夏の観光旅行・黒四(くろよん)ダム − 針ノ木峠の埋蔵金伝説 -

             夏の観光旅行・黒四(くろよん)ダム
               - 針ノ木峠の埋蔵金伝説 -

1. はじめに

    2013年のGWに遊びに来た三男の嫁さんが「7月に、黒四ダムに行ってみたい」、と言って
   いた。7月の3連休の初日、三男一家が帰省したので、2日目に訪れることにした。
    朝ユックリ9時に山梨を発ち、安曇野(旧豊科)ICを10時過ぎに降り、途中の道の駅で信州
   名物の「おやき」やケーキをコーヒー、紅茶でいただき、扇沢(おうぎさわ)駅に着いたのは、
   12時だった。
    30分弱待って、30分間隔で発車するトロリーバス(略称:トロバス)に16分乗り、長いトンネ
   ルの終点が「黒部ダム駅」で、涼風の中、10分も歩くと「黒部ダム」だ。

       
                 外観                        車内から
                             トロバス

    ダムの堰堤(えんてい)からは、迫力あるダイナミックな毎秒10トンの観光放水を見て、満
   足した一行だった。これだけのものを造る人間の知恵と力に改めて感心し、この工事の犠牲
   になられた171名の御柱(みはしら)に手を合わせることも忘れなかった。

       
                 観光放水                    殉職者慰霊碑
                         「黒四(くろよん)ダム」

    堰堤の高さは186mと、今でも日本一だ。ここから放水を眺めると、高所恐怖症ならずとも
   尻のあたりが”ムズムズ”してくる。

     堰堤から見た放水

    行ってみて気づいたのだが、2013年は、昭和38年(1963年)6月に「黒四ダム」が完成して
   50周年を迎える記念の年にあたっていた。

    
                     扇沢駅
                 【くろよん50周年を祝う】

    黒四に行ってみようと思ったのは、三男の嫁さんのリクエストもあったが、最近古書店で手
   に入れて読んだ山本茂美の「塩の道・米の道」の影響も大きかった。この本に、『宝探しの道
   だった 黒四大町ルート』
の章があり、富山城主・佐々成政(さっさ なりまさ)が金鉱を開発し
   採掘・精錬した9万8千貫(?)の金の大半を針ノ木峠の谷深くに埋蔵した、という伝説を載せ
   ている。この伝説を信じて、埋蔵金探しに狂奔した人々が後を絶たなかったらしい。
    著者の山本氏がこの章を書いたのは昭和37年5月で、進行中のダム工事現場とそこで働
   き、生活する人々の一面を伝えている。

    父親が埋蔵金探しで財産(しんしょ)を潰した工事現場近くのバーで働く女性が、『・・・黒部
   の宝が”水”だってことが最近やっとわかったの。この宝はいくら使っても減らない・・・』 、と
   シンミリ話す。
    「黒四ダム」は、水量を調節し下流の洪水被害を防ぐだけでなく、豊富な水力で毎時33万
   キロワット余を発電し、年間百万人の観光客が訪れる。この富を金に換算したら年間数百億
   になることに気づいたというのだ。

    この7月の甲府盆地の暑さは全国一、二で、私の住む甲府市でも4日連続で38℃台を記録
   した。ほとんどの原発が停止しているにもかかわらず不思議なことに、『電力不足』の”で”の
   字も見聞きしない。
    「原発を稼働させる」ために、意図的に”電力不足”を煽っていただけなのだろうか。
   ( 2013年7月 訪問 )

2. 場所

    黒四(くろよん)ダムは、富山県宇奈月温泉を経て日本海にそそぐ黒部川の最上流部にあ
   る。”くろよん”は、関西電力の「黒部川第四水力発電所」の略称だが、発電所だけでなく、
   ダムや”関電トンネル”なども含む総称になっているようだ。

     
                                  黒四ダム地図

    第四とあるからわかるように、上の地図の中に、「黒三」や「黒二」の発電所も見つけられる
   だろう。

    黒四だけを見るのなら、長野県の大町市側からの方がアクセスが良いのだが、「立山黒部
   アルペンルート」として、富山県の立山駅と長野県扇平駅の間をケーブルカー、高原バス、
   トロバスそしてロープウェイを乗りついで”縦走”や”往復”するコースも可能だ。

