異聞・奇譚 「南極探検」 − 甲斐出身・村松 進 隊員 − その4














               異聞・奇譚 「南極探検」
            − 甲斐出身・村松 進 隊員 −
                      その4

1. はじめに

    白瀬南極探検隊に参加した甲斐國(山梨県)出身の村松 進隊員の足跡を調べて次のページ
   で紹介した。

    ・      異聞・奇譚 「南極探検」
     − 甲斐出身・村松 進 隊員 −
           その3
    ( Strange Stories and Curious Tales on Antarctic Exploration
     Susumu Muramatsu from Yamanashi Pref.
          Part 3  )

    ・      異聞・奇譚 「南極探検」
     − 甲斐出身・村松 進 隊員 −
           その2
     ( Strange Stories and Curious Tales on Antarctic Exploration
      Susumu Muramatsu from Yamanashi Pref.
          Part 2  )

    ・      異聞・奇譚 「南極探検」
     − 甲斐出身・村松 進 隊員 −
     ( Strange Stories and Curious Tales on Antarctic Exploration
      Susumu Muramatsu from Yamanashi Pref. )

    これらをまとめるに当り、綱淵 謙錠の「極」を参考にさせていただいたが、その底本は、多田の
   日記や『南極探検私録』(明治45年7月30日)と『南極探検日記』(大正元年年8月1日)の2冊、そ
   して後援会が出版した公式記録ともいうべき『南極記』(大正2年12月)などだった。
    白瀬南極探検隊の隊員の書いた記録には、もちろん白瀬自身の『南極探検』(大正2年1月)も
   あるが、開南丸船長・野村による『野村直吉船長航海記』(平成24年5月)がごく最近公刊された
   ことを知った。

    村松は第一次白瀬南極探検隊では、機関士として野村船長の指揮下にあったわけだから、
   村松に関する記述があるはずだと思い、山梨県立図書館から借り出して読んでみた。
    野村が後世に伝えようと、探検から帰った後に「日記体の記録」と「水彩画」を書き残した。これ
   が、およそ100年後に公刊されたものだ。村松の名も散見され、新しい事実を知ることができたが、
   白瀬や学術部員などの言動が細かに記録されていて、白瀬南極探検隊の実態をあますところな
   く伝えている。
    また、白瀬南極探検隊の鉱物・岩石採集に関して、野村自身が描いた水彩画とともに一番詳し
   く記述してある点でも貴重だ。

    ミネラル・ウオッチングでも、訪れた日の産地の状況や観察できた標本などを記録して置くことが、
   いかに重要かを改めて認識させられた。
    ( 2014年3月 調査 )

2. 野村船長 略歴

    野村 直吉は、明治になる前の年、慶応3年(1867年)、加賀国羽咋郡一ノ宮村((現石川県羽
   咋市一ノ宮町)で生まれた。父や兄も北前船の船頭だったという。学歴は不明。青年期は、兄と
   同じように、同郷人が経営する大坂の海運業・西村屋の船に乗っていたと思われる。
    明治36年、勉学のため上京する。本人の記録よると、明治37年、徴兵のため一旦青森に帰り、
   日露戦争では御用船に乗組み、その功績で勲六等瑞宝章を受けた。
    明治42年、長崎の高等海員養成所に通いながら努力を重ね、5月26日に甲種船長試験に合格
   し、免状を取得した。

    明治43年6月、白瀬南極探検隊員募集を「萬朝報」で知り、「給料は望まず」、と言って船長に応
   募し、自らも南極探検実現のため準備に奔走した。探検船の調達が難航した。10月、ようやく郡
   司大尉から譲り受けたのは、3月に進水したばかりの、199トン、3本マストの漁船「第二報效丸」
   だった。南極の氷海航行のため補強や蒸気機関の取り付けを行った403トンの木造機帆船「開南
   丸」は、明治43年11月29日に東京芝浦沖から南極に向けて出港する。
    野村船長は小さな木造船「開南丸」を操り、南極圏に入ったが、すでに冬を迎え氷に阻まれシド
   ニーに引き返した。一度帰国後、明治44年11月、再挑戦のためシドニーを出港し、南極に向かう。
    明治45年1月に南極ロス海に入り、16日「氷堤」に無事接岸した。このとき、ノルウェー・アムン
   ゼン隊の「フラム号」をお互いに表敬訪問した。
    白瀬隊長以下の「突進隊」が上陸してから「根拠地」に戻るまでの間、開南丸は周辺海域を調
   査した。「突進隊」が戻り、荒天に追われるように荷を揚げ、2月4日に鯨湾を発ち、ニュージーラン
   ドのウエリントンを経由して6月20日、一人の死者を出す事もなく、東京芝浦に帰還した。

