鉱山札の研究 院内銀山久保田会所札







                 鉱山札の研究
              院内銀山久保田会所札

1. 初めに

    私は、鉱山・鉱物などの本に出会うと極力購入するようにしており、この分野だけでも
   蔵書は2,000冊を超えた。
    茶谷十六(ちゃだに じゅうろく)氏の『 院内銀山の日々  「門屋養安日記」の世界 』
   に出会ったのは、1年以上前だった。
    門屋養安は寛政4年(1792年)に出羽國(山形県)新庄に生まれ、羽後の院内銀山に住
   んだ医者であり宿屋の亭主であり、さらに手代(鉱山経営の役員)でもあった。彼は44歳
   のとき(天保6年、1835年)に”思い立ちて、日録相認(したた)め置き候”と書き始め、35年
   間にわたって書き綴った日記には、銀山の経営・技術、物資の輸出入、疾病と治療、祭
   礼・行事・芸能、天変地異から、日常の衣食住や交友関係にいたるまで多岐にわたり、
   具体的・詳細に書きとめてある。

    この本に「預銭(あずかりぜに)」が何回か登場する。これは羽後・久保田藩(秋田藩)が
   藩内にあった、阿仁銅山や院内銀山の経営振興を目的に発行したもので、鉱山町とその
   周辺の町村に限って貨幣の代わりに通用することにした意味では、一種の「鉱山札」、と
   も言える。
    実際には、「預銭」は、鉱山町だけでなく、かなり広範に通用していたようで、横手や湯
   沢の商人への支払いや、久保田(現秋田市)で遊学中の息子への仕送りにも使われた。

    千葉県近郊の骨董市を巡っていると、『銭十文預』、と書いた久保田会所札があったの
   で入手した。
    院内銀山史を調べてみると、『天保の盛り山』、とされる天保4年(1833年)から14年(18
   43年)までの11年間は、年間1,000貫(3.75トン)を越える産銀量で、石見、生野、佐渡な
   どの諸銀山の合計よりも多く、全国の60%を占めていた。とすると、この時期に発行された
   銀貨・「天保一分銀」や文政・天保以降の丁銀や豆板銀の半分以上には、院内銀山の銀
   が使われている可能性がある。
    明治維新になって、近代化を推し進める政府は、輸入した西洋の文物の支払いにあて
   る金銀の採掘に躍起になり、明治天皇が山形秋田巡幸鉱山御覧で院内銀山を訪れたの
   は、明治12年(1879年)9月21日で、養安が82歳で亡くなった6年後だった。

    
            山形秋田巡幸鉱山御覧
          秋田縣雄勝郡湯沢町院内銀山
              明治12年9月21日

    これらの材料も揃ったので、HPにまとめてみようと思った次第だ。
   ( 2012年2月調査 )

2.  門屋養安の生涯

 2.1 養安略歴
     養安の生涯を年譜の形でまとめてみた。養安と家族にかかわる事項と秋田(久保田)
   藩領内や銀山のできごとを並べて示す。

  年号 西暦  年齢
(数え)
      事       項 領内と院内銀山のできごと
寛政3 1791   0 実父・真壁平太夫死去
母は、養安を身ごもったまま門屋家に復籍
 
寛政4 1792   1 養安出生
 
享和3 1791  12 初めて院内銀山に来る。  
文化3 1806  15 院内を離れ、
阿仁に移る。
さつ子と結婚
 
文化13 1816  25 阿仁から院内銀山に移る。
 
文化14 1817  26   藩直営(直山:じかやま)に
戻る。
文政8 1825  34 「医学館名籍帳」の
秋田郡上杉村の部に
「阿仁七日市村、門屋養安
年齢38歳、本科、柳玄碩
(やなぎ げんせき)門人
治療御免」、とある。
 
 
天保元 1830  39   院内銀山
山神神社社殿造営
天保2 1831  40   菊地康庵
藩命で鉱山病を調査
天保4 1833  42   領内大飢饉
「巳年の飢渇」
院内銀山産銀年間1,000貫
(3.75トン)を超える。
『天保の盛り山』の始まり。
天保5 1834  43 お手代上席に就任
飛脚宿を始める
北浦一揆
領内疫病蔓延
銀山町火災、30数軒焼く。
天保6 1835  44 「日記」を書き始める。
請負宿の営業許可を受ける。
藩主・佐竹義厚より
山神堂に金灯籠一対奉納
天保7 1836  45   銀山町の人口 3,099人
戸数 220軒
天保8 1837  46 泰安を養子にもらう。
この年、「日記」欠落
 
