異聞・奇譚 「南極探検」 − 甲斐出身・村松 進 隊員 −









               異聞・奇譚 「南極探検」
            − 甲斐出身・村松 進 隊員 −

1. はじめに

    私の趣味の一つ、郵便切手の会誌「郵趣」2014年2月号を読んでいると、理事長の「南極観測」
   という一文があった。小学生だった理事長が、郵便局ではじめて買った切手が1957年発行の
   南極のペンギンを描いた「国際地球観測年」の10円切手だったらしい。
    ( 田舎に住んでいた私は、1958年発行の「関門トンネル」あたりからだ )

     
           「国際地球観測年」記念切手

    切手の発行は1957年(昭和32年)だったが、これより半年前、1956年(昭和31年)11月8日、
   「宗谷」が第一次南極観測隊を乗せて東京湾を出発、1957年(昭和32年)1月24日に南極大陸に
   接岸し、1月29日にオングル島に日の丸を掲揚し、「昭和基地」と命名され、日本の本格的な南極
   観測がスタートした。
    同時に「プリンスハラルド宗谷」船内郵便局が開局し、日本から「宗谷」に積んで持って行った
   郵便物に「記念印」を押して持ち帰った。

    日本で最初に南極探検に行ったのは「白瀬中尉」一行だったことを知っている読者もおられると
   思うが、その詳しいことをご存じだろうか。かくいう私は、白瀬中尉は知っていたが、彼の経歴や
   南極探検を思い立った動機、使った船名、南極までの航海や上陸して極点を目指した行動記録
   など全く目にしたことがなかった。

    2014年1月2日、某市で開催された骨董市を訪れたことは以前のHPにも書いた。そのとき手に
   入れた絵葉書の中に「南極探検」のキャプションがついた4枚があった。うち一枚は、使用済で、
   差出人の欄には、『 十一月廿八日 開南丸ニテ 松村 進 』、とあり、切手にはその日の消印
   が押してある。

     
            松村 進 差出しの絵葉書
               【表(切手貼付)面】

    宛先は『 甲斐 北巨摩郡 』、で、通信文に、『 只今出帆探倹(ママ)の途ニ付き・・・成功の上
   珍談土産可致候・・・・・・・』
、とあり開南丸に乗って出航間際に郷里の友人に出したものだろう、
   と推理した。そうなると、松村 進は甲斐(山梨県)出身ということになる。その頃、丹澤 喜八郎
   の足跡を追って、何回か山梨県立図書館を訪れていた。丹澤姓が多い地域の「市川大門町誌」
   を調べていると、『 郷人の南極探検 』の一節があり、『村松 進』の名を見つけた。まさしく、
   ”瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)”だ。

    村松 進が白瀬南極探検隊員の一人だとわかったので、この関係の本を山梨県立図書館内外
   から取り寄せてもらい、進の足跡を追ってみた。
    進は、市川本町の医者の家に生まれた。明治43年、開南丸の機関士として、南極探検隊に加
   わった時、26歳だったから、明治17年(1884年)の生まれになる。
    県立甲府中学(現県立甲府第一高校)を卒業後、明治39年に海軍を志願し、横須賀海兵団に
   入った。明治43年、白瀬南極探検隊の一員となり、明治45年帰国した。
    この後、南洋興業株式会社に入り、マーシャル群島ヤルート島支店の主任となり、そこを辞めて
   東京で実業に従事していたが、大正15年病に罹り、昭和2年(1927年)東京で亡くなった。43歳
   だった。

    南極探検隊員としての進の人生を縦糸に、南極探検にかかわった人々を横糸に、編んでみた
   のがこのページだ。1956年の第一次南極観測隊60周年になる2016年に向けて、引き続き、南極
   探検にかかわる遺文・奇譚を探してみたい。

2. 村松 進が差し出した絵葉書

    骨董市で入手した村松 進が差し出した絵葉書を下の図に示す。

        
               【裏(図案)面】                  【表(切手貼付)面・再掲】
                         松村 進 差出しの絵葉書

    図案面には、「学術器械」の写真があり、余白の部分に青色の記念スタンプが押されている。
   外径44mmの2重丸の中に、荒波を蹴立てて進む船と天空には2つの星座が描かれている。
    ( 星が見えると言うことは暗闇で船の姿は見ないはずだが・・・・・・細かいことは止しにしよう )
    円周に沿ったリボンの中には、「大日本南極探検隊(出発紀念)」、とあり、出発を記念して作ら
   れたスタンプだ。船は3本マストで、それぞれのてっぺんには、南十字星をデザインした探検隊旗、
   国旗の日の丸そして、信号旗と思しき旗を掲げている。当たり前だが、探検船「開南丸」を描いた
   ものだ。
    描かれている星座は、南半球で見られる、「南の三角」と「竜骨(りゅうこつ)」だろうか。

    表(切手貼付)面には、当時の葉書料金に合致した菊1銭5厘切手が貼ってある。消印は、三田
   局で、明治43年(1910年)11月28日、(午)后1−2(時)になっており、この日の朝に投函したもの
   と思われる。

        
          「大日本南極探検隊出発紀念」スタンプ               切手と消印

    「極(下)」によれば、開南丸の出航予定日は、11月28日だった。午前7時に日比谷公園に集合
   した白瀬以下27名は、宮城二重橋前に整列してお暇乞(いとまご)いの式を行った後、一旦芝浦
   の事務所に引き揚げ、午後一時から芝浦埋立地の広場において最後の送別会を挙行した。
    この日、埋立地に集まった群衆は3万とも5万ともいう。後援会長・大隈重信の有名な『百発の
   空砲は一発の実弾に如かず』という告別演説が聴衆に大きな感動を与えた。
    ところがこの28日、積荷が終わったのが夜の9時で、ついにこの夜も船出ができず、隊員一行は
   芝浦「月見亭」の事務所に引き上げることになった。
    ( 27日も芝浦「月見亭」に泊ったとすると、日比谷公園に行く途中、三田郵便局管内で絵葉書
     を投函したのだろう。 )
    開南丸が品川沖を出帆したのは、翌29日だった。

         宛名には、『 甲斐 北巨摩郡菅原村(現北杜市白州町) 』、とある。通信文を書き下してみる。
   判読できないところや不確実な箇所は、[ ]で示す。

    『 拝呈 只今出帆探検[乃]途ニ
      付き[申][仕]何れ[他]日成功[乃]上
      珍談土産可致候
             時[至]けり[晴]れけ[む]
        開南
       丸[な][り][と][氷][光]る[御]代[乃]五大[州]

