異聞・奇譚 「南極探検」 − 甲斐出身・<FONT COLOR="FF0000">村松</FONT> 進 隊員 − その5














               異聞・奇譚 「南極探検」
            − 甲斐出身・村松 進 隊員 −
                      その5

      明治45年
      (1912年)
      1月17日     7時30分に隊長陸上探検すると云い、上陸せり。
                 8時30分、三宅水夫兼画工を誘い、フラム号訪問のため下船す。9時20分
               フラム号に至り、「船長在船」を確認し、船首から垂らした縄梯子で乗船する。
                船内が広くてきれいなのに驚かされ、ニルセン船長に船内を案内してもらう
               と、機関は開南丸の蒸気式でなくエンジン式で、乗組員に対し娯楽的愉快に
               て働くようになっている船だとの印象を受けた。
      1月18日     荷物揚げ終わったが陸上隊員の任務も決まっていない。昨日までは、隊員
               全部が上陸することになっていたが、ここで上陸するのは白瀬、武田、三井所、
               山辺、花守とのこと。
                沿岸隊は何をするのか不明だが、船に乗っているだけだったら船員でも間
               に合う。もう2人ばかり上陸に加えたほうが良いと考え、「村松、吉野隊員を」、
               と進言するとすぐさまその通りになった。
                ・・・フラム号は安全な沖に出ているが、開南丸は上陸した隊員を回収する
               ため、氷盤が崩落する危険な場所に繋留せざるを得ない。・・・探検隊員中に
               航海の知識ないため、天候に一向無頓着な人は、斯くの如き事業(=南極探
               検)に不適当を私が言うまでもなく、下級船員まで知っている。
                ・・・・村松、吉野両君は、昨日まで船で南極沿岸を調査する沿岸隊だった
               ため、にわかに上陸するに当たり、食料や着衣に忙殺せり。
                午後10時40分に、氷堤に登る道を作りなおすため、柴田、西川、村松が小
               端艇に乗って上陸した。3人共同して新道に着手せり。
      1月19日     1時30分、上陸できる位に道ができて柴田水夫と村松が帰り、1時40分ごろ
               3水夫の手伝う小端艇で、三井所、武田、村松が上陸した。
                次の端艇に、多田君は武田に頼まれた測量器具を積んで持って行った。
               測量する責任者(=武田)は、時辰儀、羅針儀、六分儀などの貴重な測定器
               は、人任せにべきでないのだが、人任せにする武田の技量も知れたものだ。
                2時30分、隊長と吉野が上陸。3時5分、飲料水補給の為、氷を積み込む。
                3時30分、上陸していた手伝い全員が帰船し、氷堤崩落の氷流で危険なた
               め、4時に沖に乗り出す。
                5時に燃料炭を船倉から炭庫に積み替えを始めた。当初の話では、沿岸隊の
               全員と船員が共同で行う約束だったが、守られず寝てしまう隊員もいて、船員
               の間には不満が広がったが事なきを得た。
                午後4時30分、石炭の移し替えを終え、出来るだけ東を目指して進航を始め
               た。

 4.3 「野村直吉船長航海記」沿岸探検〜ウエリントンをめざす

      1月20日     午前3時30分、全ての帆を張った。午後より羅針北北西に向け航走せり。
               沿岸隊は集まって突進隊への不平談が始まった。その多くは、武田に関する
               ことだった。
      1月21日     羅針北北西に向け航走。午前4時、天候快晴で非常に愉快。
                 午後7時、非常な降雪となり、午後8時には吹雪になる。
                 12時、野菜物を食べていないから、壊血病に罹らないよう、「ライムジュス」
               を飲むように命じた。3、4日おきに呑ませている。
      1月22日     午前3時、北西に向け帆走。午前4時、機鑵(ボイラー)の掃除終了。午前8時、
               曇天。12時、雪止んで半晴。
      1月23日     午前4時、羅針北北西に向け航走する。8時30分ごろ、上陸幹部の中で1人
               残った池田農学士にエドワード7世州に上陸するとしたら、上陸するかと尋ね
               ると、「不快にて到底上陸できぬ」、と断言。他の隊員はどうするのか、と聞け
               ば、「皆に聞いてもらいたい」、との返事で、陸上幹部として余りに無責任だ。

