鉱床は、北の和泉村から南の大野市に跨り、代表的な坑として、北から「中山」「人形」
「仙翁」「大平」「黒当戸」の5つがあった。
3.2 中竜鉱山の歴史
「アドベンチャーランド・中竜」の案内パンフレットによれば、中竜鉱山の沿革は
次の通りです。
ベルギー人まで登場する多彩な顔ぶれには驚かされ、随所に”雪との闘い”が
読み取れます。
寛元年間(1240年ころ) 後嵯峨帝のころ、京都から流浪した武士が発見と伝えられる。
天正年間(1580年ころ) 大野藩主・金森長近が家臣・茂住宗貞を金山奉行として経営
文禄年間(1590年ころ) 大野藩主・土井能登守が経営
・
・
明治初期(1870年ころ) 地元の農夫・谷口和三郎が8年間探鉱、断念
明治27年(1894年) 福井の徳野山氏が銀を採掘。翌年休山
明治37年(1904年) 木村謙之助氏が深坂鉱山と称し、1,000人の坑夫を使い
亜鉛を採掘。明治39年休山
明治40年(1907年) 大阪亜鉛社長・塩見政治氏が経営に乗り出し、50人の坑夫を
使ったが、目的達成できず撤退。
大正 2年(1913年) ベルギー人・グレゴウル氏の投資で、一部を水無鉱山と称し
日産10トンを目標に操業したが、2年後休山。
大正15年(1926年) 藤田組技師長・井上誠一郎氏が調査の結果、中村房次郎氏の
経営するところとなり、7年に亘って探鉱。
昭和 9年(1934年) 探鉱の結果有望と判断、横浜の実業家・中村房次郎氏と
鉱業権者・竜田哲太郎氏の両氏を初め三井鉱山(株)も出資し
5月26日、日本亜鉛鉱業(株)が発足。
中竜鉱業所の「中竜」の名は、両氏の頭文字をとって名付けられた。
粗鉱日産120トン、6月10日から操業開始の予定で6月新選鉱場の建設に
着手したが、雪のため大幅に遅延。
昭和10年(1935年) 11月14日、新選鉱場竣工、操業を開始。
昭和16年(1941年) 三井鉱山(株)から、資本、技術の提供を受け、三井の子会社となり
戦時の増産を続けた。
昭和24年(1949年) 三井鉱山(株)の手を離れたが、経営難となり同年8月休山。
昭和26年(1951年) 三井金属鉱業(当時 神岡鉱業)(株)の支援で、同年10月
日産150トンの規模で、生産再開
昭和28年(1953年) 冬季積雪時の通勤の便を図るため、中山坑0m準に通じる
藤倉隧道完成
昭和34年(1959年) 中山坑の大竪坑と坑内破砕場を完成させ、運搬系統合理化
昭和35年(1960年) 日産600トンに増産
昭和39年(1964年) 坑内新規設備の導入、改善と新選鉱場完成。日産1000トン計画実施
昭和41年(1966年) 日産1,500トンに増産
昭和47年(1972年) 採鉱法をトラックレス式に切り替え、翌48年選鉱能力
日産2,000トンの本邦有数の近代的な鉱山に成長
昭和62年(1987年) 円高による金属価格の暴落で、採掘中止
平成元年(1989年) 「アドベンチャーランド中竜」オープン
5.おわりに
6.参考文献