春の彼岸の墓参りに東京郊外に行くと、近くの都市で骨董市を開催していたのでのぞいてみた。
奥まったブースの台の上に置いてある和綴(わとじ)の古書を開くと、古銭の絵が入っていた。
ページをめくると、日本の皇朝十二銭や厭勝(えんしょう:まじない)銭、そして中国から渡来した
銭貨などに混じって「富本銭」の絵があった。題簽(だいせん)が剥がれてないため、題名は不明
だが、奥付には、初版は寛政七年卯年(1795年)で文政十年丁亥年(1827年)に再版したものだ
が、200年近く昔のものだ。
買おうかと思い値段を聞くと、思った通り高かった。店主は、「2、3000円安くする」、と言ってくれ
たが踏ん切りがつかなかった。骨董市の隅から隅まで見て回り、帰る段になったが、件(くだん)
の古書が気にかかる。もう一度ブースを訪ねた。
骨董品の買い物では、この時点で客が負けていて、店主の言い値で買わされるのが普通だが、
この店主は「もう少し安くする」、と言ってくれたので、購入する腹を決めた。ちょうどこの日は、
私の誕生日でもあり、『自分へのご褒美』だ。
帰宅後、気になっている題名をインターネットで調べてみた。版元(出版者)の「渋川清右衛門」
と初版を出した年の「寛政七年」の2つをキーワードに検索し、古銭関係の古書の題名を調べると、
『校正古銭鑑大成』らしかった。念のため、インターネットの古書店を調べると、題名に間違いなく、
私が買った値段の2倍以上の値がついていた。早速、あり合わせの和紙に題簽を印刷し、表紙に
糊で貼り付けると本の体裁も整った。
さて、この本を買う気になった「富本銭」の絵は、『冨夲』の文字の両脇に『七ツ星』が描かれ、
平成11年(1999年)に奈良・飛鳥池遺跡で発見され、一躍脚光を浴びたものと同じ図柄だ。今か
ら200年近く前に、好事家の間で「富本銭」の存在は知られていたことになる。
「古銭」や「鉱物」などの世界では、一握りの専門家に対して、『甘茶』や『好事家』と呼ばれる人
は圧倒的に数が多く、”珍しいもの”に出会う確率もそれだけ高い。出会った標本を記録し、保存
すると同時に差し障りのない範囲で公開する事をこれからも心がけていきたい。
( 2014年3月 入手・調査 4月 公開 )
1) 表紙【題簽(だいせん)】
2) 凡例
3) 本文
4) あとがき【序】
5) 広告+奥付
6) 所有者自署
この順に内容を紹介するのも能がないので、「3) 本文」は別章で紹介することにしてとして、
読者(MH?)の興味がありそうな項目から紹介したい。
2.1 表紙【題簽(だいせん)】
和書の場合、表紙に題名、場合によっては著作者名を入れた「題簽(だいせん)」が付いて
いる。しかし、題簽の糊は薄く粘着力が弱いので長い間に脱落してしまう古書も多い。この本も
入手した時、すでに題簽がなかった。脱落して時間が経っていなければ、その四角い跡が日
焼けせず残るのだが、この本は脱落して年月が経ったせいか、その痕跡は残っていなかった。
題名をインターネットで調べてみた。版元(出版者)の「渋川清右衛門」と初版を出した年の
「寛政七年」の2つをキーワードに検索し、古銭関係の古書を調べると、『校正古銭鑑大成』らし
かった。
念のため、インターネットの古書店で調べると、題名に間違いなく、私が買った値段の2倍以
上の値がついていた。早速、あり合わせの和紙に題簽を印刷し、表紙に貼り付けると本の体裁
も整った。
2.2 広告+奥付
(1) 広告
この本の奥付のページには、広告が掲載されている。この広告が、著作者(選者)を類推す
るヒントを与えてくれた。
広告には、「古今古泉鑑 全15冊」、「新撰泉譜 全3冊」、「泉貨分量考」そして「西洋銭譜
全2冊」の4種の古銭関係の本が掲載してある。
著作者名は、4冊とも、「彩雲堂選」とある。そうなると、『校正古銭鑑大成』の著作者(選者)
も「彩雲堂」である可能性が高い。
(2) 「彩雲堂」とは
丹波福知山藩(32,000石)の第8代藩主・朽木 昌綱(くつき まさつな:1750年−1802年)
の号が「彩雲堂」だった。昌綱は、蘭学を前野良沢に学び、俳諧・書画にも通じていたと伝え
られるが、古銭の収集・研究家の魁(さきがけ)でもあった。
江戸時代・元禄(1700年)のころ、使えなくなったお金を集めるひとたちが上方(京・大坂)
