(1) 鉱物標本採集旅行を終えて
2回にわたる長野県下の鉱物(地学)標本採集旅行を終えて、得られたものは信州
(長野県)には、金や石油といったお金になりそうな鉱物はないが、豊かな自然と
有為な人材の多いことであったろう。
『 信山に金なし
金槌叩いて鉱物探す五無斎の顔見れば
油気もなく雨ざらしだ
髪ぼうぼうと垂れ
自信ありげなまなこして
「もし信州の山々に金と油が出たならば
五無斎この世にありと思うな」
と言い遺した言葉は今も光がある 』
(2) 地学標本寄贈
明治36年(1903年)長野県地学標本120箱を作成し、県下各学校に寄贈したことで
それまで、言行一致せず、”大法螺吹き”との印象が強かった五無斎に対する社会の
見方が大きく転換した。
明治42年(1909年)、長野高等女学校に岩石標本を寄贈したことで、「銀杯」を
下賜されるに至った。
『 銀杯
教育界の功労者
五無斎もらった銀杯は
行く先々で愛(め)でられる
つまみはなくても酒酌めば
うつる信濃の雲のいろ 』
苦労して採集し寄贈した地学標本の中には、悲しい運命にあったものもあった。
明治32年(1899年)校長として赴任し、陋習とたたかいながら子供たちの教育環境
改善に尽した大豆島小学校のものがそうであった。
『 石の華
ここは千曲の川ほとり
信濃の山は澄みたれど
炎天の雲きらめきて
米機あらわれ
爆弾一個落下した
大豆島の校長百助が
集めた鉱物標本は
太古の夢を見ていたが
忽ち吹き飛ぶ石の華 』
(注)昭和20年8月13日、日本の空に侵入した米機は千曲川畔の軍事施設を狙い
その爆弾が誤って大豆島小学校に落ちたのである。
(3) 人気を博した地学講演会
「通俗滑稽信州地質学の話」「岩石鉱物新案教授法(一名ニギリギン式教授法)」
などを著わしたことにより、それらの講演依頼が飛び込んでくるようになった。
五無斎は、実地指導も行い、夜は慰労会と称して大好きなお酒を飲みながら
気炎を上げたことも度々であった。また、五無斎は、豚の飼育を推奨するなど
地域住民の生活向上など身近なところから、「水利権」など住民の権利意識の
啓蒙にもつとめた。
『 へきれき一声
麦藁帽子の五無斎が
地質指導に招かれて
犀川岸にて石叩く
そこに親分あらわれて
何をするかと咎めたら
へきれき一声「馬鹿野郎」
ギョロリと光る五無斎の眼は
石より外に見るものもない 』
(注)五無斎が南安曇郡の教員たちを連れて、犀川に架けた田沢橋の西詰の
土手にある大石を玄翁で叩きながら、鉱石の説明をしたときのことである。
『 脛坊主
その日の慰労は平根校
夜半に見れば蚊屋はぬけがら
湯川岸辺に夏来れば
昔大井の殿様の
姫が身投げた岩とも知らず
ポカンと叩く五無斎の
実地指導はニギリギン
風に吹かれて涼しそう
したたか酔った五無斎は
守芳院へと案内されて
本尊前にていびきかく
怪しみてあたり探せば
月美しく照るけれど
廊下にいつかころび出て
やぶ蚊に食わせた脛坊主 』
(注)明治43年夏、五無斎は北佐久教育会に聘せられ、同好の職員達を
相手にして湯川の鉱物採集を指導した。
『 灰の雨
『 追分の月
浅間チョンボリ煙吐いて
空に流れりゃ竜となる
竜のすがたは消えたれど
灰の雨降る追分は
五無斎眺めた月と花 』
花と月との追分の
山屋の奥に陣取った
五無斎たずねて話きく
吹きとばす法螺は
浅間の火山弾
焼けて雨降りゃ
チンプンカンだよ
つるし込んだ一升の
徳利の酒はつきたが
秋の長夜のこおろぎは
古き宿場の風に啼く 』
(注)追分小学校の先生達が山屋旅館に五無斎をたずねた時のことである。
『 そら始った
須坂に行けば臥竜の公園松青く
すずむし啼いて秋を呼ぶが
彼方に見ゆる学びやは
窓を開いて風入れる
五無斎法螺吹く講習会
肩はこらぬが地質の話今日も出ず
おお方愛想つかして帰ったが
漸く先生熱が出た
最終日までねばりつづけた20名
そら始ったと固唾(かたず)のむ 』
(注)五無斎は最終日になって初めて地質の本論に入ったが、それは熱心の
講習生を選んだためであったという。
『 壇上のコップ酒
ござ敷いてふんぞりかえる五無斎が
二階廊下でブーと屁をこく涼しさよ
川西の講習会に招かれて
お得意の地質語るもニギリギン
質問されて立ち上り
壇上のコップの水を飲み出すや
「これは気が利いてる」
とは酒だった 』