天保9 1838  47 泰安、藩校「明徳館」入校
 
天保10 1839  48 3医師の復職に奔走
銀山町の3医師
無断居住で追放
天保11 1840  49 長女・おもと、佐藤介八
(手代・万蔵の倅)と
結婚

泰安、藩校医学館に入校

 
天保12 1841  50 おもと離婚、門屋家に復籍
妻・さつ子死亡
 
天保13 1842  51 後妻・某初見
山中抱医、月々二人扶持拝領
 
天保14 1843  52 泰安、おすまと結婚
 
弘化元 1844  53   石川玄長、銀山町で種痘実施

院内銀山の産銀量急減
山神社で祈祷

弘化2 1845  54 泰安、京都遊学に出立

門屋家、商人宿も引受ける。

院内銀山の掘子ら130人
「預銭」廃止等を求めて
騒ぎ立て
弘化3 1846  55 後妻・某と離婚
おいしと結婚
院内銀山大洪水
弘化4 1847  56 全ての宿屋営業を返上
 
嘉永元 1848  57   院内銀山大洪水
嘉永2 1849  58    
嘉永3 1850  59 孫・了介、疱瘡で死亡
 
嘉永4 1851  60 隠居
後を泰安に引き継ぐ
 
安政3 1856  65 阿仁を訪れる
 
万延元 1860  69 金龍から肖像画届く
江戸の画工・金龍
院内銀山逗留
文久元 1861  70   銀買い上げ価格を巡って
金名子の争議発生
元治元 1864  73   院内銀山で、大工・掘子ら
500人が職場放棄
下山する争議発生
慶応元 1865  74 この年、盛んに種痘を行う。
 
慶応3 1867  76 この年の「日記」欠落
 
慶応4 1868  77 泰安、戊辰戦争に従軍 院内銀山も戦場に
明治2 1869  78 この年の大晦日まで
「日記」を書き続ける。
 
明治4 1971  80   明治政府、院内銀山を
小野組に委託
明治6 1873  82 養安死去
82歳
 
明治7 1873     院内銀山が工部省直轄と
なる。

 2.2 35年間の日記
      日記を書き始めたのが天保6年(1835年)、養安が44歳の時だった。最後の日記を
     認(したた)めたのが明治2年(1869年)、彼が死ぬ4年前だった。
      つまり、35年間の長きにわたり、日記を書き続けたことになる。この間、2年分の日記
     が見当たらないようだが、書かなかったのではなく、残念ながら散逸してしまった、と
     見るべきだろう。

      「年譜」、という形で、養安、その家族、そして秋田藩や院内銀山に起こった出来事を
     縦(時間の流れとと共に=時系列)に並べてみたが、テーマ別に”横櫛”に並べてみる
     と養安をはじめとする当時の人々の考え方などが浮き彫りになってくる。
      それは、ある意味で私たちが抱いている、『封建社会』の代表とされる『江戸時代』に
     対するイメージを一変させるものがあるかも知れない。

  (1) 『家』の重み
       実父が亡くなり、彼を身ごもった母親が実家・門屋家に戻り養安が生まれたのだ。
      養安が生まれ、祖父が隠居、男が相続したが翌年死亡し、次の男が相続したがこれ
      も急死し、養安の母親が婿養子を迎え家を相続している。
       養安の長女は結婚した翌年に離婚し、門屋家に戻り、6年後には再婚している。

       出戻った娘は再婚し、養安自身、3回も結婚しているのを見ると”自由奔放”に生を
      楽しんでいるようにも見える。
       養安には男子がいなかったため、彼の医業を相続するため、泰安を養子にもらって
      跡を継がせている。

       このような行動に駆り立てていたのは、『家』、あるいは『血』の重みなのではない
      だろうか。
       その背景には、当時の乳幼児の死亡率の高さと平均寿命の短さ、さらに疫病の流
      行があり、跡継ぎとなるべき男子が絶えることを恐れていた結果だろう。

       『貞女、嫁して二夫に見(まみえ)ず』、と言うのが、封建社会を律した儒教思想かと
      思いきや、もしかしたら、これは日露戦争以降、多数の戦死者を出すようなった近代
      戦に赴(おもむ)く兵士達が後顧の憂いがないように、『軍国主義』が作り出した戦時
      教育の産物かも知れない。

  (2) 医師・養安
      銀山町における養安の肩書は、医師である。しかし、養安がいつ、どこで医者としての
     資格を身に付けたのか、明らかではない。
      間接的な資料として、文政8年(1825年)の「医学館名籍帳」の秋田郡上杉村の部に
     「阿仁七日市村、門屋養安、年齢38歳、本科、柳玄碩(やなぎ げんせき)門人、治療
     御免」、とあるので、師は湯沢の柳玄碩で、専門は本科、つまり内科だったようだ。
      ただ、この年、養安は34歳だったはずで、38歳とあるのは合点がいかない。さらに、
     文化13年(1816年)、25歳の年に、再び院内銀山に戻っていたはずで、文政8年(1825
     年)に阿仁七日市村に居住していた、というのも解(げ)せない。

      結局、養安が院内銀山でいつ医療活動を開始したかは明らかではない。思いがけな
     い事件の中に医者・養安が登場する。
      天保5年(1834年)8月30日、院内銀山で昼火事があった。医者・玄丈の家が火元で
     鉱山役場や精錬所、手代の住宅や金名子の飯場など33棟が焼失した。
      鎮火後、玄丈(38歳)は、自害をはかり、そばには5歳の娘の亡骸があった。鉱山役
     人からの呼び出しで駆けつけた養安が作成した検視報告書が鉱山役所の記録に残さ
     れている。
      これが、養安の医療行為(?)の初見である。養安の銀山町での医師としての地位は
     お抱え医師、現在でいう産業医だろう。

