古希記念 南極ミネラル・ウオッチング 南極探検旅行 【荒れるドレーク海峡】 ( Mineral Watching in Antarctica<BR>  Antarctica Expedition 2015 , - Rough Drake Passage - )









             古希記念 南極ミネラル・ウオッチング
             2015年 南極探検旅行 【荒れるドレーク海峡】

                  ( Mineral Watching in Antarctica
                   Antarctica Expedition 2015 , - Rough Drake Passage - )

4. 南極探検

 4.15 『波濤を越えて』【第9日目】

  (1) 乗船9日目「念願の一枚が撮れた!!」
       乗船して9日目だ。前々日の夕刻に南極の楽園・パラダイス湾を後にして、一路出港し
      たウシュアイアに向かっている。
       早朝4時前に目を覚ました。船のウネリは一段と大きくなり、船のあちこちで、”キー、キー”と、
      機械が軋(きしむ)むような音がする。
       南極で撮っておきたい写真の一枚が、舳先(舳)に波しぶきを浴びてドレーク海峡を渡る
      探検船”
だった。この荒れ模様だったら、撮れるかも知れないと思い、身づくろいして展望デッキに
      行ってみた。まだ外は真っ暗で、デッキに出ると、小雨混じりの強い風で吹き飛ばされそうだ。
       カメラを構えて待っているがまだ薄暗くて、ピントも合わないし、シャッター時間が長いため像
      が流れてしまっている。それでも、ジーッとカメラを構えていつ来るかわからないショットを待って
      いる。手先は凍えてくるし、雨風でカメラのレンズが濡れてくるので、時々拭き取ってやらないと
      いけない。
       4時半くらいになると薄明るくなってはきたが、期待した”波しぶき”はまだだ。それでも、うねり
      がだんだん大きくなってきているようだから、ここは辛抱だ。

       
                      船首方向
                    【1/29 4:23】

       この姿を見たよその人の目には、『キ印』としか映らないだろう。

      【後刻談】
       こんな早朝に、誰も見ている人はいないだろうと思っていたのだが、南極友・Tさんが一部始
      終を見ていたらしい。
       私が撮影を終えて、展望デッキに戻ると「ずーっと見ていたんですけど、MHは本当に何事に
      も熱心なんですね」、と声を掛けられ、”ギョ”とした。

       ピッチング(船首と船尾方向の傾き)がさらに大きくなり、舳先が海に突っ込むようになり、そ
      の時に波しぶきが上がる。周期の長いうねりと、短い波の合成の具合によって起こる現象なの
      で、一度起きると少なくとも数分待たないと次のチャンスは来ない。
       ついに、その瞬間が訪れた。時に1月29日、5時47分、写真とビデオを撮り始めて2時間近く
      が経っていた。舳先に当たった波しぶきがデッキの私のところまで飛んできて、カメラだけでなく、
      全身に当たる。

       
                         波しぶきを浴びてドレーク海峡を渡る
                                【1/29 5:47】

       念願の1枚と動画を撮り、満足して4階のザ・クラブに行きモーニングコーヒーとケーキをいた
      いた。

  (2) 朝の珍事
       7時過ぎに船室に戻ってしばらくすると、7時45分に突然、船内放送のスピーカーから”がな
      り声”が聞こえてきた。どうやら、歌を唄っているようだが、歌詞が不明瞭だし、”音符を母親の
      お腹に忘れてきた”MHとしては、上手いのか下手なのかの判断もつかない。
       30秒もして、静かになった。同室者と今のは何だったか話し合った結果、前の夜のオークシ
      ョンにあった「モーニング・コール」がこれだったんだと合点がいった。モーニング・コールはしてもら
      うものだとばかり思い込んでいたが、地球の裏側では”する”もありなんだと認識を改めたMHだ。
       落札した人が、船内放送で自分の好きなようにモーニング・コールをかけられるのだ。旅の写
      真集に、操舵室で、落札者がマイクを握って”がなって”いる姿が写真に収められていた。

