新潟県間瀬銅山の紫水晶

          新潟県間瀬銅山の紫水晶

1. 初めに

   2005年を代表する鉱物は2004年に引き続き、西の奈良県川迫(こうせ)鉱山の
  レインボー柘榴石で、東は栃木県足尾町鉛沢の紫水晶ではないだろうか。
   2005年5月に鉛沢で採集会を開催し、その後「鉛沢」をはじめ明治時代に知られて
  いた紫水晶産地について古い文献を調べた。
   「鉛沢の紫水晶」が登場するのは、明治37年(1904年)和田 維四郎が著わした
  「日本鉱物誌」が初めてであろう。これに先立つこと3年、明治34年(1901年)2月に
  東京帝国大学理科大学が地質学教室に所蔵する鉱物を調べ上げ、一覧表にまとめた
  「日本礦物標品目録」を入手し、「紫水晶」の産地を調べてみると、「鉛沢」の名前はなく
  その代わり、「磐城刈田小原(現宮城県雨塚山)」や「伯耆(現鳥取県)藤屋」と並んで
  『越後 間瀬銅山』 が記載されていた。
   以前、石川県の石友・Yさんから「間瀬銅山」を描く古い地図のコピーをいただいていた
  ことを思い出し、今回、「栃木・福島・新潟鉱物採集の旅」の途上、「間瀬銅山跡」を探索し
  自形結晶を示す黄銅鉱や方鉛鉱とそれに伴う2次鉱物をはじめ、ここで産出した代表的な
  鉱物を一通り採集できた。しかし、「紫水晶」は見つけられず私にとって、”間瀬銅山の紫水晶”
  は幻に終わった。
   帰宅後、「日本礦物標品目録」を読み直してみると、紫水晶以外にも間瀬銅山産として
  次のような鉱物が記載されており、今から100年以上昔に、間瀬銅山は中央(東京)でも
  良く知られた有名産地であったことに、改めて気付いた。

 國 郡 産出場所 産出鉱物  備考
越後  間瀬銅山黄銅鉱(Chalcopyrite)   
越後西蒲原間瀬銅山閃亜鉛鉱(Zincblende/Sphalerite)   
越後  間瀬銅山方解石(Calcite)   
越後  間瀬銅山菱鉄鉱(Siderite)   

   産地で見た時には ”外観はパッとしないが、これは面白そうだ”と持ち帰った標本が
  上の表のいくつかを占めていた。
   今回、古い文献をもとに産地を探し出し、本来目的とした”紫水晶”は採集できなかったが
  「日本礦物標品目録」に記載された鉱物をいくつか(全て?)採集でき、大満足である。
   地図を恵与いただいたYさんに厚く御礼申し上げます。
  (2005年10月採集)

2. 産地

   石友・Yさんからいただいた地図がいつ頃のものか聞きそびれてしまっているが、明治
  〜大正期のものと思われる。
   ( その後、Yさんから、大正2年(1913年)のものと教えていただいた。)
   地図には、人家(鉱山施設?)が書き込まれており、その当時は今ほど寂しい場所では
  なかったらしい。
   間瀬の海岸沿いを走る402号線から、旧間瀬銅山道に入り、渓谷に沿って進むと右側に
  銅山跡がある。地図に書き込まれた”崩落崖”は、木の葉が繁っている時期には見えず
  歩き回った末にようやく探し出した。

       
          古地図               旧銅山道
                    間瀬銅山

3. 産状と採集方法

   「日本鉱産誌」によれば、第3紀中新世(寺泊層下部)の粗流玄武岩を貫く閃緑ヒン岩中の
  鉱脈、とある。黄銅鉱、黄鉄鉱、閃亜鉛鉱、方鉛鉱そして石英を産するとある。”紫水晶”は
  この石英に伴われたものと思われる。
   Cu(銅)品位は4%で、1944年に間瀬銅山鰍ェ295トン出鉱した記録が残されているが、「日本
  鉱産誌」が書かれた昭和31年(1956年)には休山していた。
   海岸近くの民宿の女性(60歳超?)から 『おばあさんが、出面(でめん)稼ぎ(鉱山労働)に
  行っていた』 と聞いたので、今から100年以上前は盛大に稼動していたと思われる。
   ”崩落崖”周辺には、人為的な平坦地や石組の施設(火薬庫跡?)がみられ、削岩機で
  穿孔したと思われる”丸い穴”が残された転石も見られる。
   沢の中の転石やズリの石を割って採集しますが、量的に少ないので採集は苦労します。

