2015年 ミネラル・ウオッチング納め 番外編 『舞鶴引揚記念館』











         2015年 ミネラル・ウオッチング納め
          番外編 『舞鶴引揚記念館』

1. はじめに

    2015年(平成27年)は、太平洋戦争が終わって70年目だった。節目の年はこれからも続くのだが、戦
   争を直接体験した人たちがそれを後世に語り継ぐことができる最後の節目の年というのでマスコミも大きく
   取り上げた。
    NHK甲府放送局でも『終戦から70年 山梨を語り継ぐ』という特集番組をシリーズで放送し、再放送も
   あった。南方戦線の衛生兵など戦場にいた人だけでなく、自宅にいて甲府空襲に遭った人など、死と隣
   り合わせの体験をした人々が登場した。
    「シベリア抑留」の出演者の名前に聞き覚えがあり、画面を見て甲府郵趣会の大先輩・石川三郎氏
   だと判った。番組は石川氏が体験した苛酷な抑留生活の実態を伝えると同時に平和の尊さを視聴者に
   訴えていた。
    私の趣味の一つ郵趣の「俘虜用郵便葉書」を軸にシベリア抑留について、石川氏から伺った話なども
   交えて次のページに掲載した。

    ・ 俘虜郵便の研究 シベリアからの葉書
   ( Study of Prisoner of War Post , Postcard from Siberia , Yamanashi Pref. )

    シベリアに抑留された多くの人が帰国の第一歩をしるしたのが京都府・舞鶴港で、それを記念して、
   ここには「舞鶴引揚者記念館」がある。上のページをまとめている最中の2015年10月10日、シベリア抑
   留と引揚の記録「舞鶴への生還」がユネスコの世界記憶遺産に選ばれた。舞鶴港に帰還したシベリア
   抑留者の日記や手紙(俘虜用郵便葉書)など「舞鶴引揚記念館」が所蔵する資料570点で構成され
   ている。

    2015年12月、兵庫県の石友・N夫妻に関西の産地を案内していただき3泊4日のミネラル・ウオッチング
   を楽しんだ。当初、最終日に大阪府の産地を2か所案内していただく予定だったが、わがままを言わせて
   もらい、1か所案内していただいた後でお別れし、われわれ夫婦は舞鶴に向かった。
    ( 2015年12月 訪問 )

2. 場所

    記念館は『岸壁の母』の舞台になった京都府舞鶴市にある。N夫妻とお別れしたのが大阪・京都・
   兵庫3県の県境近くだったので、一刻も早く高速に入ろうと「丹南篠山口IC」から舞鶴若狭自動車道に
   のり、「舞鶴東IC」で降りた。
    山梨から直接行くのであれば、われわれが帰りに通った舞鶴東IC→敦賀IC→米原ICの逆コースが便利
   だ。

        
                  全体                                詳細
                                ガイドマップ

    「舞鶴東IC」を降りたら、「舞鶴引揚記念館」の案内板に従えば迷うことなく到着できる。舞鶴湾を
   見下ろす「引揚記念公園」の中に、「舞鶴引揚記念館」や復元された引揚桟橋、そしていろいろな
   モニュメントが静かにたたずんでいる。
    日曜日だったのと世界記憶遺産登録の効果か、広い駐車場は1/3くらいが乗用車や観光バスで埋ま
   っていた。来訪者は戦争を実際に体験した世代からその子、孫と幅広い。

    駐車場の舞鶴湾寄りのところに、「引揚記念公園」の案内板があり、記念館は鎮魂の場にふさわしい、
   緑に囲まれた静かな環境にあるのがわかる。

    
                     「引揚記念公園」案内板

       
              「舞鶴引揚記念館」                          舞鶴湾

3. 入館案内

    開館時間: 9:00〜17:00 (入館は16:30まで)
    休館日  : 毎月第3木曜日(8月と祝日除く)
            年末年始  12/29〜1/3
    入館料  : 大人              300円
            学生(小学生〜大学生)   150円

    入館券を購入すると、A4サイズを3つに折りたたんだパンフを渡してくれる。その表紙には、最新のビッグ
   ニュースになった ”ユネスコ世界記憶遺産登録決定” と加刷してある。