に出現したらしい。当時は、小判を中心とした「金貨」、丁銀の「銀貨」、そして寛永通宝に代
表される「銅貨」の『三貨制』が敷かれていた。これら三貨の中に、使えないもの(公式には
流通が禁止された貨幣)が混じっていた。
( 実際には明治になっても使われたものもある )
金貨・・・・・・・・・古甲金(武田時代に甲州で造られた金貨)など
銀貨・・・・・・・・・古丁銀(石見銀山の銀で造られた秤量貨幣)など
銅貨・・・・・・・・・唐・宋・明からの渡来銭やそれを模して日本で造った鐚銭(びたせん)等
金・銀貨の収集家を「古金銀家」、銅貨を集める人を「古銅家」、と呼び、「古銅家」は後に
「弄銭家(ろうせんか)」 → 「古銭家」、として現在に至っている。
収集家の多くは、武士や裕福な商人であったが、古銭を専門に商う人が出現すると、庶民
にも広まっていった。
【閑話休題】
昌綱候は、13歳頃に古銭収集をはじめ、それは終生続けられ、「古銭大名」、と呼ばれる
までになった。家臣の小澤 辰元をあちこちに遣わして古銭の入手に当らせ、江戸藩邸には
『古銭買入所』を作っていた、といわれる。そして、その交流は全国各地の収集家に止まらず、
長崎商館長のイザーク・チチングにまで及んだ。
昌綱候は、日本の奈良・平安時代の貨幣から、諸藩鋳銭貨、中国・安南(ベトナム)・朝鮮
のものまで渉猟し、果ては海を遠く隔てたヨーロッパの無孔打製貨幣にも強い関心を抱くよう
になった。
( 昌綱候の著作に、「西洋銭譜 全2冊」があるのも納得 )
イザーク・チチングを通してかなりの数の西洋貨幣を入手するが、その見返りに日本の珍し
い貨幣を渡したらしく、そのため幕府から”お咎め”を受けたと言われている。
昌綱候の執着心は、単に古銭を集めることだけに注がれたのではなく、鋳造地の解明・真
贋の判別など古銭の研究に生かし、古銭の解説書、分類・研究書発刊へとつなげていった。
古銭収集を『数寄者』の道楽とせず、研究成果を本にして世に送り出した。天明2年(1782年)
に「新撰泉譜」、同4年に「増補改正孔方図鑑」、同7年に「西洋泉譜」、寛政2年(1790年)に
「古今泉貨鑑」、同8年に「弄銭奇鑑」等々、十指に余る著作がある。これら、一連の著作を
昌綱候の号に因み、『彩雲堂泉譜』、と呼ぶようだ。
これらの泉譜で特筆すべきは、古銭の一つひとつに名前【固有名詞】を付け、その貴賎
(金持ち貧乏の意味でなく、珍重の度合いという意味)を【位付け】と呼ぶ数字で表したことだ。
私が入手した、『校正古銭鑑大成』では、”金一両”とか、”(銀)三匁”、というように、現在
なら”50,000円”とか”300円”というように、当時流通していた貨幣価値で表示し、まさしく、
『型録』の必要要件を満たしている。
このようにして昌綱候が集め愛でた収集品だが、幕末に海外に流出してしまった。福知山
藩にも維新の波が押し寄せ、洋式軍隊を整備するため、昌綱候の遺愛の品々(ヨーロッパ、
中国、朝鮮、日本の古銭 5,000種)は、ドイツ商人とゲーベル銃50丁で交換された、と言わ
れる。
その行方は、永らく不明だったが、イギリスの大英博物館に「朽木コレクション」として保管
されているようだ。
( 1999年の福知山市十大ニュースの第10位になっている )
(3) 版元の顔ぶれ
『校正古銭鑑大成』の奥付から版の違いと、それぞれの版元を一覧表にしてみた。
版 | 出 版 年 | 版 元 | 備 考 | 初版 | 寛政七年卯年仲夏 (1795年) | 大坂心斎橋順慶町 | 渋川 清右衛門 | 仲夏:陰暦5月 | 江戸小傳馬町三丁目 | 蔦谷 重三郎 | 同 | 西村 源六 | 再版 | 文政十丁亥年求板 (1827年) | 同下谷御成道 | 英屋 文蔵 | 英屋(はなぶさや) 私が入手した本 |
初版の版元の一人として「蔦谷(つたや)重三郎」の名が見られる。重三郎は、浮世絵師の
写楽や歌麿、作家の十返舎一九や曲亭馬琴を発見し、その才能を引き出した人であり、浮
世絵師で作家の山東京伝(さんとうきょうでん)を支え、長い間活躍の場を提供した人でもあ
った。
寛政元年に始まった、松平定信による「寛政の改革」で倹約令が出され、寛政3年(1791年)
には山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発され重三郎は過料(罰金)、京伝は手鎖(自宅軟禁)
