播磨國(兵庫県) 高羅(こうら)鉄山札

       播磨國(兵庫県) 高羅(こうら)鉄山札

1. 初めに

   江戸時代以来、鉱山経営者は手持ち必要現金(銀)量を減らすため「鉱山札」と呼ぶ
  紙幣の役割をする『私札』を発行し、鉱山内だけで流通させた。このシステムは「炭坑札」
  などに引き継がれ、第2次世界大戦終結(1945年)頃まで残っていた。
   以前、某オークションで播磨國(現兵庫県)にあった「泉屋鉄山札」や但馬國(現兵庫県)
  の「阿瀬銀山札」などを入手し、次のようなページで紹介した。

   ・播磨國(兵庫県)泉屋鉄山札
    ( Izumiya Iron Mine Note , Harima Province , Hyougo Pref. )

   ・播磨國(兵庫県)泉屋鉄山
    ( Izumiya Iron Mine , Harima Province , Hyougo Pref. )

   ・但馬國(兵庫県)阿瀬銀山札
    ( Ase Silver Mine Note , Tajima Province , Hyougo Pref. )

   某オークションを見ていると、江戸時代末期に発行された「播磨國高羅鉄山札」が3点も
  出品されていたので早速応札し、次々と落札した。
   何故、「播磨國 高羅鉄山札」に興味を覚えたかというと

   @ 「高羅鉄山」は、泉屋が経営した鉄山の1つ。
   A 兵庫県の石友・N夫妻に贈っていただいた、鳥羽 弘毅著「たたらと村 ― 千草鉄と
     その周辺 ―」を読んでまとめた『播磨國泉屋鉄山』の中に、「高羅鉄山」の名前が
     何度か登場した。

   そんな理由(わけ)があって「高羅鉄山」と「鉄山札」についてまとめ直してみた。

   某オークションを眺めていると「炭坑札」はほとんどいつでも出品されており、「銀山札」や
  「鉄山札」もごく稀だが目にする。出来るだけ多くの種類をまとめて調べてみたいと思って
  いる。
   ( 2009年2月調査 )

2. 高羅(こうら)鉄山とは

 2.1 高羅鉄山
    高羅鉄山は、泉屋(住友家)が播磨国(現兵庫県)で稼行した『泉屋鉄山』の1つだった。
   元禄3年(1690年)秋に吉岡銅山の支配・田向重右衛門は四国伊予國(現愛媛県)銅山川
   を遡り、後に「歓喜間歩」と呼ばれる別子銅山の一大露頭を発見した。
    翌元禄4年(1691年)幕府に別子銅山の稼行を幕府に願い出て、4ケ月後に認可された。
    以後、この別子銅山が永い間、住友家の屋台骨を支えていくことになる。

    幕末になると、本業の銅吹き、銅山稼行は苦境を迎え、幕府からの援助で急場をしのぐ
   ことも度々であった。また、幕末の外国船の来航と打ち払い、倒幕の動きと内戦など”きな
   臭い”情勢を敏感に嗅ぎ取り、鉄をつくり未来を拓こうと考えたと想像される。
   高羅、荒尾、樅木山、天児屋(いずれも兵庫県千種町)、吉川谷(鳥取県)に鉄山を開き
   砂鉄の採掘、踏鞴(たたら)による和鋼の精錬を行い、明治10年(1877年)頃、天児屋鉄山
   から撤退するまで続いた。

      泉屋鉄山配置図

    現在の道路地図上にも、岡山県との県境にある千種町には、たたら製鉄の神金屋子神
   降臨伝承の地で「和鉄のふる里」とされる岩野辺をはじめ、鉄山のあった「天児屋」や
   「荒尾(あろう)」の地名が残されている。

    高羅鉄山は、宍粟(しそう)市千種町河内(こうち)字高羅にあった。地図で見ると、現在では
   千種町中心部から北にあたり、河内川沿いの小さな集落のようだ。

      高羅鉄山があった河内地区

    兵庫県の石友・N夫妻から送っていただいた、「畳道供養」の碑に「高羅鉄山」の名が見ら
   れる。

        畳道供養碑【撮影:Nさん】

    碑文から、高羅鉄山の泉屋真七の発起で鉄山があった東河内村の人々によって安政
   元年(1854年)に建てられたことが判る。

       『 南無妙法蓮華経 畳道供養 
         施主     高羅鉄山勘定場
         発起     泉屋真七郎
         安政元年卯年寅年季冬吉晨
         東河内村建立             』