    帰国後は、遠洋航海の船長等を歴任したが、大正11年病気のため汽船会社を退職。昭和8年
   病気のため東京の自宅で亡くなった。享年67歳。

    
          野村 直吉船長

3. 「野村直吉船長航海記」の刊行経緯

    野村の出身地にある「羽咋市歴史民俗資料館」に「航海記」の原本が非常に良好な状態で保存
   されている。同時に、野村が書いた水彩画を含むスケッチ類、航海に使われた海図(1909年=明
   治42年英国製)なども残されている。
    航海日誌は、航海中の時々刻々の進路・船速・気象などを記録した業務日誌だ。1) 英文
   2) 過去形で 3) 当直者が書く などのルールがあるようだ。現在残されている原本は、

   1) 日本語で書かれ、英語は「曜日」、「外国の固有名詞」、"noon"、などの特定の単語だけ。
   2) 言文一致体でない箇所がる。
   3) 書くのは野村船長か土屋一等機関士だが、同一人(野村)の筆跡である。

    このような理由で、残されているのは「航海日誌」ではないので、出版にあたり、『野村直吉船長
   航海記』、としたようだ。

    平成24年(2012年)は、白瀬南極探検隊の「開南丸」が東京芝浦に帰着した明治45年(1912年)
   から100年目にあたるところから、「開南丸」の「航海記」を出版委員会が翻刻刊行した。

    野村船長は、「航海記」、「航海日誌」のほかに、白瀬南極探検隊に参加して出発するまでを
   「南極探検日記」(私記)として残している。その大半は当時の新聞報道の記録であるが、野村が
   船長として南極行を志願し、白瀬や多田に会う経過や「開南丸」を入手・改修した経過など、野村
   船長しか知りえない貴重な証言も、『野村直吉船長航海記』には記録されている。

4. 「野村直吉船長航海記」に村松の足跡をたどる

 4.1 「南極探検日誌」
      野村船長は、「航海記」、「航海日誌」のほかに、白瀬南極探検隊に参加して出発するまでを
     「南極探検日記」(私記)として残している。その大半は当時の新聞報道の記録であるが、野村
     が船長として南極行を志願し、白瀬に会う経過や「開南丸」を入手・改修した経過など、野村船
     長ならではの貴重な記録も、『野村直吉船長航海記』には記載されている。
      

  (1) 南極探検隊入隊から南極探検発表演説会

      明治43年
      (1910年)
      6月3日    我は南極探検に附属せる船に志すその動機は、明治43年6月3日の朝7時頃、
              「萬朝報」新聞を見るに、白瀬中尉(陸軍輜重兵(じちょうへい))は300トン位の
              帆船を使用して出掛けることを企て居るとの記事を見た。

               ( 当時、野村船長は、日清戦争で捕獲し、日本海軍に編入された「鎮遠」の
                秀島艦長宅に寄寓していた )

      6月23日    築地にある報效義会へ行き、郡司氏に面会を乞うが、夫人によれば、露領の
              カムサッカー(カムチャッカ)へ出漁中とのこと。白瀬中尉の居所を聞くと、荒氏が
              「同人は早くから本会と無関係になり、このごろは南極探検を企てておる様子、
              有楽町の東邦協会に行けば判明する」、とのこと。
               東邦協会で、「ほど近い活版所・河合と云う所に居る」、と教えられ訪れて、
              白瀬、居合せた多田と面会する。
               「探検隊一行に加わって見たいと思うが如何」、と話し、予の履歴書を見せた
              とき、「・・・船長の希望人なき為大いに苦しんで居る所、之れで充分運動も出
              来る」、とまた祝ひ。
               多田恵一君は本業の運動を遣って居る様に見受けたり。