        
            案内パンフ                            入場券 

4. 展示内容

    昭和20年(1945年)の第二次世界大戦の終結時、海外に取り残された日本人は300万人以上の
   軍人と民間人合わせて660万人以上とされる。これらの人々を速やかに帰国させなければならなかった。
   これを 『 引き揚げ(Repartration) 』 という。
    当時は今のように航空機の利用は一般的ではなく、船に乗って引揚げた。政府が指定した引揚港は、
   10以上あった。主な港と引揚者数は、次のようになっている。

    ・ 函館港(311,452人)
    ・ 舞鶴港(664,531人)
    ・ 浦賀港(約50万人)
    ・ 名古屋港(259,589人)
    ・ 文里港(和歌山県田辺)(220,332人)
    ・ 宇品港(広島県)(169,026人)
    ・ 大竹港(広島県)(410,783人)
    ・ 仙崎港(山口県長門市)(413,961人)
    ・ 博多港(1,392,429人)
    ・ 浦頭港(うらがしら:長崎県佐世保市)(1,396,468人) ・・・・私が産まれた港
    ・ 鹿児島港(360,924人)

    舞鶴港は、引揚港の1つとして、昭和20年10月7日第一船入港から、昭和33年(1958年)9月7日の
   最終船まで、13年間にわたりその使命を果たしてきた。昭和25年以降は、唯一の引揚港となり、『引き
   揚げのまち・舞鶴』
 と呼ばれるようになった。

    戦後25年が過ぎた昭和45年(1970年)、引揚記念公園が整備され、昭和63年(1988年)日本全国
   からの寄付金を受けて舞鶴市が「舞鶴引揚記念館」を建設した。

    舞鶴港は、シベリア(旧ソ連領内)で苦難に満ちた抑留生活を送った多くの人々が、祖国での第一歩
   を踏みしめ、人生の再スタートを切った地なので、『 シベリア抑留 』を中心テーマに展示している。
    甲府郵趣会の大先輩・石川三郎氏がウラル山脈の西・エラブカから引き揚げて上陸したのも舞鶴港
   だった。

    館内の展示は下の図に示すように、エントランスホールと常設展示室そして企画展示室の3つに分か
   れている。企画展示室では、抑留者が描いた絵画が展示されていた。

    
                            展示配置図
                       【館のパンフに最新情報を加筆】

4.1 エントランスホール

      ここは、シベリア抑留の全体像をイメージできるように設けられたエリアだったようだが、ユネスコの世
     界遺産登録決定を受けて、最もホットな話題になった「世界記憶遺産」のコーナーが急きょ設けられ
     ていた。

  A) 「世界記憶遺産」
      ユネスコの「世界記憶遺産( Memory of the World:MOW )」 は、「世界遺産」、「無形文化
     遺産」とならんでユネスコの三大遺産事業の一つで、世界の重要な記憶遺産の保護と振興を目的
     に1992年に始まった。文書や書物、楽譜、絵画、映画などの記録資料が対象になる。
      既に登録されている主なものには、「アンネ・フランクの日記」、「ベートーベン手書きの楽譜」などが
     あり、国内では炭鉱画の「山本作兵衛コレクション」、「御堂関白日記」、「慶長遣欧使節関係資料」が
     登録されている。

      世界記憶遺産は次のような基準で選ばれている。

      ・ 世界的な重要性
         他に代替できないもので、その損失や劣化が人類遺産にとって損害となるもの。一定期間に
        わたり、世界または特定の文化圏で多大な影響をあたえたもの。歴史上、プラスまたはマイナス
        の影響を与えたもの。

      ・ 真正性
         複写・模写・偽造品でないことが確認されている。

      2015年10月、「東寺百合文書」と一緒に指定された『 舞鶴への生還 - 1945-1956 シベリア
     抑留等日本人の本国への引き揚げの記録 - 』
 では、資料570点が登録された。

    
                        主な収蔵資料

      日記などは無論メモの類まで帰国に際しては没収された中で、よくこれだけのものを隠して持ち帰
     った、と感心させられ、それだけに重要なもので世界遺産に指定される価値はある。
      これらの内で、最も印象的な『白樺日誌』がショーウインドウの中に展示されていた。手に入れるの
     が難しかった紙の代わりに白樺の樹皮を一定の大きさに切り、インクの代わりにストーブの煤(スス)を
     溶かしたものを使い、和歌などの形で抑留生活を記録したものだ。

