(1) 乗船6日目のスタートだ
前の日に、英領南極ポート・ロックロイに上陸することが決まったので、興奮しているせいか朝4時に目覚
める。同室の2人はキャンプでいないので、起きて自宅の妻宛に絵葉書と封書を何枚か書き足した。
5時過ぎに甲板にでてみると、風はなく寒さはそれほどでもないが霧で薄暗い。海面には波一つない。
遠くのキャンプ地をみると皆さん立って動いているから撤収の準備をしているのだろう。
6時過ぎに、キャンプのメンバーたちはゾディアックに乗り込んでいるのが遠目にもわかる。やがて、次々
と船に戻ってきた。
年配の人は、疲れたのか顔が下を向き元気がない。後で、同室のメンバーに聞くと、「よく眠れなかった
ので厳しかった」らしい。それでも、貴重な体験だったことは間違いなさそうだ。
この日のスケジュールは、「船内新聞」によると、『フォイン・ハーバーのクルージング』と『ジュグラー岬と
ポーポ・ロックロイの上陸』の予定だ。
この日の7時ごろの『ブリッジ(操舵室)レポート』から、船の位置、天候などをまとめておく。
日付 時刻 | 緯 度 | 経 度 | 累積航海距離 (海里) (km) | 気圧 (hp) | 風向き・風速 (NM/時) (m/秒) | 気温 (℃) | 日の出 日の入 |
1月26日 | 南 緯 64°27.9′ | 西 経 61°43.5′ | 906 | 993 | 東 7 | 3 | 4:06 | 午前7時 | ( 1,677.9 km) | 3.6 | 22:30 |
気温は+3℃でしかも風が弱いので寒さはそれほど感じない。昨日からは、距離にして33海里(約60km)
しか動いていない。緯度、経度ともに20分弱しか動いていないのだ。
海図の上でこのときの位置とこの日の予定を確認する。前日からポータル・ポイントに停泊状態だ。この後
フォインハーバーでクルージングを行い、その後、ノイマイヤー海峡を抜けて、ジュグラー岬と英領南極ポート・
ロックロイに上陸するはずだ。海図にはジュグラー岬の名前が見当たらず、どこなのかも判らない。
(2) 『フォイン・ハーバー(湾)』クルージング
フォイン・ハーバー( Foyn Harbor )はパール・ハーバーが「真珠湾」とも呼ばれるように、フォイン湾とも呼
ばれる。南極半島中部西岸にある大きなウイルフェルミナ湾北部にあって、ナンセン島とエンタープライズ島
に挟まれた捕鯨時代に良く使われた係留地だ。
爆薬つき捕鯨砲の発明者であるノルウェーのスヴェン・フォイン(1809年−1894年)の名前のついた捕鯨
母船が、1921年から22年にかけて係留したことから名付けられた。
ここにある南極捕鯨時代をしのぶ史跡は、「ガバナー号」の残骸だ。1915年1月27日、われわれが訪れた
のが2015年1月26日だから、”丸100年に1日足りない”日に、ドイツの捕鯨母船「ガバナー号」が2年目の
操業を開始して間もなく、積んでいた2,769トンの鯨油に火がつき大火災を起こした。他の積荷を救うため、
わざと座礁させ、85名の乗組員は全員救助された。
ガバナー号は、従来の皮下脂肪だけでなく、骨や肉の処理まで全て船内ででき、第一次世界大戦前の
時点で最新・最大の捕鯨母船だった。この火災と沈没で今の価値にして440万ポンド(約7億円)が消えて
しまった。
現在では、エンタープライズ島東部の小さな入り江・ガバナー・ハーバーで赤くさび付いた舳先(へさき:船
首)部分だけを出して沈んでいる。船体は、「ナンキョクアジサシ」の格好の巣になっていて、忙しく船窓から
出入りする姿が見られる。われわれが訪れた時期よりも後の夏の終わりになると、「キョクアジサシ」が北に
向う前に落ち合う場所になっている。
この周辺海域では、ザトウクジラやミンククジラが見られ、水辺の岩や雪の上にはウエッデルアザラシや
オットセイも見られるらしいが、数は少なかった。
海辺には堆積岩の露頭があり、褶曲構造が観察でき、複雑な地殻変動を受けたことが想像できるる。こ
れらの露頭はナンキョクアジサシなどの鳥類の棲家になっていたり、表面には目立つ原色の地衣類も生え
ている。
(3) 人間との遭遇
この日は、8時30分にクルージングに出発し、戻ってきたのは10時30分だった。われわれが戻ると同時に
船は英領南極ポート・ロックロイを目指して動き始めていた。
われわれは、4階のザ・クラブで熱いコーヒーを飲み、甘いお菓子を食べ冷えた体を温めた。クルージング
から戻ると「カップ麺」が出るようになったのはこの日からだったと記憶する。食べている人に聞くと「美味し