50日という処罰を受けた。
『校正古銭鑑大成』を出版した前年(寛政6年)には、倹約令の期間を10年延長する沙汰が
出されたばかりで、重三郎は、不本意ながら本来出版したい本とは正反対の『古銭型録』を
出版して糊口をしのがざるを得なかったのだろうか。
重三郎は、この本の出版2年後の寛政9年(1797年)に亡くなった。
私が入手した文政10年(1827年)版は、英屋(はなぶさや)文蔵が、”求板”、つまり版木を
買って印刷して売り出したものだ。選者と思われる朽木 昌綱はとうの昔に亡くなっており、
寛政7年版をそのまま印刷したのではないだろうか。
( 「富本銭」の絵は、寛政7年の初版本から入っていたのではないか・・・・・・・・・ )
2.3 あとがき【序】
この本は、「あとがき」ともいうべき部分に、この本を執筆した背景・目的・読むことで得られ
る効用など、普通なら「序」に相当する部分に書く事柄が書かれている。
この文章を書き下してみる。不確実な部分は、 [ ] で示す。
『 近世 弄銭の事 盛んに行われて 其の書も又
少なから須(ず) 然りと雖も 其選 精(くわし)からず 杜撰(ずさん)妄説(もうせつ)のみ
多く 或いは文字[?]誤り 或は偽銭(ぎせん)を以て真
銭(しんせん)と須(す)るの類 枚挙に遑(いとま)なし 今此書にて図する
所は皆其真銭を得て 面文[銭]象一点の
訛謬(あやまり)なく 是を模写し 名家に鑑定
を請(こう)て 旁(かたわら)[に]附(ふ)さるるに 当時商家[に]交
易する処の価(あたい)を以て 是其大概なくて
同泉(銭)と雖も 小異悉(ことごと)く 差別有りて価毛(も)
亦(また)等し加(か)らざれば 『琴柱(ことじ)[に]膠さす』* に
似たりといへども 是を愛し 翫(もてあそぶ)の童子
此書によりて其品位の有増(ありまし)を弁じし(わきまえた)後
「泉貨鑑」 「新撰泉譜」 等の書を見れば古
銭を見る事 掌(たなごころ)を指(さす)るごとく
[さいうん堂志]のいふ
寛政七卯年六月 』
* 琴の「琴柱」を膠(にかわ:接着剤)で固定すると、調子(音程)を変えることが
できない。転じて、物事の応用が利かないことの意味。
『 [さいうん堂志]のいふ 』、とあるところから、この本の出版に昌綱候がかかわってい
たいたことを暗示しているのではないだろうか。
2.4 凡例
この本は、今で言う『型録』だから、古銭一点一点について、ある統一した考え方(ルール)
で分類し、価値を評価している。そのルールが書いてあるのが、「凡例」のページだ。
この文章も書き下してみる。不確実な部分は、 [ ] で示す。
『 ○ 秦より隋の世迄の銭を古文(こもん)といい 唐の開
○ 部分例言 。古 古文銭 。平 平銭
○ 凡(およ)そ 物の高下を論ずる事 価を以て譬えるより近き
○ 年数都(すべ)て 寛政七乙卯年迄を用ゆ 』
元以降の銭を平銭(へいせん)といい 出処年暦知れざる
物を不知品(ふちひん)といい 文字・銭質正しからざる物を
島銭(しません)といい 十二支・農鶴(のうかく)・金玉満堂の類を厭
勝品(えんしょうひん)といい 両挑開元・廣穿宋通の如く面文(めんもん)
異なる物を奇品(きひん)という 偽銭(ぎせん)は前蜀の通正
銭より載るといえども 故有りて 古文、平銭等の
内に混じ入る物有り 其外日本古代銭同絵銭等も各品ありて「泉貨鑑」には悉く部
類を分かつといえども 此書は諸品混雑あるが故
に一銭毎に品名の頭字(かしらじ)をあげて其大概を
知らしむ見る人 夫(それ)を察せよ
。厭 厭勝品 。日 日本銭
はなし 故に此書も毎銭其有増(ありまし)を記して以て貴賎
を分かつ 素(もと)より 童蒙(どうもう)* の為にて識者の見(けん)に
備るにあらざれば 其卑陋(ひろう)** を誹(そし)るなかれ
* 童子のように幼く、ものの道理に蒙(くらい)者
** 品性・行為がいやしく、きたないこと。
『 「泉貨鑑」には悉く部類を分かつといえども 此書は諸品混雑ある 』、と断っているのは
「泉貨鑑」の著者と同じ昌綱候がこの本の出版にかかわっているのだが、体裁(記述の仕方)
が違うことの言い訳だろう。
本文を読むと、「部分例言」に抜けがあるのに気づくので、あらかじめ追加して置く。
。 偽 偽銭 。 奇 奇品 。 不知 不知品
2.5 所有者自署
