「礦物同好会」の岩石・化石・鉱物 標本







           「礦物同好会」の岩石・化石・鉱物 標本

1. 初めに

    『東日本大震災』が発生して1ケ月あまりが過ぎた。未だに20万人近い皆さんが避難生活を送り、
   原発事故は終息の兆(きざ)しすら見えず、ともに長期化が懸念されている。1ケ月たってもマグ
   ニチュード7クラスの「余震」が本震震源地から遠く離れた地域でも発生し、肝を冷やすこともたび
   たびだ。
    そんな中、被災地の子供たちの屈託のない笑顔や津波で折れた桜の木の蕾(つぼみ)がふくら
   んでいる様子などをテレビで見ると、少しずつだが復興に動き出しているのを感じて救われる。

    2011年3月初め、千葉県で『翡翠(ひすい)』探しを行い、いくつかの石器を観察し、それらの多く
   は埼玉県秩父地方で産出するものだろう考えた。

    ・千葉県で翡翠(ひすい)探し
     ( JADEITE Hunting in Chiba , Chiba Pref. )

    このページをまとめている最中、某オークションに長島 乙吉氏が主催した「礦物同好会」の名前
   が入った、「秩父地方の岩石・鉱物組標本」が出品され、入札・落札した。
    4月になって、東京の骨董市を訪れると、昭和40年代後半に、女子生徒が集めたと思われる関
   東・甲信越地方の岩石と「ノーベル社」が小学5年生、6年生向けに調製した「岩石・鉱物標本」が
   セットになっておいてあり、入手した。この中にも、長瀞を中心とした秩父地方の岩石・鉱物がいく
   つか納められていた。

     





 ちゝぶ(?)みやげ




 岩 ?? 石






    これらの標本を見ていると、秩父地方の長瀞を中心とする変成岩地帯は、『日本地質学発祥の地』
   とされるに相応しいバラエティに富んだ岩石の産地であることを認識できる。
    さらに奥にある秩父鉱山を中心とする一帯は、「紐状(ひもじょう)自然金」などの金属鉱物から
   長島 乙吉氏の伝説にある「鮮緑色の灰バン柘榴石」などのスカルン鉱物の宝庫であることを知らさ
   れる。

    2011年は、長瀞にある「埼玉県立自然の博物館」の前身の「秩父鉱物・植物陳列所」が大正10年
   (1921年)に開設してから90年、人間で言えば「卆寿(そつじゅ)」を迎え、企画展が開催されている
   ようなので、時間をつくって訪れて見たいと考えている。
    ( 2011年4月 入手 )
 

2. 産地

    埼玉県北西部にある秩父地方は、現在でもセメント会社が原料となる石灰岩を大規模に採掘して
   いて古くから地下資源の豊富な地域として知られている。

    慶雲5年(708年)1月、武蔵国黒谷(くろや)より産出した銅を献上、年号を「和同」と改元。5月〜8
   月、「和同開珎(わどうかいほう/ちん)」の銅銭・銀銭を鋳造した。しかし、なかなか銭は流通せず、
   3年後の711年、蓄銭量に応じて位階をさずける「蓄叙位令」を出したのは歴史で習った通り。

    江戸時代になると、平賀源内が長瀞産の石綿で「火完布」を織り、明和2年(1765年)〜4年(1767
   年)にかけて今の秩父鉱山に入山し、桃の窪旧坑(金坑)を手始めにあちこちで採鉱した。
    明治44年(1911年)に英国資本家・ベーツ出資により英国人技師達が探鉱したが鉱床を発見でき
   ず、その後、柳瀬貞三の経営となり、本坑、雁掛澤、ワナバ澤などで短期間に金、銀、鉛、亜鉛鉱を
   発見し、金山として隆盛を見るに至った。
    大正3年(1914年)に第一次大戦勃発に伴い、鉄の価格が高騰し、金より鉄に転じて全山挙げて
   探鉱に取り組み、道心(神?)窪、金香坂などの大鉱床を発見し、皆野駅までの間に空中索道を建
   設するなど、前途洋々と思われた。
    しかし、欧州大戦の終結に伴い、鉄価が暴落し鉱業界の不振により休山に追い込まれた。昭和7年
   (1937年)、またまた金山として復興し、産出鉱石を日立鉱山に売鉱し、重要鉱山に指定された。