い」といっていたが、普段からほとんどカップ麺を食べない私は、南極に来てまで食べようと言う気が起きな
かった。
船はユックリとド・ジェルラシ海峡を進む。風が出てきたが、南極半島と大きな島の間の海峡なので波は
それほど高くない。12時30分からの昼食までの間、デッキに出て南極の風景を満喫する。
船のあたりは曇っていのだが、進行方向に見える雪山が光輝いていて、あのあたりは陽射しがあるよう
だ。
昼食を済ませ再びデッキにでてみると、船はノイマイヤー海峡に入っていて、狭い水路の両側には、雪を
いただいた山々の真っ黒い岩肌が迫っている。暖かな陽射しが包み込んでくれ、南極友の顔にも笑顔が
一杯だ。
やがて、右舷に大型のヨットが一艘みえた。この小さなヨットでドレーク海峡の荒波を越えてきたかと思う
と、その冒険心には感心する。艇には10人ほどが乗っているようだ。オーシャン・ダイヤモンド号に乗ってい
る以外の人間に出会うのは5日ぶりだ。向こうも同じらしく、われわれのほうを見ている。
後でエクスペディション・スタッフに尋ねると、「フランスからきたクルーザーで、セレブたちが乗っている」と
いうことだった。
ノイマイヤー海峡はその中ほどで、ほぼ直角に曲がっていて、行き止まりの入り江のように見える。船が
このまま直進すると岸に激突するか乗り上げるのではないかと”ビクビク”していたが、1時方向に水路が
見えてきたので一安心だ。
船が直角に曲がって進むと、3時方向にクジラが見えたが、少し遠いということもあってか、皆さんの関心
を呼ぶほどではなかった。
4.10 『英領南極ポート・ロックロイ上陸』【第6日目PM】
(1) ポート・ロックロイが見えた!!
ノイマイヤー海峡を挟んで、アンバース島の対岸にあるウィーンケ島( Wiencke Island )のほぼ中央、西
側に突き出た2つの岬の間の入り江にポート・ロックロイがある。南緯64度49分、西経63°30分だ。
長さ800mの半円形の海岸は天然の良港で、捕鯨時代(19〜20世紀)に利用され、1931年まで捕鯨船の
拠点があった。
ここは、1903年〜1905年のフランスのジョン・シャルコー探検隊によって発見され、1909年、当時のフラン
ス海軍大臣の名をとって名づけられた。
ノイマイヤー海峡から大きく左に舵(かじ)を切ると、ポートロックロイが近づいてくる。2つの山に挟まれた
氷河の手前、小さなゴーティエ島に赤い壁の建物が見える。右側のウィーンケ島の雄大な峰々の「セブン
シスターズ」も雲の間から恥しげに岩肌を見せている。
(2) ポート・ロックロイ上陸!!
この日もわれわれの班は、後から上陸する組だった。3階の下船口にいってスタッフの髪の毛の色には
正直”おっ魂消(たまげ)た”。彼女には、何か重大な心境の変化でもあったのだろうか、尋ねるのも憚られ
気づかないフリをしていた。この理由(わけ)は、この夜明らかになるのだった。
ゾディアックに乗って島に近づくと何艘かが上陸待ちの列を作っていた。露頭の岸壁に横付けするのだが、
水深が深いので、下船時に深みにはまらないように慎重に降りているので手間取っているということが、自
分の番になってはじめて解った。
第2次世界大戦中に、ナチスドイツの太平洋進出を警戒したイギリスは、「タバリン作戦」と名づけて1943
年に南極半島に監視基地を3箇所建設した。その1つがポート・ロックロイ湾内にある小さなゴーティエ島の
「A基地( A Base )」で、隊員8名が駐屯した。
戦後は気象観測基地になり電離層の観測を行い、デセプション島とさらに南のストーニントン島の基地を
結ぶ小型飛行機の中継点としても、1966年まで使われた。
建物の手前の屋外に、その当時使っていた橇(そり)が保存、展示してある。
その後、放置されていたが、他の基地とともに南極条約に基づく第61番目の史跡に指定され、修復の後、
1996年1月から史跡博物館として一般公開されている。南極の夏の間は、英南極史跡信託財団( British
Antarctic Heritage Trust ) のメンバーが駐在し、修繕を行ったり、維持管理のための費用を捻出するため、
観光客向けに郵便局と売店を開いている。
現在「Aベース」の建物は、「ブランスフィールドハウス( Bransfield House )」と呼ばれている。
建物の内部は人数制限があり、”1人が出ると1人が入る”システムだ。上陸してからここまで、100m足ら
ずだが、建物の下などいたるところがゼンツーペンギンの巣になっていて、その糞尿がおびただしい量だ。