  (3) 宿屋の亭主・養安
       養安の2つ目の顔は、宿屋の亭主である。飛脚宿をはじめたのが天保5年(1834年)
      11月だった。この年の8月、銀山町の大火で焼けた39軒の中に五郎兵衛の宿屋が
      あった。
       五郎兵衛は、火災のあと建物を再建できず、宿屋を廃業して山を下りた。養安がそ
      の営業権を引き継いだことになる。これが、久保田と銀山町(この間100km余)を往復
      する飛脚たちのための「飛脚宿」だったのだろう。
       天保6年から7年にかけ、養安は本格的な「請負宿」を営業するための建物の普請
      を養子の勝治に任せた。
       銀山町は、銀を生産するための鉱山町で、「抜け石」や「抜け銀」と呼ぶ、銀鉱石や
      精錬した銀の無断持ち出し(=盗難)を極度に恐れた。
       銀の採掘・製錬に必要な鋼、鉛などの生産資材や米・野菜・魚・塩・酒などの生活
      物資を供給する商人たちも出入りを厳重に制約されていた。銀山町に出入りできる
      のは、請負商人の鑑札(=許可証)を受けたものに限られ、出入りの際には、番所で
      鑑札を符合した上で許可し、宿泊する場合は、指定された宿屋に泊るように義務付
      けられいた。
       特に、しばしばやってくる芸能人の出入りは徹底して規制され、銀山町で興行を許
      された場合でも、彼らを一般の民家に宿泊させることは固く禁じられていた。

       銀山町では、たった2軒の宿屋だけが営業を許可されていた。1軒は、目明(めあか
      し=今の警察官)の堀松半兵衛が経営する半兵衛宿、そしてもう1軒が養安宿だった。
       天保14年(1843年)正月に銀山町に出された掟書(おきてがき=広報)の中に、次
      のような一条がある。

       『 1. 木綿古手、小間物類風呂敷商いともに、御番所にて符印致し、御台処にて
        相改め、宿の儀は養安風呂屋に相限り申すべき事                  』

       つまり、銀山町で商いをする商人たちは、番所で鑑札を符合した上で出入りを許可
      し、宿泊する場合の宿は養安風呂屋に限る、というのだ。
       江戸時代の風呂屋は、”色いろ”なサービスを提供していたようで、開業して数年の
      間に、「請負宿」の中身が変質していたのかもしれない。

       養安宿は、日々来客で賑(にぎ)わった。久保田と銀山町を往復する飛脚たち、膨
      大な量の木炭を調達にくる新庄の商人たち、日本海から魚・昆布・わかめなどの海
      産物を搬入する矢島の魚問屋、江戸・京・大阪からやってくる浄瑠璃語りや講談師
      などなど、多彩な顔触れの宿泊客が日記に残っている。
       さらに、手代や金名子たちの祝宴、藩役人の接待、銀山町住民の講中の寄り合い
      や合点発句(がってんほっく)、茶会の会場として使われることもしばしばだった。山
      神堂の祭礼の日など、来客の多いときには30人以上が宿泊している。

       宿泊代は、1泊2食で、150文(今の5,000〜6,000円)、1日の売り上げが、1両になっ
      た日もあったはずだ。

  (4) 銀山御手代上席・養安
       天保5年(1834年)10月、養安は、御手代上席を仰せつけられた。日記を書こうと
      思い立ったのはこれから8ケ月後のことだ。書き始めた日記の冒頭に次のように特筆
      している。

       『 天保五午十月、御合力月々500文宛、御手代上席仰せ付けられ候。御詰合神沢
        昇様・支配人山崎権六殿、申し渡し候。                          』

        御詰合(おつめあい)は、正式には銅山方吟味役と呼ばれる藩の役人だ。院内銀
       山町にある役所に駐在して銀山経営の全体を指揮・監督した。神沢昇は、開明的で
       有能な経済の実務家で、勘定奉行・金易右衛門(こん やすえもん)の片腕として、
       銀山再生のために敏腕を振るった人物だ。
        支配人は民間人であるが、手代・金名子らの経営スタッフ全体を統率して、銀生
       産の現場全般を統括する。山崎権六は、率先して坑道内に入って部下を督励し、
       院内銀山繁栄の基礎を築いた最大の功労者である。

       手代は、藩役人の下にいる民間人でであるが豊富な技術と経験を持ち、採鉱から
      製錬までの銀生産にかかわる全ての過程を掌握していた。さらに生産に必要な工具
      や資材、就労者の全ての生活物資の調達と、銀山経営全般を具体的に取り仕切って
      いた。まさに銀山経営のかなめとなる精鋭たちだ。
       彼らは、支配人・重手代・重手代並・手代・小使・給仕の序列に区分され、経験と能
      力によって昇進した。それぞれが、山方役・外方役・金方締り役・金銀吹分け師など
      の専門分野に分れてそれぞれの業務を分担した。小使は17、8歳、給仕は14、5歳の
      少年たちで、手代の子弟たちが業務見習いとして採用されていた。

