栃木県足尾町鉛沢の鉱物

          栃木県足尾町鉛沢の鉱物

1. 初めに

   2004年を代表する鉱物は、西の奈良県川迫(こうせ)鉱山のレインボー柘榴石で
  東は栃木県足尾町鉛沢の紫水晶ではないだろうか。
   関西の石友連の話やメールでは、レインボー柘榴石の産地では、地元の警察が
  取り締まりに当っているとか、かつての産地は根こそぎ取り尽くされて、カケラも
  採れないとも聞いた。
   一方の鉛沢はその後も訪れる人が多く、太い木が何本も倒れ、「第2の雨塚山」と
  化している、と教えて頂いた。
   私が文献で調べた限りでは、「鉛沢の紫水晶」が登場するのは、明治37年
  (1904年)和田 維四郎が著わした「日本鉱物誌」が初めてであろう。これを増訂と
  いう形で大正5年(1916年)に神保 小虎、瀧本 鐙三、福地 信世の3氏が「日本鉱物誌」
  (以下、間違いやすいので「日本鉱物誌第2版」とする)を著わした。この中に『鉛澤の
  流紋岩中にある金属鉱脈中に産す。』
 とあるが、現地を訪れても鉱脈らしきものは
  なく、いったい何の鉱脈なのかが疑問であった。
   神奈川県に住むK氏が永い間、足尾銅山に勤務されたことを知っていたので直接
  電話で問い合わせをしたり、伊藤 貞市、桜井 欽一両氏による「日本鉱物誌(上)」
  (以下、間違いやすいので「日本鉱物誌第3版」とする)なども調べてみたが良く
  分からないので、再び現地を訪れて調査した。
   今回は、紫水晶はそっちのけで、”鉱脈”を突き止めることを主眼にした。その結果
  鉛沢では、氷長石が多く見られ、幼脈性(陶器質)石英には、銀黒らしき脈も見られ
  その晶洞部には「輝銀鉱」が認められた。
   以上のことから、鉛沢では、明治初年か中期に(金)銀を採掘(試掘?)したと
  推測している。
   もし、お分かりの方がおられたら、ご教示よろしくお願い致します。
  (2005年7月調査)

2. 産地

    「日本鉱産誌」に記述された鉛沢の紫水晶に関する記述を比較してみた。
   これらを丹念に読むと、@産地 A産状 B産出した紫水晶の特徴 がわかる。

書名著者執筆年            記述  備考
日本鉱物誌和田 維四郎明治37年
(1904年)
下野足尾町庚申山の産は六角柱にして
自然に尖り柱面と錐面の区別をなさず
最大なるものは径40ミリ以上なるもの
少なからず。且つ其長さ
150ミリ以上に達するものあり。
色は紫色なるも淡にして且つ美ならず。
この産は伯耆藤屋村産と共に
明治初年より知られたるものなるも
今は其産出多からず
同足尾鉱山に於ても往々
淡紫色なるものを産す
         
日本鉱物誌
第2版
神保 小虎
瀧本 鐙三
福地 信世
大正5年
(1916年)
下野國庚申山道の紫水晶は
足尾鉱山小瀧より庚申山に登る途中
鉛澤の流紋岩中にある金属鉱脈中に産す。
色は淡紫なり。結晶面は m r z にして
六角錐式尖端を有す。
時に m 湾曲して次第に
r 及 z に移化するものあり。
その大きさは種々あり。
最大なるは長さ15センチ直径4センチに達す
「鉛澤」初見
日本鉱物誌
第3版
伊藤 貞市
桜井 欽一
昭和22年
(1947年)
栃木縣鉛澤の紫水晶は
流紋岩中の金属鉱脈に産す。
淡紫色にして m,r,z よりなり
先端は六角錐式を示す。
時に m 湾曲し、次第に r 及 z に
移過するものあり。
長さ15cm直径4cmに達す
   