裏表紙の見返しの左下隅に『白露亭』とある。この本の持ち主が自分の号を墨書したものだ
ろう。『白露亭』が誰なのか、調べ切れていない。
@ 銭文(せんもん) ・・・・銭の名前、固有名詞で書かれている。
A 銭面(せんめん)・・・・・銭の表面の拓本(形・大きさ・文字がわかる)
裏面に文字や月日星などがある場合、銭文の左に記入
厭勝品の一種、「絵銭」などには、表裏面を表示してあるもの
もある。
B 発行年・・・・・・・・・・・・和暦○年、あるいは中国暦○年で表示
C 発行から寛政7年迄の経過年数
経過年数が828年とある。
発行年の開宝元年(968年)+828年=1796年となり、
寛政7年(1795年)と1年のズレがあるのは、828年が発行年を
含んだ数え方だからだろう。
D 分類名・・・・・・・・・・・・「部分例言」にある、古、平、厭、日、偽、奇、不知など
E 評価額・・・・・・・・・・・・寛政7年当時の市場価格を表示
金貨(定位貨幣)と銀貨(秤量貨幣:重さ)の表示が混在して
いるので注意が必要
金貨・・・・金○両、金○分、○銖
1両=4分=16銖
銀貨・・・・○匁、○分(匁の1/10)、○厘(分の1/10)
1匁=10分=100厘
1両≒銀60匁【時代によって銀相場は変動した】
3.2 古銭の代表例
古銭の代表例として、4種を紹介する。
日本銭・・・・・・・・「富本銭」(日本最初の貨幣?)
「和同開珎」(日本最初の流通貨幣)
中国銭・・・・・・・・「貨布」(西暦10年中国新の時代の銅貨)
「開元通宝」(唐時代の銅貨で、遣唐使たちによって持ち帰られ
我が国で「和同開珎」を発行する際の手本になった)
「和同開珎」は、その呼び名が、『かいほう』か『かいちん』かで論争があった。これについて
は、木内石亭が石器の「 所有者名『珎蔵』と『珍蔵』 」を同時に使っているので、『かいちん』
と読むべきだ、と次のページで報告した。
『校正古銭鑑大成』では、銭の名前がズバリ「和同開珍」となっており、何をか言わんやだ。
『金一分』、とある。当時は4進法で、1両=4分=16朱=4貫文=4,000文=銀60匁だったから、
銅貨の銭1,000文に相当する。そば1杯が16文とすると、そば63杯分になり、600円 × 63杯
≒ 4万円くらいとした。
「何でも鑑定団」に出た「富本銭」の鑑定額が1,000万円だったから、変化率は250倍に値上がり
したことになる。
国 | 銭 名 | 発行年 (西暦) | 評 価 額 | 変化率 B/A |
「古銭鑑」 の表記 | 現在の価値に 換算:A(千円) | 現在:B(千円) | 日本 | 富本銭 | (683) | 金1分 | 40 | 10,000 | 250 | 和同開珎 | 708 | 銀1匁 | 0.2 | 200 | 1000 | 乾元大宝 | 958 | 銀5匁 | 1.0 | 50 | 50 | 中国 | 貨布 | 10 | 金2両 | 160 | 2 | 0.01 | 開元通宝(両挑) | 621 | 銀3分 | 0.6 | 0.2 | 0.3 | 宋通元宝 | 960 | 銀1匁 | 0.2 | 0.5 | 2.5 | 淳祐元宝 | 1241 | 銀5厘 | 0.1 | 0.5 | 5.0 | 永昌通宝 | 1644 | 金2分 | 80 | 3 | 0.04 |
1000年以上前の日本の古銭は、この200年の間に50〜250倍に値上がりしているが、中国の
2000年前の「貨布」は、昌綱候の時代には金2両もして、とても庶民が道楽(趣味)で買える代物
ではなかったが、現在では約1/80に値下がりしている。お蔭で、年金生活者の私でも、2014年
3月の趣味の会で入手できたくらいだ。
”Mineralhunters” 変じて、古書渉猟家となる。
(2) 「花子とアン」と水晶細工店
今週からNHKの朝ドラが「ごちそうさん」から「花子とアン」にバトン・タッチした。「花子とアン」
は山梨県が舞台とあり、地元の熱気も相当なものだ。初日の放送では、早朝から市役所に
集まってテレビを観る企画もあったようだ。
4月3日の放送では、7歳の花子が、甲府の街まで、夜なべ仕事で作ったわらや竹の細工品
を納めに行き、たまたま遭った地主に奉公先探しを頼むシーンがあった。バックには、山梨名産
の国産水晶細工店が配置され、『甲斐の名産は葡萄と水晶』をアピールしている。
これからも、楽しみだ。