    このように、秩父地方は岩石・鉱物産地として古くから広く知られている。「秩父地方の岩石・鉱物
   組標本」の扉についている「秩父岩石化石礦石産地図」を示す。
    「鉱物陳列所」が今の「埼玉県立自然の博物館」の位置にあり、近くに「化石陳列所」もあったこと
   になっている。
    北は秩父鉱山のあった「金山」や甲州(山梨県)との県境の「雁坂峠」、南は寄居(よりい)町の「末
   野石切場」などの位置とそこで産出した岩石・鉱物の番号が記入してある。

       
                     「秩父岩石化石礦石産地図」

3. 産状と観察方法

    「埼玉の自然をたずねて」によれば、埼玉県秩父地方の山々は、砂岩、泥岩、チャート、石灰岩な
   どの堆積岩のほか、玄武岩質の溶岩や凝灰岩で作られている。石灰岩の中に含まれるサンゴやフ
   ズリナの化石は今から3億年〜2億年前【古生代石炭紀〜ペルム紀】のもの。チャートからは、約2億
   年前【古生代ペルム紀〜中生代トリアス紀】のコノドントや放散虫化石が見つかっている。泥岩から
   は、約1億6千万年前【ジュラ紀】の放散虫化石が見つかっている。古い化石を含む石灰岩やチャート
   は、泥岩に囲まれて産出する。

     

 ジュラ紀【2〜1.5億年前】のころ
砂や泥が堆積する海があり、そこ
に海山のサンゴ礁や海底に堆積
したチャートの岩塊が入り込んだ。
 海山の頂上のサンゴ礁(石灰岩)
や海底のチャートが崩れて海溝の
泥や砂の中に入り込んでできた。


      海溝付近【埼玉の自然をたずねてから引用】

    一方、荒川に面した景勝地「長瀞」はどのようにできたのだろうか。長瀞を代表する「岩畳」は、結
   晶片岩という変成岩のなかまで、平らに薄くはがれやすい性質【片理】をもっている。荒川の流れが
   片理面にそって、岩を次々とはぎ取って、平らに畳を敷き詰めたような独特の地形を造り出した。

     

 「結晶片岩」類が分布する地域を
「三波川(さんばがわ)帯」と呼び、
中央構造線に沿って、東は関東山地
から西は四国・九州まで、約1,000km
にわたって連続している。
 この結晶片岩は、秩父古・中生層が
地下深くで、高い圧力と温度で変成を
受けて生まれたからで、それは
約7,000万年前【白亜紀〜第3紀】と
されている。

  四国中央市で、「紅簾石」など、
長瀞と同じ岩石が産出するもの、
地質学的に同じだからだ。


    日本列島の地質区分【埼玉の自然をたずねてから引用】

    長瀞などは天然記念物に指定されており、現在では観察するだけだ。

4. 入手鉱物・岩石

 4.1 『礦物同好会』標本
      オークションで入手した「鉱物同好会」標本には、36種の岩石、11種の鉱物そして石炭1種、
     合計48種が、横6列、縦8行のます目に張り付けられている。

  (1) いつ頃のものか
      「鉱物同好会」は、長島 乙吉氏が昭和4年(1929年)に主催した会で、同人雑誌「趣味之鉱物」
     も同時に発刊し、地学・鉱物学の普及に力を尽くした。この会には、当時中学生だった櫻井 欽一
     も参加していた。
      この会は、1年ほどで解散したらしい。これを惜しんだ益富 寿之助は、1932年(昭和7年)に「日
     本礦物趣味の会」を結成し、「我等の礦物」を刊行し、現在の「地学研究会」と「地学研究」に引き
     継がれている。

