長野県川上村の柱石

            長野県川上村の柱石

1. 初めに

  長野県佐久郡川上村にある甲武信鉱山から川端下の一帯は、「水晶の双晶」を初めと
 するペグマタイト系、「灰重石」などに代表されるスカルン系の鉱物が採集でき、人気の
 産地の1つである。
  ここで産出する鉱物の中で、『柱石』はここ独特のものであり、それらの産状を調べたい
 と思っていた。東京の石友・Mさんが新しい(再発見の)産地を見つけたとのことで案内して
 いただき、その流れで、従来から知られていた「川端下」など一連の産地を巡検した。
  この産地の「柱石」は、「日本鉱物誌」をはじめ多くの学者から「透角閃石」と思われていた。
 新鮮なものは、透明でガラス光沢を有し、「透角閃石」と鑑定するのも頷けるものがある。
  一方、風化が進み表面〜内部まで「白雲母」化したものまでその産状は各種のものがある
 ことが分かった。
  案内していただいた、Mさんに厚く御礼申し上げます。
   (2005年8月採集)

2. 産地

  141号線を清里から佐久に向かって走り、JR最高地点の先で「川上村」の表示に
 従い右折し、農免道路から県道68号線を三国峠に向かって走る。途中、道路の左側に
 ハート型水晶を描いた「湯沼鉱泉」の案内看板がある。
  甲武信鉱山は、そこを直進し、「梓川」の手前で右折し、町田市の自然休暇村を過ぎ、
 梓川に掛かる橋の手前の路肩に駐車する。
  登り口の山際に「入山禁止・湯沼鉱泉」の立て札が立っていますので、すぐ分かると
 思います。

    「入山禁止」の標識【2005.8現在、右の看板はない】

  あちこちに「入山禁止」の赤(白)い幟が立っていることからも分かるように、この一帯は
 「松茸山」になっており、無断で入山できません。
  「湯沼鉱山」に立ち寄り、入山料1,000円(子ども500円) を支払い、産地の状況を
 社長に聞いてから登ると良いでしょう。(湯沼鉱泉宿泊者は無料)

3. 産状と採集方法

   この一帯で産する「柱石」がいつ頃、どのように知られていたのか、古い文献を調べてみた。
  これらを通して@産地 A産状 などが浮かびあがってくる。

 3.1 「川端下産透角閃石」
    この一帯で産する「柱石」がいつ頃、どのように知られていたのか、古い文献を調べてみた。
   明治時代には、どうやら「透閃石」あるいは「透角閃石」として認識されていたようである。
    「川上村(川端下?)の透(角)閃石」が登場するのは、明治31年(1898年)に神保 小虎が
   「地質学雑誌」に『信濃南佐久郡川上村に於ける保科氏の採集』と題して発表したのが
   ”本邦透(角)閃石”の嚆矢である。
     ここにある、保科氏とは、”五無斎” こと ”保科 百助” であることは言うまでもない。
     これが、明治37年(1904年)和田 維四郎が著わした「日本鉱物誌」やこれを増訂と
    いう形で、大正5年(1916年)に神保 小虎、瀧本 鐙三、福地 信世の3氏が執筆した
   「日本鉱物誌」(以下、間違いやすいので「日本鉱物誌第2版」とする)にも引き継がれて
   いる。
    更に、大正14年(1925年)八木 貞助が著わした「信濃鉱物誌」にも「透角閃石」として
   記載されている。

  書  名  著  者 執筆年            記  述  備  考
地質学雑誌神保 小虎明治31年
(1898年)
 透角閃石
 『信濃南佐久郡川上村に
於ける保科氏の採集』
原文未見
日本鉱物誌和田 維四郎明治37年
(1904年)
 透角閃石
 信濃南佐久郡川端下地方に
於て硅石岩中に柱状若くは
繊維状の結晶を為すものあり、
 白色にして既に分解を萌し新鮮
なるものなし、
一部分は既に滑石に変質せり
         
日本鉱物誌
第2版
神保 小虎
瀧本 鐙三
福地 信世
大正5年
(1916年)
 透角閃石

   主なる産地
○信濃國南佐久郡川端下

 接触石灰岩中にあり、石英と共出す
柱状若くは太き繊維状の集合体をなす
 柱の大なるものは径4ミリ程にして
長さ10センチに達す。
 大抵分解して銀白色の滑石に変質せり。

         
信濃鉱物誌八木 貞助大正14年
(1925年)
 透角閃石
 接触石灰岩中にあり、石英と共出す
柱状若くは太き繊維状の集合体をなす
 柱の大なるものは径4ミリ程にして
長さ10センチに達す。
 多くは分解して銀白色の滑石に変質せり。
    
日本鉱物誌
第3版
伊藤 貞市
桜井 欽一
昭和22年
(1947年)
記述なし
【「上(巻)」のみ出版され
 珪酸塩鉱物部分は未完】

   明治31年(1898年)に神保 小虎が「地質学雑誌」に『信濃南佐久郡川上村に於ける
  保科氏の採集』と題して発表した中に”透(角)閃石”があることは確かであるが、その
  詳細は把握していない。
   五無斎は、自分の採集記録を「野帳(フィールドノート)」や「日記」という形で残しているが
  神保博士の論文に引用された”透(角)閃石”をいつ採集したのかは、定かではない。
   年譜や「野帳」を読むと、可能性としては、次の何れかであるが、五無斎が神保博士の
  知己を得るようになったのが明治28年(1895年)であることから、Aの時期であろう。

