師”の面目躍如である。

      高橋源三郎のその後の足跡は、文献などからは知り得ないが、亡くなったのは、昭和3年
     (1928年)であった。昭和3年といえば、金融恐慌が始まった年であり、死の床にあった
     源三郎の脳裏を去来したものは、何であったろうか。

3. 産状と採集方法

 3.1 産状

     西沢金山で実際に採集できた鉱物種とその母岩から、この産地の産状を次のように解釈
    して、採集するときのズリ石の取捨選択基準にしている。

     @ 古生代の石英斑岩ができるときに、”斑状”に金銀が豊かな部分が生じた。
     A その後、古生代の石英斑岩や珪岩の割れ目に金銀を含む鉱液(石英)が侵入した。
       このとき、黄鉄鉱、黄銅鉱などの硫化鉱物やマンガン重石なども同時に生成した。
       部分的には、「自然硫黄」が生成するほど、硫黄(S)の濃度が高かった。
     B 数百万年前、男体山をはじめとする火山の爆発、火砕流によって、樹木が巻き
       込まれ、その後珪素分を吸収し、珪化木となったり、火山灰の珪素の堆積層が
       「玉髄」や「オパール」の層となった。

      結論として、”不毛”と思われるような石英斑岩のにも「ルビーシルバー」が来る可
     能性がある。

 3.2 採集方法
    西澤金山を訪れ、ルビーシルバーなどの金銀鉱物を採集した人の印象を聞くと、多くの人
   から『 ドロドロのズリで、良い思い出がない 』という答えが返ってくる。
    確かにズリは、重たい粘土質の土に覆われ、掘り出したズリ石が銀鉱物を含むものか
   否かを外観から判断できない。

   (1)栃木県の石友は、”持ってみて、重たい感じがするもの” と言うが、粘土にま
      みれ、タップリと水分を吸ったズリ石は、どれもこれも重たく感じられる。
   (2)いくつかの試行錯誤の末、到達したのは、次のような方法である。
     @ 片っ端から割ってみる。銀黒を含むものや、「ルビーシルバー」が見える標本は
      そのまま持ち帰り、丁寧にクリーニングする。
     A 雨上がりなどに訪れ、ズリの表面採集
       これが、最も効率が良い。
     B 水を入れたバケツを持参し、泥を洗い落として表面を観察する。
     C ズリの土砂を沢まで運び、ズリ石洗って見やすくし、細かい土砂はパンニングで
      「ルビーシルバー」や「鉄マンガン重石」などの重鉱物の分離結晶を採集する。

     パンニング【栃木県の石友・Sさん母娘】

4. 採集鉱物

 (1)ルビーシルバー【Ruby Silver】
     西沢金山で、紅色結晶で産出する銀鉱物には、濃紅銀鉱【Pyrargyritey:Ag3SbS3】と淡紅
    銀鉱【Proustite:Ag3AsS3】の2種がある。
     化学式をみればわかるとおり、アンチモン(Sb)と砒素(As)の違いだけであり、淡紅銀鉱
    のほうが、やや明るい紅色をしている、とされるが光にさらされると黒くなるので、外観か
    ら鑑定することはできない。
     私の場合、次に紹介する「黄粉銀鉱」と共生するものは同質異像関係にある「淡紅銀鉱」
    としているが、それ以外は「ルビーシルバー」と呼ぶことにしている。
     下の採集標本のうち、右端のものは、全面に紅色〜黒色のルビーシルバーが結晶したもので
    石友・Mさんに『西沢金山産の一級品』と折り紙を付けていただいたもの。

              
      分離結晶【パンニング品】            結晶破面         皮膜状+自形結晶【横6cm】
                           ルビーシルバー

 (2)黄粉銀鉱【Xanthoconite:Ag3AsS3
     淡紅銀鉱に隣接して、黄色で表面がギラギラと輝く皮膜、粒状で産する。ルビーシルバー
    が黄鉄鉱や黄銅鉱と共生する標本の場合、皮膜状の黄鉄鉱や黄銅鉱の破面を「黄粉銀鉱」と
    誤認することがあるが、一度”実物”を見ておけば、間違えることはない。
     黄粉銀鉱(単斜)と淡紅銀鉱(三方)とは、同じ組成で、結晶系だけが違う、いわゆる
    ”同質異像”の関係にある。

