福井県和泉村中竜鉱山の鉱物

福井県和泉村中竜鉱山の鉱物

1.初めに

 石友のNさん御夫妻と「自然砒」で有名な赤谷鉱山で”金米糖”や”サイ形”の
採集を楽しんだ後、現地でお別れした。
 Nさんご夫妻は、愛嬢Nさんがお宅で待っておられるとのことで、結局私ども夫婦より
先に自宅に帰り着かれた、とのメールを頂いた。
 私どもは、家に待つものの居ない気楽さ(悲しさ?)、目一杯、北陸を楽しもうとの
考えで、赤谷鉱山から山梨県のある東に向かって走った。
 大野市を過ぎ、九頭竜川の上流の和泉村に入ると、「アドベンチャーランド・中竜」の
看板が目に飛び込んできた。
 ここは、中竜鉱山の坑道跡を観光坑道に仕立てた場所で、一度は訪ねて見たいと
思いながら、中竜鉱山で産出した鉱石そのものが地味なので、”Mineralhunters"
食指を動かさなかったのも事実です。
  「アドベンチャーランド・中竜」
 今回、夫婦で訪れ、中竜鉱山産の鉱物を購入したり、中竜鉱山やその一部であった
”仙翁坑”などについて、売店の従業員や坑道を案内するバスの運転手に根掘り、葉堀り
聞くので、辟易したのか、はたまた感心したのか不明ですが、「中竜鉱山の鉱物セット」や
「アドベンチャーランド・中竜 -地底探検の里-」のパンフレットを頂くなど、思い出深い
訪問になった。
(2003年7月訪問)

2. 場所

 大野市から和泉村に入ると、「アドベンチャーランド・中竜」の看板があちこちにあり
それに従がうと、自然に到着します。
 定休日が第2木曜日で、しかも12月初旬から3月下旬まで豪雪で(?)休業と言う変則的な
営業のため、戸惑う客が多いせいか、オープンしている日は、「本日営業中」の看板が
道路脇のあちこちに出ている様です。
(が、休業日に行ったことがないので、詳しいことは何とも言えません。)

3. 中竜鉱山の地質・鉱床と歴史

 3.1 中竜鉱山の地質・鉱床
   「アドベンチャーランド・中竜」の案内パンフレットによれば、中竜鉱山の鉱石は
  石灰岩などの堆積岩の中にある。この石灰岩には、小さな化石が含まれており
  この化石の研究から、石灰岩ができたのは今から2億4千万年〜4億6千万年で
  赤道付近の海底にサンゴなどが堆積したものであることが解った。
   堆積物は、プレートに乗って北上し、当時中国大陸と陸続きだった日本(飛騨大陸?)の
  縁に付け加わった。
   この後、隆起や沈降があり、約6500万年前(新生代第三紀)、マグマが地表近くまで
  貫入し、石英斑岩となり、中竜地方は再び隆起した。マグマ活動の晩期に、銅・鉛・亜鉛を
  溶かしこんだ熱水が地下浅いところまで上昇し、藤倉谷層石灰岩と反応した結果
  接触交代鉱床(いわゆるスカルン)の代表鉱物の灰鉄(ヘディンベルグ)輝石が
  できると同時に中竜鉱山の銅・鉛・亜鉛鉱石を生じた。

  中竜鉱山の生い立ち【パンフレットから引用】

   鉱床は、北の和泉村から南の大野市に跨り、代表的な坑として、北から「中山」「人形」
  「仙翁」「大平」「黒当戸」の5つがあった。

  中竜鉱山模式図【パンフレットから引用】

 3.2 中竜鉱山の歴史
   「アドベンチャーランド・中竜」の案内パンフレットによれば、中竜鉱山の沿革は
   次の通りです。
    ベルギー人まで登場する多彩な顔ぶれには驚かされ、随所に”雪との闘い”
   読み取れます。

