長野県上田市越戸の「玄能石」

長野県上田市越戸の「玄能石」

1. 初めに

 草下先生の「鉱物採集フィールドガイド」に、長野県小県郡の鉱物めぐりの章があり
「武石」「やきもち石」「玄能石」「蛇骨石」など、信州の奇人といわれた五無斎こと
保科百助ゆかりの鉱物が採集できると有ります。
 私のHPが縁で知り合った、京都の石友・Tさんが、五無斎縁の鉱物・越戸(こうど)の
玄能石を採集したい、と言うので案内して差し上げた。
 しかし、Tさんの方が、既に越戸の産地を広く歩き回り、私の知らない産状の場所を
逆に案内していただく羽目になってしまった。
 Tさんは、「玄能石」の成因について、独自の理論をお持ちとのことで、その一端を
伺うことができたが、詳しくは専門誌での発表を待ちたい。
 この夏休みに、五無斎関係の古書を数冊読み進むと、五無斎の発見した「玄能石」に
絡んで、五無斎の理解(=常識)を越えた動きをする東京の学者に翻弄された感ががあり
これらが五無斎のその後の生き方に少なからぬ影響を与えた、と考えるのは私だけで
しょうか。
(2004年8月採集)

2. 産地

 上田市の越戸(こうど)が産地で、浦野川にかかる越戸橋の右岸上流約150mに
赤茶けた粘板岩の露頭があり、車横付けの産地です。

    玄能石産地

3. 産状と採集方法

   「玄能石」は、粘板岩の層理に沿うように、C軸をほぼ水平にした状態で横たわって
  います。
   ここでは、「玄能石」のほか、鮫の歯、木の葉、魚の鱗などの化石も産出するので
  Tさんによれば、かつては、陸地に近い、水深100m前後の浅い海であったろう
  と推測されます。
   また、ごく稀に、厚さ数mm、長さ100mm程度の挟炭層も見られます。
   粘板岩は、風化に弱く、ボロボロになっているところが多く、そのような場所では
  自然に玄能石が母岩から脱落して、露頭の下に散らばっています。
   従って、露頭を崩すか、露頭の下の崩落したズリを丹念に見て回って採集します。
   ここでは、粘板岩の露頭の間に、礫層が入り込んでおり、そこでも「玄能石」様の
  鉱物(?)が見られました。

       
       粘板岩露頭         礫層の「玄能石」様鉱物(?)
               玄能石産地

4. 産出鉱物

 (1)玄能石(イカ石の仮晶)【Ikite:不純な方解石】
    玄能石の成因は永い間不明とされていましたが、イカ石を方解石が置き換えた
   いわゆるイカ石の方解石仮晶というのが定説になっています。
    しかし、本当に鉱物なのか、鉱物説に疑問を呈する人がいることも事実です。
   成因や産状を知るのには、「母岩付き」が欲しいところですが、簡単に母岩から脱落して
   しまうため、母岩付きの採集は極めて難しい。
    また、風化が進んだ露頭から採集できる玄能石や礫岩層の「玄能石」様のものの
   表面を真っ黒い”二酸化マンガン”のような皮膜を被っているものもある。

       
       母岩付き             分離結晶
               玄能石

4.おわりに

 (1)玄能石発見異聞
     明治28年、ひとりの学童が武石小学校校長・五無斎のもとに地元で「焼餅石」と
    呼んでいる石を鑑定してくれ、と持ち込んだ。そのころ、既に五無斎は地元では
    「鉱物学の大家」と目されてた。
     しかし、正式な学名は判らなかった。たまたま来合わせた、一高(東大教養学部)の
    学生・高橋雄次郎に尋ねたが判らないので、高橋が東京に持ち帰った。高橋は
    工科大学(東大工学部)の学生・高壮吉(のち九州帝大名誉教授)に示すと、高は
    「緑簾石」である、と鑑定した。
     このようにして、五無斎−高橋雄次郎−高壮吉のパイプが出来上がった。