       鉱山での実務経験があるとは思えない養安が、いきなり御手代上席に任命された
      のはなぜだろう。
       天保9年(1838年)の「役付帳」の40人の手代の名簿の中に養安の名がない。これ
      は、どうしたことか。別の文献を見ると、手代格として医者の名前が記されている。つ
      まり、医者は手代そのものではなく、手代と同格に位置付けられていたのだろう。養
      安の御手代上席もそのように捉えることができそうだ。
       私が入社したH製作所には、常勤の医師、つまり産業医がいた。医師は社内では
      「課長」待遇だった。これと同じだったのだろう。

       それにしても、合力(ごうりき)、つまり手当が月500文(2万円弱)とはいかにも少な
      い。養安は、「初物の胡瓜(キュウリ)が1本20文」、と日記に書き留めている。月給が
      初物の胡瓜25本分になる。月々500文の「御合力」は、養安が60歳で隠居する嘉永
      4年(1851年)までの17年間、ついに増額されることはなかった。
       しかし、天保13年9月、養安51歳の年、「御山中抱え医、月々二人扶持拝領」を仰
      せつかり、正式に鉱山所属医師になっている。

       養安宿の1日の売り上げは、養安の1ケ月の「御合力」の数倍、時として数十倍もあ
      った。養安が宿屋の営業を始めたのは、御手代上席の任命を受けた1ケ月後だった。
       月々500文と言う法外に安い手当の代償として、養安が宿屋の営業を申し出て権
      利を獲得した、というのは穿(うが)ち過ぎた見方だろうか。
       ( 別名、下司(げす)の勘ぐり )

 2.3 長生き術
      明治4年(1871年)12月の記録によれば、院内銀山町の人口は2,390人。このうち、
     80歳以上の高齢者は、男性1人、女性5人だったという。
      この年80歳だった養安は、すくなくとも男性の中の最高齢者だった。数奇な運命に
     翻弄されながら、激動の時代を生き抜き、82歳の生涯を全うした養安の長生きの秘訣
     はいったい何だったのだろう。

      新庄藩の名門の家に生まれながら、生まれる前に父と死別、里元に帰って再婚した
     母とも別れ、少年時代に故郷を離れ秋田に住む。養安の人生は、少年の日の孤独な
     旅立ちから始まったと言える。
      異郷の地・秋田で医者の資格を取得したにとどまらず、藩直営の院内銀山のお抱え
     医師となり、御手代上席として銀山経営にも参画し、許可を得て銀山町に2軒しかない
     宿屋の1つを経営する。
      刻苦勉励、医学の研鑽に励み、社会的な地位を獲得するために骨身を削って努力し
     た青年の日々があったに違いない。

      このような人にありがちな偏屈さは微塵(みじん)も感じられず、養安の人生の骨格は
     @ 明晰な頭脳 A たゆまぬ努力 B 家族への愛情 ではないだろうか。
      さらに、人生を楽しむ余裕すら感じられる。それは、宿屋の経営で得られる経済的な
     ものだけでなく、和歌・俳諧・茶道・囲碁・将棋・・・を楽しむ文化人・趣味人の一面が
     あった。

      また、養安は何よりも酒を愛する人だった。日記の中で最も登場するのは酒に関す
     る記事だ。春の山菜、夏の鮎や泥鰌(どじょう)、秋の茸(きのこ)、そして冬の鴨や兎
     (ウサギ)など、季節ごとの食材を楽しむ酒盛りがしばしば登場する。
      酒の相手は、藩の役人から手代・金名子たち、医者仲間や出入りの商人、逗留中の
     旅芸人たち、日常的に立ち寄る近所の隠居や女房達など、その顔ぶれは驚くほど多
     彩だ。

      養安は、新しいもの、珍しいものについて、いつも好奇の眼を持ち続け、それは60歳、
     70歳になっても変わることがなかった。
      牛肉を食べ、南蛮酒(ワイン)を飲み、舶来の布地で着物や帯を仕立て、腰には「から
     ふと玉」の根付をぶら下げて銀山町を闊歩する。そんな姿が目に浮かぶ。

      養安の長生きの秘訣は、何よりもその若々しい生き方、前向きで積極的な生き方に
     あるのかもしれない。

3.  院内銀山のシルバー・ラッシュ

     室町時代以来、常陸守護の家柄で54万石の大身大名だった佐竹氏は関ヶ原の合戦
    での挙動を咎められ、慶長7年(1602年)、半分以下の出羽(後の羽後国)秋田20万石
    に移封された。

     秋田藩の経済を支えたのは、秋田杉に代表される山からの収入が大きな柱だった。
    鉱山としては院内銀山・阿仁銅山などが稼働していたが、17世紀には産出量が激減し、
    銅山のみの稼行だったようだ。