    
                   「白樺日誌」

4.2 常設展示室
      ここは、東(入り口)側から西側に順に、抑留生活の ” 苦境の記憶 ” → ” 帰還そして再会 ”
     入り口側に戻る形で、”平和への祈り”の展示エリアがある。

  A) 苦境の記憶
      石川三郎氏に伺った抑留生活の苦しみは多くの抑留者が書き残しているものと共通している。そ
     れらは、次の 『 三苦 』 だった。

       @ 厳寒
       A 飢餓
       B 重労働での疲労

   @ 寒さ
      シベリアでは、厳冬期の気温がマイナス30℃になるのは普通で、北極圏の強制収容所ではマイナ
     ス50℃を下回ることも珍しくなかった。ほとんどの抑留者はシベリアに強制連行されたのが夏だったた
     め、冬服をもっていなかった。
      ソ連軍が日本軍の倉庫から冬服を持ち出して支給したり、ソ連の囚人用の綿の入ったズボンなど
     を支給する例もあったが、満洲の寒さ対応の関東軍の防寒具で耐えるのは難しかった。
      木材の伐採作業などでかぎ裂きができても新しく支給されるわけもなく、針や糸も手に入りにくかっ
     たため、繕うこともできず、ボロを引きずって歩く惨めな姿だった。

    
                  シベリアでの服装

      【後日談】
      帰宅した翌々日、舞鶴の報告を兼ねて石川さん宅をお伺いした。汚かったので洗ったからと、生乾
     きのシベリアではいていた袴下(こした:敵性語のズボンの代わりに袴を使いズボン下のこと)を見せて
     くれた。奥様も見るのは初めてのようで、「こんなのがあったんですか」と驚いておられた。
      綿の入ったズボン下で、あちこちに”ツギ”があたり、大切にはいていたことがうかがわれる。それもその
     はずで、作業するときも寝るときも身に着けていた石川さんにとって分身のような存在だったろう。

    
           石川三郎氏の袴下

      伐採など屋外の作業で身体を動かしているときはまだしも、昼食や休憩時間は一段と寒さに襲わ
     れ、”たき火”は欠かせなった。しかし、どうやって火を起すかが問題だった。マッチも支給されたが不足
     がちで、空き缶に種火を入れて持って行ったと書き残している抑留者もいる。
      縄文時代のように木と木を擦り合わせたり、近世のように”火打ち石”を使って火を起こした、と記
     録にはあるが、「火打石道具一式」が展示されていて、本当だったと確認した。
      道端で拾った白い「石英」に機械工場での作業で手に入れた(盗んだ)黒い鋼鉄片を打ち付けて
     火花を出し、それを白い紐の繊維に落として発火させた。まさに、「銭形平次」の時代に逆戻りした
     ようだった。

    
                 「火打石道具一式」

   A 飢餓
      戦後の日本がそうであったように、シベリアでも”もの不足”は深刻だった。寒い中、ものをねだる裸足
     の子どもたちが普通に見られ、「こんな貧乏な国に負けたんだ」、と慨嘆する(元)兵士も少なくなか
     った。

      物不足、とりわけ人間が生存する上で必要条件である食料の不足は深刻だった。多くの抑留者が
     慢性的な飢餓状態におかれていた。山野に生えている雑草・キノコなどを食べ、命を落とす悲劇も
     あった。道に落ちていた黒い塊を馬鈴薯(ジャガイモ)だと思って持ち帰って煮たら異臭がしだして、
     よくよく見たら馬糞だった、というような笑えない喜劇もあった。

      食事は、カーシャと呼ばれる塩汁のようなスープと1日350グラムの黒パンが主体だったが、重労働の
     体力を維持するのにはとても足りなかった。家畜飼料の燕麦や高粱、粟などが入ったカーシャが出る
     こともあったが、食べなれていない日本人の腸を素通りし、下痢で悩まされ、みるみる痩せていった。
      1本の黒パンを重さが同じになるように”ハカリ”を使って重さをはかって数人で切り分けている場面を
     再現している。良い歳をした大人が目だけをギラギラと光らせて、1グラムでも多いのを取ろうと狙って
     いる姿は異様だ。