        本日祝電[預][?][有][?][仕][る]          』

    出帆前の慌ただしさの中で、甲斐の友人に宛てて書いたものと思われ、『 (南極探検が)成功
   した暁には、珍しい話などを土産にする 』、とあるところから、松村 進は甲斐の出身だと推理し
   た。
    また、この友人から祝電をもらった謝礼のことばが述べられているが、このことは記憶しておい
   てほしい。

3. 村松 進が南極探検に出発するまで

    南極探検に出発するまでの探検隊の足取りの中に村松 進の足跡を”飛び石的”にたどってみ
   た。

      明治17年  山梨県西八代郡市川大門町の医者の家に生まれた。医業の祖・定圀は、村松
      (1984年)  与左衛門定好の四男で、郷里の碩儒・座光寺南□に学び、のちに京都に上り
              医術を賀川玄迪に学ぶ。郷里で開業し、以来6世の間継承していた。
              進の兄・学佑は、山梨県立病院院長となり、後に甲府市桜町に村松病院を開業
              その子・親男(進の甥)は、帝大医科を卒業後、東京で開業した。上智大学教授
              で文芸評論家の村松定孝も甥にあたる。
          明治35年  山梨県立甲府中学(現甲府第一高校)を卒業
      明治39年  海軍を志願し、横須賀海兵団に入団
      明治42年  秋 「イギリスのスコット大佐が再び南極探検隊の組織に着手」の発表
              12月24日開会の議会に白瀬は「南極探検ニ要スル経費下附」請願書を呈出
              ( 最初、北極探検を素志としていた白瀬だが、明治42年アメリカのペアリーが
               北極を踏破した。自分の計画が他人によって先鞭をつけられたことに落胆し、
               目標を北極と正反対(今流行りの”真逆”)の南極に向けざるを得なかった。 )
      明治43年  請願は、十万円から三万円に減額され両院を通過。しかし、政府からは
              一文も下付されなかった。
              6月初旬 後に書記長となる多田恵一が白瀬に協力を申し出る。
                     開南丸船長となる野村直吉が探検船の船長を志願
              7月5日  白瀬らは神田錦輝館で「南極探検発表演説会」を開催し、
                     国民に支援を呼び掛け成功裏に閉会。
                     同夜 「南極探検後援会」を設立。会長・大隈重信
                     幹事の一人・村上俊蔵宅(本郷区)に「後援会事務所」と
                     「探検隊本部」を設置
                     このころ、白瀬は、陸上隊員の資格を新聞紙上に発表
                      ・ 身体強壮、身長5尺2寸(157.5cm)以上、年齢25〜40歳
                      ・ 堅忍不抜の精神を有し、且多量の飲酒をせず
                      ・ 歯力強健にして梅干しの核(たね)を摧(くだ)き得る者
                      ・ 募集隊員5名(理学、天文学、労働者、大工、鍛冶各一名)
              7月12日 白瀬は、相馬甚五郎方(深川区)に「探検隊出張所」を設置
                     多田はここに起臥、仮採用となっていた大西隊員、白井予備船員、
                     野村船長はここに通勤
              7月13日 朝日新聞が「南極探検隊援助義金募集」を広告
                     このころ、学術部員として、武田輝太郎(気象・地質)と
                     その学友・粟根銕蔵(天文、物理)を採用
              8月5日  白瀬が決めていたギリギリの出航予定日
                     探検船確保(用船問題)のめどが立っていなかった。
                     背景には、後援会と白瀬の間に船の仕様について見解が違った。
                      ・ 後援会-----スコット大佐の「新大陸(テラ・ノバ)号750トンは
                        野村船長  無理にしても、5、600トンは必要。
                      ・ 白瀬-------200トンあれば大丈夫。
                                (千島の密猟船は50〜100トンだった。)
              8月15日  延期した出航期限になっても用船問題未解決。
                     「船が決まらず、どうして南極に行けるのか」、と朝日が手を引く。
              10月中旬 郡司大尉が北極探検用に新造し、漁船となっていた「第ニ報效丸」
                     199トンを譲渡してもらうことに決定
                     ( 郡司大尉と白瀬は、明治26年8月から翌年6月まで千島列島
                      北東端の占守島で一緒に越冬した仲だが、絶縁状態にあった。 )
                     「第ニ報效丸」はただちに石川島造船所で改造工事に着手。

                       ・ 氷海航行に耐える船体構造の補強
                       ・ 帆走船だったが、蒸気機関による汽走能力付加
                         松村 進の機関士としての主たる仕事は、蒸気機関の整備と
                         氷海での運転だったろう。

                     
                                      改造中の「第ニ報效丸」
                                  【「野村直吉船長 航海記」より引用】

              10月25日 命令33号が発令
                     追加命令として隊員9名が本採用となる。
                     この後、船員18名が決定した。
                     船長   野村 直吉
                     ・・・・・・・・・・・
                     機関士 松村 進

                     
                                    船員の一部
                                【骨董市で購入絵葉書】

                     最前列、地面に座っているのが、村松 進と思われる。

              11月5日  三井所(みいしょ)清造が隊員として採用(医努ならびに化学・鉱物学)
              11月6日  早朝、アイヌ・山辺が樺太犬10頭を連れて芝浦の事務所に到着。
                     ( 山辺は、大正2年に金田一京助と共著の「あいぬ物語」を出版す
                      るなど、優れたアイヌ人だった     −−−−−−−− MH )
              11月12日 午後、アイヌ・花守が樺太犬10頭を連れて芝浦の事務所に到着。
              11月15日 南極への出発は11月28日、と新聞発表
              11月21日 「第ニ報效丸」の改造が終わり、公式試運転が行われる。
                      進が蒸気機関を運転しての汽走船速 5.75ノット(時速約10km)
                      試運転に当り日章旗とともに文学博士・三宅雪嶺がデザインした
                      南十字星(サザン・クロス)を象(かたど)った「探検旗」も翻っていた。

                     
                            探検隊旗
                        【縦88cm 横120cm】

              11月24日 「第ニ報效丸」は「開南丸」と改名されていた。命名者は東郷平八郎
                      この日と翌25日、芝浦、ロセッタ・ホテルの傍らに投錨し、満艦飾を
                      施して一般市民に公開した。