               (多田君と)白瀬中尉の住宅を出て、日比谷公園の辺りで「ポケット」と(題する)
              小雑誌の如き一冊を貰ってみれば、多田製とあり、内は風説や日露戦争の勲
              章噺しやら取り止めなき小供の読むべきもの(と)一人で笑った位の本であった。
      6月28日    白瀬氏を訪うに、盛んに探検事業の計画を語り居る。又神田方面に南極探
              検事務所を設くるとの事。その設備が出来たら毎日事務所へ出張して船や船
              員の執務をして呉れと依頼せり。予は兎も角、此の依頼を承諾す。
      7月1日     白瀬氏の発状は到着し、此の趣きは同月5日午後1時、神田区「錦輝館」内に
              於いて南極探検発表演説会を執行するに付き、同月3日中に本郷区・「成功社」
              まで出張して呉れいとの書面なり。
      7月3日     同社(「成功社」)に至り、同社は村上俊蔵氏の住宅なり。・・・此の所に居る
              人員は、主人の村上、同人の神谷、・・・多田恵一、白瀬矗、・・・・の諸氏が準
              備の協議中で其所へ予が加入し、南極探検に要する船舶噸数及乗組人員其
              の他航路の説明を述ぶるに当り、神谷氏は予の航海表を○○たり。堀内氏は、
              演説当時(当日)は制服を着衣し(て)呉れと云ふやら、航路の海図を作成する
              やらで非常に忙しくなった。
      7月4日     「成功雑誌社」村上氏宅に出て、航路の図案及び演説の概略を打ち合わせ、
              その材料出来、夕食を馳走になって帰宅す。
      7月5日     午前8時頃、村上家に行き、航路の略製図を持ち、神田「錦輝館」に至り、
              多田君は用意し居るに会し、・・・・・白井、・・・・白瀬、村上の諸氏来る。
                午後1時と云ふにも拘わらず、10時頃より聴衆のぎゅうぎゅうと詰め寄りたれ
              ば、入場の混雑を防ぐため、来衆を1列とし同館前に整列せしめ、順次入場せし
              むる事とす。件(くだん)の行列は同館前にて二重、三重となり、高等商業学校
              の方に迂回し、更に錦町停留所に至っても尽きず、定刻頃には満場立錐の余
              地なき迄に詰め込み、然れども館前の行列は跡より跡よりと押寄せ、殆ど停止
              する所を知らず。警官の監督の下に、忽ち満員となり、尚数百の群集は空しく
              館外に立ち往生の盛況を呈したり。
               <中略>

  (2) 南極探検発表演説会での野村直吉の講演

       『 予は南極探検船の船長を約した為め、発表旁々(かたがた)、公衆の目前に立つの
        止むなき次第で、・・・・然れども、自分の望むと行ふべき大体を諸君に述ぶるとす。

        ・・・・白瀬中尉の発起として南極探検事業を行ふとの事、私は以前より航海に興味を
        持ち、何でも余り人の行かない所の航海を遣って見たいと思う。・・・・・・・・
        ・・・・此の探検に取っては日本の勇勢を各国に発表すると共に、・・・・。・・・船舶と航海者
        の技術を各国に表して置くべきは勿論、・・・・南氷洋の航海といへども、之に使用すべき
        船は200噸以上5、600噸積の船舶で足り、構造は木船を要す。・・・・・・・。
        ・・・・・・・・・・・
          茲(ここ)に掲げ置きたる南極大陸へ向け横断する予定航路の略図を発表す。
        ・・・・南極大陸沿岸、 Ross Sea内 McMurdo 湾に達して、白瀬一行の陸上隊員を上陸せ
        しめ、然る後係る海又海岸の山岳および氷海の実況を出来る限り調査し、時の模様に
        依って氷海を脱出するか南氷洋を離れて良港へ避難し得るかはまだ不明である。
         終わりに於いて一言しておきたいのは、大変危険な航海で到底出た以上は助からぬ
        ものと思うか(が)、諸君に対し案事出す(案じ出す:心配する)と限りの無いものである。
        我は約束してより身命を賭すといえども、何に(も?)慎重を重ね注意する覚悟であるから
        諸君は船と業(ごう:善・悪の行為の総称)航に出掛ける人命だけ私に任せて、探検に要
        する資金だけの尽力を願い、発会式の為、いささか不練の私は述べおく次第である。  』

       ( 野村が南極探検に参加した理由は、”余り人の行かない所の航海を遣って見たい”、と
        いう冒険心だった。それは自己顕示のためでなく、”日本の勇勢と船舶・航海者の技術を
        世界に示したい”
、という想いだったのだろう。
         それを裏付けるかのように、”船と人命だけ私に任せて”、と『危機管理』、にも慎重に
        配慮していることが読み取れる。