     黄粉銀鉱

 (3)マチルダ鉱【Matildite:AgBiS2
     陶器質石英に”銀黒”を思わせる真っ黒い脈状で入り、破面には、へき開面が”キラキラ”
    と輝く部分と真っ黒い粒状部分がる。
     この、粒状部分が「マチルダ鉱」で、へき開を示す部分は「方鉛鉱」である。自然金を
    伴わないものは「マチルダ鉱」でない、という御仁もいるが、「栃木県立博物館」に展示し
    てある「マチルダ鉱」は、自然金を伴っていない部分があるので、断定はできないはず。
     西沢金山の目玉、といえば「マチルダ鉱」であろう。「西沢金山大観」には、旭坑の大直り
    に伴って大量に産出した、とあるが、現在ズリで採集するのは、よほどの努力と運に恵まれ
    難しい、というのが栃木県の石友の話である。

     マチルダ鉱

 (4)輝銀鉱【Argentite:Ag2S】
     陶器質石英脈の中に真っ黒いすじ状をなす、いわゆる”銀黒”として、あるいは石英の晶
    洞に六面体、八面体自形結晶の集合をなして産する。
     輝銀鉱は、177℃以上でのみ安定で、常温では針銀鉱【Acanthite】となっている。

    
    輝銀鉱
            【長野鉱山産の例】

 (5)このほか、角銀鉱【Chlorargyrite:AgCl】を石友・Mさんが採集した。このことから、西沢
   金山の金銀鉱床は、海水(塩水:NaCl)の影響する環境の下で生成した、と考えている。

5.おわりに

 (1) 以前から訪れてみたいと考えていた西沢金山を訪れ、この産地を代表する金銀鉱物標本を
    一通り採集できた。案内・同行いただいた栃木県の石友とMさんに御礼申し上げます。
     また、「西沢金山大観」の入手や参考文献に掲げた資料の入手に便宜を図っていただき
    その解読をご教示いただいた千葉県の石友・Mさんに厚く御礼申し上げます。

 (2) このページでは、西沢金山を再発見・開発した高橋源三郎について十分に記述する余裕が
    なかった。
     高橋源三郎と勝海舟、品川弥次郎との出会いなど、1つ1つがドラマである。
     また、西沢金山から産出する鉱物には、「マンガン重石」や「自然硫黄」そして「オパー
    ル」など、非常に幅が広い。      これらについては、別な機会に紹介させて頂く予定である。

6.参考文献

 1)梁木 毅六編:西沢金山大観,不明 ,大正5年
 2)栃木県:栃木県史 第十巻 産業経済編,栃木県,
 3)鉱山懇話会編:日本鉱業名鑑,同会,大正2年〜大正7年
 4)抗火石工業株式会社HP:企業の沿革,同社,2006年
 5)渡辺 渡:西沢金山調査書,日本鉱業会誌第224号別刷,明治38年
 6)藤原町(現日光市):藤原町史 通史編,藤原町,平成3年
 7)栗山村(現日光市):栗山村誌 −西沢金山の発展−,同村,1998年
 8)佐藤 壽修:歴史と文化第4号 −西沢金山にみる日本の動き・世界の動き−
         栃木県歴史文化研究会,1995年
 9)喝破禅師:新下野 創刊号 −悲観乎 楽観乎 西沢金山の将来−
         新下野社,大正7年
 10)小林 利喜造、関根 定吉、野島 幾太郎共述:西沢等の各鉱山と鬼怒川の将来
                          三共社,大正6年
 11)野島 幾太郎述:栃木県会と鬼怒川の各鉱山,三共社印刷所,大正7年
 12)松原 聡:日本の鉱物,株式会社学習研究社,2003年
 13)松原 聡、宮脇 律郎:日本産鉱物型録,東海大学出版会,2006年
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