      上に示した「秩父岩石化石鉱石産地図」の末尾には、この標本が調製された経緯が記されて
     いるので抜き出して紹介する。

      『 以上ノ標本ハ本会同人長島氏ノ採集ニシテ秩父地質遊覧客ノ便利ヲ図リ広ク会員外同好ノ
       士ニ御頒チ致シマス
                                          礦物同好会
                                          東京市麹町土手三番町十五番地 』

      「日本希元素鉱物」の共著者でもある子息の弘三氏は、大正14年(1925年)に、東京麹町に生
     まれた、とあり、「礦物同好会」の事務局は長島氏の自宅にあったようだ。
      したがって、この標本は、「礦物同好会」が存在した昭和4年か5年に調製されたものであろう。

  (2) 「秩父地方の岩石・礦物組標本」の内訳
       下の図に、「秩父地方の岩石・礦物組標本」の全体を示す。

       
                  「秩父地方の岩石・礦物組標本」

       これらの中から、秩父地方を代表すると思われる岩石と鉱物を紹介する。岩石の代表は、
      「紅簾石片岩」だろう。明治21年(1888年)、「小藤石(ことうせき)」に名を残す小藤 文次郎(こ
      とう ぶんじろう)博士が、世界で初めて産出を報告した岩石だ。
       産地は、「秩父岩石化石礦石産地図」の中の番号「2」で、「親花橋(おやはなばし)」のたもと
      荒川右岸に現在でもポットホール【甌穴(おうけつ)】と共に観察できるようだ。

     

 光沢のある、美しい
ピンク色で産する。
 「紅簾石」がたくさん
集まっている部分は
赤紫色に見える。

 標本では、単に
「紅簾片岩」となって
いる。
 

            「紅簾石石英片岩」

       鉱物の代表として、「孔雀石」を選んでみた。銅鉱山に限らず、鉱山跡ならどこにでもありそう
      な「孔雀石」だが、今から1200年以上も昔、慶雲5年(708年)1月、武蔵国黒谷(くろや:当時は
      ”久呂谷”と書いた)より銅を献上、年号を「和同」と改元したとある銅鉱石に伴うものだからだ。

       銅の試掘、採掘は、現在「黒谷」と呼ばれる地区だけでなく、この地域で広く行われたらしく、
      この孔雀石の産地は、「秩父岩石化石礦石産地図」の中の番号「45」で、「鉱物陳列所」の南
      荒川の左岸にある『金石』では、現在も銅の試掘坑がいくつか観察できるらしい。

     

 結晶片岩の中に含まれ
ている「黄銅鉱」から銅イオンが
溶けだし、結晶片岩に伴う
「方解石」や「苦灰石」などの
炭酸塩(CO3)と結合し
鮮緑色の「孔雀石」を生成したと
思われる。


           「孔雀石」

 4.2 『ナガトロ』標本
     東京の骨董市に岩石・鉱物標本が箱に入れて無造作に置いてあった。箱には、「○○ △△ 
    石他収集箱 四十六年三月」と墨で書いてあった。
     所有者(収集者)の名前 △△ から、持ち主は女子生徒らしい。この箱を作ったのが昭和46年
    (1971年)と、今からちょうど40年前になる。

     箱の中には、ノーベル社が小学5年生、小学6年生向けに調製した「実験用岩石鉱物」標本が2箱
    入っていて、彼女はこれを入手したことがキッカケで岩石や鉱物を収集するようになったような気が
    する。

          
                石他収集箱                 「実験用岩石・鉱物」標本
                                         【ノーベル社調製】

     箱の中には、彼女が家族と訪れたであろうのであろう、日光、軽井沢そして長瀞など観光地で
    採集した岩石や鉱物が入っていた。
     長瀞を訪れたのは、採集品に書き込まれた日付から昭和45年10月10日(体育の日)で、「蛇紋
    岩」や「結晶片岩」があった。

     