         時に明治43年(1910年)、茨城県日立銅山で小平浪平が外国製の電気機械の設置や
        修理に明け暮れる中で、『 わが国の産業発展のため電気機械を国産化することが不可欠、
        日本人にはそれができる 』
という思いがつのり、私の古巣・日立製作所を創業した
        年でもあった。

         ・日立製作所創業者・小平 浪平と鉱山
          ( Namihei Odaira , Founder of Hitachi Ltd. and Mines , Akita & Ibaraki Pref. )

         ”明治”、という時代と人を感じる。 −−−−−−−−−−−−−−−MH )

       多田の『南極探検私録』(明治45年)に、発表演説会での野村直吉船長の発言が掲載され
      ているので引用する。

       『 今回の航路について、初め白瀬氏からは、中途シドニーに寄港すべしとの注文であり
        ましたが、自分は経験上この方向に針路を執る時は、北緯2度より南緯20度に亘(わた)
        り東より西に流るる潮流に乗せられ、頗(すこぶ)る危険なと思う故に新西蘭(ニュージー
        ランド)に寄港することに相談しました。・・・・・・・東京湾よりマックマード迄の総航路は直
        航にすれば7,400海里(1海里=1,852m、13,700km)で、一昼夜速力80海里【150km)と
        せば、約90日にて達する積りです。                                』

 4.2 「野村直吉船長航海記」〜南極上陸まで
      「開南丸」船長・野村直吉は、第二次白瀬南極探検の第二次航海における、明治44年11月
     19日シドニー出港から明治45年3月23日、ニュージーランドのウエリントン入港までを日記形式
     で記録を残している。
      これを順にめくりながら、村松と白瀬南極探検隊の足跡を追ってみたい。

      明治44年
      (1911年)
      11月19日    第二回の南極大陸沿岸に向け豪州シドニー港を出帆。・・・・・・(ニュージー
               ランドの)Auckland(オークランド)島の北端に向ける航路を取り帆走せり。
      12月3日     目的とする同島発見。
      12月8日     北風頗る強く起こったが為、寒さ増加し、船は順走(追い風)で良いが海面
               の波浪と天気密霧に覆罩め(おおいこめ)られ、前航の経験に依れば氷山の
               流るる所に近寄りたるに就き、注意を怠らず航走を続く。
      12月10日     昨日より本日に当って夜なき昼ばかりとなり、・・・・・
      12月11日     多数の流氷海となりしが、幸いにして夜なき昼ばかり航走する都合が良い。
                 本日より機関を使用して帆と両走とし目的地方へ流氷を避けつつ進航し、
                此の現所の模様を写真・絵画・及び活動写真にて撮影せり。
      12月12日     ・・・針の如き降雪。・・・・就いては、測量と見張りに最も注意を要し、然れ
                ども大胆と細心の注意とを利用して居らねばならぬ航海である。
                 ( 地球の南極と磁気の南極とはずれているため、羅針盤の指す方向は
                  誤差が大きくなるため、太陽の位置をもとに緯度経度を測定する天測が
                  重要になる。流氷と衝突しないよう、見張りも怠れない。−−−−MH  )
      12月23日    ・・・防波堤の如き上部が真平らかなる大氷山に始め遭遇したる・・・・
      12月24日    豪州シドニー滞在の英国人デビット教授より聞きたるとて、白瀬中尉・武田・
               池田の陸上幹部員から航路上の注文を予の元へ云ふて来た。我の意見として
               日本人の仕事の上に置きて日本海員の代表の上に於ては、他国人の説教を
               容れて盲従(する)のは甚だ以て卑屈である。航海上の参考に資するには足
               るが、直ちに其の説教通りの実行は苟(いやしく)も船長として此の船に居る
               以上、又相当の自信を有して居るが為め到底採用は出来ぬと断乎として拒絶
               し、後ち再三の咄し(はなし)が在ったが予は頑固にも其の説を容れなかった。

                ( 第一次探検の時にも、このような野村の態度が白瀬はじめ陸上幹部の
                 気に入らず、『野村排斥』問題になったのだろう。 −−−−−−−MH )