                     
                                   「開南丸」
                              【骨董市で購入絵葉書】

              11月26日 満州馬10頭を引き連れて奉天から8月21日に参加した石井が
                     「都合ニ依リ隊員ヲ免除」される。
              11月27日 新井が「病気ニ依リ隊員ヲ免除」される。
                      2人が相次いで辞めたのは、開南丸が200トンしかなく、満州馬を
                      積載するスペースがなく、馬の世話や轡(くつわ)をとる馬匹が不要
                      になったためらしい。
              11月28日 粟根が「右依隊員ヲ免除」される。
                      隊員に数えられていた料理人・渡辺が厨夫長として船員に入った。
                      最終的に、「白瀬南極探検隊(一次)」のメンバーは、隊員(陸上部)
                      9名、村松 進を含む船員(海上部)18名、計27名

                      午前7時に日比谷公園に集合した白瀬以下27名は、宮城二重橋前
                      に整列してお暇乞(いとまご)いの式を行った。
                      一旦芝浦の事務所に引き揚げ、午後一時から芝浦埋立地の広場
                      において最後の送別会を挙行した。

                      出発にあたり、村松 進は次のような七言絶句を残しているので
                     私の”意訳”も併記する。

                      『 不願此行身命全
                        この探検行で、身命を全うしようなどとは、願っていない
                        赤心唯誓報諸賢
                        偽りのない心から、諸賢の恩に報いたいと、唯々誓う
                        悠々極地知何処
                        広々とした南極大陸が、どんなところか早く知りたい
                        笑上南瞑万里船
                        笑って、暗い南をめざして、万里の船旅に出よう
                                                             』

                      ( ちなみに、この句は、1行、2行、4行の最後の文字がそれぞれ、
                        「全」、「賢」、「船」で、”en”の韻を踏んでいる。村松には、
                        素養があったと考えられる。    −−−−−−−−MH )

                      この日、積荷が終わったのが夜の9時で、ついにこの夜も船出が
                      できず、隊員一行は芝浦「月見亭」の事務所に引き上げた。
              11月29日  快晴。前夜「月見亭」に仮泊した海上隊員たちは、はしけに乗って
                      ”万歳”の声に送られて台場沖1マイルに停泊している開南丸を目
                      指した。
                      11時30分、野村船長や松村ら、前夜開南丸に宿直した船員らが
                      隊員を出迎えた。
館山まで同行する見送り人を乗せて午後0時20分
                      抜錨し、開南丸は出帆した。
                      横浜港外に寄り、館山湾に投錨したのは午後11時35分だった。
              11月30日  午前5時、館山湾大賀村沖に移り、積荷の整理に着手。終わった
                      のは夕刻だった。夕方から天候が悪化、沖から引き揚げてくる漁
                      船や「吉林丸」(1500トン)などとともに湾内で時化(しけ)を避けた。
              12月1日   天候は回復していなかったが、焦っていた開南丸は7時20分に
                      館山湾を出航、南極に向けて船出した。

4. 村松 進の南極探検

    私は、白瀬南極探検隊は、日本を出発し、南極大陸に日章旗を掲げ、日本に帰ってきた、とば
   かり思い込んでいた。このページをまとめるのに当り、文献を調べてみると、白瀬自身、第一次と
   第二次の南極探検と書いていることに気づいた。

    ≪第一次南極探検≫
    明治43年12月1日館山を出航し、翌明治44年3月3日に南極圏(南緯66度30分以南)に入った
   が、南半球ではすでに冬に向かいつつあり、日増しに厚くなる氷に進路を阻まれた。3月15日、
   開南丸は船首をオーストラリアに向け、解氷期に再度挑戦を期すことになった。
    ( 日本を出発するのが遅すぎたのだ )

    ≪第二次南極探検≫
    5月1日、シドニー港に入港。これから6ケ月野営生活を送り、11月19日、再び南極探検の途に
   ついた。明治45年1月28日、南緯80度5分に到達、日章旗を掲げ、この辺りを「大和雪原(やまと
   ゆきはら、現やまとせつげん)、と名付けた。

    ≪帰国≫
    2月4日、南極大陸を後にし、2月23日、ニュージーランドのウエリントンに寄港。白瀬や松村は
   「開南丸」と別れてシドニーから「日光丸」で帰国し、5月16日に横浜港に到着、鉄道で東京に入っ
   た。
    白瀬らに置いてきぼりにされた開南丸は、4月2日にウエリントンを出航、6月19日横浜に入港し
   た。6月20日、品川沖に回航、出発地の芝浦埋立地に帰還した。そこでは、盛大な歓迎式が待っ
   ていた。
   ( なぜ白瀬や村松らが、探検船「開南丸」でなく、客船「日光丸」で帰国したのか、そこには、
    白瀬と多田の不和があったらしい )

 4.1 ≪第一次南極探検≫

              12月1日   開南丸は館山湾を出航、南極に向けて船出した。
                      出航早々、書記長・多田から「私だけ寝泊まりする居室がない」、
                      と白瀬に申し入れがあった。「部屋割は船長の仕事だから」、と
                      同道して野村船長に「多田隊員の部屋割をお願いする」、と要請し
                      た。しかし、野村は「うっかりしていた。部屋を急造するので、それ
                      まで幹部室で過ごしてください」、と言ったきり動こうとしなかった。
                      結局、多田はニュージーランドまで70日余り幹部室の腰掛を並べ
                      てその上で寝起きした。
                      多田はこれを白瀬のイジメ、と受け取ったようだ。

                      ( 私は、白瀬と多田を直接は知らないので、二人の著作や残され
                       た言動記録から推し量るしかない。
                        白瀬は、小さいときから北極探検を志し、酒・たばこもやらず、
                       真冬でも火にあたらない、生活で己を律していた。一兵士から
                       中尉まで進級した経歴からか、計画性がなく、「教条主義」的な
                       言動が多く、部下を厳しく罰し反感を買うこともあった。寛容さに
                       欠け、人と衝突しやすく、郡司大尉のように”絶縁”する人もいた。
                        多田は、合理的・現実的な考え方で物事を計画(戦略)的に進
                       める才に恵まれ、その上筆まめで、社交性にも富んでいた、
                        野武士の親玉的な白瀬と参謀タイプの多田だった。多田の働き
                       で、「南極探検発表演説会」が成功したのをターニング・ポイント
                       として、その後、南極への道筋が見えてくるにつれ、白瀬にとって
                       隊長としての自分の立場を脅かす者として、多田の言動が目障
                       りになったのではあるまいか。  −−−−−−−−−−MH )