       
                「モーニング・コール」する落札者

  (3) 船内生活最終日
       明朝ウシュアイア港に入港する予定で、船内生活最終日となるこの日のスケジュールは、
      「船内新聞」によると、引き続き「ドレーク海峡通過中」になっている。
       最終日ということで、キャプテン主催のさよならパーティなどの催し物があるはずだ。それと、
      個人的には、お世話になったスタッフへのお礼や記念品づくりが残っている。そして、最大の
      難問は、”荷造り”だ。

       
                      船内新聞・1月29日

  (4) ドレーク海峡横断中
      この日の7時ごろの『ブリッジ(操舵室)レポート』から、船の位置、天候などをまとめておく。

日付
時刻
 緯 度  経 度 累積航海距離
   (海里)
   (km)
気圧
(hp)
風向き・風速
  (NM/時)
  (m/秒)
気温
(℃)
日の出
日の入
1月29日
7:00
 南 緯
57°16.30′
 西 経
65°44.7′
1,502 1,008 西 25
  (12.9)
6 5:25
21:42

      気温は+6℃と5日ぶりに、5℃を超えているが、風が強くて横殴りの小雨も混じっていて、体感
     温度は低く感じられる。

      海図の上でこのときの位置とこの日の予定を確認する。前日のドレーク海峡の入口から、緯
     度で5度弱、経度で1.5度西に移動しているが、感覚的にはほぼ真北に移動した。ドレーク海
     峡を渡り終えた感じでウシュアイアイ港まで、約200海里(400km弱)だ。
      気圧が1,008hpと高気圧圏内に入ったようだから、天気も回復していくだろう。

       
                           航海図【1/29】

  (5) 「南極講座」
        この日も船外活動はないので、船の中での活動だけで、その中心は「南極講座」だが、
       それも今日でおしまいだ。

    1) 「オーロラの神秘とその仕組み」 by 佐藤博士
       北極、南極両極地といえば、夜空を飾るオーロラが人気で、オーロラを見に行くツアーも組
      まれているくらいだ。「オーロラ」とは、ローマ神話にでてくる「夜明けを告げる女神」の名前で、
      名付け親はガリレオだといわれている。

       
                      オーロラ
               【「旅する南極大陸」より引用】

       オーロラは電磁現象だ。つまり、太陽から吹き出される正(プラス)や負(マイナス)の電気を
      帯びた粒子と地球という大きな棒磁石の磁力線、そして地球を取り巻く大気の3つが奏(かな)
      でるハーモニーだ。

       太陽から「太陽風」と呼ばれる電気を帯びた分子や電子などの荷電粒子が絶えず吹き出
      しており、地球へも吹き付けてくる。
       地球は一つの棒磁石にたとえられる。棒磁石のN極とS極を結ぶ磁力線は、地球磁場では
      北極から南極へと、対照的な”リンゴの絵”のよいうになるはずだが、吹き付ける太陽風の影
      響で、磁力線は大きく変形する。
       太陽に面する側は、太陽風の圧力で磁力線が押し縮められ、反対側へは地球半径の数
      百倍に引き伸ばされる。

       
                              太陽風とオーロラ
                       【「ふしぎ大陸 南極展2006」より引用】

       この磁力線領域を「磁気圏」と呼ぶ、磁気圏には太陽風として吹き飛ばされてきた荷電粒
      子が蓄えられる。飛来したり、蓄えられていた荷電粒子は、何らかの原因で突然磁力線に
      沿って地球上に降り注ぐ。すると、降り注ぐ荷電粒子と大気(窒素や酸素)の原子や分子と
      衝突して発光する。その発光がオーロラで、降り注ぐ荷電粒子はオーロラ粒子とも呼ばれる。
       オーロラの発生頻度が高いのは地上から80〜120kmの高さで、電離層下部と呼ばれる領
      域である。

          
                 オーロラの発光原理                          オーロラの高さ
                               【「ふしぎ大陸 南極展2006」より引用】

