五無斎の論文、と言うより目録である『長野県小県郡鉱物標本目録 保科百助 撰』が
「日本地質学雑誌」明治29年(1896年)7月号に掲載されるように取り計い、原稿の
チェック、手直しに尽力したのは、理学士・比企忠であった。
次のような”目録”が掲載された。(1部のみ抜粋)
×印は保科氏其地方に於て採集し ○印は同氏の新発見なり |
||||
---|---|---|---|---|
名 称 | 産 地 | 方名 | 備 考 | 一 | 自然硫黄× | 長村字角間 | 現ニ採掘願中ナリ | 二 | ○赤鉄鉱 | 武石村大字下本入 | 七 | ○方鉛鉱× | ? | 本原学校補習生徒ナルモノ神川ノ下流ニ於テ 採集スルトコロニカカル・・・・・・ |
一四 | ○角閃石× | 長窪古町字立岩 | 二八 | ? × | 武石村大字下本入 | 焼餅石 | 球状ニシテ中ニ緑色光線状の結晶物 若クハ白色石英質ノ物質ヲ含ム・・・・・・ 高等師範学校某教諭ニ鑑定ヲ請ヒ置キシモ今ニ音沙汰ナシト 之ヲ第一高等学校某氏ニ質スニ或種ノ銅化合物ナリト余曰ドーモ?ソレハ」 比企云フ即緑簾石ナリ |
長野県北佐久郡横鳥村 保 科 百 助 |
ここに、おかしなことがある。
@「焼餅石」を「緑簾石」と鑑定したのは、高 壮吉なのに、この目録では比企氏と
なっている。
A五無斎が発見した小県郡の鉱物で「焼餅石」と同じ、あるいはそれ以上に中央の学会で
センセーションを巻き起こした「玄能石」について、一語も書かれていない。
比企は、「玄能石」の精密な測定や分析を行い、産出地の報告と共に「地質学雑誌」に
発表した。こうして、中央の学会では、「焼餅石」の鑑定、「玄能石」の発見と研究も
全て比企の功績となる。
私が、五無斎なら、次のような狂歌で比企に抗議します。
『比企よう(卑怯)なり 玄能石の 鉱石(功績)を 横鳥(取り)されし 保科百助』
一方、これらの経緯を五無斎は「おもちゃ用鉱物標本説明」の「玄能石」の中で
次のように述べています。
『 三七 ”玄能石”(母岩 産地 第3紀層 小県郡浦里村越戸)
玄能石は五無斎の新発明なり。否新発明には非るなり。同地方の人は疾くに知り居たるを
五無斎が之を学者社会へ取り次ぎを為したるが為めに、五無斎は飛んだ目に逢いたるなり。
最も最初に来県せられたるは、工学士高壮吉君なり。神保博士は数回来られたるなり。
・・・・・・小学校の先生が大学教授の附き合いをしては溜ったものに非るなり。
比企理学士は其研究せらるたる事実を、地質学雑誌に掲げられたるなり。
・・・・・・紅葉形もあれば、亀の形したるもあるなり。太き短きもの、細き長き
ものあるなり。幅広にして、お亀節の如きもあれば幅狭くして
薄っぺらなること
今日の人情の如きもあるなり。
其外一々名状し難ければ此位にて擱筆するものなり。(以上信濃公論第二六号)』
(2)「地質学雑誌」に発表された「玄能石」の内容を調べたくなり、石友・T大のTさんの
お力をお借りしようと考えています。