鉱山札の研究

                 鉱山札の研究

1. 初めに

   江戸時代以来、鉱山経営者は手持ち必要現金(銀)量を減らすため「鉱山札」と呼ばれ
  る、紙幣の役割をする『私札』を発行し、鉱山内だけで流通させた。このシステムは、
  「炭鉱札」などに引き継がれ、第2次世界大戦終結(1945年)頃まで残っていた。
   某オークションを見ていると、幕末に発行された「播磨國泉屋鉄山札」が出品されていた
  ので応札・落札し、これについて次のようになページにまとめてHPに掲載した。

   ・播磨國(兵庫県)泉屋鉄山札
    ( Izumiya Iron Mine Note , Harima Province , Hyougo Pref. )

   以来、オークションや骨董市で「鉄山札」「銀山札」「炭鉱札」などを目にするたび、極力
  入手するようにしている。お蔭で、「阿瀬銀山札」もいくつかの種類が集まったので、1種類
  だけでは分からなかったことも見えてきたので、『鉱山札』についてまとめてみた。

    
        骨董市の店先【甲府市2009年3月】
     「藩札」の束の中に「鉱山札」が混じっていた

   このページをまとめたのは、私が所属する福島県いわき市にある「平地学会」から会誌に
  掲載する原稿を会長に依頼されたのがキッカケだった。近いうち、印刷されたものが出版
  されるはずだ。
   ( 2009年4月調査 )

2.  江戸時代の貨幣制度

   「鉱山札」は、「私札」の1種とされる。江戸時代、徳川幕府の貨幣制度の中で、「私札」の
  位置づけはどのようなものだったのだろう。

 2.1 江戸時代の貨幣制度
  (1) 貨幣制度
     江戸時代に流通した貨幣は、甲斐・武田氏が始めたとされる4進法に基づく”定位貨
    幣”の「両」―「分」―「朱」―「文」のシステムと豆板銀や丁銀と呼ばれる銀貨の重さ
    ”匁”を基準にした”秤量貨幣”システムが並存していた。
     前者は主に江戸を中心とする関東、後者は関西でのルールであった。そのようなこと
    から、『 江戸の金づかい、上方の銀目建 』、と呼ばれるようになった。

         江戸時代の貨幣制度

  (2) 貨幣の製造
     金銀銅貨を鋳造・改鋳する権限は徳川幕府が握っていて、それぞれ「金座」「銀座」
    「銭(ぜに)座」で行っていた。
     皆さんご承知のように、東京に「銀座」の名前が残っているのはその名残だ。1箇所で
    全国の流通量を鋳造・改鋳できるほど生産性が高くなかったので、全国に「下請工場」の
    ようなものがあった。

座長官      加  工  場             備      考   
金座後藤家 江戸、京都、駿河、甲斐、佐渡 
銀座湯浅家 江戸、京都、大阪、駿河など 
銭座  近江の坂本、江戸の芝網縄手
江戸の浅草橋場、豊後の竹田
寛永13年(1636年)
寛永通宝(一文銭)の
鋳造開始

  (3) 金銀貨幣の改鋳
     元禄8年(1695年)、徳川幕府は、財政の行き詰まりから、良質の慶長期(1600年ごろ)
    の金銀貨を回収し、品位の落ちた新貨を鋳造し直して強制的に流通させた。同時に、
    それまで地方で流通していた地方貨(例えば、秋田藩の極印銀(切り銀)のように純銀
    に近い高品位貨)を通用禁止として回収し、質の悪い新貨の鋳造にあて、幕府は莫大な
    利益を上げた。

     当然、質の悪い新貨との交換を嫌い旧貨を退蔵する者も多く、まさに『悪貨は良貨を
    駆逐する』
 を地で行く現象が起こった。

     このように、”貨幣改鋳のうまみ”を知っている幕府は、金銀貨の鋳造・改鋳を幕末
    まで独占した。
    (明治維新以降、現在に至っても状況は同じで、「政府券」を発行しよういう話も耳新しい)

     慶長年間から幕末万延年間に至る、小判1両の重さ(g)と金の品位(%)そして含まれ
    る金の量(g)を調べてみると下の表のようになる。

年号 西暦(年) 重さ(g) 金品位 金の量(g)
慶長 1601 17.73 86% 15.2
元禄 1695 17.81 56% 10.0
宝永 1710 9.34 83% 7.8
正徳 1714 17.72 86% 15.2
享保 1714 17.78 86% 15.3
元文 1736 13.00 65% 8.5
文政 1819 13.07 56% 7.3
天保 1837 11.2 57% 6.4
安政 1859 8.97 57% 5.1
万延 1860 3.3 57% 1.9