      
                      黒パンの分配

      しかし、人間の逞しさを感じさせるものもある。『必要は発明の母』というが、十分な材料や道具が
     ない中で、いろいろなものを自分たちの手で作り出している。
      スープやおかゆのような流動食を少しでも満腹感を得るため時間をかけて食べるのに必要なスプーン
     は加工しやすい白樺の木で作ったものか金属片を板金加工して作ったものを持っていたようで、テレ
     ビ放送に出演した石川氏が番組で紹介したスプーンを最初にお宅を訪問した時に見せていただいた。

      
                       石川さんの命をつないだスプーン

      生命を維持するのに必要な最低限の食料だったが、『 働かざる者食うべからず 』 のイデオロギー
     の下では、厳しい寒さの中で重労働をして初めて得られるものだった。
      労働は鉱山、森林伐採、鉄道敷設、土木・建築工事、機械・製錬工場など広範囲に及んだが、
     最も厳しいのが厳冬期の材木の伐採、搬出だった。
      「ピラー」と呼ぶ二人引きの大鋸で切り倒した大木を「タポール」と呼ぶ手斧で枝を払い、一定の
     長さに切りそろえ原生林から運搬道路まで運び出すのだが、木が倒れる方向や動きは時として予想
     外で、倒れた木の下敷きになって死亡したりケガをする人が多かった。

      
                      伐採作業用「ピラー」と「タポール」

      作業に出発前と「ラーゲリ」と呼ぶ収容所に帰った時には、人数を数える人員点呼が行われた。
     ソ連の管理サイドが恐れたのは”捕虜”の脱走で、脱走者の有無は人数を数えて出発前と帰った時
     に差がないことを確認すればよいのだが、この人数を数えるのがソ連の看守兵(コンボイ)にとって大
     仕事だった。
      2、3百人の人数を数えるのに、私の経験から日本人なら1分もあればできるところ、ソ連兵は1時間
     もかかるのがザラだった。5列(抑留の初期は4列との記述もある)に並ばせて、「5、10、15、・・・」と
     数えていくのだが、途中で本人が”クシャミ”したり、誰かが話しかけたりするとどこまで数えたか分から
     なくなり、もう一度最初から数え直すようなことがたびたびあったらしい。
      人員点呼に時間がかかればそれだけ作業時間が短くなるので歓迎なのだが、厳冬期には寒さの
     中に立っていると足元から寒さが上がってきて、”凍傷”になる恐れもあり、絶えず足踏みしてるのは
     辛かった。
      こんなときにも、「こんな(足し算もできない)質の悪い兵隊に負けたんだ」と慨嘆することになった。

      【後日談】
      以前、骨董市で大正末期のロシアの3コペイカ銅貨を入手したことがあった。日本で言えば、3銭
     くらいに相当しただろうか。日本では、5厘(=1/2銭)、1銭、2銭、5銭の硬貨はあったが3銭は発行
     されたことがなかった。2000年のミレニアムを記念して発行された2000円札ですら不人気だったのだ
     から、今後も300円硬貨や3000円札が発行されることはないだろう。

      
           ロシアの3コペイカ銅貨

      イギリスのように12進法の国では、3ペンス(1/4シリング)の硬貨も意味があるのだが、日本と同じ
     10進法のロシアでは必要性は全くないと思うのだが、計算の苦手な国民のために発行したのだろう
     か。

   B 重労働での疲労
      多くの抑留者は、帰国できると騙されて列車に乗せられ強制労働収容所について絶望した。日露
     戦争や第一次世界大戦など過去の戦争では捕虜は帰国できたので、いつか帰国できるはずだと思
     ってはみても、少ない食事とノルマを課せられた重労働で、”生きて日本に帰る”自信を持てなく
     なったからだろう。寝る前まで元気だった隣の人が、朝起きてみたら冷たくなっていた、と書いている人
     も多い。
      シベリア抑留で亡くなった方々の死亡年月とその時の年齢のグラフを村山常雄氏のHPから引用させ
     ていただき、それを編集してみた。

         
                    時期別                           年齢別
                                シベリア抑留死亡者数

      この2つの図を見ていると、次のような事実に気づかされ、暗澹(あんたん)たる気持ちにさせられる。

       ・ 最初の冬を乗り越えられなかった。
          死亡時期を見ると1946年(昭和21年)1月〜2月に死亡数のピークがある。敗戦が1945年
         8月で、最初に迎えた厳冬期が1946年1〜2月だった。
          1945年は、ソ連の穀倉地帯ウクライナが凶作で食料が十分でなかった上に、自分たちで収
         容所を作らされるなど受け入れ・医療体制も整っていなかった場所も多く、飢えと寒さの中の
         不慣れな重労働でバタバタと倒れていった。

