羽前・永松銅山

羽前・永松銅山

1.初めに

 今年の冬は例年に比べ暖かいと感じていますが、甲府盆地を取り巻く山々は未だ
雪に覆われ、本格的な鉱物採集には行かれません。
 この時期は、各地の骨董店や骨董市を回り、鉱山や鉱物関連の品々を入手する
”現金採集”がメインになっています。
 とある骨董市で、「羽前・永松銅山」の消印が押された「枠なし菊ハガキ」を
入手したのを機に、「永松鉱山」について調べてみました。

  羽前・永松銅山消印

(2004年2月調査)

2. 羽前・永松銅山差出年賀状

  このハガキは、年賀状として、今から丁度100年前の明治37年(1904年)1月7日に
 羽前(今の山形県)にあった、永松銅山郵便局から差し立てられたものです。
  裏面を見ると、差出人の住所は、”羽前國西村山郡幸生銅山 永松”とあります。

       
       年賀状        差出人
       羽前・永松銅山差出年賀状

   このハガキは、幸生(さちう)銅山の支山であった永松銅山から差し出された
  ものと考えられます。

3. 幸生銅山と永松銅山の歩み

 3.1 位置関係
   「山形県鉱山誌」には、2つの鉱山の位置関係を示す地図が掲載されており
   両者は、非常に近い位置にあったことが分かります。

  幸生銅山と永松銅山の地図

 3.2 幸生銅山
  (1)概要
     本鉱山は寒河江市街地の北西直距離18km,寒河江市幸生にある。長く永松鉱山の
    幸生鉱床として本(山形)県最長の歴史を有する。鉱山に至るには寒河江市の最北西
    西川町との境界近くの宮内(電車があった当時の宮内駅)までは国道112号線で
    これより鉱山までの北向の道路は県道で幸生鉱山まで12km,永松鉱山まで大凡20kmで
    車を通している。稼動中は寒河江白岩間に索道が架設されていた。
  (2)鉱床付近の地質
     A層:黒色硬質頁岩(珪質頁岩),軟質頁岩薄層と互層し,これに変朽安山岩
        流紋岩が貫入している。幸生、熊野川地区に広く分布し,鉱床周辺は
        ほとんどこの地層である。
     B層:淡緑色ないし白色浮石質凝灰岩、凝灰角礫岩、砂質凝灰岩、流紋岩
        幸生熊野川上流部に分布、余リ広くない。
     C層:黒色硬質頁岩,A層の上に直接累積している部分であり、鉱床母岩となるのは
        一部のみである。
  (3)沿革
      本鉱山はその創業時代は不明であるが,一説には天和2年(1682年)に
     幸生村庄屋才三郎氏が発見したという。
      その後大阪商人泉尾吉左ェ門が稼行したというがその状況は不明である。
     その後11代将軍家斉の寛政6年(1794年)樵夫利七、長次郎の両名発見し有望なる
     ものとして幕府の直営するところとなり、当時寒河江市の柴橋は幕府御料地5万石と
     称し,代官駐在し権勢諸侯を圧するの観ありしという。幸生鉱山はこの代官の
     管掌する御直山として行業せられた由である。明治維新となって官行時代
     当時鉱山界に活躍した岡田平蔵は小野組の資金により秋田県始め多くの鉱山界に
     関係していたが,資金関係で小野組と組合稼ぎ持山として明治5年官許を得て経営
     されるに至った。明治7年3月より小野組直轄となったが、7年冬に小野組が瓦壊して
     一時廃絶の止むなきに至り、債権者である高松藩主松平伯爵公に払下になったものを
     小野組に居った古河市兵衛は小野組の債務を松平家に10ヶ年で返済する約束で経営を
     委任され,明治9年5月経営することとなった。以後事業を継続し,明治24年11月に
     名実共に古河家の析有となり,その後鉱況盛んで付近に試掘を試みる等発展を続けたが
     明治30年頃に至って鉱況衰兆を呈し,自山製錬を中止して永松鉱山に送鉱することと
     なった。明治44年架空索道が永松ー幸生間に開通し,これまで行っていた選鉱を廃上
     粗鉱をそのまま永松に送ることとなり,永松の支山となった。
      以降昭和36年3月の休山まで活躍し,その間探鉱も強化してきたが有望な鉱探究見も
     なく廃山し,同36年合同資源産業梶i当時鳩郡鉱業)に売山した。合同資源産業は
     幸生永松鉱山とし,買収した三治鉱山を合わせ幸生、三治鉱床を採鉱したが、良好な
     鉱床にあたらず昭和44年5月休山するに至った。
  (4)生産実績
      永松鉱山一本として報告され,この中に含まれているが,長い間全体の3分の1の
     生産量を維持してきており、大凡月産1,000t(Cul〜1.5%)を生産してきた。

