2006年秋 西九州の観光・鉱物採集旅行

      2006年秋 西九州の観光・鉱物採集旅行

1. 初めに

   11月22日は”いいふうふ(良い夫婦)”の日で、我々夫婦の結婚記念の月で
  もある。今年で結婚33周年、私が還暦を迎えたこともあって、私の生まれた長
  崎県佐世保市を中心に西九州を旅することにした。

   第1日  甲府→羽田→福岡→有田→平戸(泊)
   第2日  平戸→佐世保→長崎市内→雲仙(泊)
   第3日  雲仙→多比良港→熊本県長洲港→柳川→福岡→羽田→ひたちなか市

   西九州には、「福岡県長垂のリチウム鉱物」「長崎県奈留島の日本式双晶」
  など、訪れてみたい鉱物産地は鉱山(やま)ほどあるが、仕事を休んでの団体
  旅行なので、鉱物採集はままならなかった。

   高速道路でバスの車窓から「波佐見」の標識を見ると「波佐見鉱山」「オパ
  ール」など・・・・・が、頭をよぎった。結局、鉱物採集は長崎県雲仙地獄で
  「硫黄」を採っただけだった。

   2006年7月から、ひたちなか市にある最先端半導体工場での”コンサルタント
  業”は、年内一杯の契約であったが、来年桜の花が咲く頃まで延長して欲しい
  と会社から申し入れがあった。

   鉱物採集だけで、西九州を訪れるのは少し先になりそうである。その日を楽し
  みに、有意義な日々を送りたいと考えている。
  ( 2006年11月採集 )

2. 私にとっての佐世保

   私の還暦を記念して家族やごく親しい人に配った「山梨の鉱物誌」に私が生ま
  れる前後の状況を書いた。

   昭和21年(1945年)8月15日、正午に天皇陛下がラジオ放送(玉音放送という)
  を通じ、ポツダム宣言の受諾、つまり日本の無条件降伏(=敗戦)を全国民に告
  げた。
   この数日前、ソ連軍はソ満国境を越え、満州国に侵攻した。このとき、私の両
  親は父が勤務する陸軍病院があった吉林省敦化(とんか)の街にいた。ソ連軍と
  これに呼応した中国共産軍(八路軍)は敦化の街にも攻め入り、軍人は強制労働
  のためシベリアに送られた。
   両親と家族は、収容所暮らしとなり、1年あまりが過ぎた昭和21年(1946年)9
  月に日本への帰国が許され、中国遼寧省コロ島から船に乗って長崎県佐世保市
  浦頭(うらがしら)埠頭を目指した。検疫で沖に停泊中に母が産気づき、一足
  早く上陸し、私が海(陸?)軍病院で生まれたのは、昭和21年(1946年)10月
  8日(?)だったらしい。
  ( 私の戸籍上の誕生日は実際に生まれた日より、半年以上早くなっている )

       
      満州最終地:コロ島     日本最初の地:佐世保浦頭埠頭
          昭和21年(1946年)ころの風景【HPから引用】
           

   ちょうど60年前、私が生まれた長崎県佐世保市浦頭を還暦の記念として訪れ
  てみたいと考えていた。

3. 【いざ、出発!!】

   11月4日3時に起床し、3:45にタクシーに迎えに来てもらい、集合場所の甲府
  駅に行く。
   観光バスに乗り、中央高速を羽田空港に向かって走る。”晴れ男”に違わず
  東京から九州にかけて天気は良さそう。飛行機は、富士山のほぼ真上を飛び
  右下には秋色が深まった甲府盆地と頂が雪に覆われた山々が見えた。

    甲府盆地

   名古屋、神戸の上を通過する。大勢の石友の顔が目に浮かぶ。やがて飛行機は
  高度を下げ、福岡空港に無事着陸した。

4. 【第1日:太陽の島・九州】

 (1)「大宰府八幡宮」
     福岡には出張や部下の結婚式などで何回か来た事はあったが、観光旅行
    は初めてだった。
     大宰府天満宮を訪れると、季節柄、孫の七五三のお参りに付き添ってき
    たと思われる同年代の夫婦がいやでも眼に入る。
     我が家の子孫繁栄は・・・・・・。

 (2)「有田焼」
     有田焼は、別名伊万里焼とも呼ばれ、マイセンをはじめ欧州各地で模倣
    れるほど世界的に有名な焼物である。スエーデンのイットルビーという小
    さな町で、伊万里焼と同じ焼物を焼くのに適した珪長石を採掘する鉱山か
    らイットリウム(Y)を初めとする希元素が発見された。その経緯は、私の
    HPの『Yのはなし』に述べたとおりである。

     伊万里焼の有名店に立ち寄ったが、伊万里焼の古い物は、とても私たち
    庶民の手の届く金額ではいことを十分承知のバスガイドさんから『 皆さん
    ”目の保養”をしてきてください 』、と送り出される始末であった。
     結局、ここでは何も買わず(買えずが正しい)、休憩で寄った「道の駅」
    のフリーマーケットに出品されていた「有田焼のコーヒーカップ」を土産に
    購入した。

 (3)平戸観光
     長崎県に入り、平戸を目指す。平戸大橋ができ、今では陸続きとなってい
    るが、「平戸島」に渡ると、古い歴史を感じさせる雰囲気が漂っている。
     かつては、数万の人が住み、数千人の外国人が闊歩していた町とは思え
    ない静かな町のたたずまいである。
     なんと言っても、観光の目玉は、「聖サンフランシスコザビエル教会」で
    ある。町一番の高台にあり、その下に仏教寺院をも下ろす構図は、往時の
    南蛮文化の勢いを感じさせられる。