       オーロラが北極と南極の両極でよく見られるのは磁力線が集中する地域だからだ。極域の
      中でも、「磁軸極」を中心に、太陽に対して昼間側で12〜13度、夜側では20〜22度離れ
      た楕円形のリング状の狭い領域での発生頻度が高い。この領域を「オーロラ(楕円)帯(オー
      ロラ・オーバル)」と呼ぶ。

       
                         南極の「オーロラ帯」
                     【「旅する南極大陸」より引用】

       南極や北極のどこでもオーロラが見られるわけではない。色彩豊かで動きの激しいオーロラは、
      「オーロラ楕円帯」内で見られる頻度が高い。
       昭和基地は、オーロラ楕円帯の存在が明らかになる前に建設されたが、幸運なことに、偶
      然オーロラ帯の真下に位置しており、オーロラ研究の最良の観測地点になっている。

       南極のオーロラ帯は、観光客が訪れることができる夏の間はほとんど暗くならず、オーロラが
      出現しても光の現象として見ることができない。
       オーロラを見るのであれば、北半球のオーロラ帯に行くのがよいようだ。

       
                        北極の「オーロラ帯」
                     【「旅する南極大陸」より引用】

       ご承知のように、磁軸の位置は日々動いている。永い地球の歴史を読み解くと、日本の近
      極があった時代もあった。数千年後には、日本列島でもきれいなオーロラが見られるようになる
      らしいのだが・・・・・・。

    2) 「北極クルーズ紹介」 by 瑠璃子さん
       南極の次は北極、という人を狙ってか、北極クルーズの紹介があった。ミネラル・マーケットで
      会った愛知の石友・Kさんに、「次は北極ですか?」と尋ねられたが、「北極は陸地がなくて、
      鉱物は氷(ICE:H2O)しかないから行こうと思わない」、と答えた。

    3) 「白瀬 ノブの探検について」 by ボブさん
       「南極講座」の締めくくりとなる最終講義は、この船が日本人だけのチャーターであることを
      意識してか、日本人による白瀬南極探検隊についてボブさんが話してくれた。

          
                 ボブさん                           タイトル
                         「白瀬 ノブの探検について」講演

       このページを読み続けてくださっている読者の皆様はすでにご承知と思うが、白瀬南極探検
      明治43年(1910年)から明治45年(1915年)までの3年間にわたる第一次と第二次の探検
      が行われた。

     ≪第一次南極探検≫
    明治43年12月1日館山を出航し、翌明治44年3月3日に南極圏(南緯66度30分以南)に入っ
   たが、南半球はすでに冬に向かいつつあり、日増しに厚くなる氷に進路を阻まれた。3月15日、開
   南丸は船首をオーストラリアに向け、解氷期に再度挑戦を期すことになった。
    ( 日本を出発するのが遅すぎたのだ )

     ≪第二次南極探検≫
    5月1日、シドニー港に入港し、この後6ケ月間、野営生活を送ることになる。ここで、4名が除隊、
   それを埋める形で田泉保直を含む4名が新たに参加した。
    11月19日、再び南極探検の途についた。南極に上陸後、白瀬らの「突進隊」は明治45年1月
   28日、南緯80度5分に到達、日章旗を掲げ、この辺りを「大和雪原(やまとゆきはら、現やまとせ
   つげん)」、と命名した。
    白瀬ら幹部隊員と村松秘書や田泉写真技師らは汽船で帰国し、開南丸は6月20日に、芝浦
   に帰還した。

          
                   第二次探検隊員                  アムンゼンの乗艦・フラム号との邂逅

          
                 南緯80度5分に到達                       ペンギンを抱く隊員

       これらの写真の中から、甲斐(山梨)出身の村松隊員や田泉写真技師の姿を探し出せる
      はずだ。

      【後刻談】
       ボブさんの講義の後、近くに座っていたご夫妻が、「私が子どものころ、近くに”タイズミ”と
      いう白瀬南極探検隊に参加したという人が住んでいた」と話し出した。よく見ると、前の夜の
      オークションで海図を最後まで競り合ったご夫妻だった。
       「”タイズミ”というのが姓なのか名前なのかもわからない」、という。詳しくお話を聞きに船室
      に伺った。この前後のことを帰国して真っ先に次のページに掲載した。