   産地は庚申山(1892m)への参道近くである。現在も坑口が残る小瀧坑よりも庚申川の
  上流側にあった。

       
          坑口                火薬庫跡
                足尾銅山小瀧坑

   「足尾鉱山の紫水晶」は別に項を設けて説明しており、分けて記述しているところから、
  「日本鉱物誌」が書かれた頃(元々?)、足尾鉱山とは何の関係もない産地であった。
   ( 足尾鉱山の一部であれば、”足尾鉱山鉛澤坑”とか呼ばれていた筈。
    ここの紫水晶は明治初年から知られていたとあるが、足尾銅山は江戸時代
    ”足尾千軒”と呼ばれ賑わった時期もあったが、幕末には人家が僅かに5軒という
    寂れようであった。足尾銅山が本格的に稼行したのは、古河市兵衛が明治10年
    (1877年)に再開に着手してから10年近く経った明治17年(1884年)5月に『横間歩ひ』で
    富鉱脈が発見されて以来であった。)
    

    埼玉のW氏によれば、『渓流釣りの本に、”鉛沢”が載っていて、何回か通ったが
   白水晶だけで、紫水晶は、採れなかった』 
    同氏は『鉱脈をダイナマイトで爆破したので、紫水晶が四方八方に散らばっている』
   との持論を紹介してくれた。

    足尾銅山に永く勤務したK氏によれば、『昔、東京上野の国立科学博物館で「日本
   鉱物誌」に記載されているのと同じと思われる「鉛沢の紫水晶」を見た。
    足尾鉱業所で”鉛沢”の場所を聞いたところ1人だけ知っていて早速訪れた。参道から
   ものの10mも下り庚申川を渡って産地に着いた。3cmほどのものを1、2本拾っただけで
   こんなもの(もう採れない)だろうと思っていた。
    最近、「鉛沢を教えて欲しい」と言われ、訪れてみたが、参道(林道)が庚申川から
   だいぶ上に付け替えられ、昔とすっかり変わってしまっていて驚いた』

    「日本鉱物誌(第1版)」が出る3年前の明治34年2月に東京帝国大学・理科大学
   地質学教室が所蔵している鉱物をまとめた「日本礦物標品目録」を読むと紫水晶の部には
   磐城刈田小原(現雨塚山)、伯耆(現鳥取県)藤屋などと並んで『下野(現栃木県)日光?』と
   なっている。産地に疑問符 ”?” が付けられており、調べに当った人(学生?)が日光では
   ないだろう と考えたようで、これは日光近くの「鉛沢」のものと思われる。
    ( 鉛沢から日光まで、直線距離なら20km(5里)で、昔の人の足なら半日(6時間)も
     かからない距離です)

3. 産状と採集方法

    「日本鉱物誌」では、一様に『流紋岩中にある金属鉱脈中に産す』とある。

 3.1 流紋岩(Ryholite)とは?

     「原色鉱物岩石検索図鑑」には ”石基が大部分ガラス質の石英粗面岩(Liparite)で
    石基に流状構造があるものが多いのでこの名がある” とあります。代表的なものとして
    長野県和田峠の満バン柘榴石を含む溶岩が流れた構造をもつ灰白色の岩を思い
    浮かべれば良いでしょう。
     しかし、現地で見られる紫水晶の母岩は、狭い意味での”流紋岩”とは思われません。
    最近でこそ、流紋岩は石英粗面岩と同じ意味に使われていますが、明治時代には
    別物だったはずです。
     いずれにしろ、紫水晶の産状として次の2通りが観察できた。

     産状@ 粘板岩の割れ目に石英粗面岩やそれから分泌したと思われる透明な石英が
          貫入し、その空洞(ガマ)部分に紫水晶、氷長石、白(透明)水晶そして緑簾石が
          晶出している。
           粘板岩は、石英粗面岩との接触変成作用でフォルンフェルス化して、一部に
          菫青石を生じているものもある。
           粗面岩中のカリ長石がピンク色のモンモリロン石に変質しているのも見られる。
           晶洞は高さが低く、紫水晶は”寝た形”で成長しているものがほとんどで
          柱面に母岩を噛んだものや、両端が母岩のフォルンフェルスに接している
          ものも多い。
     産状A 幼脈性(俗に、白粉(おしろい)肌と呼ばれる陶器質)石英塊の周辺を半透明
          石英が取り巻き、その上や晶洞の中に紫水晶、白(透明)水晶が晶出している。
          晶洞は小さく、紫(白・透明)水晶の結晶は小さいが、透明感があり、エッジも
          シャープで美しい。

