あちこちに「入山禁止」の赤(白)い幟が立っていることからも分かるように、この一帯は
「松茸山」になっており、無断で入山できません。
「湯沼鉱山」に立ち寄り、入山料1,000円(子ども500円) を支払い、産地の状況を
社長に聞いてから登ると良いでしょう。(湯沼鉱泉宿泊者は無料)
3.1 「川端下産透角閃石」
この一帯で産する「柱石」がいつ頃、どのように知られていたのか、古い文献を調べてみた。
明治時代には、どうやら「透閃石」あるいは「透角閃石」として認識されていたようである。
「川上村(川端下?)の透(角)閃石」が登場するのは、明治31年(1898年)に神保 小虎が
「地質学雑誌」に『信濃南佐久郡川上村に於ける保科氏の採集』と題して発表したのが
”本邦透(角)閃石”の嚆矢である。
ここにある、保科氏とは、”五無斎” こと ”保科 百助” であることは言うまでもない。
これが、明治37年(1904年)和田 維四郎が著わした「日本鉱物誌」やこれを増訂と
いう形で、大正5年(1916年)に神保 小虎、瀧本 鐙三、福地 信世の3氏が執筆した
「日本鉱物誌」(以下、間違いやすいので「日本鉱物誌第2版」とする)にも引き継がれて
いる。
更に、大正14年(1925年)八木 貞助が著わした「信濃鉱物誌」にも「透角閃石」として
記載されている。
書 名 | 著 者 | 執筆年 | 記 述 | 備 考 | 地質学雑誌 | 神保 小虎 | 明治31年 (1898年) |
透角閃石 『信濃南佐久郡川上村に 於ける保科氏の採集』 | 原文未見 | 日本鉱物誌 | 和田 維四郎 | 明治37年 (1904年) |
透角閃石 信濃南佐久郡川端下地方に 於て硅石岩中に柱状若くは 繊維状の結晶を為すものあり、 白色にして既に分解を萌し新鮮 なるものなし、 一部分は既に滑石に変質せり | 日本鉱物誌 第2版 | 神保 小虎 瀧本 鐙三 福地 信世 | 大正5年 (1916年) |
透角閃石
主なる産地
接触石灰岩中にあり、石英と共出す | 信濃鉱物誌 | 八木 貞助 | 大正14年 (1925年) |
透角閃石 接触石灰岩中にあり、石英と共出す 柱状若くは太き繊維状の集合体をなす 柱の大なるものは径4ミリ程にして 長さ10センチに達す。 多くは分解して銀白色の滑石に変質せり。 | |
日本鉱物誌 第3版 | 伊藤 貞市 桜井 欽一 | 昭和22年 (1947年) |
記述なし |
【「上(巻)」のみ出版され 珪酸塩鉱物部分は未完】 |
明治31年(1898年)に神保 小虎が「地質学雑誌」に『信濃南佐久郡川上村に於ける
保科氏の採集』と題して発表した中に”透(角)閃石”があることは確かであるが、その
詳細は把握していない。
五無斎は、自分の採集記録を「野帳(フィールドノート)」や「日記」という形で残しているが
神保博士の論文に引用された”透(角)閃石”をいつ採集したのかは、定かではない。
年譜や「野帳」を読むと、可能性としては、次の何れかであるが、五無斎が神保博士の
知己を得るようになったのが明治28年(1895年)であることから、Aの時期であろう。
@明治26年(1893年)秋 収穫休みに、南佐久郡大日方地方で鉱物採集旅行をなし
2,30個の鉱物標本を得た。
A明治29年(1896年)6月 この間のある時期、信州川上村川端下を訪れ、
〜 「水晶」「柘榴石」「雲母」を採集
明治31年(1898年)6月 【透(角)閃石採集の記述はない】
神保博士の論文とは関係ないが、五無斎は「川端下の透角閃石」の採集記録を彼の
日記の中に残している。それは、明治42年(1909年)、彼が黒内障を患ったときに思い
立って出発した「長野県地学標本採集旅行」の途上であった。
4月5日に長野を出発し、1ケ月あまり過ぎた5月11日(火曜日)に川上村入りしている。
『 5月12日(水) 雨
5月13日(木) 雨
馬場署長、林巡査同道にて此地の由井 久平氏を案内に穴沢山なる電気石の産地に
至る。(「穴沢山」とは、われわれが「赤面(顔)山(あかづらやま)」と呼んでいる
電気石の産地)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
馬場署長、林巡査同道にて川端下なる水晶山に至る。案内人は此地の井出 市松氏
なり。市松氏は10余年前よりの知り人なれば方解石、柘榴石、
各600個宛を採集して貰うの約束を為し、坑夫小屋にては味噌汁を市松氏の家にては
梁越(川上名物蕎麦焼餅の1種)を頂戴して午後6時大沢山なる川上館に宿す。