     
                              「立山黒部アルペンルート」

3. ”くろよん”建設物語

    ”くろよん”建設のエピソードは、石原 裕次郎主演の「黒部の太陽」で観て知っている読者
   もおられるかも知れない。
    7年の歳月、513億円の工事費、延べ1,000万人の人力、そして171名の尊い犠牲の上に
   ”くろよん”は造られた。

    第2次世界大戦での敗戦後、日本の経済復興・発展で関西の電力不足が社会問題になっ
   ていた。( 今回の原発停止でも、最も電力の余裕がなかったのが関西だった )
    関西電力は、豊富な水量と大きな落差から水力発電の適地とされながら、深い谷、冬季の
   豪雪など厳しい自然条件でダム建設を阻んできた黒部川に”くろよん”建設を決めた。

    昭和31年(1956年) 6月 ダム建設事務所開設
                  8月 北大町専用停車場からの資材輸送路「大町ルート」工事着手
                 10月 大町トンネル(現関電トンネル)を大町側から掘削開始

                     トンネル掘削作業の様子は、ダムサイトにある黒部ダムレスト
                     ハウス3階の「くろよん記念室」内の模型や展示パネル、そして
                     常時上映されている記録映画「くろよん物語」で知ることができ
                     る。

                      掘削作業のジオラマ

    昭和32年(1957年) 5月 大町トンネルが「破砕帯」に遭遇
                     「破砕帯」とは、断層に沿って岩石が破壊された帯状の部分で
                     大町側入口から2,600mの地点から約80mにわたって続き
                     毎秒600リットルの水と大量の土砂が噴き出した。

                      「破砕帯」

                      距離にして80mの「破砕帯」を7ケ月の苦闘の末、突破

                      「破砕帯」からは今でも膨大な量の水が湧き出し、それらは
                      パイプでトンネルの外に運ばれていて、扇沢駅、黒部ダム駅
                      などで味わうことができる。
                      口に含むと、冷たくて、少し甘みがあり、まさに”甘露”だ。

                      「破砕帯」からの湧水を飲む孫娘

    昭和33年(1958年) 2月 関電トンネル貫通

                      「関電トンネル」貫通

                  5月 関電トンネル全面開通し、ダム建設地点の掘削作業本格化

    昭和34年(1959年) 2月 ダムと発電所を結ぶ「黒部トンネル」開通
                  9月 ダム本体のコンクリート打設開始

    昭和35年(1960年)     昼夜を問わず、ダムのコンクリート打設作業が続く
    昭和36年(1961年)

                      昼夜続く打設作業

    昭和37年(1962年) 8月 黒四発電所3号発電機運転開始
                     1号、2号は前年に運転開始

                      ダムの全容が現れる

    昭和38年(1963年) 6月 黒四ダム完成

    今年(2013年)は、黒四ダム完成50周年になる。

     
            50周年ロゴの入ったトロバス乗車券

4. 針ノ木峠の埋蔵金伝説

    山本氏の「塩の道・米の道」に、佐々 成政の埋蔵金伝説が載っている。

     『 立山連峰の前面(東)には、針ノ木岳、鹿島槍、スバリ岳、烏帽子など後(うしろ)立山
      と呼ばれる3,000メートル級の切り立った山々がそびえ、その間を千古の原始林におお
      われて谷深く刻んでいるのが、人跡まれな黒部渓谷である。