       ・ 前途有為な若者と活躍中の社会人が犠牲に
          死亡者の年齢には、21歳と33歳に2つのピークがある。当時は”産めよ増やせよ”の時代で、
         人口分布はピラミッドに近い釣鐘型だったから、各年代層からまんべんなく抑留されたのであ
         ればこのような”くびれ”はできないはずだ。このくびれに該当する年代の”兵隊に適する”男子
         は、すでに南方や北方、そして中国戦線で亡くなっていたか苦戦していて、国内など日本
         領土にはいなかったのだ。

          その穴を埋める形で、数え歳20歳以上の文系学生も徴兵され、昭和18年10月21日出陣
         学徒壮行会が行われ、次々と入営した。石川さんもこの中の一人だった。【第1のピーク】
          昭和19年10月、徴兵適齢が数え歳19歳に引き下げられ、多くの若者が戦場に向かった。
         さらに、終戦間際の7月10日の「根こそぎ動員」で、満洲では17歳から40歳過ぎの居留民15
         万人、在郷軍人25万人、以前であれば”兵隊に不向き”とされた人までが招集された。【第2の
         ピーク】

          集めてはみたものの、支給する武器・弾薬・装備は不足し、銃を持っていない兵士が半数
         以上で、とても軍隊とは呼べない集団が飛行機に援護され戦車を先頭に攻めてくるソ連軍を
         迎え撃つことになった。ほとんどの部隊は戦闘らしい戦闘もないまま、したがって”敗戦”の実感
         もないうちに”武装解除”され、”捕虜”になった。徒に、シベリア抑留者と死亡者を増やしただ
         けの”愚策”だった。(ソ連に”人身御供”を差し出すために集めたと勘ぐるのも無理はない)。
          それまでの戦争では前途有為な若者がその未来を絶たれることが多かったが、この戦争では
         社会的に活躍し一家の柱でもある壮年者(当時の感覚では”老兵”)も多数命を失った。

      石川さんの「エラブカ」をはじめ、多くの抑留者の体験を書いた本を読むと、”生きて帰る”ことだけを
     考えて耐え忍んだ様子が伝わってくる。

      そんな中で、抑留生活も1年経った昭和21年(1946年)晩秋、赤十字の手によって「俘虜用郵便
     葉書」が配られた。これが、シベリアの抑留者と日本の家族をつなぐ唯一の手段になる。これらの葉書
     を展示しているエリアがある。

         
                   全体                         部分
                            「俘虜用郵便葉書」

      冒頭のページで紹介したように、出さない人も多かったが、出された葉書でソ連側の検閲をパスした
     ものは、石川さんが出したのと同じように、翌1947年の4月ごろ家族のもとに届き、生存していることを
     知り、一安心した。
      折り返し出された返信はがきを石川さんは10月には受け取ったようで、無事で帰国するのを家族が
     待ってくれていることを知り、生きる力を得た抑留者も多かった。

      世界記憶遺産に指定された570点の資料を”スマホ”で館内で閲覧することができる。スマホを持っ
     ていない私は館に備え付けのスマホで閲覧した。

      
            「世界記憶遺産資料」スマホ画面

      No4からNo192まで、189点が俘虜郵便だった。資料全体の33%、ちょうど1/3を占めていて、この
     葉書が世界遺産に占める重要性を語っている。
      家族が抑留者に返信した「復」部分は、帰国にあたり文字や絵の描いてあるものの持ち帰りを厳し
     く制限された中で、この葉書は2つ、あるいは4つに折りたたんで隠し持ち帰ることができたギリギリの大
     きさだったこともあるだろう。

  B) 帰還まで
      海外にいた約660万人の引き揚げは、昭和20年(1945年)9月、米軍管区から開始された。オー
     ストラリア軍管区、イギリス軍管区、中国軍管区からの引き揚げも昭和22年中にほぼ終了した。
      ソ連軍管区からの引き揚げは昭和21年12月から始まったが、なかなか進まなかった。帰らない息子
     を待ち続け、歌や映画にもなった『岩壁の母』のモデルの端野いせさんの存在は知っていたが、帰還
     促進を訴えた人や抑留者のメッセージを留守家族に伝えた人がいたことは初めて知った。