 3.3 永松銅山
  (1)概要
      本鉱山は最上郡大蔵村永松にあり、西村山郡西川町間沢の北方直距離12km
     大蔵村肘析温泉の南方直距離8kmの地点の黒森山(1,072.3m)の西斜面、烏川の
     右岸に位置する。操業当時は専ら旧三山電鉄宮内駅より北上する県道で旧支山
     幸生鉱山(12kmトラッタを通じる)を通り、永松本山(徒歩8km)に至った。
      資材、鉱石の運搬は寒河江市白岩から幸生支山を通り永松本山まで架設された
     索道によっていた。
  (2)鉱床付近の地質
      永松鉱山付近は新第三紀中新世の泥岩,擬灰岩が広く分布し、流紋岩
     変朽安山岩(粗粒玄武岩?)の併入が多くみられ、珪化作用、緑泥石化作用が
     著るしい。鉱床は、上記の岩石中の断層に沿って発達した裂罅充填鉱床で
     主に変朽安山岩床の内部とその上、下盤に近い硬質泥岩およぴ泥岩中に生成する。
      富鉱部は特に変朽安山岩岩床の上、下盤接触部に最もよく発達する。鉱床は
     現在知られているものだけで旧外永松、新外永松、前ひ、中ひ、奥ひ、北盛ひ
     天宰ひ等7以上の鉱床群があり,NE−SW方向の連鎖状鉱脈郡で傾斜は南に50−80°の
     ものが多い。
      富鉱体は1鉱脈中敷ヶ所に存在するがひ幅は2〜4mに及び、落しは西である。
     普通の脈幅は15〜30cmである。
      鉱石鉱物は黄銅鉱,硫化鉄鉱が主なもので脈石としては石英、緑泥石である。
  (3)沿革
      永松鉱山の発見は明らかでないが,古老の口伝では約500年以上の昔,平氏一門の
     世を忍ぶ者によって着手されたといわれる。また最上郡史中の烏川阿牛院記録に
     よると「永松鉱山は慶長16年,白岩領間沢の荒木源内なる者鳥川奥にて銅山を見立て
     数ヶ所に坑口を開く,戸沢氏就封後(戸沢政盛は新庄藩祖で常州松岡4万石より
     元和8年新庄6万石に転封された)寛文中、源内江戸銀座弥左衛門、八右衛門の両人を
     金主として盛んに採鉱に従事す。西永松の江戸鋪これなり。延宝5年源内(初代源内の
     子孫の様である)大永松に上りて鶏鳴を開き,其の処を尋ねて一大鉱脈を発見し
     新庄藩の許可を得て稼行す。
      此の時の共同稼行者は儀俄市郎左エ門とて加賀国の者にて、延沢銀山に関係せし
     ものなり。之はこ年にて中止し,その後大阪の町人大阪屋久左ェ門なるもの引受け
     藩も此頃より専任の銅山役人を置き,川田五郎太夫初めて之に任ず。後大阪商人
     若狭茂右エ門引継ぎ、天和3年より元禄元年迄稼行したりと言う。次は岩井屋とて
     仙台の人にて本名を阿部小平治と言う者にして、手代与十郎を遣わし金銭を撒き散らし
     藩より権利を納め、元禄2年より正徳4年迄、26年間大繁昌を呈し、1ヶ年百ヶ銅
     1万8千8個に上りしことありと言う。此の頃は飯米も1年中に1万8千俵程に上りたり
     と言う。正徳5年、享保元年の2年は休山し、享保2、3、4年は御直山、同5年より
     廷享元年までは大阪屋氷次郎(久左エ門の孫)稼行し後博多屋勘右ェ門等に移り
     たるも当時は産銅年産20−30万斤0なりし由なり。其の後休山したることもあり
     再興したることありたるも、宝暦頃は可なり盛大なりしものの如く、宝暦5年には
     藩主戸沢正湛公自ら山に上りしと言う。寛政後は昔日の俤なかりしも、旧藩時代を
     通じて全廃したることなく、山役人を置きたりと言う」 と記されている。
      これから推察すれば500〜600年前のことは疑わしいが300年以上は疑いがなく
     250余年前の元禄以後の殷盛は事実であろう。永松の往時栄えたのは中小屋付近を
     中心としたもので、この付近寺屋敷という地所があり、永松隆盛を極めた頃は
     この山腹に3寺院あり。当時の人口3,000人を超えたという。寛文頃より衰退が甚しく
     寺院の維持困難となり移転が行なわれ、大蔵村南山、白岩町幸生、西山村間沢に
     地を定め現有するという。此の屋敷に残る墓石は明和、安永頃のもので、これは
     新しいもので古いものは埋没したものと思われる。衰退後の模様は詳かでないが
     或は衰微し、或は再興したが昔日の盛況に復することなく明治維新となり、藩より
     政府に移り、後岩崎彌之助、杉本正徳の手を経て村井定吉の有に帰し、小規模に
     稼行されていたが、明治24年11月に至り、当時隣接幸生銅山を経営していた古河
     市兵衛の手に移り、寺屋敷近くの四番しき坑を主として採鉱し、順次、中切,大切坑と
     範囲を広め,明治25年秋大切坑に一大直利(富鉱体)が出現し、これにより俄かに
     永松に製錬場を建設し、26年7月製錬所が完成、製錬は幸生と永松の双方で行う
     ことになった。以後永松の発展に反し幸生が衰え、明治30年製錬は永松のみとなった。
      明治43年8月製錬様式を大塚式丸型熔鉱炉に改造し、明治44年従来人馬、橇によった
     物資並に製品の輸送を永松〜幸生間に索道架設によって改善し、大正2年8月自家
     発電所を完成し、大正3年機械選鉱場も完成し、大正4年の世界大戦の影響と鉱況に
     恵まれたことによって製錬場の大拡張をして大正6年中には従業員1,200人を超え
     産銅百万斤余に達して曾てない盛況を呈した。また、幸生〜白岩間の索道も完成した。
      昭和にはいり,5年7月には大切坑にガソリン機関車を導入、選鉱場の機械も年々
     改善され,銅精鉱のほか硫化鉄鉱の産出を計画し、昭和13年11月からこれを実現した。
      しかし昭和20年の終戦後は戦争中の乱掘が影響し、探鉱不足も加え、鉱況が衰え
     昭和24年には製煉を中止し、以後事業規模を縮少し、下部開発に重点をおき
     探鉱を進めてきたが、大きな富鉱体も発見されず、300有余年間続いた永松鉱山も
     昭和36年3月休山するに至った。その後鉱業権は昭和36年8月不老倉鉱業梶C現在の
     合同資源産業鰍ノ移ったが其の後の探査は専ら支山の幸生のみに終わり、昭和46年8月
     11日放棄された。
  (4)生産実績