     「享保の改革」で知られる正徳・享保年間に重さ(量目)そして品位が慶長年間のもの
    と同じになったが、これも一時的なもので、幕末には金の含有量は慶長期の1/10近く
    にまで落ちていった。

  (4) 鋳銭座
     貨幣経済活動が活発になるに従い、銭貨(一文銭)が不足するようになった。各藩は
    ”銅貨が払底し商取引が不自由になった”、と競って藩内に「鋳銭座」を設置することを
    幕府に申請し、許可になり、銅銭や鉄銭を全国各地で鋳造した。

     寛保元年(1741年)、足尾銅山の苦境を救うために、「寛永通宝」の背面に足尾を示す
    「足」を鋳込んだ「足字銭」が発行されるなど、理由はさまざまだった。

       寛永通宝「足字銭」

     鋳造高は、幕府によって監視・監督されたが秋田藩のように江戸から遠い地域では
    監視が不十分になることを見越し、字体に特徴がある「手本【種銭】」を渡して、間接的に
    鋳造量(鋳銭量)を監視した。

 2.2 「藩札」
     このように、金銀貨の発行は幕府の独占、銅・鉄貨は幕府の許可制となっていたが
    飢饉・風水害などに見舞われた藩の財政は逼迫し、支払いにあてる金銀貨の不足を
    きたすところも少なくなかった。
     このような時、貨幣の代わりをする領内だけで流通する紙幣、つまり藩札の発行を
    幕府に願い出たが、よほど藩の財政が苦しい時でなければ許可されなかった。なぜなら
    藩札は金銀貨と違い、”単なる紙っぺら”で庶民の間で信用度が低く、乱発すると価値が
    下落し、経済を混乱させるからである。
     幕府の許可が得られないとき、知恵を絞って、藩札の代用になる「預り」「商品手形」
    を出入り商人名義や藩の出先機関で発行した所もある。
     藩札は、基本的に領内だけでしか通用しないため、領外に旅するときや領外と商取引
    するときは幕府発行の金銀銭貨に交換しなければならなかった。

     藩札の発行・通用の実態を秋田藩の場合について検証してみよう。藩札には、金・銀
    銭札がある。秋田藩では、餓死者32,000人とされる大飢饉があった宝暦4年(1754年)
    に初めて銀札を発行した。
     宝暦4年6月、『25ケ年間の銀札発行』を幕府に願い出て、翌月末に許可された。版木
    (原版)の下絵が準備され、特殊な技能をもった職人が役人監視の下で彫り上げた。紙は
    白色の楮(こうぞ)紙を貼り合わせて厚紙(約0.5mm厚)を作成した。
     久保田城内で印刷され、宝暦5年春には、100目から5分までの9種が完成した。この
    間、27名の札元(両替商)が選ばれ、引き受け額面の銀札の裏に名前が後刷りされた。

     宝暦5年6月ごろには、領内全域に銀札が行き渡り、5分(1/2匁)以上の取引には銀
    札のみを使うこととされた。両替率(交換レート)は、正銀(銀貨)100匁で銀札101匁、
    銀札102匁で正銀100匁、つまり両替するたびに1〜2パーセントのマージンを両替商が
    手にする仕組みになっていた。

     庶民は銀札を嫌い正銀を退蔵した。そこで、藩はたびたび庶民の家を家捜しし、金銀
    米を押収したため、不満が募った。藩が銀札を乱発したため、価値は下落する一方だっ
    た。
     致命的だったのは、美濃国産のお茶の販売代金を藩札で受け取ったが、正銀に交換
    できないという事件が宝暦7年(1757年)2月に起きた。現在なら、さしずめ”不渡り手形”
    であろう。債権者は、江戸の町奉行に秋田の札元34名を告訴し、秋田藩では苦しい財
    政の中、銀118貫あまりを支払い示談としたが藩札の信用は一挙に失墜した。
     この年、銀札発行推進派と反対派の間で激しい対立がおこり、切腹、斬罪、蟄居など
    の処分を受けるもの多数に及んだ。これが、「宝暦の銀札事件」と呼ばれている。この
    事件を契機に、25ケ年をまたずたった3年で銀札の発行は廃止に追い込まれた。

     銀札の価値下落に拍車をかけたのが”贋札(にせ札)”の横行だった。古い記録には
    本物とニセ札が半々、とあるほどたったらしい。

     「銀札」の後始末は、勘定奉行に引き継がれ、銀札1匁を銭1文(銅貨1枚)と10ケ年
    年賦で交換することになった。銀1匁が銭70文で交換できるはずだったのが1/70に切
    り下げられ、しかも10年返済となり、多量に銀札を持っていた商人の損害は大きかった。
     さらに、約束通り交換したのは最初の1年だけだった。それでも大きな混乱が起きな
    かったのは、銀札1匁の実勢価値が銭1文よりも低かったからだろう。