           両方の産状とも、晶洞全体が紫水晶になっている場合は稀で、晶洞の中の
          一部分や1、2本が紫水晶であるケースが多い。
          

          
             産状@               産状A
                     紫水晶産状

   3.2 何を目的に掘ったのか?

      『金属鉱脈中に産す』 とあるが、どの金属を目的に掘った鉱脈なのか分からな
     かった。
      永い間足尾鉱山に勤務されたK氏に尋ねると『鉛沢という名の通り、鉛を掘った
     のではないか』 とのことであった。
      鉛を掘ったとすれば、「方鉛鉱」が見つかるはずだが、そのカケラも見当たら
     ない。ましてや、鉛の2次鉱物たる「青鉛鉱」「緑鉛鉱」の影すら見られない。

      産状@の石英粗面岩が赤茶色に汚れた部分があり、”鉄”系統の鉱物があることを
     匂わせていて、ごく部分的に微細な「黄鉄鉱」が産する。

      産状Aの陶器質石英には、銀黒様の筋が見られ、半透明石英部分に接して小さな
     晶洞が見られる。そこには、「輝銀鉱」と思われる、黒いサイコロ様粒状結晶が集合した
     鉱物が見られる。

      いずれの産状でも、経済的に採算の合うほどの鉱脈ではなかった と思われる。

      そうなると、「紫水晶」そのものを目的に掘ったことも考えられなくはないが、鉛沢の
     紫水晶は柱面そのものが尖り、断面に内接する円の径は思ったより小さく、”印材”
     などには向かなかったと思われる。稀に長さ10cmを超え、立派に”印材”として使える
     ものが、ズリに捨てられているのは理解に苦しむ。

   3.3 いつ頃掘ったのか?

  (1)産業・生活遺物を手がかりに
     鉱物産地を訪ねると石臼、陶磁器片、ガラス片など当時の作業や生活を偲ばせる
    「遺物」が出てくる場合がある。
     鉛沢では、露頭を掘っていたら、ガラス片が多数出てきた。これらを組立てて見ると
    キリンビール社のビール瓶であった。底には、”丸に十”のトレードマークが、側面には
    ”KIRIN BE(ER)  KO(BE)"と鋳込まれており、いつ頃造られたものか調べているが
    キリンビールの創業が明治40年(1907年)であり、このビンはここを採掘しているときの
    ものではなさそうである。それどころか、”現代?”のものかも知れません。

      瓶底”丸に十”印

  (2)足尾鉱山で銀を掘った時期は?
     鉛沢のある「庚申山参道」の出発点である「かじか荘」のある一帯を「銀山平(ぎんざん
    だいら)」と呼んでいる。何でも、明治24年(1891年)にこの辺りで探鉱を進めていたところ
    ”銀”が採掘されたので「銀山」と称した。
     その後、明治18年から採掘を開始した小瀧坑が明治26年(1893年)11月に備前楯山の
    下を3,005m掘り進み本山坑と貫通、更に通洞坑とも竪坑で繋がった。採掘量が飛躍的に
    増え、出てくる廃石(ズリ)もそれに伴って増加し、明治35年(1902年)「小瀧索道」を敷設
    ズリ石を「銀山」に運び整地し、平坦な場所ができたので「銀山平」とした。
     「鉛沢」は、この明治24年に銀を採掘した場所かも知れない。しかし、小瀧坑の例のように
    ”掘止”されていた古い露頭を掘ったとも考えられ、そうすると明治初年に掘ったとする
    「日本鉱物誌」の記述が納得できる。

