大煙突と大雄院精錬所全景
E大雄院製煉所コンバータ
F大煙突
G電錬所
不純物(?)を含んだ粗銅から電気分解によって純銅を精錬した施設で、電解槽の底に
溜まった泥(スラリー)からは金、銀などの貴金属を回収した。
昭和8年の我国の主要鉱山産金額は、日立鉱山が第1位である。
順位 鉱山 県名 産額(Kg)
1 日立 茨城 2,737
2 佐賀関 大分 2,263
3 鯛生 大分 1,938
日立や佐賀関がトップを占めているのは、銅の製煉に必要な珪鉱(石英)として、他の
鉱山から銅や金銀を含む鉱石を買鉱(かいこう)しているためである。
3.「佐渡名勝 鉱山絵葉書」
佐渡鉱山発祥の地の1つ、”道遊山”の山麓にあった(ある?)道遊茶屋が発行した
もので袋には、道遊山と慶長年間(17世紀初頭)の坑内の採掘の様子が描かれている。
「佐渡鉱山絵葉書」袋
絵葉書は、11枚のセットになっており、1枚、1枚に購入者が押したと思われる参観記念の
スタンプが押されている。
参観記念印
郵便史では、風景印が始まったのは、昭和6年7月に、逓信省が日付印を美しく見せ、あわせて
日本の風景を紹介するため、名所旧跡に因んだ図案の日付印を使用したのが始まりとされて
いる。しかし、昭和4年に発行された、別の「佐渡鉱山絵葉書(カラー)」には、違った
参観記念印が押されており、民間でのこの種の記念印の方が先行していたように思われる。
従って、この絵葉書が発行されたのは大正末から昭和初期と思われる。
その絵葉書の構成は次の通りである。
@慶長時代〜現代の採掘道具・照明具・水揚げポンプ/鉱石
A正門より見た鉱山
B削岩機と手掘り
明治18年末に、佐渡鉱山局長に任ぜられた大島高任は、後に”高任坑”と呼ばれる竪坑の
開坑を柱とする事業拡張を計画し、削岩機購入に2万円の予算を計上し、実際に導入したのは
明治20年からであった。
その後、幾次かに分け削岩機の増強を図っており、この絵葉書が発行された当時、手掘り
作業が大々的に行われていたとは思われないが、「日立鉱山ゑはがき」と同じ意図があった
のであろう。
削岩機と手掘り
C竪坑昇降機
D道遊割戸と鉱石搬出ガソリン車
E選鉱場より遠望の道遊割戸
選鉱場より遠望の道遊割戸
F選鉱婦による手選
G搗鉱場へのトロッコ運搬
H搗鉱場全景と鉱石運搬索道
I搗鉱場内部
J青化製煉所内部
4.おわりに
4.1 日立鉱山の想い出
(1)私が茨城県土浦市の小学校に通っていたとき、5年生の春の遠足は、日立鉱山でした。
でも、このとき病気で参加できず、級友から、小さな黄銅鉱をお土産に貰ったのを覚えて
います。
(2)そのころ、「日立鉱山では煙突掃除をすると金がとれる」と聞いたことがあります。
(3)また、次のような問答(?)も聞いたこともあります。
Q:日立鉱山と掛けて何と解く?
A:破れフンドシと解く
Q:して、その心は?
A:時々、”金”がでる。
失礼しました!!
4.2 削岩機について
削岩機はダイナマイトの使用とともに、鉱業の近代化、効率化に大きく寄与した。
明治14年に開催された第2回内国勧業博覧会に、工部省赤羽工作局が英人技術者の指導の
もとに製作した削岩機を出品し、デモンストレーションも行った。
これは、英国ダーリントン社のものを模造したものであった。この削岩機をこの年、佐渡鉱山で
日本で最初に実地に試したが、故障が続出し実用に耐えなかったと伝えられている。
その後、秋田県阿仁鉱山で、他社の削岩機を輸入し、実効を上げる至り、佐渡鉱山にも
導入された。
この1件からも、真似してでも、西欧列強に追いつこうとする文明開花期の技術者達の
バイタリティが伝わってきます。
(今は、知的所有権の問題があって、できないのですが・・・・・)
5.参考文献
1)嘉屋 實編:日立鉱山史,日本鉱業日立鉱業所,昭和27年
2)麓 三郎:佐渡金銀山史話,三菱金属鉱業株式会社,昭和48年
3)小原 国芳:学習大辞典 地質鉱物偏(全),玉川出版部,昭和23年
4)新田次郎:ある町の高い煙突,新潮社,昭和44年