(注)明治41年夏北佐久郡御牧小学校に開かれた講習会の一コマである。
『 噂をすれば
五無斎招けば菅笠かぶり
はっぴ 手甲 草鞋ばき
腰に石屋の金槌さして
ふらり入り込むうたげの廊下
それとも知らぬ連中が
待ちくたびれて噂する
うわさ取り取りごむせいが
エヘン アハンと顔出した 』
(注)浅間山麓沓掛にて五無斎の講演をきいた教員達が某亭に彼を招待した時の
こと。
『 影さびし
『 畦道
岸辺通れば露草に
何こだわらぬ五無斎の
講演きけば面白い
わけて得意の鉱物に話及べば
舌燃えて石も噴き出す活火山だ
「されどさびしい影を持つよ」
と彼なつかしむ女生徒があった 』
そこ行くは麦藁帽子の五無斎先生
呼び止めて青沼の青年達が話聞く
「千曲の水は金銀が流れていると同じだ」
と言った彼の卓見
身にしみて終生忘れず
電気会社を相手取り
三ケ用水の権利を主張したわれら
今は亡き先生の御霊宿るか
明治は遠く百年の日月めぐりて
畦道にいなごも躍るか
実れる稲の穂波かがやく 』
(注)大正時代旧千曲電気株式会社創設に際し、南佐久郡青沼村(現臼田町)に
おいても三ケ用水の関係を持ち、会社に抗議して水利権を主張し得たのも
五無斎の名言によるものである。
『 かれた赤沼
立科の山腹にある赤沼の
かれあと見れば水ほしい
地質学者の五無斎は
二重火山でゆるんだ地盤
水もつまいと予言した
けれど麓のお歴々
耳もかさずに貯水地【池か?】つくる運動すれば
戦時中の増産狙った甲斐あり
間もなく許可となった
国費で作る築堤に
奉仕の人達集まって振るハンマーや
セメント固めて水入れりゃ
白波立って赤沼はにわかに輝く美しさ
時の名誉を歌われて
麓の人たちは明日の祝賀を待ったが
折角ためた満水は
一夜にひけて山寒し 』
(注)昭和16年夏赤沼を貯水地となすため起工式を行い工事を進めたが
五無斎の予言通り水を保たず、一夜にひけて国費数百万円泡と消え
同26年春廃止になった。今日女神湖となる。
(4) 信濃教育会付属図書館(現長野県立図書館)への蔵書寄贈
明治40年(1907年)、信濃教育会付属図書館(現長野県立図書館)の創設にあたり
率先垂範、自分の蔵書をすべて寄贈するなど貢献した。その中には、神保博士から
贈られた地質学書もあった。
このころから、妻もなく、子もない自分の将来について、悟るところがあったのかも
知れない。
『 蔵書寄付
信濃図書館建てたとき
五無斎は手車ひいて
山と積んだ蔵書を運ぶ
なかに神保博士から贈られた
英文地質学の本があった
頁めくり惜しむ風情の愛らしさ
「五無、それは取って置け」
と言われて暫しためらったが
きっぱり本を投げ出して
寄付ときめた意気高し 』
(注)明治40年4月10日、五無斎が信濃教育会にダーナの英文地質学原書を
寄贈した逸事である。
(5) 大往生
明治44年(1911年)5月25日、脳梗塞を発病、6月7日逝去。明治元年(1868年)
6月8日の生れであるから、ちょうど43年の生涯であった。
戒名は 「地学院五無斎悟道明保居士」 と、五無斎に相応しいものである。
三石氏は、今からちょうど100年前、明治39年(1906年)に「保科塾」で初めて
五無斎に会ったときの思い出や追憶などを次のように詠っている。
『 忍草
『 眠る石ころ
『 五十回忌法要
わが村の大岩から採って来た忍草
俵につめて五無斎先生へのみやげにすれば
「売って歩け」とのこと
先生の名刺を添えて
長野市内のお歴々を尋ね廻れば
見るまにはけた忍草
幾春秋の夢をむすび
今も芽を吹く宿の親しさ 』
「われ死なば佐久の山部へ送るべし」
と詠んだ保科五無斎はどこにいる
地軸の底より火を焚いて
浅間の鬼と住むか
千曲の川をさかのぼり
金峯の笹の雫に宿っているか
ああ 先生の霊いずこ
駒鳥啼いて夏近き
峠路行けば白樺の
林の中に眠る石ころ 』
五無斎保科百助は
時代に先駆し自由を求め
わが身を捨てて一徹に
信濃教育会【界?】に虹を吐く
さてまた鉱物採集に
玄翁かついであこがれ遠く夢を追う
そびゆる山に攀じ登り
岩肌に家紋の九曜を刻んで
わが足跡の記念としたか
月日流れて雲飛び鳥歌えど世の人知らず
ああ 山部なる津金寺の五無斎碑前にて
今日五十回忌法要が営まれる
立科ふもと落葉して秋は逝くが
その後から若き芽が輝いている
五無斎よ 以って瞑すべく
先生の御霊は潔く天に生きられよ
(昭和36年11月18日) 』