建物に入る前に、ブラシで長靴をクリーニングするのもエチケットの一つだ。
(3) 売店にて
10分ほど待ってようやく建物に入ることができた。建物の入口を入って右側が売店、左側が郵便局になっ
ている。まずは、売店でお土産を物色する。入り口側にレジがあり、その奥に本、さらに奥に絵葉書や記念
切手などの郵趣品と記念コイン、窓際のカゴにはボールペンやぬいぐるみなど定番のお土産品、そして反
対側の壁には額に入った記念カバーのセットなどが並んでいる。15通くらいで250米ドル(邦貨3万円)だか
ら、買う気にもならない。(買えない)
本は、ペンギンなどの動物や南極探検物語などが多い。切手は英領南極( British Antarctic Territory )
が発行した未使用切手とそれらを封筒に貼って記念の消印を押した記念カバーが並んでいる。
切手が好きな人の中にはコインも好きな人が多いことを見越してか、ミント貨と呼ばれる流通貨幣と違う
仕上げをした記念コインも売っている。
「南極海の食物連鎖」、「英国南極横断隊100周年」そして「南極のペンギン12種」(2種)を描く記念切手
シートを購入した。
ミントコインは、2012年から2014年に発行された2ポンド(邦貨約360円)の白銅貨で、表にエリザベス2世
の肖像、裏面にはスコット南極探検隊の旗艦「テラノヴァ号」(2012年発行)、南極の「クイーンエリザベス
2世州」(2013年発行)、「英国南極横断隊100周年」と「シャチ」(いずれも2014年発行)の4種類を購入した。
品定めが終わるころに、売店は混み出してきた。レジへ品物を持って行き、精算する。ここでは、品物の
価格は米ドル表記になっている。現金も米ドルだけでなく、イギリスポンド、ユーロが使える。10米ドル以上
になると、ビザ、マスターのカードでも支払いができるので、私はカード支払いを選んだ。
(4) 『南極郵便事情』
支払いを終えたところに、封筒を手に興奮した様子の男性が売店に入ってきた。同僚らしき男性に、「これ
を見ろよ。1997年に英領南極が発行した香港切手展の記念シートが貼ってあるぜ」と話していた。
( もちろん英語でだ )
どうやら、エクスペディション・スタッフがここで投函した絵葉書や書状に押印していて気づき、駆け込んで
きた風だった。「それを出したのは私だ」と名乗り出ると、「私がここの郵便局の副局長・S.Shimeだ」という。
これが、『ペンギン郵便局』副局長・Mr.S.Shimeとの出会いだった。
「記念押印するカバーを持ってきているので、記念押印とあなたのサインをして欲しい」と頼むと、「あなた
に記念押印をさせてあげるから郵便局へ行こう」と隣の部屋(=郵便局)に案内してくれた。
郵便局とは言っても、テーブルの上に消印が置いてあるだけの質素な造りだ。ただ、壁には若き日のエリ
ザベス2世夫妻の写真が飾られているのは、ここも大英帝国領の一部だと誇示しているかのようだ。
記念押印してもらった、絵葉書や書状を入り口にあるポストに投函する(真似をする)ところを写真にとり、
建物を出た。
【後日談】
ポート・ロックロイ郵便局で投函した絵葉書や書状は、例年だと早くて3月末、遅くても5月のゴールデン
ウイークのころだと説明会で聞いていた。
地元の郵趣会のIさんから、「3月23日の『ふみの日』に届いた」とわざわざお知らせの葉書を送っていただ
いた。湯沼鉱泉社長をはじめ、全国の友人、知人からもこの日に届いたとメールや電話をいただいた。一番
遅く届いたのは、長野県のTさんで、28日だった。
5月初旬に届くことを想定して書いた「桜の花も散り・・・・・」云々(うんぬん)の言葉が時期尚早だったの
は、”想定外”だった。
奈良県の石友・Yさんから、「テレビで見たが、ポート・ロックロイ郵便局の局員を募集していて、すでに
1,000人が申し込んだので、1,001人目として応募してはどうか」と電話をいただいた。「11月から3月まで5ヶ
月間で、給料は月20万円、ただし風呂などはない」ということだった。
都会の生活と隔絶した南極で暮らす人たちにとっての楽しみは、たまにやってくる外来の人との交流だと
思い至った。たかが、私が押印を頼んだ1通のカバー(封筒)で、あれほど興奮する、その気持ちがわかる
ような気がした。
(5) ポートロックロイの生物たち
『郵趣』と『コイン』が片付くと、次は南極の自然観察だ。ウィーンケ島から西に突き出したジュグラー
( Jougla )岬は、ゼンツーペンギンのルッカリー(営巣地)で、少し古いが2003年の調査では1500番(つが