    別なインターネット情報には次のような記述もある。

     『 宍粟市千種町室、穐福山西方寺の旧本堂の屋根に据えられていた擬宝珠(ぎぼし)
      から、江戸後期、町内で盛んだった、たたら製鉄の鉄山から、多額の寄付があった
      ことを示す銘文が見つかった。
       擬宝珠は伝統的な建築物の装飾で、高さ114cm、直径約70〜90cm、3月上旬
      旧本堂が再建のために取り壊され、同寺の檀家で県教委文化課技師を務めた
      村上紘揚・元山崎高校校長が、降ろされた擬宝珠に、文字が彫られているのを
      発見した。

       下部に、大阪の泉屋(現・住友金属)が江戸時代、同市千種町で経営していた
      高羅鉄山を示すとみられる「高羅山元場中」の文字があり、「金三両二歩」などと
      記されてあった。
       村上さんや同寺によると、旧本堂は1825年(文政8年)に焼失から再建した。銘文
      から、その22年後の1847年(弘化4年)、高羅鉄山などからの多額の寄付で、擬宝
      珠が上げられたと推測されるという                            』

    高羅鉄山は、泉屋(住友家)の単独経営ではなく、共同出資者がいたことが、後に示す
   「高羅鉄山札」から読み取ることができる。

 2.2 泉屋真七(新七または真七郎)

     「畳道供養碑」に登場する泉屋真七の名前は、住友家関係の久本寺(大阪市南区)
    の祖師堂の「住友番頭衆諸霊位牌写」の中に次のように2人いる。初代真七は寛政5年
    (1793年)に生まれ、文久元年(1861年)に68歳で亡くなっている。

     初代真七がかかわったとしたら「西方寺の擬宝珠」は46歳、「畳道供養碑」は61歳の
    時になり、その可能性が高い。

       『 文久元酉年(1861年)7月17日
         忠正院道義日晴    初代真七

         明治28年(1895年)1月1日
         真正院晴富日道    二代真七   』

      また、千種町西蓮寺(浄土宗)の過去帳に、初代真七と同じ戒名で次のようにある。

       『 天児屋山  三嶋真七事 行年68才  山崎妙性寺  導師当山寺檀ノ勤故印置 』

       真七の苗字は三嶋(三嶌)で、羽三郎が請負人になっていた天児屋鉄山に勤めていた
      ことになる。同じ西蓮寺の過去帳に三嶋真七の出自(出身)を示す手がかりがあった。

       『 天保5午年(1834年)3月27日
         光誉照山信士     雲州能義郡安来町
         西方町旦那 頼み状来り引導ス    大茅山元場  真七弟 』

       西蓮寺の墓地に、同じ戒名で『雲陽安木産 俗名三嶌権六良』の墓石とあり、故人の
      名前が権六良であったことがわかる。さらに、このときの大茅山の元場(山元支配人)が
      真七であったことも判り、泉屋が請負っていたことになる。
        真七の弟が大茅山の元場であったと解釈できないことはないが、戒名の格など
      からその可能性は低い。また、真七は雲州能義郡安来町の出身であることが判る。
       私見ではあるが、真七は現在でも砂鉄採掘作業が元になったとされる”安来節”や
      ”安来ハガネ”で有名な雲州(現島根県)安来町で鉄山稼業に従事していた家の七男に
      生まれ、雲州藩の御用商人として出入りしていた泉屋が本格的に宍粟郡で鉄山経営に
      乗り出すにあたり、請われて移ったものと思われる。兄(弟ではない)権六良(六男で
      真七の兄)も相前後して移ったが真七が41才の時、死亡したと思われる。

       真七親子2代が「住友番頭衆諸霊位牌写」の中に名前を記録され、泉屋鉄山札に
      名前を記し、数々の石造物を残しているのは大坂から派遣された形、現在でいう
      ”本社採用”だったからではないだろうか。

3. 高羅鉄山札の研究

 3.1 高羅鉄山札
    私が入手した「高羅鉄山札」は3枚あり、縦131〜152mm、横34〜36mm、厚さ約0.2〜
   0.5mmの厚手の和紙の表裏に印刷したもので、耐水性を考慮してか、”柿渋”と思しきも
   のを塗って表面処理してある。
    状態は、「美品」「並品」「劣品」まちまちで、「劣品」は300円くらいで落札できた。

    