               『 我等船員にて沿岸の探検に於て差支なきも、折角乗って居るから出来得
                 る限りの材料得たき為の事なれど一向不得要領であったが、予は船員に
                 勇気の一として沿岸隊は別として、我等は国民の義務を画す上に於て当
                 地付近は何れの探検家も注目せる場所であるから大いに奮闘しても沿岸
                 に船を寄せ、而して上陸せば各国の探検家を驚かす事、其の上、日本探
                 検に未だ曾(かつ)てなき有効と談じたり。之れ船員の快楽とし予は当地の
                 探検に望む事と大なる興味を持ち極力努め居る                』

                ( 船員の任務は操船・人員と物資輸送だが、池田を長とする沿岸隊の行動
                 が要領を得ないので、船員を上陸させ、材料(学術標本)を採集させようと
                 決心した。 −−−−−−−−−−−−MH )

                10時、天気晴。エドワード山脈発見。山腹に2つ、3つ、黒点を認め、これは
               ”地質現われ”(露頭のこと)だから土屋運転士も寄せてみたらと言うので、流
               氷を避けながら沿岸に向かう。
                午後4時30分、氷盤に繋留。土屋運転手と山岳の地質及び鉱石の採取と
               そこまでのルートの安全性を協議し、土屋の指揮で、島、渡邊、柴田が上陸す
               ることにした。沿岸隊長の池田は上陸不可能。寝ていた多田が起き出し、西
               川と口論を始めた。「(こんな大事なときに)なぜ起こさなかった」、ということら
               しい。した。
                午後5時、4人が上陸する時になって多田も同行が許された。各人は若干の
               食料を持ち、多田だけ、目鏡(めがね)を持参した。

               『 順序によれば”一隊員”は、口と仕事には雲泥の差のある一名である 』

                ( 一隊員とは、書記長から一隊員に降格され2次探検に参加を許された
                 多田のことだ。口では勇ましいことを言うが、実行が伴わない、と野村の
                 厳しい評価だ。 −−−−−−−−−−−−MH )

                午後5時30分、橇一台に活動写真器及び若干の食料を載せ、田泉写真技師、
               西川、渡邊(料理人?)が上陸した。後に船より南方一浬半(約2.5km)離れ
               た場所で、写真撮影するのが目撃された。
                野村は、残った隊員と水深を測定し、130尋(約230m)で、海底の泥を採ると
               セメントのようで、唯一の学術標本として標本内に収納した。
                午後7時、土屋運転士は山の露頭と思しき付近に到達し、地質は「御影石
               (花崗岩)」と認めたが、大きなクレバスがあって近づけなかった。海底の泥が
               ここでの唯一の試料となった。