       
                        黒四大町ルート

       その上流に有峰(ありみね)という小さな一つの部落がある。(あった?)・・・・・・
       この有峰部落に伝わる伝説口碑に、天正の昔(1590年ころ)、富山城主 佐々 成政
      が金鉱発掘に力をそそぎ、9万8千貫(?)の金を採掘したが、秀吉ににらまれて大半を
      極秘裡に針ノ木峠の谷深く埋蔵した。その使い役に当ったのがこの部落人たちで、・・・
       ・・・この部落の末裔たちは口碑伝説にもとずいて、埋蔵金の探査をひそかに始めた。
       その地域も針ノ木峠はもちろん、黒部渓谷一帯はことごとく探検踏査されたが、大正
      2年8月信濃池田町の中山喜一というものが、金鉱精錬の遺跡を発見した以外には、
      なに一つそれらしい手がかりはえられず、このために一家離散倒産した者はその数を
      知らないありさまであった。
       ・・・・・ところが昭和のはじめごろ、突然、不思議な人物が有峰部落に現われて人夫
      一人を雇い、針ノ木峠に向かった。この人物は古い図面をたよりに、有峰の人さえもまだ
      知らない深い谷間に下りて谷底の大石を取ると、そこは広い洞窟になっており、漆塗りの
      かめがぎっしり並んでいた。ふたをとると、目もまばゆい山吹色の黄金がさんぜんと輝い
      ていたというのである。
       男はその黄金を自分の手でさわってたしかめると、またもとの石をていねいにのせて
      名まえもいわず、ただ再会を約して帰っていった。しかしどうしたものかそれきり姿を見
      せなかった。
       しびれを切らした有峰のくだんの人夫はついにがまんができず、その男との堅い約束
      を破って一人で針ノ木峠に出かけてみたが、ふしぎなことに何回行っても、その谷へは
      たどりつけないというのである。

       これは、昭和7、8年ごろ中央紙まで大きく報じた新聞記事である。これがまた欲の皮の
      突っぱった連中をうずうずさせ、このためまた多数の一家離散倒産の悲喜劇を生んだ
      というイワクつきの夢物語である。
       針ノ木峠から黒部渓谷というのは昔から、何かそういう神秘な物語が生まれるに
      ふさわしい所なのかもしれない。                                  』

   ■ 佐々 成政の生涯

     佐々 成政は、天文5年(1536年)【天文8年説もある】に尾張比良城に生まれ、14歳で
     織田信長の小姓となり、25歳で家督を継ぎ、比良城主となった。
      天正8年(1580年)神保長住の戦いの指揮、命令を行うため、成政は越中(富山県)に
     入国し、越中に攻め入ろうとする越後の上杉景勝や国人との戦を経て、成政は名実ともに
     越中の支配者になる。
      天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が倒れると織田家家臣間の対立が顕在化し
     賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が秀吉に負けると、勝家側についていた成政は秀吉に降伏し
     娘を人質に差しだして、越中一国を安堵された。
      信長の子、織田信雄・徳川家康連合軍と信長の孫を担ぐ秀吉の間で小牧・長久手の戦
     が始まると、信雄から要請を受けた成政は悩んだ末、信雄に味方した。
      成政は秀吉側の将・前田利家が治める能登・加賀へと侵攻しましたが、失敗に終わり
     家康と秀吉の兵が睨み合っている間に、信雄は秀吉と和議を結び、大義を失った家康も
     また兵を引いてしまった。
      天正12年(1584年)、成政は前田、上杉両軍に悟られず、敵地も通らず、厳冬の立山
     沙羅峠を越え、浜松にいる家康に会いに行ったが家康に翻意させることはできなかった。
      秀吉は成政のこの振る舞いを許さず、天正13年(1585年)8月、大軍をもって富山城を
     攻め、孤立した成政は敗退。剃髪して秀吉に降伏した。
      その後、肥後(熊本県)一国を与えられたが、一揆の責任を問われ切腹。享年53歳

   ■ 埋蔵金伝説

     「朝日さす 夕日かがやく 鍬崎に 七つむすび 七むすび 黄金一ぱい 光かがやく」

     この歌は、富山県に伝わる鍬崎山についての里歌で、佐々成政はおびただしい軍用金を
    立山の山中に埋蔵した、と言われ、場所は鍬崎山のほか、内蔵介平、針ノ木峠付近、さらに
    成政が治めた肥後国・九州説まであるらしい。
     山本氏は、「針ノ木峠説」を紹介しているわけだ。

     " Mineral Hunters "、としては、埋蔵金には余り興味がないが、成政が越中国に入国した
    天正8年から、秀吉に降伏した天正13年までのわずか5年間に、9万8千貫(=367.5トン)
    はあり得ないにしても、それなりの量の金をどの鉱山から採掘したのかは気になるところだ。