 3.4 採集方法

   (1)産地はどうしてできたか?
      採集で現地を見て、産地がどうしてできたのか、私なりに”大胆(無謀?)な仮説”を
     立ててみた。

       産地見取り図

    仮説@ 狭い稜線上にあった石英脈の露頭 [A] [B]に(金)銀鉱の兆候を認め
         ノミと鎚を使って、手掘りした。
          石英脈露頭 [B] は、富鉱であって、スッカリ掘り抜き、その跡が写真に
         示すように天井が抜けた坑(空堀)になっている。
          (ここでは紫水晶どころか、白水晶もほとんど採集できなかった)

          
              露頭A               露頭B
                      石英脈採掘跡

    仮説A 露頭 [A]から掘ったズリ石は、@ A B の3方向に投げ捨てた。
         それらが現在ズリ1、2、3 となって残っている。


         ズリ1           ズリ2             ズリ3
                     ズリ石廃棄場所

    仮説B 石英脈 [A] は、「鉛沢」を挟んだ反対の斜面にも延びていて、石英脈 〔A'〕
          となっている。

    仮説C 同じように、石英脈 [B] は、石英脈 [A]−[A'] と平行な方向に延びていて
         石英脈 〔B'〕 となっている。

  (2)具体的な採集方法

    a)ズリを掘る
      「紫水晶」は、”ズリ石”として、露頭から捨てられたので、それらが堆積している場所
      ズリ@、A、Bを掘るのが一番確実です。
      「2005年GWの採集会」では、@は東京Hさん、Aは女性陣と中学生、Bは青壮年男子
      と手分けして掘ってもらった次第です。
       @ABに至る途中の「岩だな」や「木の根っこ」に引っかかっている可能性もあり
      それらの場所もねらい目です。
       ズリの表面には、真っ黒い土砂が覆い被さっており、その下にわれわれが
      ”バージン・ズリ”と呼ぶ採掘時にできた”初生ズリ”があり、この層を探し追いかけて
      掘ることがポイントです。

       初生ズリ【鍬の先の黒い層】

    b)露頭を崩す
      露頭 [A] には、残された紫水晶があるはず と読んだ愛知・KAさん初め数名が
     取り組んで、大きな群晶(紫水晶は小さい)を採集した。
      当然、石英脈の延長方向 [A'] にもあるはずと読んだ東京・Mさんは、大きな
     紫水晶の群晶を採集したが、水晶は石川県尾小屋鉱山産の”キャンドル”タイプに
     似たもので、いわゆる「鉛沢の紫水晶」とは、違っている。
      私が[A'] の近くで採集したのは、小さなものだがシャープで透明感のある母岩付き
     六角柱状結晶であった。

    C)表面採集
       ズリの土砂は、母岩の粘板岩が混じっているせいか真っ黒で、ズリを掘ったときに
      紫水晶の見落としもあり、雨上がりなどには、表面を見て回るだけでも、採集できる
      ことがある。
       しかし、最近では、訪れる人も多く、”うまみ”は今ひとつです。

      従って、ここで良品を採集しようとすると、”ひたすら掘る”に尽きるようです。

4. 採集鉱物

 (1)紫水晶【Amethyst:SiO2】
     ここで最近採集した紫水晶を示します。

          最近の採集品

    「日本鉱物誌」には、鉛沢産紫水晶の特徴として、次のように述べています。

   @『 色は淡紫なり 』
      色は、薄い紫のものが多い。ほとんど透明と思われるものがあるがそれらが
     最初から透明であったのか、ズリに永い間放置された間に紫外線を受け
     俗に言う”色が抜けた”のか判断がつきません。
      ( 明治初年に太陽の下に出たとすると、140年近く経っていることになります)
      一方では、部分的に”濃い紫色の帯”をもったものや、濃い部分が”山入り”状に
     なった紫水晶もあり、結晶が成長する段階で着色原因となった金属イオン(チタン
     またはマンガン?)の濃度や温度など結晶が成長する条件に変動があったことを
     示している。