               
                       「エドワード山脈の地質現出と見えた場所」

      1月24日     午前0時30分、酒井運転手以下5水夫がペーングエン鳥捕獲の為上陸。
               午前3時40分、首に黄色い輪のある大きなペンギン(皇帝ペンギン)6羽捕って
               帰船した。
                前日上陸した西川、渡邊が帰船していないので、野村はクレバスに落ちて
               死んだのではないかと心配する。2人は、防寒着を着ていない上に、2食分くら
               いの食料しか持っていない。
                沿岸隊長・池田の責任だと叱責するが、当の池田は腰が痛い、といって動こ
               うとしない。野村は、渡邊、柴田、瘢閨iすぎさき、浜崎?)、島の船員4名から
               なる捜索隊を上陸させることした。気の毒に思ったか、多田も加わることになり、
               午前8時に出発した。
                午前9時ごろ、多田だけがペンギン鳥を持って帰船したが、頭がグチャグチャ
               で標本にはならない代物だった。
                午後8時ごろ、2人の近づく姿を発見、船員を迎えに行かせ、西川、渡邊が帰
               ったが捜索隊の4人は戻らない。心配していると、午後11時40分になって4名
               は無事帰船した。
      1月25日     午前0時30分、総帆をあげて汽帆走。捜索に行った島と柴田が眼が痛い、
               というので寝かせた。日光が雪に反射しているのに眼鏡をつけなかったため
               だ。目薬をさしたが、砂が沢山目に入ったように痛くて、目を開ける事が出来
               ない。両人はこのまま、盲になるのではないかと思うほどだった。雪中を歩く
               時は、黒眼鏡を用いるべきところ、忘れたのが失態だった。
                 ・・・・根拠地に帰る日数の許す限り東方に進入しようと、困難も何も気にせ
               ず、船体の安全に注意して汽走した。
      1月26日     気帆走する。目的とする進路方向は氷海で、船体に危険が及ばぬ範囲で、
               氷山の間を縫う様に航行した。
                午後4時、根拠地に向けて引き返すことにした。
      1月27日     午後1時ごろ、海水の色がオリーブ色をして濁っている。眼病に罹った島と
               柴田は業務に復帰した。
      1月28日     時々刻々風向きが変わって、帆面変換に忙殺された。
                12時、根拠地に戻るには絶好の風だが、この付近を探検する必要を感じ、
               船を波間に漂わせ、天気の回復を待つ。当直の土屋運転士が、「小さな流氷
               と衝突したが、その流氷下部に4つ、5つの小石が付着していたので採ろうと
               したが波風が荒く断念した」、とのこと。
      1月29日    5時に機関を運転し、船首を北北西に向け、帆走する。午後2時、湾内に到着
               し停船。早速端艇を下し、西方氷塊上に大小数個の黒色点々が見えた。これ
               は確かに鉱石だと認めたので、土屋運転士と協議し、土屋、渡邊、釜田(舵取)
               の3人が小端艇に乗りだした。
                此の時、池田農学士が寝巻のまま出てきて、「俺に何で知らせない。俺は
               隊長だぞ」、というので、「兎に角、様子を見てきた上で、準備して行く方が安
               全だ」、と野村が答えると、池田は、「そうか」で終わった。
                端艇に乗った3人が向かった西方氷堤はときどき崩落し、大音響が轟く。
               危険を犯し、氷塊に登り、石片を採集した。

               
                              「鉱石を採集した湾」

                午後3時ごろ、小端艇が帰ってきた。鉱石大小30個余りを持ち帰った。
               鉱石は全部池田を保管者と定め、当人に渡した。
                0時、船員一同、明日はたくさん石片を採ると意気込んでいる。
      1月30日     午前8時30分、小端艇とペーカ艇の2隻を下し、酒井、渡邊、柴田、池田、
               西川、高川が乗り込み、探検と石片採集に着手した。
                午前11時ごろ、2艇帰船。風潮のため、昨日沢山あった氷塊は氷堤に付着
               し危険で近づけず、ようやく20個ばかりを採集した。その内大きなものは約
               20貫目(75kg)あり、石質は昨日と同じ、黒白点々の硬い「御影石(花崗岩)」
               だった。

               
                          「鉱石を採集する船員と隊員」

                昼食を食べ、高川、柴田、西川の3名が再び採集に出た。午後1時、石片
               大小30個ばかり採集して帰ってきた。
                この湾内には大小の鯨が群集し、船体の危険極まりない。捕鯨具を持って
               いれば多数捕獲できるのだが、残念だが観ているしかない。帰朝したら、捕鯨
               会社に知らせてやろうと思った。この湾内には、鴎のような鳥は無数にいるが、
               ペンギン鳥は全くいない。
                採集した鉱石は一種のみで、こうしてほぼ探検を終えたので、違った場所に
               望みをつなぎ出湾する。午後1時20分。
      1月31日     1時ごろより濃霧となる。
                     船員が雑談しているが聞こえる。「ここにいるたくさんの鳥たちは暗くて長い
               冬はどうしているのか」、「冬は食わずにいるのか」、「小さいエビから大きな
               極鯨まで、どうしているのか」・・・・・・。