              12月5日   探検隊最初の悲劇が起きる。樺太犬3頭が斃死。
                      ( あとで判ったことだが、「サナダムシ」が寄生していた。第2次
                        探検隊では、”虫下し”を飲ませて連れて行ったので全頭南極
                        に無事到着した。                           )
              12月8日   午後になってスコールに2度見舞われる。隊員も船員も素っ裸に
                      身体に石鹸を塗り付けて待っていると”ソラマメ”を思わせる雨粒
                      が落ちてくる。この中で、垢を落したり、洗濯をする。スコールの
                      後は、嘘のようにカラリと晴れ上がる。気分がサッパリした夜は、
                      蓄音器でレコードを聞いたり、多田が作った「南極探検隊隊歌」を
                      合唱した。
              12月9日頃 無風帯に突入。ベタ凪で帆走は1ノット(時速2km弱)。開南丸は
                      蒸気機関でも走れるのだが、野村船長は「贅沢はできない」
                      開南丸の前身は漁船で、熱帯圏に近付くにつれ浸みこんだ魚脂や
                      かつて運搬した硫黄の残渣から発生する硫化水素ガス(腐った卵
                      の臭い)が船室に充満し、音を上げた隊員に,<甲板宿泊>が流行り
                      はじめる。
              12月10日  帆走をあきらめ、汽走する。
                      カツオは2、3日前から釣れるようになっていたが、マグロがこの日
                      から釣れはじめた。大群が押し寄せ、五十数匹を釣りあげる。90キ
                      ロ強のサメも釣れた。この日出帆以来初めて風呂を沸かしたので、
                      浴後の御馳走は美酒の分配もあり、上戸下戸”鯨飲馬食”だった。
                      食後、皆上機嫌で放歌高吟歓声船に満つ、状態だった。
              12月29日  赤道通過
              12月31日  除夜にふさわしい御馳走で葡萄酒もでる。出航以来の大時化
      明治44年  1月元旦   つき立ての餅もなく、屠蘇のかわりに葡萄酒の栓を抜く。平素健康
                      上の理由(脚気予防)で麦めしを食べさせられているが、この日は
                      雪のように白い飯がでた。
              1月10日   命令第41号発令 「開南丸船員職務勉励ニ付左ノ通リ増給ス」
                      船長     120円 → 150円
                      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                      事務長     30円 →  33円
                      火夫長     30円 →  33円
                      水火夫     25円 →  27円

                      ( 翌日の辞令で、村松は隊員になっているので、この表にない )

              1月11日   機関士・村松と厨夫長・渡辺の2人は、出帆時には船員(海上部)
                      だったが、この日付で隊員(陸上部)に編入された。

                      ( もともと隊員だった渡辺がまた隊員にもどり、村松は隊員に異動
                       した理由は明らかでない。                        )
                       10日の追加命令として、「三井所に衛生係兼隊長秘書を7命ズ」
                       の辞令が出され、多田は「・・・白瀬氏は、・・・・・やがては、予の
                       秘書たるを辞せしめん策を取った。・・・・」、と書き残している。
                       後に、村松が隊長秘書の任につくのだが、誰も知る由もない。 )

              1月21日    この日、奇禍が起きる。多田の愛猫・玉太郎が海に落ちた、とい
                       う。玉太郎は、船内のどこでも脱糞する悪癖があり、船員から苦
                       情が出ていた。「白瀬は、『・・・それほど猫が可愛いくば、ニュー
                       ジーランドから猫を連れて帰って呉れ・・・・』、と一通の紙片に記
                       して示し・・・・。予はこのことあってから、憤怒のあまり、愛猫玉公
                       を怒涛の中に放棄してしまった」、と多田は書き残している。
              1月23日頃  多田は、「ウエリントン入港の歌」を作る。
              1月29日    午後、将棋大会を開き、無聊を慰める。将棋の腕は次の順。
                       大関格   多田
                       関脇     高取火夫、村松
                       小結     酒井三等運転手
                       前頭筆頭  高川水夫長
                               安田木工、釜田舵取、西川糧食係、吉野被服係
                               三浦炊事係、渡辺厨夫長
                       多田によると、囲碁の方も多田と村松が好敵手だった。この日は、
                       村松が熱を出して休んでいるので多田は物足りず、「碁敵は憎さ
                       も憎しなつかしし」、とつぶやいている。
                  1月31日    ニュージーランド北島の影を見る。13頭目の樺太犬が死に、
                       半数が死んだことになる。汽走に切り替える。
              2月1日     ウエリントン入港も近いという予感のせいか、乗組員たちは暇が
                       あるとみな故郷への手紙書きに忙しい。
              2月2日     午前船内清掃、午後散髪。
              2月3日     帆走に切り換え8ノット(時速14km)と順調。真水の風呂に次々と
                       入浴。夜、風向きが一変、帆走を中止。台風で木の葉のように
                       弄ばれ、沖へ沖へと漂う。
              2月8日     正午、ようやくの思いでウエリントン港外に到着。午後3時40分頃
                       英国商船桟橋付近に停泊。
                       多田は郵便局に行き、大隈会長宛て、安着と送金依頼の電報を
                       打ったが、料金5ポンド(高額なのに)ビックリする。この日、歓迎
                       の晩餐があり、英艦乗組員や学生などの来訪者が多かった。

                       ( この当時、日英同盟関係にあり、共通の宿敵・ロシアを破って
                        間もなくだったので、英領だったニュージーランドとの関係は
                        良かったのだろう。−−−−−−−−−−MH )