 寛元年間(1240年ころ)  後嵯峨帝のころ、京都から流浪した武士が発見と伝えられる。
 天正年間(1580年ころ)  大野藩主・金森長近が家臣・茂住宗貞を金山奉行として経営
 文禄年間(1590年ころ)  大野藩主・土井能登守が経営
   ・
   ・
 明治初期(1870年ころ)  地元の農夫・谷口和三郎が8年間探鉱、断念
 明治27年(1894年)    福井の徳野山氏が銀を採掘。翌年休山
 明治37年(1904年)    木村謙之助氏が深坂鉱山と称し、1,000人の坑夫を使い
              亜鉛を採掘。明治39年休山
 明治40年(1907年)    大阪亜鉛社長・塩見政治氏が経営に乗り出し、50人の坑夫を
              使ったが、目的達成できず撤退。
 大正 2年(1913年)    ベルギー人・グレゴウル氏の投資で、一部を水無鉱山と称し
              日産10トンを目標に操業したが、2年後休山。
 大正15年(1926年)    藤田組技師長・井上誠一郎氏が調査の結果、中村房次郎氏の
              経営するところとなり、7年に亘って探鉱。
 昭和 9年(1934年)    探鉱の結果有望と判断、横浜の実業家・村房次郎氏と
              鉱業権者・田哲太郎氏の両氏を初め三井鉱山(株)も出資し
              5月26日、日本亜鉛鉱業(株)が発足。
              中竜鉱業所の「中竜」の名は、両氏の頭文字をとって名付けられた。
              粗鉱日産120トン、6月10日から操業開始の予定で6月新選鉱場の建設に
              着手したが、雪のため大幅に遅延。
 昭和10年(1935年)    11月14日、新選鉱場竣工、操業を開始。
 昭和16年(1941年)    三井鉱山(株)から、資本、技術の提供を受け、三井の子会社となり
              戦時の増産を続けた。
 昭和24年(1949年)    三井鉱山(株)の手を離れたが、経営難となり同年8月休山。
 昭和26年(1951年)    三井金属鉱業(当時 神岡鉱業)(株)の支援で、同年10月
              日産150トンの規模で、生産再開
 昭和28年(1953年)    冬季積雪時の通勤の便を図るため、中山坑0m準に通じる
              藤倉隧道完成
 昭和34年(1959年)    中山坑の大竪坑と坑内破砕場を完成させ、運搬系統合理化
 昭和35年(1960年)    日産600トンに増産
 昭和39年(1964年)    坑内新規設備の導入、改善と新選鉱場完成。日産1000トン計画実施
 昭和41年(1966年)    日産1,500トンに増産
 昭和47年(1972年)    採鉱法をトラックレス式に切り替え、翌48年選鉱能力
              日産2,000トンの本邦有数の近代的な鉱山に成長
 昭和62年(1987年)    円高による金属価格の暴落で、採掘中止
 平成元年(1989年)    「アドベンチャーランド中竜」オープン

4. 採集鉱物

  採集したと言っても、”現金採集”です。売店では、中竜鉱山の鉱石、菱刈金山の
  紫水晶などの国産鉱物と外国産の紫水晶、菱マンガン鉱、はたまた化石まで販売して
  います。
   鉱石の値段は、大きさで違い、300〜1,500円くらいです。
   ここでは、頂いた「中竜鉱山の鉱物セット」にある、代表的な6種類の鉱物を示します。
(1)方鉛鉱【Galena:PbS】
   鉛の主要な鉱石である。鉛灰色で、ズシリと重く、サイコロのようにきれいに四角に
   割れ(劈開す)るので、似たような鉱物の閃亜鉛鉱とは区別ができる。
  方鉛鉱
(2)方解石【Calcite:CaCO3】
   白色で、マッチ箱をひしゃげたような、平行四辺形に割れ(劈開す)る。
  方解石
(3)鉄閃亜鉛鉱【Sphalerite:(Zn,Fe)S】
   鉄の含有量が多いので、黒色である。割れ口(劈開面)が葉片状になるので
   似たような鉱物の方鉛鉱とは区別ができる。
  鉄閃亜鉛鉱
(4)黄鉄鉱【Pyrite:FeS2】
   小さなサイコロ状結晶が脈石の方解石に埋もれた標本である。部分的に方鉛鉱や
   鉄閃亜鉛鉱と入り混じっている。
  黄鉄鉱
(5)菱マンガン鉱【Rhodochrosite:MnCO3】
   菱マンガン鉱は方解石と同じ、炭酸塩鉱物で、割れ口は方解石と似ている。
   マンガンを含む熱水によってきれいなピンク色に色づいている。
  菱マンガン鉱
(6)黄銅鉱【Chalcopyrite:CuFeS2】
   真鍮色の塊状で産し、表面は錆びて虹色に見える。(斑銅鉱かもしれません。)
  黄銅鉱

5.おわりに 

(1)一度は行ってみたいと考えていた中竜鉱山を訪れ、貴重な「中竜鉱山の鉱物セット」や
  「アドベンチャーランド・中竜 -地底探検の里-」のパンフレットを頂き思い出深い
  訪問となった。
(2)今回は、「現金採集」でしたが、 中竜鉱山で”Mineralhunters"の食指を動かす鉱物の1つに
   「仙翁坑のモリブデン鉛鉱」があります。
   これについては、別途報告する予定です。
(3)時間の関係で、「アドベンチャーランド・中竜」は見学できませんでしたので
   次回訪問を楽しみにしています。
  観光坑道【パンフレットから引用】

6.参考文献

1)日本亜鉛鉱業(株)編:「アドベンチャーランド・中竜 -地底探検の里-」
               同社,平成元年
2)益富地学会館監修:日本の鉱物,成美堂出版,1994年
3)加藤 昭:マンガン鉱物読本,関東鉱物同好会,1998年
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