                『 ・・・当地の研究に付き専門学士により総ての詳細研究を得んとするには
                 ”冬営越年”(越冬観測のこと)の必要あればなり、と思う。・・・如斯き幾数
                 十百年に成る氷堤も破壊して、幾分宛(ず)つ減少するに至るに当ては、
                 後ちに陸地を現出し、貴宝物品の発見者が出ないとも限らずと思ふ者なり』

      2月1日      10時ごろ、船首方向は南西。根拠地は近い。雪甚だしい。午後4時、荒波の
               ため、船体が最大20度も傾く。
      2月2日      午前0時30分頃より、霧と吹雪のため南方向の氷堤が見えない。根拠地の
               入江沖のはずだが一向に見えない。雪が止むのを待つにも、船の動揺と氷塊
               の見張りに油断がならない。
                午後7時ごろ、根拠地のある入江の入口に着いたが、風景が一変してしまい
               皆は「ここではない」、という進んで行く。東方氷堤に沿って、天幕小屋を発見
               するよう船員一同に注意させる。午後10時、帆を全部降ろし、機関も停止。汽
               笛で上陸隊に合図をしたが、天幕小屋も人影も見えないので、なおも進入し
               た。午後11時頃、上陸隊の天幕小屋を発見。ただちに停船し、信号の汽笛を
               長く鳴らす。少し経って、挽き犬2頭が見えた。犬は全部突進用なので、犬が
               いるということは突進隊が戻っていると判断した。午後11時45分、小端艇を出
               して、船員2人と沿岸隊員3人を上陸させる。
      2月3日      端艇で出掛けた5人は、上陸できずに引き返してきた。午前3時、強風と雪で
               開南丸は鯨湾中央に避難した。
                午前10時ごろ、三角波があるが、突進隊員と機材引き揚げのため、入江に
               向かって進む。氷堤上の天幕小屋を見ると、5名が見え、突進隊は戻っている
               ようだ。船が進む方向に、5人も歩いて行く。
                ペーカ艇と傳ま馬船を降ろし、土屋運転士から白瀬に「引き揚げるなら昼夜
               兼行ですべきことと今すぐ引き揚げられないか」打診することにした。また、引
               き上げを手伝うため、船員4人を選抜し、2隻に分乗し開南丸を離れた。
                午後9時ごろ、2隻の小船が帰り、入れ代わりに渡邊水夫と陸上隊4名が上陸、
               天幕小屋に行った。戻ってきた土屋の報告では、「氷堤上にいる内、白瀬、
               三井所、アイヌ2人は天幕に残り引き揚げのための荷造り」、とのこと。
      2月4日      午前3時、引き揚げ入江に進入する。午前4時30分、天幕小屋から荷物を犬
               ぞりで運ぶのが見えた。船員を2艘の傳馬船と開南丸に分けて待機する。
                7時30分、傳馬船で、白瀬、武田、三井所の3名は陸上の指揮者にもかかわ
               らず、全ての人員を残して第一番に開南丸に帰ってきた。この3名を送ってき
               た土屋を指揮者に引き揚げに向かわせた。此処も彼処も多忙を極めている中、
               武田は身体を洗い、白瀬は自室に入り、三井所は挽き犬の始末に再上陸する
               という。

                『 予思ふには、船より土屋、酒井の両運転士まで遣って置く位の危険なる
                 引揚に際し、陸上隊監督者の責任は必要と存ずる訳けなるも、幹部とす
                 三名共々第一(番に)本船に乗り込むなぞとは、其の責任に対し如何・・・・
                  ・・・・隊長の甲板に出たるを幸ひとし、挽犬はどうするのか、と聞けば、
                 三井所さんに行って貰って、記念のため4、5頭持ってこい、其他は毒殺す
                 るのと云って居る。予は可愛共に働いた有効犬であるが、当局指揮者の
                 意見に任かさうと思ふた次第である。                      』

                9時ごろの第2舟で、三井所も挽き犬の始末に上陸した。10時ごろ、2艘とも
               帰ってきた。人は残らず乗り、荷物の引き揚げも終了した。挽き犬は、氷堤に
               並んで、ウワンー、々、々と吠えていて、言うに言えない別れの場面だった。
               「開南丸」に積込んだ犬6頭、氷堤に残した犬は23頭(内2頭はすでに死亡)
                10時30分、出帆準備する。兎も角、無事全部引き揚げたので一安心だ。