 蛇紋岩








 結晶片岩









 長瀞の岩石


5. おわりに

 5.1 岩石と鉱物
      少し前、古書店をのぞくと、『受験予備 鉱物学問答』、と題する明治24年に出版された高等中
     学校(現大学)の受験参考書があり入手した。
      1ページ目に「鉱物学総論」の章があり、お決まりのように、『鉱物の定義』が記述してあるので
     引用する。

      ・ 鑛物トハ如何ナルモノゾ
         無機性ノ天産物なり。即チ大理石、食塩、水、空気ノ如キ全体同質ヨリ成リ生物物ノ構造
        ナク動物ニモ属セズ植物ニモ属セザルモノナリ。

      ・ 鑛物ニ 二類アリ。・・・・・・
         一類ヲ単鑛類ト曰ヒ(言い)、一ヲ複鑛類ト曰フ
         単鑛類トハ全塊ノ諸部同形質ナルモノニシテ、複鑛類トハ全塊ノ諸部均一ナラズ単鑛類ノ
        モノ数種雑ハリテ成レルモノナリ
         単鑛類ノ鑛物は珪石、長石、雲母等ニシテ、複鑛類ノ鑛物は花崗岩等ノ如シ
         珪石、長石、雲母、各一種ハ単鑛類ナレドモ此三種混成スレバ複鑛類トナルナリ。

      ・ 複鑛ノ畳積シテ大塊ヲ成シタルモノヲ何ト名(なず)クルヤ
         地層、山岩、磐石等ノ称アリ。各々其形況ニ従ヒテ其名ヲ命ズルナリ

      この定義だと、鉱物、岩石が連続的につながり、宇宙に存在するものすべてが鉱物、動物、植
     物の何れかに所属する事になり明快だ。
      ご存じのように、現在の鉱物の定義は『単鑛類』だけを指していて、『複鑛類』、つまり「岩石」は
     居場所を与えれていないような印象すら受ける。

 5.2 大震災雑感 その2

  (1) 大震災の影響
       大震災から40日あまりがが経った。津波被害を受けた地域では、少しずつだが復旧に向けて
      の動きが感じられるのは喜ばしい。

       しかし、原発事故の被害地域は、ますます混迷の度を深めている。30km圏外でも年間被曝量
      が20mSvを超える地域の住民を1ケ月以内に避難させる「計画的避難」や20km以内に立入りを
      制限する「警戒区域」など実態と違う”ことば”で糊塗しているような印象だ。原発事故が起こって
      2ケ月も経って「計画的避難」もないものだろうし、「警戒区域」ではなく「立ち入り禁止区域」と呼
      ぶべきだろう。
       なぜ立ち入り禁止なのか、根拠となる放射線量や起こりうる危険などの説明が全くないまま
      自分の家に帰ることもできず、帰れば禁錮や罰金などを科せられるというのは、”何も悪いこと
      をしていない”住民には納得できないことだろう。

       さて、会社は、被災地で生産している材料、薬品などのサプライチェンが寸断され、影響がで
      ている製品もある。
       TV報道でも、関西や九州などでも東北地方から部品が入らないため操業が制限されている
      会社があるほどだ。

       私生活は、「計画停電」が一休みしたおかげでほとんど元に戻っている。街中や電車などの
      照明が一部消されているが、落ち着いた雰囲気になっていて、今まで”バブルの栄華の夢”を
      引きずっていたのを払拭(ふっしょく)できた感じで個人的には気に入っている。

       4月に入って毎週末山梨に戻り、早朝から日暮れまで、農作業に精を出し、無農薬野菜の確
      保に務めている。
       GWは、10連休を予定していたが、5月、6月に作りだめすべく、GWの一部やその後の土曜日
      が出勤日になり、GWがあてにできなくなったので、今の内に畑仕事を片づけておきたいからだ。

