鉱物採集と安全











            鉱物採集と安全

1. はじめに

    私のHPを見ていただいた方々と一緒に採集会を開催するようになって、4年目を迎えた。
   採集会のたびに、一番気にかかるのは、”参加者の安全”である。採集や移動中の
   転落・落石などによる事故や参加途上あるいは解散後帰宅時の交通事故など考えたら切りがな
   いくらい災害のポテンシャルはある。
    2005年のGWには、例年通り梓山(通称甲武信)鉱山での採集会を計画しているが、その矢先
   骨董店で大正2年(1913年)発行の5万分の一の地図「金峰山」を購入した。これには、「甲武信
   嶽」や巨大な水晶が産出したことで知られる(小尾)八幡山の水晶鉱山位置そして今回訪れる予
   定の「長峰」周辺も記載されている。
    紙魚(シミ)や一部に虫食いなどがあり、状態は悪かったが買う気になった大きな理由は、地図の
   裏面に「金峰山」と題して、大正5年(1916年)甲武信ヶ岳での遭難事故の反省を生山忠雄氏
   が綴っているのに気付いたからである。

    今後とも安全な採集会になるよう、この反省点を参考に、このページをまとめてみた。
    ( 2005年4月作成 2015年8月見直し )

2. 「金峰山」

    生山忠雄氏の文章は、墨書で「生山」の朱印が押してあり、一行が飯田町駅を発った大正5年
   (1916年)7月24日から僅か1ケ月足らずの8月18日に書き始め、19日に書き上げています。

     生山忠雄氏「金峰山」

 以下、全文を紹介いたします。

 『                      金峰山
                                大正5年8月18日
                                      「生山」(朱印)
   東京帝国大学々生、小山秀三、仝藤井彦七郎、仝安川半右衛門、仝中村孝三
  深川小学校教師山室林次郎ノ五氏、甲、信、武 三國境ニ聳ユル甲武信ヶ嶽登攀ヲ企テ
  大正5年7月24日午後11時飯田町駅ヲ発ス。誰カ知ラン再ビ此処ニ帰ル時5氏ノ内4氏ノ魂
  永久ニ山上ニ止ッテ肉体空シク白骨ト化シ居ラントハ。噫天ガ時カ将タ山神妖魔ノ暴戯カ哀哉
   熟思フニ事ノ此処ニ至リタル元ヨリ人智ノ能ク慮ル可カラザル天変ニ因ルトハ云ヘ
  5氏叉聊カソノ計ニ於テ盡サザル所アラザリシヤ否ヤヲ疑フ。
   依ッテ本図ニツキ当時状況ヲ記載セル日本少年9月号ノ特別付録ヲ参照シテ考フルニ
  土着ノ先達ヲ傭ハザリシハ第1ノ失ナリ。糧食トシテ白米ヲ求メシハ第2ノ失ナリ。
   叉若シ白米ヲ求メタリセバ山ニ於テ水ニ離ルル際正ニ炊ギテ以テ行ク可キナリ。
   真沢ニ迷ヒ入リシ時先キヲ急ギテ携帯品ヲ捨テシハソノ3ナリ。雨ニ発火ノ要意セザリシハ
  其4ナリ。豪雨ニ遭ヒナガラ飲料水ヲ取ラザリシハ其5ナリ。
   以上ハソノ最モ重要ナルモノヲ挙グ猶仔細ニ観察スル相互扶助シテ下山ノ際多少ノ失ナキニ
  アラザル可シ。聊カ記シテ以テ甲武信山上永久ニ立チ迷フ4氏ノ魂ヲ吊(弔か)ヒ
  且ツ後ノ山岳研究者ノ誡トナス。
                                 大正5年8月19日
                                     生 山 忠 雄  』

3. 深田久弥の日本百名山「甲武信ヶ岳」

    この遭難事件は、当時少年だった深田久弥にも大きな衝撃を与えたと思われ、彼の代表作で
   ある「日本百名山」甲武信岳」の章に、次のように書いていますので、引用しておきます。

    『 私の覚えている最初の山の遭難は、甲武信岳のそれであった。あの騒ぎは大きかった.
     何しろ田舎の少年にも大事件として伝わったのだから、当時の世間に与えたショックの
     大きさが察せられる。
      このごろのように一週間にいっぺんはは登山者の死が報じられるような登山ラッシュ時代
     ではなく、あれはたしか大正5年であったから、まだ一般には登山が冒険とみなされていた。
     しかも5名の遭難者の4名が帝大(現東大)へ入ったばかりの前途有望な青年であったことが
     一層騒ぎを大きくしたのだろう。一人だけが生き帰った。
     甲武信岳という名が私の頭に沁みついたのはそれ以来であった。