年次 銅精鉱(t) 粗鉱量(t)
明治17年〜昭和 8年 - 15,832
昭和 9年〜昭和24年 6,514 6,415
昭和25年〜昭和29年 1,161 -
昭和30年〜昭和36年 9,235 39,959
合   計 16,910 62,206

4.おわりに

(1)一枚の古いハガキの消印から、2つの鉱山の歴史・産状・産出量までを調べることができ
   私の標榜する『鉱物採集は、知力と体力を駆使した、科学的なスポーツ』を実践した形に
   なっています。
   最近では、これらの古ハガキの値段が上がり、チョッピリ”財力(?)”も必要になりそうです。
(2)幸生鉱山、永松鉱山共に足尾銅山と同じ古河系の鉱山(やま)であった。
   同じく古河系で静岡県天竜川沿いにあった「久根鉱山」を振り出しに、足尾鉱業所所長も
   勤めた大川英三氏の著になる「鉱山(やま)の一生」には、古河市兵衛が永松鉱山を買収した
   のが明治24年(1891年)で、翌明治25年(1892年)4月、所長として赴任したのが青山金弥氏
   であった。金弥氏の父親、庄蔵氏は、足尾銅山の開発に熱誠を注ぎ、”足尾開発成功の功労者”と
   されている。

   青山金弥氏

5.参考文献

1)山形県商工労働部商工課編:山形県鉱山誌,同課,昭和52年
2)大川 英三:鉱山(やま)の一生,講談社出版サービスセンター,昭和49年
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