       山入り

     ( これらの条件は、地球と言う大きな”結晶成長(Crystal Growth ) 装置では
      短時間には変動しないことを考えると、結晶の成長には、長い時間がかかった)

   A『 結晶面は m r z にして六角錐式尖端を有す。時に m 湾曲して次第に
      r 及 z に移化するものあり』
       結晶は、六角柱状で、柱面をなすm面、正の菱面体をなす r面、負の菱面体を
      なす z面 で構成している。 r面、z面 が交互にあり、六角錐を形作っている。
       鉛沢の紫水晶の大きな特徴は、六角柱が先細り、というより先尖りになっている
      ものが多く、その結果、m面−r面、あるいはm面−z面の境界がハッキリしない
      ものがあるということであろう。

       水晶結晶図【「鉱物」より引用】

   B『 最大なるは長さ15センチ直径4センチに達す』
      大きさは、最大直径4cm、長さ15cmであったようで、「某探検隊」のHPでは
     長さ12cmのものを採集したとあり、私が採集した、頭付き最長のものは7cm
     最大径は4cmを超え(ただし、頭なし)「日本鉱物誌」の記述を裏付けています。

       
    最大径4cm【根元だけ】          最長7cm
                   紫水晶採集品

      しからば、直径4cm、長さ15cmの結晶はどんな形だったのか、再現してみましょう。
     長さ、直径を1/5に縮小すると、長さ3cm、根元の太さ8mmとなり、これだったら
     鉛沢を訪れた人なら、どなたでも1本は持っていると思います。

                模式標本【1/5モデル】

      よその産地の水晶に比べ、”やや細長い”感じであることが分かります。

 (2)氷長石【Adularia:KAlSi3O8】
     正長石の一種で、ガラス光沢、菱面体(マッチ箱をひしゃげた形)結晶で紫(白・透明)
    水晶の間や晶洞の基盤(俗にゲス板)を構成して産出する。氷長石は、熱水から低温で
    生成し、本邦の金銀石英脈に多い、とされている。
     他のカリ長石が「モンモリロン石」に変質しているものがあるのに比べ分解しにくく
    半透明のピカピカの結晶を保っている。
     菱沸石とも考えたが、結晶の角の角度が狭く(尖り気味)、氷長石と鑑定した。

      氷長石

 (3)黄鉄鉱【Pyrite:FeS2】
     晶洞の基盤をなす長石(モンモリロン石)の間に淡黄色、金属光沢の結晶で産する。
    一部は褐鉄鉱に変質し、母岩を茶色に染めている。

      黄鉄鉱

 (4)輝銀鉱【Argentite:Ag2S】
     幼脈性(俗に白粉肌と呼ぶ陶器質)石英には、銀黒が見られ、それに接する
    透明石英の晶洞部に塊状で認められた。

      輝銀鉱

 (5)モンモリロン石【Montmorillonite:(Na,Ca)0.3(Al,Mg)2Si4O10(OH)2・nH2O】
     淡いピンク色の土状、長石の分解物として産する。水溶性で、クリーニングしようと
    水で洗っていると、溶けてなくなるので、要注意

      モンモリロン石【ピンク色部分】

 (6)緑簾石【Epidote:Ca2(Al,Fe''')3(Si2O7)(SiO4)O(OH)】
     黄緑色半透明、細柱状結晶集合体として透明水晶の間に晶出する。
    足尾銅山では燐灰石が産出するので、初めはそれかと思ったが、柱の断面が
    菱形に近い四角形なので、緑簾石とした。

      緑簾石

 (7)菫青石【Cordierite:(Mg,Fe'')2Al3(Si3Al)O18・H2O】】
     菫青石が分解して、桜石【Cerasite】となって、粘板岩から変成したフォルンフェルス
    中に斑状変晶として産する。擬六方形双晶が美しい六弁の桜花断面を示すので
    この名があり、地元では、”渡良瀬桜石”と呼ばれ、国民宿舎「かじか荘」の
    売店では1つ1,000円で売っている。
     鉛沢が合流する庚申川で拾えるが、標本として手ごろな”掌大”のものを探す
    のには苦労する。(大きいのは、いくらでもある)