                ( 樺太犬21頭を置き去りにしたのは、天候が悪く、犬まで回収する余裕が
                  なかった、と「極」にはあるが、野村の日記からは、最初から数頭だけは
                  記念に連れ帰り、残りは置き去りにする計画だったようだ。−−−MH )

                10時45分、根拠地を出帆する。午前11時頃より天候一変し、雪が激しく降り
               出した。

                『 帰朝せば、専門学士に聞いてみたいと思ふが、私も随分に具の方 *
                 あるから、・・・・・夏の強い日光に照りつけられるると誰でも日焼を受ける
                 事と知って居るが、当地は寒い雪中にも拘はらず、氷上に揚がって居た
                 7名の顔色は実に面白き程ど日焼し、山辺、花守二アイヌ等は日焼て眼を
                 光らせし顔附。此の両人は他より黒い方であるからまだしも、村松君等の
                 白い人に就いて同じく日焼を受け居るに当って、日光の強い夏と弱々たる
                 寒地の日光とに於て日焼に対し密接の関係如何に・・・・・・』

                ( * 「野村船長航海記」では、”詳しい”の意味としているが、”愚と謙遜”
                     だろう。−−−− MH )

                羅針南西少南に向け帆走し、陸上隊員は寝食の職となった。(寝ているか
               食べているかが仕事になった、の意味 −−−−−− MH )
                本船は帰航するが、まだ冬には間があるので、ウエリントン港に直行するの
               も残念なので、エレバス山岳を沖より展望し、ヴィクトリア沿岸に寄せ、鉱石や
               ペンギン鳥を採集しようとその方向に進め、後で白瀬隊長にこの目的を話すと
               同意した。

                『 本探検の大必要に付き、余白置き、後日突進隊の里程及び進路の記載
                 其他事項を記す為なり。隊長に聞けば三井所君は記録係りであるとの事』
                  < 日時・里程・方針(方向:「不明」となっている)・適要 > の表

                ( 航海日誌に準じた記録だったので、この部分は後から追加記入した事を
                  明らかにしている。某研究所の「実験ノート」とは大違いだ。 −−−MH)

                『 我等船員の仕事ではない。併し乍ら天測を執行するに必要なる方向と
                 時間及び里程に関して大いなる驚き。・・・海里とせば、大約162海里となり。
                 如何なる方進であるか突進中の偏差は幾何を使用せるか量測は如何なる
                 方法に行いたるか。時辰儀の遅速差は幾何であったか。又橇運搬中の貴
                 重器の保存方法や其他探検調査材料に就き、其の効は如何であろう。
                 只だ南緯80度5分まで行って来たくらいで学術探検の趣旨に相当するや
                 否や。・・・・・』

                 ( 南極探検では南極点到達が目標で、南極点は南緯90度、経度は東経
                  西経0〜180度が一点に集まった点になる。アムンゼンに先を越されたス
                  コットは、「より正確な南極点」の決定に時間をかけたことが記されている。
                  白瀬隊にとって、南極点は手の届かない遥か遠くで、”出来るだけ南極
                  点に近くまで行く”のが目標だった。
                   そのためには、緯度・経度の測定が重要だった。現在なら、GPSがあっ
                  て、簡単だが、当時は、天測(天体測量)が最も精度の高い測定法だっ
                  た。
                   開南丸には天体位置の暦・「海軍航海年表」があり、太陽・月・恒星の
                  グリニッジ標準時の位置を知ることができた。グリニッジ標準時を知るた
                  め、精密な時計・時辰儀(クロノメータ)を何台か持って行った。どんな精
                  密な時計でも、進み・遅れの誤差があり、これが緯度・経度の測定誤差
                  になるため、野村はそれらにも配慮している。