     永年、衰微の一途をたどっていた院内銀山が、再び活況を見せ始めたのは、文化年
    間に入ってからだった。文化14年(1817年)、秋田藩は、院内銀山をこれまでの鉱山師
    に請け負わせる請山(うけやま)から藩直営の直山(じかやま)とする。明和2年(1765年)
    以来52年ぶりだった。
     文化・文政年間を通じて出銀高は徐々に増加するが、100貫(375kg)、200貫(700kg)
    からせいぜい500貫(1,800kg)をわずかに超える状態が30年近くも続いた。

     院内銀山が、出銀高の急増で空前の盛況に沸き立ったのは、天保4年(1833年)のこ
    とだった。この年は、秋田だけでなく、津軽(青森)、南部(岩手)をはじめ東北地方全体
    が大飢饉に襲われた。こうした中で院内銀山は、空前の盛況を迎えたのである。

      
     

     天保4年(1833年)、それまで300貫(1,100kg)程度だった年間の産銀量が3倍の1,000貫
    (3.75トン)を超えるまでに急増し、この状態は、天保11年(1843年)まで11年間も続いた。

     こういった中で、養安が院内銀山御手代上席としての働きをする舞台が、天保6年(18
    35年)に整った。

     銀の融点は、960.5℃だ。銀鉱石から銀を取り出す製錬の過程では、1200℃の高温を
    必要とした。院内銀山だけでなく、この時代の鉱山では、製錬の際の燃料として多量の
    木炭を使用した。1,000貫(3.75トン)の銀を生産するためには、60万貫(2,250トン)もの
    木炭が必要だった。
     天保4年(1833年)以降、院内銀山の産銀量は飛躍的に増大した。「天保の盛り山」の
    幕開けだった。だがここで、重大な問題が発生する。木炭の不足だ。
     木炭の大増産が図られ、数年間のうちに、院内銀山周辺の山々の木々が伐採しつくさ
    れ、禿山になった。
     大雨が降るたびに鉄砲水が走り、橋や家屋が流され、人命が失われることもたびたび
    あった。

     御手代上席を仰せつかった養安が、真先に取り組むことになったのが、木炭の調達だ
    った。隣藩で自分の出身地でもある新庄からの木炭購入のため、養安は八面六臂(ハ
    チメンロッピ)の活躍をする。
     天保6年(1835年)の日記は、木炭の調達、とくに新庄藩及位(のぞき)地区からの木
    炭買付けに関する記事が大きな比重を占めている。

     6月14日、新庄の大滝某と松井某がやってきて、養安宿に8日間滞在する。2人は、新
    庄領内で生産する木炭を院内銀山で買い取って欲しい、と商談できたのだ。
     7月2日、及位村肝煎(きもいり)・高橋某と山手代・松井某がやってくる。向こう5カ年間
    院内銀山で使用する木炭を納入したい、という意向で、支配人・山崎権六も了承した。
     「8月10日、及位山より、出炭107貫目(400kg)、南沢炭役所へ相納め候。今日ではじ
    め」、と養安は日記に残している。
     10月末になって、明年(天保7年)、及位山の炭5万貫目(187.5トン)の請負が大滝某に
    仰せつけられた。売買契約成立だ。

     樋口 清之の労作に「日本木炭史」がある。近世木炭産地の項に、「秋田炭」の名が
    でてくる。秋田藩で使用する木炭の他に、直営銅山の製錬用炭の量と費用が記載され
    ている。
     院内銀山が藩直営になって間もない文政4年(1821年)から、「天保の盛り山」が始ま
    る天保4年(1833年)までの分を引用する。

  年   製 炭 量  費  用
文政4年 51万5412貫 146貫881文
文政5年 52万2589貫 1107貫137文
文政6年 44万5614貫500目 276貫84文
文政7年 38万3513貫 526貫515文
文政8年 37万5672貫 868貫748文
文政9年 39万2812貫 434貫338文
文政10年 54万8400貫 588貫773文
文政11年 65万2782貫 1107貫131文
文政12年 62万846貫 634貫684文
天保元年 55万7664貫500目 1107貫137文
天保2年 54万8724貫 670貫874文
天保3年 61万8742貫500目 802貫289文
天保4年 62万7536貫 754貫939文

     炭1貫目あたりの費用をみると、統計に誤りがあるのではないかと思われる箇所もな
    いではない。天保4年(1833年)の院内銀山の産銀量が1,073貫だったから、単純計算で
    64万貫余の木炭が必要だったことになり、ここに記載してある量が全て院内銀山用とな
    ってしまう。実際は、この統計に残されていない各地の銅山、銀山で直接購入した分が
    多量にあったのだろう。