       ・ 白瀬南極探検隊  東京都出身 田泉 保直 写真技師
       ( Photographer Yasunao Taizumi from Tokyo , Shirase Antarctica Expedition )

  (6) 「ヨガ教室」
       16時から「ヨガ教室」が開かれ、最終回なので参加した。この日は、体を動かすのではなく、
      瞑想や呼吸などを重点にしたもので、長い船旅の締めくくりにふさわしいものだった。おかげで、
      スッキリとした気分になり、身体も軽くなった。
       最後なので、講師のサラさんと記念写真を撮らせてもらった。

       
                   サラさんと

  (7) 「パルカのたたみ方」講習会
       そろそろ、翌日の下船に備えて荷物の整理をしなければならない。まず、船に乗ってから借
      りた長靴を返す。私もそうだが、皆さんの悩みは乗船してから渡されて、上陸やクルージングの
      たびに着用した「パルカ」をどうするかだ。これは、乗船するまでなかったものだから、お土産品
      と同じで、新たに増える荷物になる。
       洋服と同じように畳んでスーツケースに入れてはみたが、かさばってほかのものが入らなくなる。
      スコッティさんが、「ラグビーボールくらいの大きさにパルカをたたむやり方を教えてやる」と言って
      くれていたのだったが、ニーズが多いと見えて、添乗員が全員に説明することになった。

          
                    たたみ方講習                            仕上がり

       あの”ボワボワ”のパルカが小さくたためるのか半信半疑で見ていたが、空気を押し出すように
      して畳んで最後に丸めると本当にコンパクトにまとまった。
       添乗員があまり器用な人でなかった(失礼!!)ので、仕上がりが今一つだが、うまくやれ
      ばもっとコンパクトに収まりそうだ。さっそく自分の船室に戻ってたたんでみる。一度では気に入
      らず、畳み直してみると、”枕”と同じくらいの大きさにまとまった。

       ここで、”欲”が出た。パルカは、市価1万円くらいするらしい。同室者は、奥さんへのお土
      産としてすでに奥さん用の”Sサイズ”を探してきて畳み終えている。4階のエクスペディション受付
      の前に段ボールが置かれ、持ち帰るのを断念した人たちが入れたパルカが10着くらい入って
      いた。この中から、Sサイズを探し出し、畳んで妻へのお土産がもう一つできた。
       ( これらのパルカは、チャリティ用に寄付されるらしい )

       そろそろ荷造りにかかる。まずは、持ち帰るものと置いて行くものを分別する。置いていくもの
      の筆頭がほとんど使うことがなかった「ハンマー」だった。そのほか、百均で買ってきたようなもの
      は置いていく。
       ”ホッカイロ”も半分以上残っていたので、未開封のをアニーさんに”To warm your heart
      and body ”、という言葉を添えてお礼にお渡しした。

       こうして、スーツケースとバッグに詰めてみると、何とか口が閉まった。重さも、アルゼンチンの
      国内便の重量制限18kgぐらいだろう。

  (8) 「記念封筒」作成
       南極探検に参加した記念として考えていた郵趣品の一つが、エクスペディション・スタッフや
      船の乗組員などからサインをもらった記念の封筒を作成することだった。前の夜のオークション
      でも、スタッフのサインが入った写真や探検旗が出品され、そこそこの値段で落札されていたこ
      とからも記念品としてはそれほど奇抜なものではない。誰のサインを貰うか、そう悩むことなく
      4人にお願いした。

       
              リーダー・ウッディさん              スタッフ・アニーさん
             ウラジミール一等航海士               オレグ船長
                          サイン入り記念封筒