       
      丸い穴の残る転石            ズリ(?)
                  間瀬銅山跡

4. 採集鉱物

 (1)黄銅鉱【Chalcopyrite:CuFeS2】
    黄色、金属光沢でp面(111)からなる三角形が4つ集まった四面体(ピラミッド状)を示す。
   通常、黄銅鉱は塊で出ることがほとんどで、自形結晶を示すことが稀であり、貴重な標本と
   なった。
    母岩は、「日本鉱産誌」には、閃緑ヒン岩とあるが、グリーンタフ(緑色凝灰岩、正確には
   凝灰角礫岩)と思われる。
    結晶の一部は真っ白い方解石に覆われている。ズリに長くあったため一部の黄銅鉱の表面
   には褐鉄鉱(鉄錆び)や斑銅鉱ができているが、破断面には”黄金色”の往時の輝きを保って
   いるのには風格が感じられる。

           
         結晶図           採集品全体【28cm】          部分
                           黄銅鉱

 (2)方鉛鉱【Galena:PbS】
    晶洞の米水晶の間に鉛灰色のサイコロ状自形結晶として産出する。劈開面は常に
   四角形で、鏡のように光を良く反射する。結晶には、四角い凹み(骸晶)が見られることが
   あり、結晶学の観点からも面白い標本である。
    益富先生の「鉱物」によれば、『 骸晶は、結晶の隅角や稜の成長が面に優先し、その結果
   面の部分の充填が甚だしく遅れた場合にできる。そのため、面は陥没凹入する。方鉛鉱
   以外では、下に示す硫黄、食塩、赤銅鉱そしてまれに水晶などに認められる 』 とある。

        
          採集標本       骸晶の例【左:硫黄、右:食塩    「鉱物」より引用】
                  方鉛鉱と骸晶の例

 (3)硫酸鉛鉱【Anglesite:PbSO4】
    方鉛鉱を伴う晶洞の米水晶の上に、白色、透明板柱状結晶として産する。ここの標本は
   o面(011)が発達せず、m面(110)が優勢なので、まるで日本家屋の屋根を思わせるような
   形で産する。

            ↓ 屋根型をした透明結晶
    硫酸鉛鉱

 (4)白鉛鉱【Cerussite:PbCO3】
     方鉛鉱の一部を置き換えたり、表面を覆う形で、白色の皮膜状〜粉末状で産する。

           ↓ 真っ白いサイコロ状結晶
    白鉛鉱

 (5)閃亜鉛鉱【Sphalerite:ZnS】
    鉄を含み真っ黒で不透明の鉄閃亜鉛鉱から、やや鉄を含む黄褐色半透明の”ベッコウ亜鉛”
   まで、晶洞の中に米水晶や方解石を伴って産する。結晶はo面(111)を主とするピラミッド状
   あるいは、これを2つ合わせたような八面体をしているのが基本形である。
    英語のSphaleriteは方鉛鉱に似ているが鉛を含んでいないところから、ギリシャ語の
   Sphaleros(ごまかしの意味)から命名された。ドイツ語のZinkblendeもBlenden(惑わす)
   に由来し、英語と同じような意味を表している。
    劈開面は方鉛鉱に似ているが方鉛鉱は、常に四角形であるのに対して閃亜鉛鉱は
   不定形であることで区別する。

       
          鉄閃亜鉛             ベッコウ亜鉛
                    閃亜鉛鉱

    和田維四郎の「日本鉱物誌」には、『 越後間瀬鉱山産は石英、黄銅鉱及び輝鉛鉱
   (現方鉛鉱)と共生するものにして、黄褐色を帯び、往々透明するものあり。
   ∞O∞ O ∞O の晶面を表し、その表面往々黄銅鉱の薄皮を以って被わるること
   あり。(高(壮吉)氏鉱物雑誌参照) 』

 (6)重晶石【Barsite:BaSO4】
    白色半透明の板状結晶が集まって産する。

    重晶石

 (7)方解石【Calcite:CaCO3】
    白い自形をなす結晶として母岩の中に産出する。熱水の影響か、あるいは永い間
   ズリにあり炭酸ガスを含む雨水のせいか結晶の稜や角は溶けてしまい、丸みを帯び
   ている。
    劈開面は強いガラス光沢でキラキラ輝き、劈開片はマッチ箱をひしゃげたような
   平行四辺形を示すので、容易に鑑定できる。

    方解石

    和田維四郎の「日本鉱物誌」には、『 越後間瀬に産する方解石に数種あり。1つは
   同地の鉱山に産出するものにして脈石の上部に付着し黄銅鉱、閃亜鉛鉱等と共生し
   R3 の鮮明なる結晶をなし、長径50ミリ内外ありて白色を帯びるものなり。 』

 (8)菱鉄鉱?【Calcite:CaCO3】
    晶洞の方鉛鉱や米水晶の上を覆う、茶褐色の皮膜状〜湾曲した薄板状で産するのが
   菱鉄鉱と思われる。
    相前後して訪れた「三川鉱山の菱鉄鉱」なら、鑑定に迷うことはないのだが・・・・・・。

    菱鉄鉱?