   @ 抑留者救済の父 大木英一
      昭和20年、息子・治雄がシベリアに強制連行されたことを知り、抑留された人々の早期帰還を
     連合軍総司令部(GHQ)などに嘆願するため、大阪・梅田駅前でたった一人で署名運動を始めた。

         
               大木英一氏                    標旗

      昭和23年に息子の治雄が帰還した後も、いまだソ連領下に抑留されている人々の帰還を訴えて
     活動をつづけた。息子・治雄は抑留中の栄養失調などで昭和25年に亡くなった。

   A 抑留者のメッセージを伝えた男 坂井仁一郎
      昭和23年の夏のある日、大阪・門真の自宅でラジオを聞いていると、氏名と住所を読み上げる放
     送を偶然耳にした。その放送がシベリアに抑留されている人々の安否を知らせる放送だとわかり、
     「聞捨てならじ」と必死でメモを取り、日本各地に住む留守家族に放送の内容を葉書で知らせた。

         
              坂井仁一郎氏                留守家族に送った葉書

      戦後、消息がわからなかった夫や息子が生きていることを知った留守家族は涙を流して喜び、坂井
     のもとにお礼の手紙や葉書を送った。中には、無事に帰還したことを葉書で報告する者もいた。
      しかし、留守家族に送った葉書の中には、あて先不明で戻ってくるものもあった。はがきの内容を知
     った郵便局員が担当区域外の近隣郵便局にも回送して、それぞれの局内に該当者がいないか調べ
     てくれた跡が葉書に何枚も貼られた付箋からもわかる。
      左の葉書の付箋には、「ご親切、感激にたえませんが・・・・」と、郵便局員のメッセージが書いてあ
     る。

         
               お礼の葉書           付箋のついた宛先不明で返送された葉書

  C) 引き揚げ
      シベリア各地からナホトカに集結した抑留者は、幕舎(テント)に収容された。ここで待ち受けていた
     のはアクチビストと呼ばれる日本人活動家による民主化(共産化)教育だった。第1、第2、第3ラー
     ゲリ(収容所)と進んで第3ラーゲリを無事通過すると帰国船に乗れる。次に進めるか否かはアクチビ
     ストの胸三寸と聞かされ、うわべだけ同調する抑留者がほとんどだった。
      同胞を売り、威張っているアクチビストに従いたくなかった大塚氏は、集会にも参加しなくなり、
     第2ラーゲリの段階で、「反ソ主義者」のレッテルを貼られ、50名ほどの仲間とともに帰国船を横目に
     再び列車に乗せられ、ウスリースク地方の強制労働収容所に連れ戻された。

      ソ連には「帰国できる」と何度となく騙され続けてきたが、引揚船のタラップを昇り、白衣の日本人
     看護婦の笑顔と暖かいねぎらいの言葉を受けて、「これで本当に日本に帰れる」とだれもが安堵した。

      舞鶴に入港した引揚船30隻の模型が展示してある。石川さんが乗ったのは「永徳丸」だと聞いて
     いた。船の名前を見ていると「興安丸」のように引揚船の代名詞のような船に混じって、「宗谷」の名
     を発見した。これが、昭和31年秋、第一次南極観測隊員を昭和基地まで運んだ南極観測船「宗
     谷」だ。
      時代に翻弄され数奇な運命をたどった船だとは知っていたが、引揚船として活躍した時期もあった
     のだ。
      下の写真では倍率の関係で2隻は同じような大きさに見えてしまうが、総トン数で比較してみると
     「宗谷」は1/3以下のちっぽけな船だ。

   船   名           永  徳  丸             宗   谷
外観
総トン数(トン) 6,923 2,224
速力(ノット) 12.43 12.5
登録寸法(m) 128.0×18.2 97.5×12.8
建造年 昭和19年 昭和12年
主な引揚地 ナホトカ・大連 元山・興南
就航回数 16回 2回
引揚乗船者総数 35,113名 1,817名
船の種類 貨物船 砕氷貨客船
  備   考 石川氏乗船 後の南極観測船