       【後日談】
       封筒に消印を押してもらったのは、翌日下船して自由時間に訪れたウシャイアの郵便局だ
      った。

  (9) 記念写真
       いよいよ翌日下船となり、手土産を渡しながら、記念写真を一緒に撮らせてもらった。その
      一人がウラジミール一等航海士だった。

       
            ウラジミール一等航海士と記念写真

  (10) 「オークション」続き
       操舵室に行くと、添乗員のKさんが船の”舵輪(ハンドル)”を握っているではないか。前の夜
      の「オークション」で船の操縦権を落札していたのだ。
       船尾に行って船の航跡をみると、大きく左に舵を切っていたことが解った。

          
                  操舵するKさん                         大きく左に舵を切った航跡

       【後刻談】
       Kさんが舵を握っていたころ、船室では船酔いで気分の悪い人が多かったらしい。皆さんの結
      論は、「Kさんの操船がマズイので船酔いがでた」、ということになったようだ。
       お土産としてもらったDVDの「南極写真集」には、Kさんが操舵しているとき、”衝突する!!”
      というパロディ風の写真があったので紹介する。(毎航海のことらしい)

       
                      「衝突する!!」

  (11) 「最後のおさらいとスライドショー」
       17時半から最後のリキャップが開かれた。

       
                     最後のリキャップ

       ここで、『南極探検証明書』がひとり一人に授与された。到達最南地点は、南緯64度51分、
      西経62度54分だったと記してある。アルゼンチンのブラウン基地のあたりだ。

       
                           『南極探検証明書』

       サイモンさんが作ったスライドショーを見ていると、ウシュアイアの港でオーシャンダイヤモンド号
      に乗船してからここまでの旅のいろいろな場面が次々と映し出される。自分の姿を見て、その
      ”恰好悪い”のも、「旅の恥はかき捨て」だ。

  (12) 「さよならパーティー」
       夕食の前に、キャプテン主催の「さよならパーティー」があった。最初に、船の運航を支えて
      くれ、われわれをもてなしてくれた乗組員が紹介された。

       
                オレグ船長   

          
                   ルームサービス                               パーサー

          
                     調理人                                  受付嬢

       オレグ船長の音頭で「乾杯!!」して、お開きだ。

  (13) 南極よさらば
       夕食を終えてデッキに出ると、22時近いというのにまだ外は明るい。海も穏やかで、夕日に
      波頭がキラキラ光っている。左舷の方に南米大陸に連なる島影が見え、南極ともおさらばだ。

          
                夕日に光る南極の海                              島影が見える

       船室に戻り、荷造りを再チェックし、日記を書いてベッドに入ったのは0時を回ったころだった。

5. おわりに

 5.1 南極の今
      最近になって古書店で入手したNHKの記者らが執筆した「南極取材記 白い大陸はいま」を
     読んだ。宗谷が昭和基地に上陸した昭和32年(1957年)から22年後の昭和54年(1979年)
     第20次観測隊と共に世界初のテレビ衛星生中継「南極」の番組づくりに参加したNHKのスタッ
     フなど報道陣が昭和基地に上陸した。
      NHKスタッフの一部がそれぞれの持ち場で、昭和基地と外国基地で体験した南極とその印象
     を綴ったものだ。

      巻末近くに『新時代を迎えた南極」、という一章があり、当時の南極の状況と将来予測が書
     かれている。
      私が南極を訪れたのはこの本が書かれてから36年経った2015年で、将来予測と「南極の今」
     とを対比してみた。

 区  分    小 区 分   将来予測
  【1979年】
   現  状
  【2015年】
予測の適否
天然資源 鉱物資源 石炭・鉄鉱石など膨大な
埋蔵量はあるが、開発できるか
不透明
 「南極条約議定書」で
「すべての鉱物資源の
商業的開発を
50年間禁止」
   〇
石油・天然ガス  非常に近い将来、
採取有望となり、
続いて産出が行われる。
   ×
水産資源  オキアミは日本
漁業にとって大きな
潜在資源になる。
 資源が枯渇しない
年間漁獲量は7千万〜1億1千万トン
と膨大