     ここでは、秋田藩の例を示したが、他藩でも似たような状況が起こりえたことは想像
    に難くない。

 2.3 「私札」
     私札とは、座(商工業者の組合)や個人が発行した手形や小切手である。幕府や藩と
    いった公的な機関が発行したものではないので、発行者には社会的に高い信用が求め
    られ、豊かな商人、両替屋、お米という現物の裏付けのある地主などが発行した。
     私札の通用範囲は、発行者と取引関係者に限られていた。

     秋田藩の場合のように、私札の発行は藩の許可制になっていたようだが、詳細は
    良くわかっていない。

3. 鉱山札

 3.1 鉱山札とは
    鉱山札は、鉱山主が銭不足の時、臨時に発行し、山内の稼ぎ人(労働者)や出入りの
   商人に渡し、後に現金(銀)と引き換えに回収した。
    秋田藩内には鉱山が多かったが、発行そのものが少なかったのか、回収、処分されて
   しまったのか、現存するものは少ないようだ。

    私が入手できている江戸時代の鉱山札は、「但州(現兵庫県)阿瀬銀山札」、「播磨国
   (現兵庫県)和泉屋鉄山札」そして「播磨国(現兵庫県)高羅鉄山札」と西国で発行され
   たものだけである。

    これらのうち、阿瀬銀山札は額面の違う2種類のものが入手できた。比較してみると
   今まで気付かなかったことが見えてきたのでまとめてみた。

 3.2 阿瀬銀山札の研究
    私が入手した「阿瀬銀山札」には、下の写真に示すように「銀5匁」と「銀1匁」の2種類
   の額面のものがある。(これ以外の額面もあった、と思われる)

       阿瀬銀山札

額面台紙の色改(あらため)印の数   備     考
銀1匁渋茶2   ○内に(改)
  □内に[改銭]
銀5匁1   ○内に(改)

    「阿瀬銀山札」については、以前報告した下記のページを参照願いたい。

    ・但馬國(兵庫県)阿瀬銀山札
     ( Ase Silver Mine Note , Tajima Province ( Hyougo Pref. )

    ここでは、2種類の額面のものを入手し、違いを比較したことから分かった事柄につい
   て私見を述べてみたい。

  (1) 台紙の色が額面で違うのはなぜか?
       銀1匁は渋茶、銀5匁は白、と額面によって違っているのはなぜだろう。これは、
      字が読めない人でも額面が理解できるためであろう。
       幕末、江戸(東京)の男子の識字率は79%と世界一高かった、とされているが
      女子は21%と極端に低く、農村などでは平均20%とされ、80%は読み書きができな
      かった。

       秋田藩で慶応元年(1865年)に発行した藩札(金札)4種は、額面が違うと台紙の
      色が違っていた。これは、1つには、贋札防止の意味もあるが、字が読めない人で
      も色で金額が分かるように、との配慮だったようだ。

  (2) 「改」の印は何のため?
       秋田藩の藩札(銀札)のところで”贋札(にせ札)”が横行し、古い記録には本物
      とニセ札が半々とある、と書いた。これは多少大袈裟にしろ、贋札対策には気を
      使っただろう。
       ( 現在でも、ニセ札の偽造や行使が報道されることがあるくらいだ )
        

       「改」の印は、改め(チェック)を行い、ニセ札ではない本物ですよ、という証拠に
      押したものだろう。阿瀬銀山札の「銀1匁」の札には2つの「改」印が押されている
      のは赤い「改」印を押した手の込んだニセ札が出現し、もう一度チェックを行い、本
      物に同じ印を押すわけにもいかず[改銭]という別な印を押したのではないだろうか。
      

4. おわりに

 (1) 「お金 ―貨幣の歴史と兵庫県の紙幣―」によれば、江戸時代から明治時代初頭
    までに発行された藩札などの札は、兵庫県だけでも4,000種類を超えるとされ、日本
    全国では膨大な数になるだろう。
     さらに、第2次世界大戦終結(1945年)頃まで発行された「炭坑札」などを含めると
    鉱山関係のものが何種類あるのか定かではないが、少しでも集めて、記録として後世
    に伝えたい、と考えている。

     なぜなら、額面の違う2種の鉱山札を比べてみると、1枚の鉱山札だけでは気付か
    なかったことが自然に見えてくるからである。

5. 参考文献

 1) 佐藤 清一郎:秋田貨幣史,みしま書房,昭和47年
 2) 日本貨幣商組合編:日本貨幣カタログ,同組合,1997年
 3) 神坂 次郎:今昔おかね物語,新潮文庫,平成6年
 4) 龍野歴史文化資料館編:お金 ―貨幣の歴史と兵庫県の紙幣― ,同館,2005年
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