このページでは、原著論文について、現地を訪れた経験や、ここで
採集した翡翠を見た上での観察結果を交えて、その内容をお伝えしたいと
思います。
( 2006年2月 情報 )
『 昭和14年(1939年)6月、筆者(河野氏)は、知人を通じて新潟県
西頚城郡小瀧村産の”緑色鉱物片”の鑑定を依頼された。・・・本鉱物
との比較研究のため、同(神津)教授が香港に於いて購入せられた
支那産翡翠の原石数個をも貸与せられた。・・・・・比較検鏡の結果、・・・
翡翠なることが明らかとなった
・・・・・・・7月現地に越(赴の誤り?)き、発見者の案内に依り、同地附近を
約一週間踏査を行った。
現地に於いて発見者より分与された良試料につき、化学分析を行い
今そのその結果を得た・・・・・・・茲(ここ)に発表する。
・・・・・踏査に際し案内の労を取られた発見者大町龍二氏にも感謝
したい 』
発見者で産地を案内したのは大町龍二氏となっている。また、比較用にと
支那産翡翠の原石数個を河野氏に貸与した神津教授は、一見して、”翡翠
だろう(ではないか?)” と思ったのであろう。
2.2 伊藤栄蔵氏発見説
宮島博士の「とっておきのひすいの話」には、発見者として、伊藤栄蔵氏
(1887-1980)の名前がある。伊藤栄蔵氏が書いた「伊藤メモ」がフォッサ
マグナミュージアムにあり、これと関係者の話を総合すると発見の経緯は
次のようらしい。
@ 相馬御風は、コシの國(現糸魚川市周辺)の女王・奴奈川(ぬなかわ)姫
が翡翠の首飾りをしていた、との伝説があるので、その翡翠は地元産
かも知れないと、ひらめいた。
A 昭和13年(1938年)、このことを鎌上竹雄氏(元糸魚川警察署長・姫川
支流大所発電所勤務)に話した。
B その夜、鎌上氏は、娘の義父・伊藤栄蔵氏宅に泊り、御風から聞いた
この話を伝えた。
この場で、「農作業が一段落し、姫川の水量が少なくなった頃を
見計らってら、探してみる」と伊藤氏が言ったのであろう。
C 昭和13年(1938年)8月10日に、伊藤氏は小滝ひすい峡周辺で第1回目
の探査を行ったが、発見できなかった。
( 翡翠を見たことがなかったので、今もある大塊を見過ごしていた)
D 8月12日、第2回目の探査を行い、このときは、小滝川の支流も調査し
土倉澤の出合の滝壷附近で、”見たことのない青いきれいな石”を
発見した。100貫目(約400kg)もある大きな塊で、持ち合わせた小さな
鉄鎚では、米粒ほどの標本しか採れなかった。
E 19日、大きな鉄鎚を持って再び訪れ、5貫目(約20kg)の石を割って
持ち帰った。
F 300匁(約1kg)の石、2個を御風に届けた。
( 採集して、間もなくのことだったと、思われる )
2.3 発見者不一致の原因
宮島博士の「とっておきのひすいの話」に、次のように書かれている。
@ 相馬御風が、『ひすい糸魚川原産説』を最初に話した鎌上氏には
娘さんがいて、長女・八重子さんは伊藤栄蔵氏の長男に嫁しており
次女・智恵子さんは小林総一郎病院長のところで看護士として働いて
いた。小林院長と河野氏は親戚関係
A 「伊藤メモ」には、翡翠発見の話を聞いた小林院長から智恵子さんに
「翡翠が欲しい」と入手依頼があった、とある。
B 智恵子さんは、父親の伊藤栄蔵氏宅(実家)を訪れ、5cm大の翡翠
2個を受け取り、それを小林院長に渡した。
C 昭和14年(1939年)6月、小林院長は、それを河野氏に送った。
( 河野論文に「知人を通じて・・・・」とある知人とは、小林院長のこと)
D 翌7月、「伊藤メモ」や「糸魚川市史」にあるように、河野氏が東北
大学のある仙台から”飛んできた”
E 伊藤氏が案内していれば問題は起らなかったのだが、「伊藤メモ」に
「農民の自分より鉱山師の方が適任だろうと、鎌上氏が大町龍二氏を
案内人として選んだ」とある。
F 案内したのが大町氏だったので、河野氏は、案内者=発見者 と
勝手に思い込んでしまったのか、あるいは、大町氏が「俺が見つけた」と
いうニュアンスの発言をしたのか、今となっては知る由もない。
『 本鉱物を最初に発見したのは新潟県西頸城郡根知村の大町龍二氏で
あって昭和13年(1938年)のことである。同氏が最初に発見した場所は
姫川の支流なる小滝川の中流河底であって丁度土倉澤が小滝川に
注ぐ合流地点である。同翡翠は約1m立方位の塊状転石であって
同地点に於ては只一個発見せられたに過ぎない。その後同氏は本地点
より約1km下流なる河底において翡翠塊数個を発見し、次いで筆者
の踏査時に於て発電所員中村氏の案内により同地附近より更に数個を
発見し、現在までの所同地附近のみに於て合計十数個の翡翠塊の存在
することが知られている。これら岩塊の点在する地域は長さ150m位の
小範囲に限られ、主として小滝川の左岸である。翡翠塊は何れも直径
1mより数mの大塊であり、且河岸にあるものは角張っていて遠方より
流れ来たったと考へられない 』
下の地図の中央 A の上にある ○ 印が、土倉澤と小滝川の合流点で
この辺りで産出したものとされる。この下流約1kmが「小滝川硬玉産地」