    ザビエル教会

 (4)平戸温泉の夜は更けて
     その日の宿は、平戸湾に面したホテルだった。お湯は、海の近くのせいか
    やや塩分を含み、ジックリと温まる。
     ショーを見ながらの夕食は飲み放題となり、地元の特産焼酎「ジャガタラ
    お春」をお湯割でいただく。スッキリした飲み口で、ついついお代わり、と
    なってしまう。

5.【第2日:佐世保から長崎、そして雲仙】

 (1)2日目の朝
     早朝、夜明け前(関東地方より日の出が30分くらい遅い)に入浴。”ジャガ
    タラお春”の酔いはスッキリと醒め、天気も良いし、今朝も快調。
     早々とホテルのレストランで朝食を食べ、バスの出発を待つ。

 (2)「生まれた場所を尋ねて」
     高速道路にのり、佐世保市内に入る。ここは、米軍基地の町で、海岸線一帯
    はフェンスが張り巡らされていて、私が生まれた浦頭がどのあたりにあるのか
    見当もつかない。何でも、海外からの引揚者を受け入れるための施設は急造の
    バラックで、引揚が一段落した後には、取り壊され、現在はその跡地が、記念
    公園になっているだけらしい。
     帰宅後、この話を母にすると 「 私が行かなきゃわからない 」とバアさ
    ん、行く気でいるらしい。

 (3)「長崎市内観光」
     長崎市内に入り、「原爆平和祈念館」を見学した後、名物の「長崎チャン
    ポン」を中心とした昼食をとる。味は今ひとつ。(名物に美味いものなしか)
     長崎市に入る前、会社の留守を守る”○○Girls”のリーダに電話してお土
    産のリクエストを再確認。「ココア入りカステラ」を所望とあったが、見つ
    からず、「チョコレート入りカステラ」を買い込む。
     長崎市から雲仙に向けてバスは走る。途中のみやげ物屋が長崎名物「カス
    テラ」を買える最後のチャンスとガイドさんに言われ、あわてて買い足す。
     ( その夜のホテルでも買えた )

 (4)雲仙温泉の夜は更けて
     雲仙岳のふもとのホテルに到着したころは日も暮れかかっていた。そこか
    しこに、「硫黄」の臭いがただよい「 温泉に来たな〜 」という感じがする。
     団体旅行最後の夜とあり、”カラオケ大会”で夕食の宴は盛り上がる。この
    夜も、焼酎のお湯割をいただく。

5.【第3日:水郷・柳川を訪ねて】

 (1)初めて鉱物採集
     ホテルを出て、「雲仙地獄」を見物する。熱湯が湧き出していたり、硫化水素
    ガスが噴出していたり、「地獄」の名にふさわしい。ガス穴の周りには、現在も
    自然硫黄が成長している。かつての「湯溜まり」には、明礬の結晶も見られ、こ
    れらを採集する。
     今回の旅行で、唯一の鉱物採集、となった。

       
       お湯とガスの噴出              硫黄
                「雲仙地獄」と採集鉱物

 (2)雲仙普賢岳を望む
     島原湾を左に見て、フェリーの多比良(たひら)港に到着。フェ-リーで対岸の
    熊本県長洲港に向かう。フェリーの上からは、雲仙普賢岳が荒々しい姿を見せ
    爆発のすさまじさを思い起こさせる。

    雲仙普賢岳【有明フェリーから】

       (3)水郷・柳川
     福岡県柳川市は、掘割が縦横に巡らされた水郷で、詩人の北原白秋の故郷でも
    ある。早速観光船で水郷を巡る。
     陸に上がって、ご当地名物の”ウナギ”を食す。美味。

    柳川観光

 (4)福岡から羽田へ
     柳川から佐賀県を抜け、福岡空港に到着。羽田空港は強風で、飛行機の離着陸
    に支障がでているとのことで、出発が1時間近く遅れる。
     羽田の上空で着陸の順番待ちで旋回。ようやく着陸し、ひたちなか市に向かう
    常磐線の特急に乗り込むが、強風で倒れた木が架線に触れ、復旧の見込みが立た
    ないとのこと。普通電車で何回か乗り換えて、ひたちなか市に帰ったのは0時
    近くだった。

6.おわりに

 (1) 海外からの引揚者
      佐世保市のHPによれば、海外から佐世保に引揚げた日本人は、次の表の
     ようになっており、私の両親のように昭和21年(1946年)がピークであっ
     た。作曲家のなかにし礼少年も同じころに引揚げた1人であったらしい。

      今回は、団体旅行の制約で、自分の生まれた場所を訪れることはできな
     かった。近いうち、訪れてみたいと考えている。

 

一般邦人

陸  軍

海  軍

合  計

昭和20年

35,326

131,875

5,702

172,903

昭和21年

522,206

400,810

9,097

932,113

昭和22年

190,693

74,976

9,143

274,757

昭和23年

9,756

839

217

10,812

昭和24年

867

4,908

16

5,791

昭和25年

86

3

3

92

合  計

758,879

613,411411

24,178

1,396,468

 (2) 西九州の鉱物
      旅行の前に私のHPにある『 あなたは行きましたか? 』のページを
     改めて見直してみた。そこには、魅力的な産地が並び、その1つでも訪
     れることができれば、と考えていたが団体旅行では無理だった。

      いつの日か、これらの産地を回ってみたいと考えているが、あまりグ
     ズグズしている余裕はない。

No産地鉱物備考
1福岡県長垂リチウムペグマタイト鉱物 
2小峠閃ウラン鉱 
3三ノ岳硫テルル蒼鉛鉱 
4長崎県奈留島日本式双晶 
5戸根鉱山ブラウン鉱結晶 
4佐賀県佐嘉鉱山緑柱石 

7.参考文献

1)福岡石の会:会誌2000,同会,2000年
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