4.  院内銀山の預銭「久保田会所札」

 4.1 「預銭」の撤廃要求
      弘化2年(1845年)3月14日、院内銀山で開びゃく以来の大騒動が発生した。百数十
     人の金掘大工・掘子たちが職場を放棄し、銀山町近くの集合して、要求書を提出した。
     鉱山労働者たちのストライキである。
      この日、養安の家では、京都への遊学が藩から認められた泰安の出立を翌日に控え
     送別の宴が開かれていた。そのさなかに騒動が起きた。
      この日の養安の日記には、「 3月14日、・・・・・・・・・金掘共等騒立これあり、花畑へ
     集り、御咎め蒙り候。・・・・・・・・・」、とある。
      この日一体何が起こったのか、具体的なことを何も養安は記していない。

      翌15日の日記は、泰安出立の昂揚した気分で、周りが冷静に見えなかったようだ。
      「 15日、日柄能く、泰安上京、目出度く出立・・・・・・・(泰安の荷物を運ぶ)馬遅く成り
       金沢正蔵殿御世話にて、外方より人 両人拝借、背負わせ申し候。酒代、預3貫文
       遣わし候 」、とあるだけで、騒動のことには何も触れていない。

      ここに、『預3貫文』、とあるのが「鉱山札」とも言える「久保田会所札」だ。これが、
     この騒動の一因になっていることに養安は気付いていない。

      この一連の騒動を冷静に日記に書き留めている男が院内銀山にいた。院内銀山詰
     合(つめあい)・小貫東馬だ。彼は、計数に明るい実務型の役人で、勘定奉行兼銅山
     奉行・金易右衛門の信頼が厚く、銅山吟味役に抜擢され、院内銀山詰合として着任し
     たのは、天保9年(1838年)6月だった。
      弘化2年(1845年)3月14日の小貫の日記には、次のように書かれている。

      『 昨夜中、金掘共130人斗(ばかり)、花畑に打寄り、・・・・何か相談ケ(が)間敷候間
       段々取り尋ね候処、町頭・組頭まで願の趣これある由、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

      天保7年(1836年)の記録によれば、当時の院内銀山には、45人の金名子がおり、そ
     の下で、1369人の金掘大工・掘子・岡廻・金場女が働いていた、という。つまり、後世
     『組』あるいは『飯場』と呼ばれる1つの組織には平均約30人の労働者が所属していた。
     130人ばかり、と言えばいくつかの組織の金掘たちが参加したゼネ・ストだった。
      彼らは、何を要求して集まったのだろうか。

      金掘たちから、町頭・組頭に提出された願書には次のように書かれていた。

      『 恐れながら、書附を以て、願い上げ奉り候事。

        一(ひとつ)、私共、段々見候処、4、5日已前(いぜん)、金掘共多人数、欠落ち
       仕り候。左候えば、銘々の主人(金名子)の為にも相成り申さず候。お上様の御為
       にも相成り申さず。依て、一統申し合せ奉り、至極難渋故、町役共致し方これなき
       為に、欠落ち仕り候よし。依て、時節柄と言い、御上様御難渋の御場合も顧みず
       恐れ入り存じ奉り候え共、山中一統金掘共、甚だ難渋に罷り成り、致すべき様も御
       座なく候。依て、是迄の御取扱に罷り成り候ては、此の末引立ち候事に相成らず
       候間、何卒御憐憫を以て、私共をお助けと思召し下され、諸突合並に末々引立ち候
       様、願い上げ奉り候。・・・・・・・・・・・・・・                          
          3月14日
                                              山中金掘中
       御町頭衆中
       御組頭衆中                                           』

      時節柄(産銀高が激減して、経営不振の折)、大変恐れ多いことではあるけれども
     山中の金掘一同がはなはだ難儀をし、これまで通りの待遇では、作業に従事すること
     ができないので、諸々の付き合いと末長く就業が可能なように、待遇の改善をお願い
     申し上げたい、と低姿勢ながら、強い意思が感じられる。

      小貫東馬は、3月15日の日記に、願書の内容を書き留めている。そこには、より具体
     的な要求項目が列記されている。

      『 金掘共、町頭迄の願
        1. 御給代の儀は、正銭御取扱い下し置かれ度く候
        1. 御勘定、山穿銭、打目、切目御渡し下し置かれ度く候
        1. 諸浪人突会の節、・・・・・・・・・
        1. 濁酒1升に附、24文づつ、お貸し下し・・・・・・

         右の趣(おもむき)、御聞き済み成し下され候はゞ、有難く存じ奉り候。尤も、
        鋪内(しくない)成丈(なるたけ)勢出し仕り申すべく存じ奉り候。
                                                惣金掘共   』

      第一は、給料は「正銭(しょうぜに)」支払ってもらいたい、ということだ。当時、秋田の
     鉱山だけでなく広い範囲で、藩内だけで通用する「久保田会所札」や「預かり札」が流
     通し、これらを「預銭(あずかりぜに)」、と呼んだ。
      「預銭」は、藩の外では通用せず、外に出る時は一般通貨である「正銭」と交換しな
     ければならなかった。しかも、その交換レートは、藩当局によって管理され、絶えず変
     動して安定しなかった。