い)が確認されている。
島のいたるところにペンギンの巣があるのはこれまで上陸したルッカリーと同じだが、ポート・ロックロイは
観光客が多いせいか、”人に慣れている”ペンギンが多いように感じるのは気のせいだろうか。
微笑(ほほえ)ましいペンギンの親子の姿がそこかしこで見られる。しかし、中には弱って息絶え絶えで、
目を瞑(つむ)って動けないペンギンもいる。その挙句、盗賊カモメに食べられている光景も目撃し、孫娘
の教育用にと写真に収めてきた。
『弱肉強食の世界』ではなく、これがわれわれ人間を含めた生物界の『輪廻』だと思う歳になった。
さらにゴーティエ島の奥に行くと、クジラの骨が横たわっている。頭の骨からザトウクジラだろう。これは、
もともとこのような状態であったのではなく、”復元された”ものらしい。捕鯨時代の遺物なのだろう。
捕ったクジラを船の上で全て処理する「母船式捕鯨」が始まるまでは、陸地に設けられた捕鯨基地にクジ
ラを引き上げて、商品となる鯨油を採って、不要な肉や骨は捨てていた。その捕鯨基地の実態を、シャクル
トンの「帝国南極横断隊」隊員が次のように書き残している。
『 捕鯨基地は殺伐としたところだった。真夜中の太陽の下で、シロナガスクジラやザトウクジラの死骸が
腐っている。港は血で赤く染まり、工場のまわりは油でギトギトしている。工場でクジラの脂肪を煮つめて
いるため、油っぽい煙とすさまじい臭いがまきちらされていた。船大工のハリー・マクニーシュに言わせ
れば、「風上へ10キロ逃げてもまだクセえ」。さっそく隊員たちは、この港に【香水ビン】という皮肉な名
前をつけた。・・・・』
(6) ポートロックロイでミネラル・ウオッチング
生物の後は、『ミネラル・ウオッチング』だ。ポート・ロックロイとジュグラー岬の露頭は、黒雲母花崗岩で、
ところどころに「捕獲岩」が観察できる。
ポート・ロックロイとジュグラー岬で走向・傾斜を測定した結果をまとめておく。
項目 | ポート・ロックロイ | ジュグラー岬 | 岩 石 種 | 走向 | N38°E | N2°E | 黒雲母花崗岩 (鉄ばん石榴石の斑晶を含む) |
傾斜 | SE26° | SE12° | 黒雲母花崗岩 |
それぞれの地点の代表的な鉱物(岩石)の写真も示す。
南緯65度近いポート・ロックロイのこの日の日没時間が22:30だった。まだ回りは十分明るいのだが、時計
を見ると17時少し前で、そろそろ引き上げる時間だ。
ポート・ロックロイには、博物館があるのだが見ている時間がない。まずは、外観だけでも写真に収め、
内部の様子は写真集を見ることにする。
無線室などがらしいので、若い頃、アマチュア無線にも凝っていて週末に秋葉原に通いをしていた”ラジオ・
オタク”としては現物を見ておきたかったが、アレもコレもと欲張っても仕方がないと諦めた。
上陸地点に行くと、去りがたく最後まで残っていた人が多いようで列をなしてゾディアックを待っていた。
ゾディアックに乗り込む前に、靴底をブラシでスタッフに洗ってもらうのも、南極ならではのエチケットだ。
(7) リキャップ
オーシャン・ダイヤモンド号に戻ったのは17時を回ったころだった。18時から恒例のリキャップで、この日
のおさらいと今後の予定について説明があった。
1) 「ウエッデルアザラシ」 by アニーさん
この日見た、ウエッデルアザラシの生態などについて、アニーさんから解説があった。
2) 「ハロなどについて」 by 佐藤教授
ハロ、蜃気楼など南極で観察できる現象について定性的な説明があった。ハロの理論解析については
前号を参照されたい。
3) 「ガバナー号の遭難」 by ボブさん
フォイン・ハーバーで火災を起こし沈没したガバナー号について、歴史的な観点から解説があった。燃え
盛るガバナー号の写真がある。「波が静かな日には、船体の沈んでいる部分が見える」と言われているが
この日は見られなかった。それを、イラストで示してくれた。
この頃、爆薬つき捕鯨砲が普及し、母船式捕鯨法とあいまってクジラの大量殺戮の時代が始まっていた。
その結果、南極の海岸には、おびただしい数のクジラの骨が打ち捨てられることになった。
4) この日の予定
この後、夕食はデッキでのBBQ(バーベキュー)で、「帽子コンテスト」や「記念日のお祝い」などのイベン
トが盛りだくさんで、お楽しみが待っている。
『南極の真夏の夜の夢』は、花開くのだろうか。
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