         表         裏
銭壹匁・・・・”銀”一匁
山内稼方・・・・・鉱山作業員
高羅鉄山所・・・・発行所
賃銭手形・・・”賃銀”として支払う
         現在の”賃金”
表書き通御渡可(?)以上
・・・・表書きの通り(銀一匁)
   お支払い致します
鉄山勘定場
山内外不用・・・・・鉄山の外では使えない
井筒屋七兵衛・・・・・共同出資者

   (1)発行されたのはいつか?
      発行された年などは表示されていないが、上記の記念碑の建立年などから判断し
     鉄山が勢いを持っていた幕末、1850年前後のものと考えている。

   (2)誰が受け取ったか?
      鉱山には、内(山内:さんない)と外を区別する境界があり、とくに金銀山などでは
     厳重な柵が巡らされ、出入り口には警備の人がいて、通行証が必要なところもあった
     と聞く。泉屋鉄山もその例に漏れず、出入り、門限など厳しかったと伝えられている。
      「山内稼方」とあるところから、鉱山(境界)の内で働く人に鉄山の勘定場から
     支払われた。勘定場とは、今でも”勘定”が会計用語や数を数えることとして使われて
     いるように、経理、購買、場合によっては警備なども兼ね備えた部署であった。

   (3)「銭一匁」の価値は?
      江戸時代に流通した貨幣は、甲斐・武田氏が始めたとされる4進法に基づく”定位
     貨幣”の「両」―「分」―「朱」―「文」のシステムと豆板銀や丁銀と呼ばれる銀貨の重さ
     ”匁”を基準にした”秤量貨幣”システムが並存していた。
      前者は主に江戸を中心とする関東、後者は関西でのルールであった。そのような
     ことから、「江戸の金づかい、上方の銀目建」と呼ばれるようになった。

         江戸時代の貨幣制度

     @定位貨幣制
       1両=4分=16朱=4,000文(4貫文)
           1分= 4朱=1,000文(1貫文)
                1朱=  250文
        という4進法で成り立っていた。

      「銭相場」は現在の外国為替並に、目まぐるしく変動していたらしい。

    時期銭相場(1両あたり)
江戸前期(慶長〜元文)
1600〜1740年
3,800文
江戸後期(明和〜幕末)
1750〜1850年
6,000文
幕末動乱期(慶応〜)
1865年〜
6,560〜11,000文

      つまり、世の中が”泰平”な時代には銭の価値が高く、”物騒”な時代になると金銀の
     価値が高くなる(銭の価値が下がる)のは、世の常のようだ。

      幕末には、銭の価値が下がり、インフレ―ションで物価が高騰し、庶民にとっては
     ダブル・パンチであったらしい。

     A秤量貨幣制
        泉屋鉄山があった播磨國は西国で、銀勘定であったから、1両に対する銀の重さは
       その時々の相場で変動したが、おおまかに1両=銀60匁 であった。

     Bその当時の価値は?
       1両=6,000文=60匁として、「銭一匁」の鉱山札の価値は100文 となる。
 

       蕎麦1杯を16文 とすれば、大凡蕎麦6杯分となり、現在の価値にすれば
       6杯×600円=3,600円 となる。
       これで、1日生活できるとも考えられず、「銭一匁」の鉱山札は、毎日何枚かを受け
       取ったと考えられる。
  

4. おわりに

 (1) 高羅鉄山札
      高羅鉄山札には、今回入手した「銭一匁」の10分の1の「分」単位のものもあった。
     これらも入手したいと考えている。

 (2) 高羅鉄山や以前紹介した泉屋鉄山があった兵庫県千種町の近くには、中瀬鉱山
    加保坂、夏梅鉱山、明延鉱山そして大身谷鉱山など魅力的な有名鉱物産地がある。
     千葉での技術コンサルタント業も、3月で終わりそうなので、これらを訪れる際に
    是非、鉄山跡に立ち寄って見たいと考えている。

5. 参考文献

1)平塚 正俊編:別子開坑二百五十年史話,株式会社住友本社,昭和16年
2)日本貨幣商組合編:日本貨幣カタログ,同組合,1997年
3)神坂 次郎:今昔おかね物語,新潮文庫,平成6年
4)美鈴ハサミ株式会社HP:播州刃物の歴史 http://www.misuzu-hasami.co.jp/banshuu.html
5)鳥羽 弘毅:たたらと村 ― 千草鉄とその周辺 ― ,千種町教育委員会,1997年
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