      鉱山労働者の経済生活の基本になる給料を「正銭」で払って欲しいという要求を
     第一に掲げた意義は大きい。
      炭鉱での賃金支払が「鉱山札(炭鉱札)」でなく通貨によることが法で決められたのは
     これから60年近く後の明治25年(1892)の鉱業条例や明治38年(1905)の鉱業法を待た
     ねばならなかった。

      第二は、「山穿銭(やまうがちせん)」、つまり金掘の労賃支払いに関する要求だが、
     著者の茶谷氏はその内容について詳(つまび)らかでない、としている。これは、下の
     「正銭」の項で明らかにしよう。

      佐藤 清一郎氏の「秋田貨幣史」によれば、久保田(秋田)藩が幕府の許可を得て
     発行した紙幣・藩札を発行したのは、4回あるようだ。

 回  発行年  額  面   発 行 理 由   備 考
第1回 宝暦4年
(1754年)
銀100目
銀50目
銀30目
銀10匁
銀5匁
銀2匁
銀1匁
銀5分
銀3分
銀1分
凶作による領民救済  
第2回 天保11年
(1840年)
金札1歩
金札1朱
銭1貫文
銭100文
銭50文
銭10文
銭5文
凶作と鉱山不振による
領民救済
嘉永4年(1851年)
まで通用
第3回 元治元年
(1864年)
金札2歩
金札1歩
金札2朱
金札1朱
蝦夷地警備や禁裏守護の
出兵による財政難と
銭不足
 
第4回 慶応元年
(1865年)
銭100文
銭50文
銭10文
銭5文
藩札や「預銭」が氾濫し、
領民が「正銭」を隠匿し
銭不足
 

      下の写真のものは、骨董市で入手した「久保田会所」札で、額面から、幕末慶応元
     年(1865年)に発行されたものである。

             
             表               裏
                「久保田会所」10文札
                  【慶応元年発行】

      しかし、これ以外に幕府の許可を得ないで藩札の代わるものとして、準藩札とも言う
     べき『預かり札』を出した。
      預かり札には、藩名を出さず、藩の出先機関である諸上納役所、御町処、能代方湊
     上納役所、銅山方などの名義で発行した。
      そのほとんどは和紙を細長く切った上に毛筆で書き判を押した「書き札」だ。預かり札
     の発行年と額面を次の表に示すがこれは佐藤氏が収集した分だけで、現実にはこの
     数倍の種類があった、と氏は推定している。

干支 年号  額  面
甲午 天保5年
銭1貫文
銭100文
銭50文
乙未 天保5年
銭500文
戊戌 天保9年
銭100文
壬寅 天保13年
銭3貫文
銭100文
銭50文
甲辰 弘化元年 銭10貫文
銭7貫文
銭5貫文
銭3貫文
銭2貫文
銭1貫文
乙巳 弘化2年 銭10貫文
巳未 安政6年 銭500文
戊辰 明治元年 銭6貫文
銭500文
銭300文
銭100文
銭50文
庚午 明治3年 銭7貫文

      さて、院内銀山の鉱山労働者たちが撤廃を要求した「預銭」とはどれを指しているの
     だろうか。
      騒動が起こったのが弘化2年(1845年)3月だから、「預銭」は、これ以前に発行されて
     いたはずだ。しかも、当時の人々は、「金(きん)」、「銀(ぎん)」、「銭(ぜに)」を使い分
     けていたと考えられる。そうすると、「預銭」は歩(=分)や朱単位の金札や目、匁単位
     の銀札でもなく、銭、つまり文単位の銭札だったはずだ。
      泰安が出立する日、養安が馬子に『・・・酒代、預3貫文遣わし候 』、とあるのも大き
     なヒントだ。
      「藩札」には、3貫文の額面のものはなく、天保13年に発行された「準藩札」の「預か
     り札」にあるものだった可能性が高い。

 4.2 「正銭(しょうぜに)」とは
      正銭とは、紙切れでなく銀や銅からなる通貨のことだ。御承知のように、江戸時代の
     通貨には、「定位貨幣」と「秤量貨幣」の2種類があった。
      「定位貨幣」は、両-分-朱-250文の4進法からなる幕府が鋳造した貨幣が基本で、
     江戸時代末期には、地域振興や「銭」不足に悩む地方の要望にこたえ、各地方での
     鋳銭を認めるようになった。
      写真に示すのは、1両の1/4の価値のある「1分銀」、その1/4の価値のある「1朱銀」
     で、養安の時代に全国的に通用した貨幣で、これが「正銭」の代表だ。
      院内銀山の『天保の盛り山』、とされる天保4年(1833年)から14年(1843年)までの
     11年間は、年間1,000貫(3.75トン)を越える産銀量で、石見、生野、佐渡などの諸銀山
     の合計よりも多く、全国の60%を占めていた。とすると、この時期に発行された銀貨・
     「天保一分銀」や文政・天保以降の丁銀や豆板銀の半分以上には、院内銀山の銀が
     使われている可能性がある。