                       ニュージーランド北島に住む唯一の日本人・三宅から祝電。三宅
                       は英語ができることもあり、第二次探検隊に運転士見習いとして
                       参加することになる。(村松の穴埋め?−−−−MH )
                       この夜、多田は今までの日誌を略記して一冊の小日誌として、
                       大隈会長に郵送することにした。これが、明治44年4月1日、「探
                       検世界」の附録となった「南極探検隊航海日誌」だ。
              2月9日     オペラダンス(フレンチカンカン?)を土屋運転士の案内で白瀬
                       以下数名が鑑賞。後々まで、一行の話の種となる。
                       ( 村松も同行した可能性はある )
              2月10日    この日までに、開南丸は、石炭32トン、飲料水36トン、食料品、
                       学術器械の補充を行う。野菜果物が高価なことと、牛肉が百目
                       (375g)7銭(現在の300円弱)と安価なことに驚く。
                       返電が遅いので午前10時問い合わせて11日出航の電報を打つ。
                       午後5時過ぎ、日本から「家族皆無事」、というメッセージと2000円
                       (現在の800万円)の電報為替を受け取る。
              2月11日    盛大に見送りたいので日曜日の12日まで出発を延期して欲しい
                       というヤング名誉領事の要請があったが、この日の午後3時半、
                       開南丸は錨を上げてウエリントン港を離れた。
              2月25日    日一日と寒気が強まる。この日、野村船長は極光(オーロラ)を
                       見る。
              2月27日    この日面白い事件があった。船の周囲を遊泳していた「奇鳥」を
                       生け捕った。「魚に似て魚にあらず」、「鳥に似て鳥にあらず」、
                       「泳ぐ時は魚に似たり」、「浮かぶ時は鳥に類す」。生きたペンギン
                       を見るのは皆にとって初めてだった。
              2月28日    はじめて流氷に遭遇。
                       白瀬は、命令42号を発令し、「上陸規定」と「隊員の事務分担」を
                       定める。
                       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                       会計主簿担任   村松 進
                       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
              3月1日     午後雪降る。この航海の初雪。
              3月2日     23頭目の犬が死ぬ。白瀬は、「米飯中毒(ビタミンB1不足による
                       いわゆる脚気)ではあるまいか」、とため息まじりでいった。
                       ( 前に述べたように、「サナダ虫」が寄生していたのが原因 )
              3月3日     正午の天測で、南緯66度45分とわかる。「南極圏」、とよぶ南緯
                       66度30分以南に突入した。日本の船としては、開南丸が最初だ。
              3月6日     初めて南極大陸を遠望し、一行狂喜する。
                       このころから、磁極が近いため、南に進んでいるのに「磁針」が
                       北東を指す、という奇態な現象が起こる。
              3月9日     南緯72度を過ぎ、船は懸崖絶壁のような大氷堤に沿って進む。
                       午後5時、緊急幹部会議が招集される。議題は、「この大氷盤の
                       海を乗り越えられるか」、だった。
                        ・ 南緯78度のロス海最奥部までは航行不能
                        ・ 南緯75度あたりに上陸し、陸上隊は南極点を目指す。
                       と結論する。全員、日本出発が遅れたことを今更ながら残念がる。
              3月10日    朝の気温はマイナス7℃で、汽帆走の全速力で氷盤を押し開いて
                       進んだが、午後5時には氷盤に鎖(とざ)されてしまう。
                       午後6時30分、風が吹き始めたので機関も全速力にすると周囲の
                       氷盤が開き、奇跡的に氷海を脱することができた。
                       午後10時、緊急幹部会議が招集された。(村松は出席せず)
                       白瀬の次のような意見がでた。
                        ・ 北に戻って上陸点を探し、陸上隊はそこで越冬する。
                        ・ 開南丸はウエリントンなりシドニーに戻り、解氷期を待つ。
                       しかし、隊員の心の整理がつかず、陸上部と海上部の日ごろの
                       わだかまりが噴き出す一場面もあった。野村船長の
                        ・ できるだけ南進し、極点をめざす上陸点を探す。
                       という提案で、会議は幕を閉じた。
              3月13日    南緯74度14分まで達したが、ついに上陸点を探しだせなかった。
                       自然の猛威はそれ以上の南進を許さず、上陸点も見いだせず、
                       一行は「人事を尽くした」、という気になった。
              3月14日    午後5時、白瀬は隊員一同を招集
                       「船首をめぐらしてひとまずシドニーに帰港し、今秋解氷期を待っ
                       て、再挙を企てる」と宣言した。
              3月15日    開南丸が反転して一日目、樺太犬が一匹死ぬ。残るは、「太郎」
                       「次郎」の2頭のみ。 山辺と花守は、「太郎」を「マル」、と呼んで
                       いた。

                        このころ、ノルウェー・アムンゼンと英・スコットによる南極点へ
                       の先陣争いが静かに繰り広げられていた。
                        両隊とも、極点に向かう道筋の要所要所に”デポ”と呼ぶ物資
                       の貯蔵基地をこしらえ終わり、解氷期の極点踏破に備えて、本格
                       的な越冬生活に入っていた。
                        南極点を目指すには、このような事前準備が必要で、両隊が
                       それを終えて、解氷期を待っていた事実を白瀬一行は知らない。

              3月16日    南氷洋に入って初めて月を見る。
              3月17日    午後6時、開南丸は山なす怒涛に襲われ、船首帆桁が先端から
                       2mの位置で折れる事故に遭う。

              3月21日    このころ日本では、後援会が探検隊の資金下付を建議案を国会
                       に提出し、満場一致をもって衆議院を通過したので、補助金(予
                       算額53,000円)の下付を政府に迫ったが、無視された。

              3月23日    開南丸は北航を続け、この日見た氷山がシドニー帰港の際の最
                       後の氷山となる。
              4月1日     多田が白瀬に具申した船内雑誌「南潮」の発刊が許可される。
                       帰りは気落ちしたせいか、乗組員で体調を崩すものが多かった。
                       「脳充血」、「気鬱症」、「消化不良」、「脚気」などなど。
              4月24日    このような航海のなか、乗組員は白瀬の”説教好き”な性癖に
                       悩まされていた。
                        多田の日記に「近来隊長の万事に干渉する事の激しいので、各
                       隊員は皆怏怏(おうおう:うらむ事)として楽しまぬ」、とある。また、
                       「短気にして、遠慮に欠ける隊長は、往々一行の士気を沮喪する
                       様な事を仕出かすので困る。斯くの如き単純な頭脳の人では、
                       到底大事業に有終の美を収むることは六ケ敷(むつかしい)事
                       と思う。・・・・・・・・・・今少し寛大なる度量がほしい。・・・」、とまで
                       書き残している。
                       白瀬としては、「挫折した時は、自ら健康を傷つけることが多い」
                       ので、乗組員の気を引き締める狙いがあったのかも知れないが
                       白瀬と乗組員の間の溝は広がりつつあった。
              4月27日    平線のかなたにオーストラリアの陸地が望見できる。
              5月1日     午後4時26分、開南丸はシドニー港内ダブル湾に投錨