今宵林巡査は帰署せり。』
健脚の五無斎で、この日は大好きな”○○○”も控えていたようなので、2、3時間も
あれば水晶山に到達し、採集する時間”タップリ”あったはずで、五無斎自身が「川端下の
透角閃石」を採集したと考えられる。
市松氏とは10余年来の知己とあるように、丁度10年余り前の明治29年(1896年)
〜明治31年(1898年)のある時期に五無斎が川端下を訪れ水晶、柘榴石などと一緒に
「透角閃石」を採集した時にも道案内を務めてくれ、人柄なども知り抜いていたであろう。
そんなことがあって、”3種×600=1,800ケ”という膨大な数の標本を安心して頼む
ことができたと思われる。
3.2 「川端下産柱石」
しからば、「川端下産柱石」が初めて紹介されたのはいつ、誰によってであろうか。そもそも
わが国で柱石の産出が報告されたのは、比較的新しく、昭和3年(1928年)末野 悌六が
「地質学雑誌」に『日向国大吹鉱山附近産のスカポライト(柱石)』と題してであった。
「川端下産柱石」が紹介されたのは、昭和16年(1941年)、桜井 欽一、河合 貞吉、北村
幸雄が「我等の鉱物」誌上に発表した『長野県川端下産:柱石』が初めてであった。
未だこれらの文献を入手していないので断言できないが、桜井博士が従来透(角)閃石と
されていたものを「柱石」と鑑定したようである。
それなら、桜井博士の著書に「柱石」が記述してあるはずだと思い、昭和19年に著わした
「軍需鑛物資源肉眼鑑定法」と昭和24年の「重要鉱物肉眼鑑定法」を隅から隅までみたが
「柱石」の ”ちの字” も書かれていない。
それもその筈である。五無斎が明治43年(1910年)に売り出した「信州産 岩石鉱物標本」
説明書のNo110 透角閃石の項に、『用途:なし』とある通り、”軍需鉱物”でもなければ
ましてや”重要鉱物”ではないのである。
( 今でも、どのような実用的効能があるのか、私には理解できない)
3.3 柱石の産地、産状と採集方法
川上村で柱石を産出する場所は、明治時代から知られていた「川端下」と10年程前に
知られるようになった「甲武信鉱山の柱石露頭」があった。今回、Mさんに案内して頂いた
のは、古い試掘坑と思われる新しい場所であった。
いずれの場所も、母岩からタガネとハンマーで掻き採りますが、先人(明治時代の水晶
採掘人〜現代の鉱物採集者)が掻き採ったものがズリに落ちていることもあり、表面採集
でも、標本は得られる。
産 地 | 産 状 | 備 考 | 川端下水晶坑 | 水晶(石英)に接して細長い 柱状結晶の集合体で産する | 風化が進み、表面が白雲母化 稀にズリでも採集可能 |
甲武信鉱山露頭 | 方解石脈に接して細長い 柱状結晶の集合体で産する | 新鮮 | 試掘坑(?) | 灰鉄柘榴石などを伴う晶洞に 自形結晶で産する | 風化が進み、表面が白雲母化 頭付き結晶 |
産 地 | 産出標本 | 川端下水晶坑 | 甲武信鉱山露頭 | 試掘坑(?) |
柱石の結晶は正方晶系なので、四角柱で両端が四角錐面になっているのが基本の形で
あるが、頭付きのものは極めて稀であり、付いていたとしても錐面は不明瞭である。
「ペグマタイト」誌には、甲武信鉱山産柱石の理想結晶図が記載されているので引用させて
頂いた。
(2)化学式のお遊びと言ってしまえばそれまでだが、柱石は長石とは兄弟(姉妹?)であることが
分かる。
曹柱石=3[曹長石]+塩(NaCl)
灰柱石=3[灰長石]+方解石(珊瑚:CaCO3)
これを見ると、古い昔、海の底に堆積した珊瑚が長石と出会って、姿を変えて、今では
2000mの山の上にあることになり、壮大な地球の営みの一部を垣間見る気がします。
(3)新鮮な柱石を産する露頭は、10年余り前に新たに発見された産地であり、100年以上前
から知られていた産地のものより標本としての”見た目”は良い。
昔の鉱物採集は良かったということを端的に表現する言葉として 『君、鉱物採集を
始めるのが30年遅かったよ』 がある。
確かに、鉱物採集の主たる目的が「×鉄鉱」「△銅鉱」などの金属鉱物であった40年以上昔は
金属鉱山が稼動している時期に事務所を訪れると歓迎してくれ、今なら博物館級の標本を
無料でいただけたこともあったようです。
しかし、今では金属鉱物よりも、「○○塩鉱物」や「2次鉱物」が好まれ、金属鉱山が稼動して
いるか否かは、新鉱物や良品を採集できることと関係ないような気がします。
したがって、『鉱物採集を始めるのに、早い遅いはない』 と思います。