 (9)このほか、銅の2次鉱物である斑銅鉱や孔雀石と思われる緑色系の鉱物が母岩の上や
   方解石に伴って観察できる。

5. おわりに

 (1)「紫水晶産地」の消長を調べてみると、間瀬銅山は 「日本礦物標品目録」に記載された
   のを最後に、プッツリと姿を消している。

         紫水晶産地の消長        ○:記載あり  ×:記載なし
 産地 「日本礦物標品目録」
 明治34年(1901年)
「日本礦物標品目録」
 明治37年(1904年)
  備  考
越後・間瀬銅山     ○   ×    
磐城・小原     ○   ○現雨塚山
下野・日光?     ○   ○(庚申山)現鉛沢と思われる
伯耆・藤屋     ○   ○現鳥取県
越後・綱木     ×   ○現三川村

    考えられるのは、「日本礦物標品目録」が出てから「日本鉱物誌」が出るまでの僅か
   4年の間に次のいずれかがあった、ということであろう。

    @紫水晶が出たのは一時的で、その後産出しなくなり、産地として記載できなくなった。
    A紫水晶が出たのは間瀬銅山ではなく別な産地で、取違えていた。

    今回”紫水晶”を採集できなかった理由が隠されているような気がします。

 (2)今回、古い文献と地図をもとに産地を探し出し、本来目的とした”紫水晶”は採集でき
   なかったが、「日本礦物標品目録」に記載された鉱物をいくつか採集でき、大満足である。
    古い産地は地元の人に聞いても場所が分からないことが多く、探し出すのに苦労するが
   発見したときの喜びは大きい。
    地図を恵与いただいた、Yさんに改めて御礼申し上げる。

 (3)私のPCで「間瀬」を漢字変換するとき、”ませ”と清音で入力しないと正しく変換されない。
   古い地図や地元でのかな表記は、”まぜ”と濁っているので、ここでは”まぜ(Maze)”として
   います。
    ”まぜこぜ” で話がややこしい。

 (4)産地の南にある、大河津分水路では、この時期早朝鮭を投網で漁する人々の姿が
   見られた。10月1日に解禁になり、翌年1月まで続けられるとのこと。太平洋岸に住む
   私にとって珍しい光景であると同時に、秋の訪れを感じさせる1コマであった。

    鮭の投網漁

 (5)産地の南にある分水町は「良寛」が30年にわたって住んだ町で、歴史民俗資料館には
   良寛の遺墨や様々な品を展示している。
    ここには、江戸時代の目薬「真珠散」の製法を記す古文書や薬研など製薬道具なども
   展示されている。「真珠散」には、滑石はじめ各種の鉱物が使われていたことが分かり
   興味をそそられた。これについては、別途HPにまとめて見たいと考えています。
    茶を嗜み、良寛の書にも興味を持ち始めた妻のために、「天上大風(てんじょうおおかぜ
   叉は たいふう)」の色紙や良寛の書に関する文献などをお土産に購入した。
    ” しめしめ、これで思う存分石採りを楽しめそうだ ”

    分水町歴史民俗資料館【入口脇に良寛像】

6. 参考文献

1)柴田秀賢、須藤俊男:原色鉱物岩石検索図鑑,北隆館,昭和48年
2)和田維四郎著:日本鉱物誌第1版,和田維四郎,明治37年(1904年)
3)益富 寿之助:鉱物 −やさしい鉱物学−,保育社,昭和60年
4)東京帝国大学・理科大学地質学教室調:日本礦物標品目録,同大学,明治34年
5)松原 聡:日本の鉱物,滑w習研究社,2003年
6)日本鉱産誌編纂委員会編:日本鉱産誌 T−b 銅鉛・亜鉛,東京地学協会,昭和31年
7)地団研地学事典編集委員会編:地学事典,平凡社,,昭和45年
8)池内 宣夫ほか編集:新アルファ独和辞典,三修社,1995年
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