      石川氏は、「エラブカ」の中で、昭和22年11月に乗船した後の心境と出来事を次のように書いて
     いる。多くの船で似たようなことが起こったようだ。

      『・・・ナオトカ港桟橋を離れ、やがて公海に出た。・・・悪夢から醒めたように現実に戻り、次第に
       「自己」を取り戻してきた。もうソ連を気にしなくてもよい。アクチビスト達の顔色を窺う必要はない。
       人間性を取り戻し、自由になったまさに「奴隷解放」の時でもあった。

        そんな中、私達に「全員船倉に集合」の連絡があった。
        船倉で三人ほどを数名が取り囲んでいる。また例の吊るし上げかと思った。その声は「お前達の
       ために今日ここに帰れなかった者が何人いるか」、「お前達のために命を落とした者が何人いるか」
       「お前達のために今も苦しんでいる人達が何人いるか」、「それを考えたことがあるか」、「早く帰る
       ために仲間を売って思いのままに生活し、我々と一緒に帰るつもりなのか。断じて許さん」、「今か
       らお前達を海に叩き込む」。涙を流しながらの真剣な怒りだった。
        周囲からも一斉に「そうだ!」の声。まさに実行されようとするその時、船の事務長が血相を変
       えて飛んできた。

        「これは日本の船、日本の領土です。この船については私に一切の責任があります。日本に帰
       ったらいくらでみお方法はあると思います」とこれもまた真剣な説得であった。
        結局事務長の説得を受け容れた。私たちが一番考えたのはソ連における彼らの言動に報復
       仕返しとして海に投げ捨てるのが目的でなく、私たちが「ソ連を離れ帰国するに際して”どうしても
       まずしなければならないこと”
であった。自分たちが少しでも早く帰国したいがために仲間を売り、
       犠牲にすることが、どういうことかを残された死者達の泣き叫ぶ声として日本に帰国、上陸前に
       彼らにどうしても分からせ反省を促したかったのである。彼らのために苦しみ、死に追いやられた
       仲間への義務である。・・・・・                                       』

  D) 舞鶴に帰還

      こうして石川氏を含む2,506名の引揚者を乗せた永徳丸は昭和22年11月20日舞鶴港に入港し
     た。無事に日本の土を踏んだ抑留者をいくつかの試練が待ち構えていた。

      1) DDT噴霧
          抑留者がソ連で悩まされたものに「シラミ」、「南京虫」、「蚊」などの害虫がいる。特にシラミ
         は発疹チブスなどの伝染病を媒介するのでソ連側も駆除に躍起になってはいた。
          薬品があるわけでなく、シラミの温床になる腋毛や陰毛を定期的剃られ、月に数回の風呂
         (浴槽に浸かるのではなく蒸し風呂)と衣類の熱風乾燥では完全に駆除できなかった。
          身体についたシラミを駆除するため、真っ白い粉末のDDTを噴霧器で頭から浴びせられ、その
         後久しぶりの入浴を楽しんだ。

          
                       DDT噴霧

         【後日談】
         あれは茨城県の小学校に2年生の冬休みに転校した後だったから、小学校3年生くらいで
        昭和20年代の終り頃だったと思う。学校で身体検査があり、髪の毛の中をしらべられた女の子
        の頭に先生が白い粉を噴霧していた光景がこの写真を見て思い浮かんだ。あれが、DDTだっ
        たんだろうと、60年も経った今頃になって思い出した。

      2) すさまじいインフレ(貨幣価値の下落と物価高)
          石川氏の「エラブカ」の”ЯБЛOКO(ヤブロコ:林檎)”の章を読むと、軍人だった石川氏が民間
         人に戻る”復員”の手続きを済ますと「何百円という大金(?)を支給された」、とある。
          シベリアに抑留される直前の葉書の値段が5銭(0.05円)だったから、500円としても、現在の
         52/0.05 × 500 円 = 52 万円 で ちょっとした大金だ。

         「 少し気が大きくなり、2年ぶりで日本のお金を手にして宿泊所内の売店に行った。りんごが
          1個10円。ちょっと驚いた。戦時中私の軍隊での月給が10円くらい。誰も日本の物価(高)
          のことなど教えてくれない。そんなものかと思い切って一個10円のりんごを買った。帰国して
          初めての買い物が林檎(ヤブロコ)だった 。」