                        この時点で白瀬隊は3つの問題を抱え、とてもアムンゼン隊や
                       スコット隊と南極点踏破競争に参入できる状態ではなかった。

                        (1) シドニー露営生活
                        (2) 第二次探検が可能か、後援会との折衝
                        (3) 隊内の不和

              5月2日     白瀬と野村が総領事・斎藤に会うと、斎藤から「シドニーは排日
                       思想が強く、官民の日本人を見る目は必ずしも暖かくない」、と
                       告げられる。
                        事実、この日の一新聞に「・・隊長以下予備役軍人で、名を南極
                       探検に藉(か)るも、実は此の地に何等かの野心を有する軍事的
                       日探(日本人スパイ)である。・・・・」、という論説を掲げ、他の新
                       聞にも波及した。
                       領事館を辞した後、白瀬は大隈・後援会長あてに電報を打つ。
                       「3月10日南緯74度にて結氷のため以南に進めず。爰(ここ)に
                       引返す。水石炭食品補充の上更に南進、目的の遂行期す。金沢
                       山(かねたくさん)要る。野村かへす。全員無事」。

                       ( 後援会に対して、南極大陸に接岸できなかった理由の説明や
                        第二次探検に必要な資金と物資を調達する上で野村が適任だ
                        と白瀬は考えていた。)
              5月3日     乗組員が上陸する。
              5月5日     大隈から返電。「無事祝す。尚奮(なおふる)へ。・・・金才覚中。
                       手紙ウエリントンにある。」
                       ( ”尚奮へ”は、再挙実行を意味していた。 )
              5月8日     開南丸はスパイの疑いが晴れ、公船とみなされ、シドニー港内
                       パースレー湾外に停泊を許された。同船には船員だけが寝泊ま
                       りし、隊員は陸上で露営(キャンプ)生活をすることになった。
                       キャンプ地の土地を提供してくれたのは親日派のJ・ホーンという
                       大地主で、パースレー湾を見おろす高台で、老木鬱蒼とした、
                       極めて閑静な土地だった。ここに、芝浦で極地用に作った木造
                       平屋建ての小屋を組み立てた。

                       ( この場所に決まるまでに、場所を間違え、2、3度移転させられ、
                         積荷の運搬で全員へとへとになった。丹野運転士は永らく米
                         国船に乗っていたので、英語を解するとみなされ、地主・ホー
                         ンとの間に立って場所の選定に当ったので、この不手際の非
                         難の矛先が丹野に向けられるようになる。 )

                       西川隊員が棟梁で、多田、渡辺、村松が家屋の建築に従事した。
                       床は全部板張りで、夜は藁布団と毛布4枚で、暖かき夢を結んだ。
                       別に天幕を3つ張り、食料器具を収納し、その一つは浴場に充て
                       た。
                       庭には、珍木奇草の間に怪石を配して、風雅な石燈籠は、故国
                       を十分偲ばせてくれた。
              5月13日    多田の日記に、「この夜、予、渡辺、西川、村松、花守、山辺の
                       各隊員は、共に新築家屋に寝る。」、とあり、ほぼ完成したのだろ
                       う。
                       この日、『野村と丹野の排斥事件』が隊員間から起こった。「この
                       日、開南丸は、パースレー湾外からダブル・ベイに引き返して投
                       錨したが、この時野村船長が<薄情的行動>をとったことに隊員は
                       怒って、船長と丹野の排斥を企てることになった。」
                       「<薄情的行動>が具体的に何を指すのか明らかでないが、”米国
                       かぶれした個人主義的言動”や”キャンプ地の二転三転”させら
                       れた隊員の怒りが丹野に向けられ、それを野村船長がかばう経
                       緯があったかも知れない」、と多田は書き残している。

                       白瀬は、隊員を扇動しているのが多田だと思ったのか、一転して
                       『白瀬の多田排斥問題』にすり変わる。
              5月15日    白瀬はこの騒ぎについて大隈に電報を打つ。多田の日記には、
                       「隊員と協議の結果、予は船長とともに、帰国する。任務は、
                       (1)船長及び丹野の更迭問題 (2)再挙準備」、とある。
              5月16日    この日付の大隈の電報がある。「国民ハ皆74度ニ達セシヲ成功
                       ト認メ非常ニ同情シ居ル。コノ際内訌(ないこう:内輪もめ)ハ断然
                       許サヌ。各員予ニ免ジ協力セヨ。大隈」
              5月17日    野村船長と多田が事情報告のため帰国することになったのは、
                       キャンプ小屋が完成した翌日のこの日だった。正午、野村船長と
                       多田を乗せた日本郵船の「日光丸」は日本に向けてシドニー港を
                       出港した。

                       ( 日光丸が豪州航路に就航したのは、明治36年(1903年)だっ
                        た。第二次南極探検を終えて、村松が帰国する際乗船したのも
                        「日光丸」だった。絵葉書のキャプションには9,585トンとあるが、
                        6,000トン弱だったようだ。  −−−−−−−−−MH )    