 タラ類の漁場の
可能性がある。

 オキアミの全世界漁獲量は
年間15万トン

 日本ではチーズや
スープの素、調味料として
年間3万トン

   ×
氷山  アラブの砂漠の国が
氷山を曳航し淡水を
得る。
 フィルタ技術の革新で
海水の淡水化コスト
が大幅にダウン
   ×
新利用法 食糧貯蔵庫  天然の冷凍・冷蔵庫として
小麦・肉などの余剰農産物を
保存
 地球規模の人口増で
小麦など不足し余剰なし。
   ×
放射性廃棄物貯蔵  廃棄物を安全な容器に入れて
内陸に置き、自然に氷の下に
沈むのを待つ。
「南極条約」で核実験と
放射性廃棄物の処理は
禁止
   ×
観光・運輸 観光  年間数百人の観光客
今後、交通の便が良くなり
費用が安くなれば観光のメッカに
なる可能性あり。
 年間観光客は1万人で
費用も金額は当時と同じ

 上陸人数などに厳しい制限があり、
大幅な増加は望めない。

   ×
航空路  南回り航空路も近い
将来実現
 商業航空路はない。    ×

      この本の中でも、「未来を夢みるあまり、南極をあまりにもバラ色に書きすぎたかもしれない」、
     と断っているように、予測のほとんどが”外れ”ている。
      南極の領土問題は棚上げされ、鉱物資源の商業的開発は禁止されるなど、これらは、ある
     意味で人類にとって幸せなことかもしれない。
      南極は人類共有の貴重な財産として、調査、研究、そして人数を限った観光などにのみ利
     用されるのが望ましい、というのが私の現在の心境だ。

 5.2 南極から見た日本
      日本を離れてから約半月の間、日本に関する情報は極めて少なかった。唯一のニュースは、
     「シリアの人質事件」くらいだった。

      日本は平和な国なんだなー、と改めて思う。「これは、日米安保条約があるからだ」、などと
     戯言(たわごと)を言う大臣や議員がいるのが気になる。
      戦前の天皇の神格化、軍部の暴走、機能しない議会の痛切な反省を教訓に、理想的と
     言えなくもない平和憲法のもとで、70年間戦争をしなかったことも世界から認められているのだ
     ろう。

      2015年6月13日、作家の高橋 治氏が亡くなった。氏の著作で私が読んだのは、シベリア出
     兵(1918年―1922年)に題材をとった「派兵」だけだ。未完に終わった「派兵」は、第1部〜
     第4部までで、総ページ数 1,700ページほどあり、読みごたえがあった。

      議会に諮(はか)らずに「閣議決定」という形で、出兵の規模や予算が決められてしまう悪い
     ルールがまかり通るようになったのがこの時代(およそ100年前)だった。しかも、アメリカの思惑に
     巻き込まれての共同出兵だったとこの本を読んで知った。
      「アメリカ兵は戦闘地域から離れた沿岸部で日給2円を貰ってのうのうと遊び暮らしているのに、
     日本兵は極寒のシベリア鉄道沿線の最前線で部隊が全滅することすらあった危険な状態で、
     月給が1円何がししかもらえず、・・・・・・」、と書き残している兵士もいた。

      結局、これが沖縄・広島・長崎そして東京をはじめ多くの都市の民間人をも巻き込んだ、
     悲惨な戦争につながって行ったと思う。

      昨今の政治の動きを見ていて、この時代にだけは逆戻りして欲しくないという思いが募(つの)
     る。

6. 参考文献

 1) NHK取材班編:南極取材記 白い大陸はいま,日本放送出版,昭和54年
 2) 朝日新聞社編:ふしぎ大陸 南極展2006,朝日新聞社,2006年
 3) 神沼 克伸:旅する南極大陸,三五館,2007年


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