      12月29日    ・・・漸(ようや)く、満張せる氷所も稍や(やや)緩和して来た箇所を発見し、
               早速この機を逸すべからずと南方に向け進入せる・・・・・・・

      明治45年
      (1912年)
      1月元旦     実に芽出たき祝すべきであるが、天気は荒し。・・・・朝9時頃、白瀬中尉は
               元旦の式を引期せる事に相談に決したりと村松書記の報知あり。
      1月3日      ・・・・・・午後1時、天気良し。南極大陸州を発見し、為め引期せる元旦式を
               執行に附、大騒ぎ乗組一同中室上に集合し居る姿は実に滑稽である。・・・・
      1月4日      ・・・・・・正子(5日の午前0時か)、太陽測高度は天頂北5度11分なり。其羅
               針方位北東少北、之に対する羅針誤差112度4分45秒東あるを知らずして、
               先きに定期汽船にて帰りたる武田学術部長や白瀬隊長なる人等は、予の針
               路に対して、「船長は北方に進航して居る」と云ふて居たが、其の咄し(はなし)
               の通りを当時の新聞に現わしたものなり。斯くなる言語は、我が海員諸君の
               信用上にも係る為め示し置く次第なり。

                ( 南極では北に太陽が見えることがあるので、太陽と反対方向(つまり南)
                 に向かっていると、北半球の感覚では北に進んでいるように見える。第二
                 次探検からウエリントンに帰着した後、シドニーから定期汽船「日光丸」で
                 「開南丸」より先に帰国した白瀬や武田が、「船長は北方に進航して居る」、
                 と話したことが新聞に載ったことから、自分の正当性を述べ、暗に白瀬や
                 武田の極地科学の無知を暴露している。

                  隊長以下、学術部員(陸上部員)の資質に野村船長は疑問を持っていた
                 記述がこれから先も再三見られる。 −−−−−−−−−−−−MH  )

      1月5日      本日は、前航(第一次探検)の最高緯度にて、豪州へ引返す運命に運命に
                立ち至りたる付近。・・・・・南極州を展望し、天気は快晴静穏なる為め記念
                撮影の総員寄(り)集(まり)上甲板に於て普通(スチール)写真を取りたり。
                又後ち各一名毎の同写真をも撮影せり。活動写真にて現われるもの即ち之
                なり。

                 ( 一人ひとりの写真も撮ったので、村松のも撮ったのだろう )

                 本日は好天気に就き、非常に興味を以て空地の研究必要と雖も学者は
                諸君の御承知の通りなり。予は面白き感想が浮びしと之等の知識なき為め
                適当学者の必要あると信じ、相当学士を乗せ再挙を行ひたき感に打たれた。

                 ( 野村船長は、紅色に染まる雲焼けや「虹」など、南極以外では見られな
                  い自然現象を水彩画に残している。これらの空地(単に空か?)で起きる
                  自然現象について科学的な解説ができる学者がいて欲しいのだが、今
                  の顔ぶれでは望むべくもない、と諦めて、”再挙”に夢をつないでいたの
                  だろう。 −−−−−−−−MH )

      1月6日      ・・・・・本船燃料炭(石炭)の少なき為め大抵半速力を使用し、流氷の多き
               所邊(辺)にては少速力を用ゆ。半少両汽力に対する費用炭一日平均0.84噸
               の割合にて使用したり。用鑵水(ボイラー水)は海水を用ゆる為め、汽鑵に最
               も注意を與(あた)ふ事を命ず。而して帆走に適する場所ある場合に汽鑵掃除
               の時日を與(あた)ひ。
      1月7日      本日も無風。・・・・・汽走を続け甲板上には氷結ケ所多き。特別良い凪なる
               為め、船内清潔法を命じ不潔部を洗浄せしむ。
                ・・・・・一、二の下級船員にも空雲に興味を持って腕望(耽望か?)している。
               其の咄しを聞き入るに「学術部長は学術的とか詩の材料とかに見れば良いの
               に、毎日寝るのと食うのとヲマケに人の批評を云う事と来たらお咄(に)成ら
               ぬ」。一方の船員は「夫れが日課だ」と云い、又一方の者が「口千倍(手より
               口だけ)にして実行はできるものか」との咄しを予は遠聞したのも本日の天気
               の一種としたのである。