       この分だと、GWのミネラル・ウオッチングは遠出もできず、湯沼鉱泉に顔を出すだけで終わり
      そうだ。

 (2) 『失敗の回復』
      私がH製作所で働いていたときに、若いころ副社長から教えられたエンジニアとしての基本の
     1つに『失敗の回復に失敗しない』、がある。
      副社長から、「君らがやっている仕事は世界最先端の難しい仕事だから、必ずしも予期した通り
     の性能が出なかったり、予定の期限までに完成しない、いわゆる”失敗”が起こるだろう。その時
     大事なのは、『失敗の回復に失敗しない』、ことだと教えられた。
      「失敗すると委縮して、目標性能をギリギリでも達成すれば善しとする姑息な手を使い、挙句に
     目標達成すら覚束(おぼつか)なくなる」、「失敗を隠そうとして、他人の知見を借りず自分たちだ
     けで解決しようとして、時間を空費してしまうことが多い」、と諭された。

      この教えは、30年以上たっても私の身体に染みついていて、今も若い管理者やエンジニアに
     折に触れ伝えている。

      今回の原発事故は、「想定外」との同情論もあるが、過去数百年、千年の単位で歴史を遡れば
     仙台平野の海岸から数km奥深い地域に津波で運ばれた砂の層があることなどから予測できた
     はずだ。
      現に、茨城県の原発では、300年前に起こった津波の再来を想定し、非常用発電設備の周りに
     防護壁を建設中だったので被災を間一髪免れている。

      今回の原発事故とその後の対応を見ていると、『失敗の回復』に失敗していないのか、気にな
     るところだ。

 (3) 安心・安全
      山梨から単身赴任先に戻る途中、切手店や古書店そして骨董市に顔を出す。某骨董市をのぞ
     くと、「俘虜郵便ハガキ」があった。左上隅が切り取られていたが、70%くらいは判読できた。
      第2次大戦の終了間際に、ソ連軍が不可侵条約を破り、満州(現中国東北部)に侵攻した。
     武装解除された日本軍の軍人約六十万人がシベリアに連行され、極寒の地で、満足な食料も与
     えられず木材の伐採、鉄道建設などの重労働に就かされ、多くの人々が亡くなった。
      この葉書は、そうした人が故郷に出した中の1通だ。

       
                  シベリア「俘虜郵便」

      武装解除された軍人たちは、貨物列車に閉じ込められ、行先も知らされなかった。多くの人の
     証言から、ソ連軍の将校や兵士たちが、「ヤポンスキー ダモイ ハラショ(日本人よ 帰国できるぞ
     良いな)」、と口をそろえて言った。このとき既に、日本軍(関東軍)の上層部とソ連軍の間では、
     日本兵俘虜のシベリアでの強制労働が合意されていた。
      その結果、日本に帰れるとばかり思い込んでいた俘虜の期待は裏切られ、多くの人々がシベリ
     アの凍土の下に眠ることになった。

      原発事故後の一連の国の対応を見ていると、シベリアに送られた俘虜の姿が二重写しになる。
     結局、この国は、国民の安全や安心を守ってくれないのだと痛感した。

      『自分の生命・財産は自分で守る』、が基本だとの思いを一層深くしたのだが、この春で高齢者
     の仲間入りをした私が体力が衰え、十分な蓄えもなければどうなるのだろうか。

     

 そんな気持ちを和ませてくれるのが、
今年も純白の可憐な花をつけた
「山芍薬(やましゃくやく)」だ。

 石友・A氏に案内してもらい奈良県の
山奥で採集し、庭に植えたものだが、
石友・Y能楽師でなくて農学士の指導
よろしきを得て、妻が種を採取して
植木鉢に播いて、増やし、今では
20株近くになった。

6. 参考文献

 1) 篠田 正作編輯:受験予備 礦物学問答,明治24年
 2) 長島 乙吉、弘三:日本気元素鉱物,日本礦物趣味の会,昭和35年
 3) 秩父自然科学博物館編:岩石・鉱物標本の解説,同館,昭和40年ごろ
 4) 読売新聞社大阪社会部編:戦争8 ああシベリア,同社,昭和54年
 5) 新井 重三監修:埼玉県 地学のガイド,コロナ社,昭和61年
 6) 堀口 萬吉監修:埼玉の自然をたずねて,築地書館,2000年


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