      3) 米軍による聞き取り調査(尋問)
          昭和22年の暮れ、米ソ冷戦はすでに始まっていてソ連の動向に米軍は関心を払い、同時
         に、日本国内の行き過ぎた民主化の活動家となる恐れのあるシベリア帰りのアクチビストの
         存在に神経をとがらせていた。

          石川氏も米軍人から、「飛行機を見たか」などの質問を受けたが、短時間で終わった。しか
         し、大塚氏のように数日にわたり、執拗に尋問されたあげく、郷里に帰宅してからも見ず知ら
         ずの警官から「大塚さんですね。前橋のGHQから呼び出しがあるかもしれませんから、逃げ隠れ
         しないように」、と言われ驚いた人もいる。

  E) 帰郷
      こうして、嫌なことや”今浦島”の驚きもあったが人々が暖かく迎えてくれた舞鶴を後にして、家族が
     待つそれぞれの故郷へと帰っていった。

5. おわりに

 (1) 念願の舞鶴訪問
      HPを立ち上げる前、山梨の工場に勤務していた頃だから1993年前後に、山梨の水晶細工の原点
     の1つだろうと私が思っているめのう細工の町・小浜を見学した後、丹後地方でミネラル・ウオッチング
     を楽しんだことがあった。このとき、舞鶴を通ったのだったが、立ち寄る用事もなく素通りだった。

      戦後70年の2015年夏、石川氏が出演したNHK甲府の「シベリア抑留」の放送を見て、『俘虜郵便』
     があったことを思い出し、石川氏を訪ねたのは10月だった。
      俘虜郵便だけでなく、厳しかったシベリア抑留生活などをお聞きし、シベリアは無理にしても抑留さ
     れた方々が上陸した舞鶴だけでも行ってみたいと思うようなった。

      2015年12月に兵庫県の石友・N夫妻が関西でのミネラル・ウオッチングを案内してくれ、その帰路に
     舞鶴を訪れることができた。戦後70年の年の最後に念願がかなったことになる。
      耳目だけでなく皮膚と呼吸で舞鶴に触れ、新しい発見がいくつかあったのも大収穫だった。妻は、
     舌で味わった日本海の幸・寿司が気に入ったようだった。

      放送の中で石川さんが訴えていた『平和の尊さ』を私も伝えていきたいと思っている。

 (2) 『物より体験』
      私の趣味は、ミネラル・ウオッチング、郵趣(切手)、古銭、古書(古文書・古美術)にしろ、”もの”
     を集めることだ。
      数え歳70歳の古希を迎えた2015年、いつまで生きられるかわからないが、『物より体験』だと思う
     ようになり始めた。舞鶴に行く気になったのも、こんな想いからだ。

      2015年は、 『 南極探検 』 に挑戦したので、2016年は 『 地球一周 』 に申し込み・支払いを済ませた。
     4月初旬に横浜を出港し、7月下旬には帰港する予定だ。

6. 参考文献

 1) 大塚 茂:俺は終戦一等兵 満洲シベリア日記,国書刊行会,昭和63年
 2) 小田 保編:続シベリア俘虜記 −抑留俳句選集−,双弓舎,平成元年
 3) 吹浦 忠正:捕虜の文明史,新潮社,1990年
 4) 石川 寿:老兵のシベリア抑留記,四季書房,1993年
 5) 鬼川 太刀雄:ラーゲーリ歳時記,岩波書店,1993年
 6) 斎藤 六郎:シベリア抑留―斎藤六郎の軌跡,岩波書店,1995年
 7) 若槻 泰雄:シベリア捕虜収容所,明石書店,1999年
 8) セルゼイ・イリイッチ・クズネツォフ著、岡田安彦訳:シベリアの日本人捕虜たち,集英社,1999年
 9) エレーナ・カタソノア著白井 久也監訳:関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたか
                                              社会評論社,2004年
10) 阿部 軍治:シベリア 強制労働の実態,彩流社,2005年
11) 吹浦 忠正:捕虜たちの日露戦争,日本放送出版協会,2005年
12) 石川 三郎:「ЕЛАБУГА(エラブカ)」抑留記,私家版,2007年
13) 長勢 了治:シベリア抑留全史,原書房,2013年
14) 舞鶴引揚記念館編:平和の願いを未来へ 母なる港 舞鶴,舞鶴市(同館),2015年
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