      渡良瀬桜石

5. おわりに

 (1)久しぶりに鉛沢を訪ねてみると、採集する人が多く、しかも”プロ”と思われる手口で
    太い木が何本も倒されており、「第2の雨塚山」と表現されたとおりである。

    鉛沢【2005年7月】

  (2)鉛沢は、明治初めか中ごろ、尾根筋の金銀鉱の富鉱帯を採掘し、それに伴って
    紫水晶が産出したものと想像している。
     足尾鉱山では、まず露頭の金銀鉱を掘り更に地下に掘り進むと銅鉱脈に当ったと
    聞いているが、鉛沢では銅鉱脈に当らず、そのまま捨て置かれたものと思われる。
     足尾銅山観光で土産物を物色していた時、以前足尾鉱山で「探鉱」作業に従事して
    いたという人の話を聞いた。『今日は、この沢からあの尾根』と範囲を決めて
    露頭や転石を徹底的に探し回ったらしい。
     鉛沢もその様にして、名も知れぬ”山師”によって発見され、埋もれて行った産地の
    1つであろう。

  (3)「日本鉱物誌」に記載された長さ15cm、直径4cmの紫水晶は「和田標本」には
     見当たらない。
      K氏のお話では、国立科学博物館にあるのではないか、との事なので、まだ
     訪れたことがない科博をいつか訪れるのを楽しみにしている。
      国立科学博物館の収蔵「紫水晶」を検索してみると、『鉛沢』産と表示された標本は
     なく、『足尾町』産が3本あるので、これらの中に『鉛沢』産があればと期待
     している。

                 国立科学博物館収蔵 紫水晶一覧
  産地 数量  備考
足尾銅山5  
足尾町2  
足尾町須葉山1  
栃木県富井鉱山3  
栃木県南沢鉱山1  
陸奥湯ノ沢(鉱山)2現青森県
秋田県荒川鉱山3  
磐城小原村19現白石市雨塚山
福島県鈍子岩鉱山1  
福島県高子鉱山1  
越後綱木村2   
越後湯ノ沢山2   
越後高石3   
越後栄山1   
佐渡佐渡鉱山1  
新潟県鹿瀬1  
静岡県清越鉱山2桜井欽一氏寄贈品含む
静岡県湯ヶ島鉱山1桜井欽一氏寄贈品
加賀尾小屋鉱山(?)2現石川県
加賀遊泉寺6現石川県
近江田ノ上山4現滋賀県
摂津多田銀山1現兵庫県
広島県金平鉱山2   
伯耆藤屋30現鳥取県
石見龍雲寺山1現島根県
島根県真山1   
未詳・不詳2   

     この表を眺めていると、古典的有名産地(旧国名表示された産地)で訪れていない
    産地が数多くあり、それらを訪れるのも楽しみです。
     (四国、九州産のものが全くないのも、私にとって驚きです)

  (4)最後になりましたが、本ページをまとめるに当り、足尾銅山や鉛沢の紫水晶に
    ついてご教示いただいたK氏に、厚く御礼申し上げます。

6. 参考文献

1)柴田秀賢、須藤俊男:原色鉱物岩石検索図鑑,北隆館,昭和48年
2)和田維四郎著:日本鉱物誌第1版,和田維四郎,明治37年(1904年)
3)神保 小虎、瀧本 鐙三、福地信世:日本鉱物誌第2版,丸善,大正5年(1916年)
4)伊藤 貞市、桜井欽一:日本鉱物誌第3版,中文館書店,昭和22年(1947年)
5)松原聡:日本産鉱物種,鉱物情報編,1987年
6)日向 康:果てなき旅,福音館,1979年
7)益富 寿之助:鉱物 −やさしい鉱物学−,保育社,昭和60年
8)東京帝国大学・理科大学地質学教室調:日本礦物標品目録,同大学,明治34年
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