      おそらく甲武信岳という山の存在を世間に広く教えたのは、この遭難事件だろう。昔から
     名山とたたえられた山ではない。頂上に祠もなければ、三角点もない。奥秩父でも甲武信
     より高い峰に国師や朝日があり、山容から言ってもすぐ北の三宝山の方が堂々としている。』

4. .鉱物採集と安全

 4.1 過去の事故事例
     過去に、鉱物採集で発生した死亡事故は、私が知っている範囲では、次の通りです。

  産  地事故の内容災害の程度備考
愛知県中宇利鉱山落石死亡  
埼玉県秩父鉱山落石死亡  
大分県尾平鉱山土石崩落死亡  

    死亡に至らないまでも、平成16年に山梨県内の産地で墜落により、重傷を負った人がいるという
   風の便りも耳にしました。

 4.2 私の苦い経験と反省
      平成2年ごろだったと思う。11月に愛知県のKさんを案内して梓山鉱山に採集に行った。
     朝からどんよりと曇り、登り始めるとガスが出てきて、やがて霧雨に変わり、視界は20m以下と
     極めて悪くなった。
      尾根らしき場所に到達し、視界が悪いのでポシェットの方位磁針を出し、「長峰」のある
     ”南”を目指した。しかし、何処まで行っても見慣れた岩が出てこない。やがて、雨具を付けて
     いなかった二人の身体は冷え切って行った。
      そのうち、遠くから沢の濁流の音が”右”から聞こえてくる、つまり”南”ではなく”北”に向かって
     進んでいることに気付いた。
      何故、そんなことになったのか? その疑問は、瞬時に氷解した。ポシェットの中に一緒に
     入れておいた”鉱物鑑定用磁石”の影響で、方位磁針の”南北”が入れ替わっていたのだ。
     改めて、「長峰」を目指し、川端下の坑道に到着した時には、温度がさほど高くないにも
     身体中から湯気が立ち上ったことを思い出す。
     (凍死寸前は大袈裟にしても、それに近い位、身体は冷え切っていた)
      食事をし、人心地ついて、坑道内で採集を行い、30cmの両錐水晶を採集した。
      これは、今も居間のサイドボードの中に飾ってあり、この水晶を見るたびに、”苦い経験”を
     思い出している。

      この苦い経験から学んだことは『無理をしない』であった。
      最近では、『産地は逃げない』という、心境に到達しつつある(?)が、この当時は
     折角遠方から来た人だから案内しなければと、悪天候にも関わらず無理をして登った。

5. おわりに

 (1) 遭難があったのは、正確には「甲武信ケ岳」ではなく「破風(破不)山(2318m)」であるとの
    記録もあります。
     2015年7月、骨董市で入手した絵葉書を見ると4人が亡くなったのは、破風山南の沢で、この
    説を裏付けている。

    ・ 長野県 元祖・『甲武信鉱山』 の鉱物
     ( Minerals from Original Kobushi Mine , Kawakami Village , Nagano Pref. )

     遭難の詳細は「日本少年9月号特別付録」に掲載されているようですが、この本は古書店でも
    値段が高く、買うのを躊躇しています。

 (2) 生山忠雄氏がどのような人であったか判りませんが、「日本少年」を読んでいることから判断し
    当時、中学生(現在の高校生)だったろうと推定しています。
    氏の反省点を鉱物採集の安全管理に生かすとすれば、次のようになると思います。

    @土着ノ先達ヲ傭ハザリシ
      産地に詳しい人に”案内”をお願いする。
    A糧食トシテ白米ヲ求メ
      手軽に食べられる”おにぎり”など、加工された食料を持参する。
    B先キヲ急ギテ携帯品ヲ捨テシ
      余裕のあるスケジュール
    C雨ニ発火ノ要意セザリシ
      マッチなどの発火具を持参する。
    D豪雨ニ遭ヒナガラ飲料水ヲ取ラザリシ
      スポーツ飲料を持参し、なくなったら沢の”湧き水”を飲む。

6. 参考文献

1)生山忠雄:金峰山,同氏,大正5年
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