         
            天保一分銀                嘉永一朱銀
                          銀貨

      1朱銀は、250文に相当し、現在の1万円、1分銀は、4、5万円に相当し、これでは、
     ちょっとした買い物などには不便で、それを補う形で、銅貨が使われた。
      阿仁銅山はじめ銅山も多かった秋田では、額面が100文(約3,000円)の「天保銭」や
     1文(約30円)の「寛永通宝」などが幕府の許可を得て鋳造された。

         
              秋田一文銭                   天保百文銭

      「秤量貨幣」は、銀の重さを基準にした通貨で、「豆板銀」や「丁銀」と呼ばれる銀の
     塊の重さを基準にし、銀60匁(225g)が1両に相当し、銀相場によって日々変動してい
     た。

      全国的には、「豆板銀」と呼ばれる小粒の銀塊や「丁銀(ちょうぎん)」と呼ばれる大
     型の銀塊が通用していた。

      
         安政豆板銀【重さ 7匁4分(27.8g)】

      銀を産出する鉱山が多かった秋田藩では、銀の塊を打ちのばしたような「地方貨」と
     呼ばれる「封銀(ふうぎん)」や院内、角館そして窪田(久保田=秋田)などその地方
     名を刻印し、ある大きさに切りとった「切銀(きりぎん)」が通用していた。
      小貫東馬の日記にある、「打目(うちめ)」と「切目(きれめ)」は、これらを指している
     と考えて間違いないだろう。

         
                「封銀」          切銀【院内銀山】

 4.3 「預銭」撤廃
      養安の日記によれば、金掘たちが提出した預銭撤廃の要求はこの年7月に実現する。

      『 7月9日、当月より諸山共に正銭御取扱いに仰せ付けられ候由、昨日山中へも仰
       せ渡され候・・・・・・・・・・
        11日、山中渡し物、惣中始め山中銀名子の外、正銭直段(値段)にて、通付2つに
       相成り申し候
        9月朔日(1日)、久保田飛脚、是まで預500文づゝ拝領仰せ付けられ候所、当月よ
       り一夜正銭150文づゝ下され候事、御直々御達し成し下され候             』

      7月8日から、院内銀山だけでなく、領内の全ての鉱山で、預銭でなく正銭での支払
     いが行われることになった。
      鉱山での買い物のには、預銭と正銭の2通りの通帳に書き込まれた。久保田(秋田)
     との間の飛脚の宿泊料金は、預銭で500文だったが、正銭150文になったと通達があ
     った。

      弘化2年(1845年)、預銭500文は正銭150文の1/3弱の価値しかなかったことが明ら
     かになる。
      「秋田貨幣史」によると、市中では、古い預かり札を新しい預かり札に切り替えること
     が弘化2年に行われようだが、正銭との交換は記録されておらず、鉱山だけの措置だ
     ったのかもしれない。ただ、文久2年(1862年)、預銭と藩で鋳造した貨幣との交換が
     行われ、その時の交換比率は正銭100文に対して預銭2貫800文(=2800文)で1/28
     に価値が下落していた。
      交換場所として、諸上納役所、院内銀山、阿仁銅山、加護山鋳銭場とあり、その後も
     院内銀山でも預銭が通用した可能性がある。

5. おわりに

 (1) 「鉱山札」の楽しみ
      今まで入手した「鉱山札」(鉄山札、銀山札、炭鉱札)のほとんどが、関西、四国、九
     州で発行され使われたものだった。
      今回、東北地方で発行され、鉱山でも使われた藩札を入手し、このページをまとめて
     みた。僅か150年ばかり前のことなのだが、いろいろな文献に当ればあたるほど、真実
     が何なのか、解らなくなってしまった。
      それだけ、奥が深いということで、楽しみが広がった気がする。

 (2) 養安に学ぶ
      ”アラ古希”を迎えようと言う年齢になった私は、いつまで生きられるのだろうか、とい
     う思いがときどき頭をよぎる。
      男性の平均寿命まで10年と少し。この歳まで生きたのだから、統計学的には平均寿
     命よりは「平均余命(よめい)」の方が予測として正しいのかも知れない。それにしても
     20年足らずだ。

      残りの人生をどう生きるか、養安の、@ 明晰な頭脳 A たゆまぬ努力 B 家族
     への愛情 C 飽くなき好奇心 D  若々しい生き方 は見習いたいと思う。

5. 参考文献

 1) 佐藤 清一郎:秋田貨幣史,みしま書房,昭和47年
 2) 樋口 清之:日本木炭史(上),講談社学術文庫,昭和54年
 3) 樋口 清之:日本木炭史(下),講談社学術文庫,昭和54年
 4) 神坂 次郎:今昔おかね物語,新潮文庫,平成6年
 5) 茶屋 十六:院内銀山の日々 「門屋養安日記」の世界,秋田魁新報社,2001年
 6) 龍野歴史文化資料館編:お金 ―貨幣の歴史と兵庫県の紙幣― ,同館,2005年
 7) 日本貨幣商組合編:日本貨幣カタログ,同組合,2006年
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