    五無斎の論文、と言うより目録である『長野県小県郡鉱物標本目録 保科百助 撰』が
    「日本地質学雑誌」明治29年(1896年)7月号に掲載されるように取り計い、原稿の
    チェック、手直しに尽力したのは、理学士・比企忠であった。
     次のような”目録”が掲載された。(1部のみ抜粋)

×印は保科氏其地方に於て採集し ○印は同氏の新発見なり
  名 称産  地方名備   考
自然硫黄×長村字角間     現ニ採掘願中ナリ
○赤鉄鉱武石村大字下本入  
○方鉛鉱× 本原学校補習生徒ナルモノ神川ノ下流ニ於テ
採集スルトコロニカカル・・・・・・
一四○角閃石×長窪古町字立岩    
二八?   ×武石村大字下本入焼餅石球状ニシテ中ニ緑色光線状の結晶物
若クハ白色石英質ノ物質ヲ含ム・・・・・・
高等師範学校某教諭ニ鑑定ヲ請ヒ置キシモ今ニ音沙汰ナシト
之ヲ第一高等学校某氏ニ質スニ或種ノ銅化合物ナリト余曰ドーモ?ソレハ」
比企云フ即緑簾石ナリ
長野県北佐久郡横鳥村 保 科 百 助

    ここに、おかしなことがある。

   @「焼餅石」を「緑簾石」と鑑定したのは、高 壮吉なのに、この目録では比企氏と
    なっている。
   A五無斎が発見した小県郡の鉱物で「焼餅石」と同じ、あるいはそれ以上に中央の学会で
    センセーションを巻き起こした「玄能石」について、一語も書かれていない。

     比企は、「玄能石」の精密な測定や分析を行い、産出地の報告と共に「地質学雑誌」に
    発表した。こうして、中央の学会では、「焼餅石」の鑑定、「玄能石」の発見と研究も
    全て比企の功績となる。

     私が、五無斎なら、次のような狂歌で比企に抗議します。

    『比企よう(卑怯)なり 玄能石の 鉱石(功績)を 横鳥(取り)されし 保科百助』

    一方、これらの経緯を五無斎は「おもちゃ用鉱物標本説明」の「玄能石」の中で
   次のように述べています。

    『   三七 ”玄能石”(母岩 産地 第3紀層 小県郡浦里村越戸)
      玄能石は五無斎の新発明なり。否新発明には非るなり。同地方の人は疾くに知り居たるを
     五無斎が之を学者社会へ取り次ぎを為したるが為めに、五無斎は飛んだ目に逢いたるなり。
      最も最初に来県せられたるは、工学士高壮吉君なり。神保博士は数回来られたるなり。
     ・・・・・・小学校の先生が大学教授の附き合いをしては溜ったものに非るなり。
      比企理学士は其研究せらるたる事実を、地質学雑誌に掲げられたるなり。
     ・・・・・・紅葉形もあれば、亀の形したるもあるなり。太き短きもの、細き長き
     ものあるなり。幅広にして、お亀節の如きもあれば幅狭くして
薄っぺらなること
     今日の人情の如きもあるなり。
      其外一々名状し難ければ此位にて擱筆するものなり。(以上信濃公論第二六号)』

 (2)「地質学雑誌」に発表された「玄能石」の内容を調べたくなり、石友・T大のTさんの
    お力をお借りしようと考えています。

5.参考文献

1)佐久教育会編;五無斎 保科百助全集 全,信濃教育会出版部,昭和39年
2)佐久教育会編;五無斎 保科百助評伝,同会,昭和44年
3)平沢信康:五無斎と信州教育 野人教育家・保科百助の生涯,学文社,2001年
4)草下英明:鉱物採集フィールドガイド,草思社,1988年
5)須藤 實:ニギリギン式教育論(上)(下),銀河書房,1987年
6)井出孫六:保科五無斎 石の狩人,リブロポート,1988年
inserted by FC2 system