                ( 下級船員の口を借りて、武田学術部長の自堕落な船内生活ぶりを伝え
                 ている。”船内清潔法”もこのように不潔な陸上部員の為に発令したのかも
                 知れない。 −−−−−−−MH )

      1月8日      ・・・・・・午前11時頃より時々刻々、細小殆ど針の如き降雪。・・・・・気圧の
               低する為めか乗組員の大部は苦痛を覚ゆ。之れ畢意(畢竟の誤植か:つまり)
               空気の希薄になりたる原因ではあるまいか。此の理に就いての感想は前航
               二七.九〇の晴雨計(気圧計)(七百六粍.六六)の低気圧のときにも斯の
               如き状況を経験せし結果なり。之等は医術法に関する事と雖も、併し船員に
               於ても医術の心得置くべきものなれば参考として表す。
      1月9日      ・・・・・・・・午後8時頃の降雪は相当なものにて、此の雪の形状は砂の様と
               前述の縫い針の如きなり。・・・・
      1月10日     ・・・・・・・・午前10時頃、流氷は薄くなり、且つ天気恢復するに就き、総帆を
               展し、汽帆両走にて羅針々路北々東向け航す。
                ・・・・・・・午後2時頃に陸上隊員一同へ南極氷堤の見へたるを喧傳せり。此
               時の総員は如何に感じたか否やは別として予は目的とする場所を目撃したの
               で常と打って変った愉快々々なり。尚ほ進めて氷堤の形状を確かむる必要に
               努めたり。始めて発見したる略図下の如し。(図省略)

                ・・・・この小船にて遥々(はるばる)南極地に至りし事即ち官民諸産の同情
               に依りたる次第如斯同情に対し我々の責任如何に依て成るか成らぬかを各
               国は環視(監視)し居る運命に立ち至り、この成否の境目目前に於て予の決
               心を愚か狂か一向不明の者なると雖も転合の精神上面白き一詩が出来まし
               た。( いつものように意訳を添える −−−−MH )

               斯 身 死 此 船 不 育
               この身死なばこの船育たず

               八 千 里 程 以 何 酬
               八千海里の道のりに何をもって報いよう

               客(容?) 易 無 汚 健 児 交
               かんたんに健児の交わりを汚すなかれ
 

               雪 風 埋 骨 南 極 横
               雪と風に骨を埋め、南極に横たわる

               人 間 恩 愛 斯 心 迷
               人々の恩や愛情を感じ、心が迷う

               開 南 奮 闘 破 囲 還
               「開南丸」よ、奮闘して囲みを破って還れ

               午後10時30分、太陽高度10度12分と始めて発見其の侭を下に画く。

               
                    「スコット大佐の航海記録に依り、
                  南極沿岸に生じる虹なるものと確信せり」

      1月12日     ・・・・・・・・陸上隊は白瀬中尉以下幹部たちは3時過ぎ又以前より決定せる
               事を変更と云う。毎度の事なれば又空論を始めたかと思う。陸上突進隊は
               30日間歩程と沿岸隊は突進隊と共に上陸して沿岸探検日時を10日間としたが、
               両方とも実行は出来得るかどうか疑問だ。兎も角、後にて判明すると思ふて、
               我等は氷流を避くるに困難せり。・・・・・・
      1月13日     午前1時過ぎ、先方に流氷の薄き場所見へたる(に)付き、僅間と雖も非常
               に込んだ集氷地に止むを得ず突進して之を破りつつ進入せり。
                ・・・・午前9時頃、陸上隊白瀬及び武田君は事実とは受取れぬ、若し実際と
               せば幹部人と認むる事のできない事を云う。其言語を委しく云えば幾許もある
               が、大略とする訳は到底上陸の見込みなき。而して方向に於ても不確定なる
               にも不拘、陸は最も近いからいっそ端艇(はしけ)に乗って行かふという事に
               就て、まだ上陸の見込みは余に就かぬ所に端艇に乗って何をすると聞けば
               何に見聞する氷塊をも探検であると云ふに就いては驚かざるを得ぬ。乗って
               いけば直様死ぬに決まって居るは当然と思う。・・・・・・
      1月14日     本日に至るも前日以上な危険なる氷海であるが極力南方に進めし事に盡
               力し居る。・・・・・・・・・・・
                 午前3時頃、船員の労を慰さむる為め、停船し海豹(アザラシ)や余り多く
               居らぬがペーグエン鳥の捕獲を始めた事が喜び。小端艇に乗り行くが、容易
               に氷の為め操縦困難なると雖も漸く達し、海豹1頭捕り得て帰りし後ち進航す。
                ・・・・・・・・・・
                8時頃又停船して、捕獲に従事せり。此のとき、海豹2頭とペーグエン鳥1羽を
               得る。午後7時頃、又停止して、海豹3頭にペーグエン鳥3羽を捕りたり。・・・・
      1月15日     ・・・・氷海の状況を仮令れば、都街家屋在って通路無きかの如きに自分
               感想して居たのである。・・・・・・
      1月16日     午前3時に群氷塊地より漸々(ようよう)脱出したので、何とも云へない程、
               予が愉快の時であった。
                同時に総帆を展揚し帆汽両走を以て目的地に向け急航す。・・・・・・・・・・・
                11時入江に到達し氷堤の一部は坂形に成って在って上陸は出来得るに就き
               船を止め流して置いて小端艇を下し、土屋運転士に命じ確実な場所なるや否
               や調査及び水夫・渡邊の同行を命じ、後ち隊長の命に依り武田、アイヌ花守
               の二人も同行する事と成った。都合4名は、調査の為め小端艇に乗って離れ
               たり。本船は周囲恐るべき高い僅か港形所に流し操縦の保方に注意して上
               陸者の監視せり。・・・・4人共に氷坂を昇り始め、歩行順は先はアイヌ花守、
               次は土屋運転士、其の次は渡邊水夫、最後は武田君である。此の第一到着
               地を参考の為め画きたる略図は下の如し。