                       
                                       「日光丸」
                                 【骨董市で購入絵葉書】

              5月18日    日光丸は快適な船路をたどった。「204トンの開南丸と6,000トン
                       近いこの日光丸の対照は、丸で雲と泥、月と鼈(スッポン)」、と
                       多田は書いている。
              5月18日    19日ブリスベーン、22日タウンズビルに停泊し、この日木曜島に
                       寄港した。
                       多田が「此地の日本人の勢力は大したもので、全島約1,000人の
                       2/3は邦人で、真珠採りが本業だが、醜業婦もなかなかあるとい
                       う」、と記している。
              5月30日    正午に赤道を越え、北半球に入る。
                 6月2日     マニラに入港。
              6月5日     香港に入港。翌日、ニュージーランドの名誉領事・ヤング氏と波
                       止場で偶然会う。
              6月10日    午後10時、長崎に入港。検疫が済んで、後援会の佐々木、田中、
                       村上の三幹事が乗りこんでくる。上陸した一行は、福島屋旅館に
                       投宿した。
              6月11日    朝食後、記者会見の結果を多田は次のように報告した。
                       「 船長は、開南丸航海の概略を報告した。
                         開南丸が九仞の功を一簣に欠いた、不幸なる経過には、
                         一同相共に多大の同情を注いで呉れた。           」
              6月12日    神戸に寄港。長崎以上の歓迎の客と新聞記者に取り囲まれる。
              6月15日    午前11時50分、横浜港入港。 多田と野村を歓迎する花火に驚
                       かされる。「煙火には、白瀬隊長あり、片吟鳥(ぺんぎんちょう)
                       あり、・・・・世を憚る不成功の我等には、両の脇から汗が出る 」
                       丹野、土屋や野村の妻が来る。急行列車で横浜から新橋駅に
                       向かう。 後援会役員や隊員の妻、親族が出迎える。帝国ホテル
                       に行くと、大隈後援会長が待っていた。
                       「 我等の不成功には何等お責(せめ)の言葉もなく、只管(ひた
                       すら)其労をねぎらはるゝのである。・・・・・」、と多田は感激した。
              6月16日    午前9時半から、大隈邸で白瀬南極探検隊の今後を決定する後
                       援会幹部会議が開かれた。
                       ・野村船長から、航海報告と南極大陸を眼前に見ながら背進せ
                        ざるを得なかった事情説明
                       ・多田から、第一次探検行失敗の陳謝と再挙決行を表明する
                        白瀬からの伝言を発表。
                       ・野村の「航海日誌」、多田の「探検日誌」とスケッチを閲覧
                       午後、幹部会が再開された。それまでの間に、多田と大隈の2人
                       だけで、隊員による野村と丹野排斥問題について話し合ったが、
                       大隈は承服せず、「全員の意見を聞く」ことになった。
                       ・幹部会で、多田は、隊員の要求の無理からぬことを説明したが
                        この要求は否決され、野村、丹野の留任が決議された。
                       ・白瀬南極探検の『再挙実行』も決議された。
                       ( これを機に、後援会の連中は予がいたずらに事を好む悪者の
                        ように思う人が出て来たらしい、と多田は述懐する。      )
              6月17日   この日から、多田は野村と人力車を連ね、各方面に帰国の挨拶と
                       今後の援助要請に駆け回る。
                       第一次探検行の借金もあるのに、第二次探検の費用を調達する
                       困難さは一通りでなかった。すでに5月上旬の時点で後援会では
                       寄付運動を開始していた。
              6月23日   多田は横浜に行き、翌日出帆の日光丸船長に会い、白瀬宛の手
                       紙、新聞、雑誌、等を委託し、板垣退助などの尽力で寄付大相撲
                       が開催された国技館に駆けつける。15,000人と言う満員の観客だ
                       ったが純益は700円で、第二次探検の義損金募集の困難さを
                       思い知る。
              6月25日   ふたたび、後援会幹部会議が開かれた。議題は資金調達の件だ。
                       現在のような寄付に頼るのみでは心許ないので政府を動かす以
                       外ない、との結論に達した。
                       「この席上、村上派と田中派との議論も沸起し・・・・・」、何のことは
                       ない、探検隊内部だけでなく、後援会内部も派閥対立があったの
                       だ。
                       ( 幹事には、<義侠的に支援する人>と<私利私欲で裏で甘い汁
                        を吸う人>があったようだ。このことで、後年、白瀬が莫大な借
                        金を背負うことになる。 )
              6月26日   後援会一行は外務省を訪れ、現在探検隊がシドニーで直面して
                       いる窮状を訴える。
                       次いで総理官邸を訪れ、補助金下付を秘書官に懇願する。
              7月1日    午後、多田と野村は慶応義塾に招待され、塾長以下満員の聴衆
                       に探検談を語り、壇上から協力を訴えた。
              7月4日    大隈邸で幹部会議が開かれる。第二次探検に向けて、具体的な
                       前進の方針が打ち出された。
              7月6日    2日前の幹部会の決議を受け、大隈邸で新聞記者招待会が開か
                       れた。多田の日記に「各社全部の記者と大隈以下、後援会幹部と
                       多田、野村が出席し、再挙準備の報告と方法を講演し、その実現
                       には新聞社の同情に依る外ないことを延べ、記者団又大に同情を
                       寄せ、・・・・」、とあり、前途に希望をもったようだ。

                       小村外務大臣からシドニーの斎藤総領事に暗号電報が打たれた。
                       「白瀬中尉ノ率ユル南極探検隊ハ民間一部ノ企画ニ出テ政府ハ
                        当初ヨリ全然関係セス近頃同探検隊後援会ヨリ補助費下付ノ
                        請願アリシモ政府ハ之ヲ謝絶セリ右事情貴官御含迄」

                       ( ノルウェーやイギリスが国を挙げて南極探検を支援しているの
                        に、日本政府はこれを無視していた )

              7月7日    大隈会長は、東京府下の新聞社、通信社の代表者を自邸に招き、
                       今後の募金事業について協力を依頼した。

                         後援会として第二次探検に必要な資金を見込んでいたかが、
                        大隈の「実業之日本」誌のインタビュー記事に残っている。
                        記者「どの位の金が必要でせう」
                        大隈「昨年(第一次)の計画では、45年に凱旋する予定だった
                            が、1年延びたから46年でなければ帰れない・・・・学術
                            部の方でもモウ2人位相当な科学的素養のある者が・・
                            犬も50匹位は・・・。一切の費用を見積もって、7万円は
                            要るであろう。」

                         ( 一次の費用が65,000円だったから、一次の借金10,000円
                          余を含んでいるにしても、それを上回るのだから、後援会と
                          しては莫大な金額だった。 )

                         記者「(第二次)計画の詳細と(義損金)募集の方法が発表せ
                             らるれば、我国民は必ず奮って其後援に当ることを辞し
                             ないだろうと思います」
                         大隈「10月シドニーを出発し、11月陸状態は極地に上陸する。
                             開南丸は誰もやったことがない南極圏を一周する。
                             ・・・・気象・潮流・魚族・鳥族などの研究を遂げたら、
                             学術に貢献することも少なくあるまい。」

                          ( 第一次の目標は、陸上隊の極点到達だったが、第二次
                           では、”学術調査”が主に転換している。すでに、アムンゼ
                            ンとスコットが極点を目指し越冬生活を送っている状況下
                           で、”二番煎じ”をやっても政府や国民の支援が得られな
                           いのを見越しての目的変更だったのだろう。−−−MH )