で、現在でも翡翠の大塊を見ることができる。
松原先生の「鉱物ウオッチング」に紹介されている「ヨシオ沢」は、ここ
から約4km上流にある。
また、産地は『主として小滝川の左岸である』とあるが、現在道路は右岸を
走っている区間が長く、川幅も広く、水深も深く、流れも急で対岸に渡る
のは容易でない。
4.2 検鏡結果
顕微鏡で観察した結果を次のように述べている。
『 緑色部には、繊維状透角閃石(陽起石より変化するもの)を挟在し
白色部には結晶中に粒状の曹長石微晶を包嚢している・・・・』
4.3 化学分析結果
試料の白色部と緑色部について、化学分析を行い、その結果をビルマや
中国など外国産翡翠の分析結果と比較している。
現在では、緑色部分は”ひすい輝石”ではなく”オンファス輝石”であることが
解っているのでその成分と最新の分析機器での”ひすい輝石”の分析例も
参考として記載してみた。
成 分 | 小 瀧 村 | 外 国 産 | 参 考 | 緑色部 | 白色部 | Birma (ビルマ 現ミャンマー) | China (中国) | オンファス輝石 | ひすい輝石 | SiO2 | 58.02 | 58.35 | 58.41 | 59.02 | 57.60 | 59.26 | Al2O3 | 22.96 | 23.90 | 24.64 | 24.88 | 13.08 | 24.88 | Fe2O3 | 0.77 | 0.66 | 0.67 | 1.23 | - | - | FeO | 0.18 | 0.08 | - | 0.28 | 0.38 | 0.06 | MgO | 1.70 | 0.78 | 1.24 | 1.10 | 8.61 | 0.12 | CaO | 1.58 | 0.98 | 1.43 | 1.15 | 12.31 | 0.28 | Na2O | 12.38 | 12.55 | 12.76 | 11.21 | 7.79 | 15.32 | K2O | 0.16 | 0.12 | 0.58 | 1.34 | - | - |
この分析結果から、河野氏は次のように結論付けている。
(1) 緑色部と白色部の化学成分は、極めて近似している。
(2) 緑色部に MgO 及び CaO が多いのは、透角閃石を不純物として
含有せるためである。
(3) ”翡翠”自体の成分は両者大差ないようである。
4.4 光学性質
大森 啓一氏は、『本邦産翡翠の光学性質』の中で、小滝村産の”翡翠”の
光学的性質を測定して、緑色部も白色部も”翡翠”であると結論付けている。
(1) 試料の色
『 色は種々で、翡緑色、淡緑色及び濃緑色等の緑色、並びに白色の
ものがある 』
(2) 屈折率
項目 | 小 瀧 村 | China (中国) |
緑色部 | 白色部 | α’ | 1.659 | 1.659 | 1.659 | γ’ | 1.671 | 1.670 | 1.669 |
この分析結果から、大森氏は次のように結論付けている。
(1) 翡翠に緑色と白色の2種あるが、何れも同様の硬玉輝石である。
(2) この翡翠を神津先生の所蔵せられた支那産翡翠と比較したところ
まったく同様のものである。
(3) 共生砿物中に、Xonotlite 及び陽起石 がある。
( Xonotlite は、本邦産新産砿物で、本邦名は未だなく、ゾノトル石
と訳しておきたい )
(2) その蔭にあった、直接鉱物と縁のない、多くの人々が貢献していたことを
忘れてはならない。
相馬 御風氏:文学者としての鋭い直感で、糸魚川市周辺に翡翠の原産地が
あるのではないかとの指摘を行った。
伊藤 栄蔵氏:当時、人跡も希であったろう小滝川の上流、支流を踏破し
”見たことのない青いきれいな石”を氏自身は見たことも
なかった”翡翠”ではないかとの”直感”で探し当てた。
(3) 一方では、『 緑色部と白色部の化学成分は、極めて近似していて、”翡翠”
自体の成分は両者大差ない 』、つまり緑色部分も白色部分も”翡翠”である
とした鑑定結果が訂正されるまで、長い時間が掛かったこと、そして、今でも
多くの人が「翡翠は”緑色”をしている」との誤った認識を持っているのも確か
である。
この原因として、河野氏の分析結果で、白色部は現在の”ひすい輝石”の分析
値により近く、緑色部は”オンファス輝石”と”ひすい輝石”の中間の値になって
いることから、当時の分析技術の限界 という好意的な見方もできる。
神津教授が自身が香港で購入した”翡翠”と比較するように指示したことで
”これは翡翠だ”という、呪縛を2人に与えたことも否定できないのではない
だろうか。
なぜなら、オンファス輝石( Omphacite ) そのものは、1930年(昭和5年)に
鈴木 醇氏によって、四国からの産出が報じられていたのだから。
(4) 石川県の石友・Yさんから、『 ヒスイ探しとタラ汁の旅 』 のお誘いを受けて
いるが、日本海側に抜ける山間部や産地の小滝川、青海川上流部の積雪が
気になって、2の足を踏んでいる。
雪の融け具合を見ながら、計画してみたいと思っている。