               
                    「第一到着地に到着。4人共に氷坂を昇り始め」

                4人共昇りて姿が見えなくなったので、船を氷坂側に横附の準備し、殆ど附
               けんとするとき、(4人が)戻りしに就き、暫時見(て)居る。帰り来る土屋氏の
               報告に依れば、氷河のようで上陸地に適せぬとの事。
                早速、出発したとき、白瀬中尉と武田君が東方にヤッテ呉れとの事に就き、
               之より東方エドワードランドに至るも上陸地なき(時は)、探した上又戻って来
               (て)、其内上陸の時日を失した場合は、其の責任は誰が負う。勿論船長が
               上陸の出来る地点へ送って呉れないからと都合の良い口述(実)を云うもの
               なり。・・・・・・
                ・・・・・兎も角、一時(間)計り上陸するも何れの国の探検家も上陸した事の
               ない所へ邦が(わが)日本南極探検隊「開南丸」の初着地に付き、・・・・・
               『四人(氷)河』、と称する名所を命名せり。

                ( この後、今後の針路について、東という白瀬・武田と西という野村で協議
                 の結果、1時45分に「西」に決定。この直後に、アムンゼン隊のフラム号に
                 会うので、野村が正しかったことになる −−−−−MH )

                午後8時に湾口に至り、・・英人・スコット氏の名称を與へたるBalloon Inlet
               なる湾は跡形もなき。此の西方に在る湾と合同したか、湾口約12浬余の大湾
               である。又多数の氷流あり。之を避けつつ進入し(た)。
                午後8時30分、三檣(3本マスト)のBarkentine型の一帆(スカンパー)を展じ
               て居るを発見し、・・・・近づき見るに諾国(ノルウェー)国旗を掲げあり。・・・・
               接近して様子を見るに当直者か3名の甲板に居て我船を見て居る。・・・・・

                ( すぐにフラム号を訪問しようという武田と太陽は出ているが今は夜中に
                 人を訪問すべきでないとする野村の間で衝突があった。 )

                諸君の参考に供せんと、現所を略画し、左方我「開南丸」、右方は諾国フラ
               ム号。

               
                     「左方我「開南丸」、右方は諾国フラム号」

                ・・・・10時に至り繋留し終へたると雖も、・・・・・。併し(しかし)乍ら目的地に
               達したので船員一同の喜びは又余は大愉快である。陸上員は上陸場を探検
               するとて上陸し、・・・・・・
                11時40分、白瀬中尉帰船し、大丈夫上陸は出来ますとの事。是れを聞いて
               何とも云へなき幸運至極の感である。普通なれば、船員に酒でも呑ましたい
               が寒地には害ひ多き為め、ブランデーを少量宛つ與ひて祝ったのである。・・・

                  つづく
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