              7月14日    募金活動の第一歩が神田・錦輝館で「南極探検後援大演説会」
                       が開かれた。2日前に後援会事務所が神谷事務員宅からここに
                       移っている。
                       大隈会長以下、幹事、多田、野村も出席、片吟(ペンギン)や信
                       天翁(あほうどり)の剥製も並べられた。後援会側の演説に続き
                       新聞記者や学生の応援演説もあり、聴衆満員、盛況裡に閉幕し
                       た。
                       この余勢をかって、多田は後援会と手分けして全国各地で遊説
                       募金に着手した。
                       野村は、米・味噌・醤油などの食料やマストなどの船具を買い揃
                       えていたようだ。
              7月16日    野村船長が横浜から日光丸でシドニーにむけ出発した。多田は
                       野村宛に祝電を打っている。
              7月19日    多田は神戸に入港中の日光丸で野村に会い、自分も次便で発つ
                       ことを告げ、白瀬宛の手紙を託した。

                       野村が去った後も多田は奈良・京都・静岡・甲府などで遊説を行
                       っている。
                       新しい隊員の参加も決定した。
                       ・ 池田農学士(陸上隊)
                       ・ 田泉(写真撮影技師)

              8月3日    シドニーの斎藤総領事から小村外務大臣に暗号電報
                       「開南丸修繕ヲ終ヘタルニ付右修繕費及船具第約4,000円直(す
                        ぐ)様送金スヘキ様後援会ニ厳達ヲ請フ 此上ニモ支払期日ヲ
                        遅延セシムル時ハ船舶差押ノ恥辱ヲ被ムルヘク 其一同ノ食
                        費モ亦今月八日以後支フル能ハサルガ如キ窮地ニ陥リ居レリ
                        右ハ結局本邦ノ体面ニ関スル義ナルヲ以テ捨置キ難キニ付
                        特別ノ手数請願ス」

                         ( 官は、”体面”だけ気にしているは、昔も今も同じだ。 )

              8月8日    大隈から白瀬に電報。「アス修繕費ウチ1,000円、食費100円ダケ
                       差当リ送ル。アト本月中ニ送る。」
                       ( 大隈(後援会)も金に困っていたようだ )
              9月23日    大隈は、「南極探検事業国庫補助請願書」を林外務大臣に提出
                       第二次探検計画は、次の通り。
                       ・上陸予定地はロス海
                       ・探検隊甲隊は白瀬自ら学術部員2名、隊員3名を率いて進む
                       ・探検隊乙隊は武田ほか6名で、天文・気象・地質・地理・動植物・
                        その他学術研究を行う。
                       ・極地越冬も計画し、明治45年5月まで滞在
                       ・挽犬費1,798円、予備費5,000円を含め総費用74,500円
                        内、53,000円を政府、残りは民間から募集

              10月2日    華族会館で大隈会長招待の実業家集会が行われた。招待客の
                       森村市左衛門や村井吉兵衛らの富豪から多額の寄付申し込み
                       があり、この団体で10,000円が見込めそうだと多田は書き残して
                       いる。
              10月6日    多田は横浜港で熊野丸で帰ってくる陸上隊・炊事係の三浦を出
                       迎える。三浦はシドニーに戻って間もない5月12日の夜、高熱を
                       出し一時人事不省に陥ったが応急手当で危機を脱したが、極地
                       での活動は無理と送り返されたのが表向きの理由だった。
                       この日、アイヌ・橋村が30頭の樺太犬を引き連れて島影丸で元
                       気に到着したのを、多田と三浦が出迎えた。三浦を新橋「本郷館」
                       の自分の部屋に同居させることにした。
                       夕食後、三浦を連れて大隈邸を訪れ、三浦の口からシドニーの
                       隊員たちの様子を報告させた。
              10月10日頃  多田は、「自分に代わって堀内事務員をシドニーに派遣する」、
                       という話を耳にして、愕然とする。
              10月11日   午前中、佐々木・押川両幹事を訪問し、「堀内のシドニー行きを
                       否決してもらうよう」懇願した。
                       「堀内のシドニー派遣」は村上幹事の差し金だった。堀内の派遣
                       が取り止めになったことで、この日の幹事会では村上派の多田
                       攻撃は表面化し、一身上の問題(酒・女性)まで取り上げて批判
                       した。
                       ここで投げ出しては今までの苦労が水の泡になると思い、多田は
                       極力弁明に努め、念書まで入れさせられたが我慢した。
              10月14日   正午、多田は池田、田泉、橋村、そして樺太犬29頭と熊野丸で
                       横浜港を出発した。
                       一頭は横浜で病死。獣医にみせると、「サナダ虫」が寄生してい
                       ることが原因と判明し、駆虫薬を29頭に服用させた。一次探検で
                       次々と樺太犬が死んだ原因そして対策がようやく明らかになる。
              10月19日   神戸、門司に寄港し、熊野丸は長崎に投錨したのは夜明け前だ
                       った。「福島屋」旅館に投宿する。
              10月20日   この日、多田は大隈、後援会幹事会、三浦隊員、山崎氏等から
                       電報が続々と届いた。『多田を罷免した』、という白瀬からの電報
                       が届いたから『シドニー行きを中止せよ』、というものだった。

                       多田は、「イッソこんことなら(シドニー行きを)止してしまおう、と
                       考えたが、予が軽々しくここで帰京すると、又世間の物議を醸す。
                       ・・・・・隊長や船長が如何に予を遇してもかまはぬ。予にも一行
                       の同志がある。今逡巡(ためらう)する場合ではない、と決然と
                       して予は往航に決し、シドニーに向かった。」

              11月10日  多田は、寄港したタウンズビルからシドニーの白瀬宛に「安着」の
                      電報を打つ。
              11月15日  「熊野丸」はシドニーに入港。

                      ( このとき、極点をめざすアムンゼン隊は南緯85度、スコット隊も
                        南緯79度29分にあり、またしても白瀬隊は大きく出遅れている
                        ことを誰も知らない。スコットの乗ったテラ・ノヴァ号の諸元が
                        不明だが、彼が一次探検で使用したディスカバリー号より全長
                        で1割ほど長いことから、総トン数、馬力共に大きかったと推測
                        する。 −−−−− MH )

          ・   つづく
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