                   「突進隊」が到達したのは南緯80度5分とされているが、野村は、どこま
                  で南極点に近づいたのかを内部検証しようとしている。
                   上記の表の日々の里程を合計すると74里80町45間となる。1里=36町、
                  1町=60間、1間=1.8m、1里=3,927m、1海里=1,852mである。これから
                   74里80町45間=76里8町45間=76.243里=299.4km=161.7海里
                   これが大約162海里の根拠である。
                   海里というのは緯度・経度1分の地球表面での長さから考えだされた
                  単位だ。地球の円周を大まかに40,000kmとすると、緯度・経度1分の地
                  球表面での長さは、40,000/(360×60)=1.852kmとなる。
                   仮に「突進隊」が南極点に向かって一直線に162海里進んだとすると、
                  162分=2度42分進んだことになる。開南丸が碇泊した場所が、南緯78度
                  33分、開南丸から根拠地まで1海里だったから、78度33分+1分+2度
                  42分=80度76分=81度16分が到達できた最高南緯度だった。
                   実際には、アチコチ寄り道していたので、南緯80度5分が到達最高南緯
                  度になっている。 −−−−−−−−−−−−−MH )

      2月5日      天気暴れている。何れ凪日和もあると信じて、ビクトリア州沿岸を目指す。
      2月6日      午後2時ごろ、甲板上の積雪1尺(30cm)以上となる。挽き犬の飲料水、其
               の他普通用水として貯蔵する。午後4時、鯨の群れが船の周りに集まって来た
               ので銃で撃って楽しむ。
      2月7日      天気良好で愉快に帆走。

                『 午後10時頃より降雪となる。其の雪は、梅花形のものと三角形のものと
                 である。     』

                  
                                「南極の雪の結晶図」

      2月8日      不快のため風邪薬を飲んで横になったが眠れないため、起き出して種々研
               究を始めた。羅針盤が力なげに動いているのは、「南磁極」方面に近付きつつ
               あるためではなかろうか。
      2月9日      午前0時2分30秒のとき、太陽と月との間隔は、107度43分なり。・・・・・・・
               南極以外では見ることができない珍無類の現象で、開南丸での航海ならでは
               経験できたことで、非常に愉快だ。

               
                          「太陽と月を視野内で見る」

                ( 日本でも、太陽と月を同時に観察することはでき、この現象を『二天』、と
                 呼ぶと記憶している。ただ、日食などの特別なケースを除き、同一視野内
                 で見た記憶はない −−−−MH )

                午後10時ごろから、海豹(アザラシ)の脂身を燃料にして、汽帆両走とする。
      2月10日     石炭不足のため、3寸(10cm)角くらいに切った海豹の脂身を燃やしてみた
                ら、石炭の火力よりも少ないが半分以上はある。しかしながら、その臭いが
                船内に充満しお話しにならない。
      2月11日     「紀元節」。本日は思い出多い日だ。昨年のこの日、英領ニュージーランドの
               ウエリントンを出帆した。昨年、南極の一部は英国の領土だったが、その所有
               権争いにわが国も加わることができるのか、我々一行の苦心を汲んで欲しい。
                午後11時30分、陸山を発見。見おぼえがあるコールマン島に到着だ。

               
                          「コールマン島発見」

      2月12日     午前4時、少量の降雪、荒波で船体動揺激しい。午後12時、天候降雪。
               「突進隊」として何の土産一つない。寄付金を寄せてくれた国民に南極大州の
               記念とする土石あるいはペンギン鳥の一つくらいを返礼に贈るのは当然で、
               そのため北西に進むべき進路を西に取って、コールマン島に来たのだが、この
               悪天候では船を寄せる事ができない。せめて風向きが変わってくれればよい
               のだが・・・・・

                『 隊員連は相変わらず寝食の仕事、・・・・・・・此の如き事業(南極探検)に
                 当るべき人物は、当時に(の)古新聞を見るに至り、報知新聞かと思ふ其
                 の記事曰く、南極探検隊長に付き郡司大尉然り(適任)、大田大佐然りと
                 あり。斯くの如きに国民一同承知あられるに就いては深く言わぬが、現在
                 の兵隊さん(白瀬)や農学さん(池田ら)では事業の性質上余り頼り少なき
                 もの(頼りになrない)と思ふべき。
                  今後は軍人ならば海軍、学者ならば天文学士の必要なり。此の点より
                 見るも日本の海時思想は欧州辺より一般の人士に行き届いていないこと
                 と思ふものなり。     』