5. おわりに

 5.1 黒部の宝
      「塩の道・米の道」の中のバーで働く女性の言葉ではないが、黒部の宝は豊富な”水”だ。
      黒四ダムサイトにある発電所のパネルを読むと、最大出力は33万5千キロワットと大きな
     火力発電所の何分の一しかないが、環境にやさしくない化石燃料や核エネルギーなどと
     違う自然エネルギーを利用していることに価値がある。

       
                          黒四発電所概要

      1キロワット・時の電力料金を20円、発電所の稼働率を50%として、年間に稼ぐ金額は

      M=365×24×0.5×335,000×20≒300億円 になる。

      そのうえ、ダムからの放水を見るために年間100万人の観光客が訪れ、交通費や食事・
     宿泊、そしてお土産に一人が1万円使ったとして、年間100億円の経済効果だ。
      まさに、黒部の宝は”水”だ。

 5.2 農園の孫娘
      GWに山梨に遊びに来て、トマトなどの野菜苗を植えたり、水をやったりした孫娘にとって
     気がかりの1つが農園の野菜のその後だった。電話口にでるたびに、「 スイカは大きく
     なった?」、と聞かれた。
      初日の夕方、嫁さんと孫娘を畑に案内し、トマトやスイカの収穫を手伝ってもらったが、
     孫の顔の倍もあり、ズシリと重たいスイカは孫の手には余ったようだ。

         
               スイカ                    トマト
                        農園の孫娘

 5.3 骨董品の比重測定
      この日、出発をユックリにしたのは訳があった。山梨で開催される骨董市を一人で見て
     おきたかったからだ。
      この日行く予定の大町に関連する品があったので購入した。それは、郵便趣味(略して
     郵趣)品のはがきで、大正11年9月30日に大糸線の松本と大町間の列車に連結された
     郵便車内で消印された、「鉄道郵便印(略して鉄郵印)」だ。
      「上三」は、松本に向かう上り列車第三便を意味している。

       「松本-大町間」鉄郵印

      もう一つは、外国の貨幣(コイン)だ。左はアメリカの10セント(1916年)、中と右の2つは
     中国の「光緒元寶」(1890年〜1911年)だ。3つとも銀貨だろうと思って買ったのだが、
     自信はなかった。

       銀貨?

      こんな時は、比重を測定し、材質が何かをハッキリさせればよい。以前、「鉱物採集の技」で、
     「比重測定」を紹介した。

      ・鉱物の鑑定法 比重の測定
      ( Classification of Minerals , Mesurement of Specific Gravity , Ibaraki Pref. )

      今回もこれにならってそれぞれのコインの比重を測定した。測定に使用した秤(ハカリ)
     は郵便物の重さを簡易的に測定する、目盛りが2グラムのものだった。

区分   名    称  国   名 製造年 空気中の重さ
(W1)
グラム
水中の重さ
(W2)
グラム
比重(S.G)
=W1/(W1-W2)
 備    考
10セント アメリカ 1916年 2.1 1.9 10.5 通称:マーキュリー・ダイム
1916年〜1945年発行
Winged Liberty Head
庫平七分二厘 中国・湖北省 1890年
〜1911年
2.1 1.9 10.5  
庫平一銭四分四厘 中国・広東省 1890年
〜1911年
5.0 4.5 10.0 

      銀の比重は、10.1〜11.1 で、銀品位90%、10%比重8.82の銅が混じっているとすると
     コインの比重は、9.97〜10.87 なので、3つとも銀貨で間違いなさそうだ。
      今回のコインは1枚50円と100円で買ったものだから良いようなものだが、買って家に
     持ち帰って真贋(本物か偽物か)を判定していたのでは、後の祭りになる危険性がある。
      ミネラル・ウオッチングと同じで、現場で鑑定できる眼力を養うのが急務のようだ。

6. 参考文献

 1) 山本 茂美:塩の道・米の道,角川文庫,昭和53年
 2) 関西電力:黒部ダム 案内パンフレット,同社,2013年


「鉱物採集」のホームに戻る


inserted by FC2 system