                ( 帰国にあたって、野村の本根が吐露された。−−−−−MH )

      2月13日     悪天候が続き、2、3日待たないと陸地に寄せられないだろう、と思う。
                石炭が残り少なくなり、船が軽くなり喫水が高くなっている状態で暴風と戦う
               難しさは海員なら理解してもらえるが、この知識のない隊員に相談しても仕方
               がない。
      2月14日     天候昨日と変わらず。午前4時、雪で先が見えないくらい。午前4時20分頃、
               寝ている白瀬隊長室に行き、「接岸しようとしているが悪天候で、早期の天気
               の回復は望めない」、と話すと、先生(白瀬)曰く、「突進して帰っきて乗船する
               までは元気だったが、その後は食事も進まず何となく不快だ」、という。隊員も
               不快の人が多いため、ニュージランドのウエリントンに直行しよう、と決定した。
      2月15日     羅針北北西に向け大しけの中を進む。高くて大きなウネリで船は大きく傾く
      2月16日     天候は前日と変わらず。大氷山を見る。
      2月17日     風は弱まった。午前9時に機関使用。ペーカ艇は不要になったので、壊して
               燃料にする。
      2月18日     0時半頃、濃霧となり風弱いがうねりのため船は北西に流される。午前6時頃
               久しく見なかった雨を見る。午後2時ごろ、船の周りに多数の信天翁(アホー鳥)
               が来た。パンの小片を与えると食べるので、釣り針に缶詰肉をつけて呑みこん
               だところを手繰り寄せる。餌にだまされて命を奪われるアホー鳥こそ災難だが、
               釣る者たちは喜んでいる。
                捕獲数は、安田大工6羽、福島賄夫2羽、村松、西川、吉野各1羽、合計11羽
               だった。大きいのは羽を広げると9尺5寸(3.0m弱)。
      2月19日     太陽が沈まない白夜が続いていたが、4、5日前から暗夜の時間帯がある。
               午前1時頃、初めて星が見えた。
      2月20日     うねりのため、船の動揺が激しい。

                『 白瀬中尉は食料の点に付き予に相談せるは残品をして分配するに当り、
                 ・・・賄長は不公平な分配であるからと云いしも、・・・・・・。賄長の言によれ
                 ば、隊員の方へ最も良い物品斗り選び取り、其の残りを(船員に)渡すとせ
                 り。
                  ・・・・武田君等は「船員(は)給料を取るが我等(隊員)は無給であるから、
                 良い物を食うのは当然の事だ」、と終始言っている。・・・・無給なると言ふ
                 武田其の人は出帆当時学術部長だとて1,400円斗り白瀬隊長より取ったと
                 云ふ咄しを当時隊長書記多田君は良く知って居るとの事。・・・』

                 ( 食料も乏しくなり、残りを分配したようだ。その方法について、隊員と
                  船員とでいざこざも起きたらしい。”食い物の恨みは恐ろしい”では片付け
                  られない根深い問題を抱えた探検隊だった。 −−−−−−MH )

      2月21日     午前4時、前日と同じで、高い大きなウネリで船体が大きく傾く。
      2月22日     午前2時頃より天気回復に向かうが船体の動揺は収まらず。南風を受け、
               帆走する。
      2月23日     天候は前日と同じで不定。ただ、気温は暖かくなった。
      2月24日     天候は不定だが、氷山は見当たらず、氷海を脱したのは何よりの喜びだ。
               午後12時、少し雨。
      2月25日     スコール来襲。午後晴雨計が急激に下がり、天候悪化に備える。
      2月26日     積荷が軽くなり、喫水線が高くなり、船の舵が思うようにきかず、帆を掛けた
               り、しまったりに忙殺される。
      2月27日     『 今後は別帳に表示す。 』( 、とあるがここで、終わっている −−MH )

                 つづく
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