   @明治26年(1893年)秋   収穫休みに、南佐久郡大日方地方で鉱物採集旅行をなし
                     2,30個の鉱物標本を得た。
   A明治29年(1896年)6月  この間のある時期、信州川上村川端下を訪れ、
       〜            「水晶」「柘榴石」「雲母」を採集
     明治31年(1898年)6月  【透(角)閃石採集の記述はない】

    神保博士の論文とは関係ないが、五無斎は「川端下の透角閃石」の採集記録を彼の
   日記の中に残している。それは、明治42年(1909年)、彼が黒内障を患ったときに思い
   立って出発した「長野県地学標本採集旅行」の途上であった。

    4月5日に長野を出発し、1ケ月あまり過ぎた5月11日(火曜日)に川上村入りしている。

   『 5月12日(水) 雨
      馬場署長、林巡査同道にて此地の由井 久平氏を案内に穴沢山なる電気石の産地に
     至る。(「穴沢山」とは、われわれが「赤面(顔)山(あかづらやま)」と呼んでいる
     電気石の産地)
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     5月13日(木) 雨
      馬場署長、林巡査同道にて川端下なる水晶山に至る。案内人は此地の井出 市松氏
     なり。市松氏は10余年前よりの知り人なれば方解石、柘榴石、
透角閃石及び水晶
     各600個宛を採集して貰うの約束を為し、坑夫小屋にては味噌汁を市松氏の家にては
     梁越(川上名物蕎麦焼餅の1種)を頂戴して午後6時大沢山なる川上館に宿す。
     今宵林巡査は帰署せり。』

      健脚の五無斎で、この日は大好きな”○○○”も控えていたようなので、2、3時間も
     あれば水晶山に到達し、採集する時間”タップリ”あったはずで、五無斎自身が「川端下の
     透角閃石」を採集したと考えられる。
      市松氏とは10余年来の知己とあるように、丁度10年余り前の明治29年(1896年)
     〜明治31年(1898年)のある時期に五無斎が川端下を訪れ水晶、柘榴石などと一緒に
     「透角閃石」を採集した時にも道案内を務めてくれ、人柄なども知り抜いていたであろう。
      そんなことがあって、”3種×600=1,800ケ”という膨大な数の標本を安心して頼む
     ことができたと思われる。

 3.2 「川端下産柱石」
     しからば、「川端下産柱石」が初めて紹介されたのはいつ、誰によってであろうか。そもそも
    わが国で柱石の産出が報告されたのは、比較的新しく、昭和3年(1928年)末野 悌六が
    「地質学雑誌」に『日向国大吹鉱山附近産のスカポライト(柱石)』と題してであった。
     「川端下産柱石」が紹介されたのは、昭和16年(1941年)、桜井 欽一、河合 貞吉、北村
    幸雄が「我等の鉱物」誌上に発表した『長野県川端下産:柱石』が初めてであった。
     未だこれらの文献を入手していないので断言できないが、桜井博士が従来透(角)閃石と
    されていたものを「柱石」と鑑定したようである。

     それなら、桜井博士の著書に「柱石」が記述してあるはずだと思い、昭和19年に著わした
    「軍需鑛物資源肉眼鑑定法」と昭和24年の「重要鉱物肉眼鑑定法」を隅から隅までみたが
    「柱石」の ”ちの字” も書かれていない。
     それもその筈である。五無斎が明治43年(1910年)に売り出した「信州産 岩石鉱物標本」
    説明書のNo110 透角閃石の項に、『用途:なし』とある通り、”軍需鉱物”でもなければ
    ましてや”重要鉱物”ではないのである。
    ( 今でも、どのような実用的効能があるのか、私には理解できない)

 3.3 柱石の産地、産状と採集方法
     川上村で柱石を産出する場所は、明治時代から知られていた「川端下」と10年程前に
    知られるようになった「甲武信鉱山の柱石露頭」があった。今回、Mさんに案内して頂いた
    のは、古い試掘坑と思われる新しい場所であった。
     いずれの場所も、母岩からタガネとハンマーで掻き採りますが、先人(明治時代の水晶
    採掘人〜現代の鉱物採集者)が掻き採ったものがズリに落ちていることもあり、表面採集
    でも、標本は得られる。

産 地   産 状  備 考
川端下水晶坑水晶(石英)に接して細長い
柱状結晶の集合体で産する
風化が進み、表面が白雲母化
稀にズリでも採集可能
甲武信鉱山露頭方解石脈に接して細長い
柱状結晶の集合体で産する
新鮮
試掘坑(?)灰鉄柘榴石などを伴う晶洞に
自形結晶で産する
風化が進み、表面が白雲母化
頭付き結晶

4. 産出鉱物

 (1)柱石【Scapolite:(Na,Ca)4[Al3(Al,Si)3Si6O24](Cl,CO3,SO4)】
    新鮮なものは、やや緑色を帯びた透明、ガラス光沢の細長い柱状結晶が集合して
   方解石、灰鉄ザクロ石、灰重石、水晶(石英)などを伴って産する。
    分解が進んだものは、表面が銀白色の白雲母に覆われていることが多い。
    一口に「柱石」と呼んでいるが、ナトリウム(Na)とカルシウム(Ca)の量の多い少ないで
   曹柱石【Marialite:(Na,Ca)4[Al3Si9O24]Cl】か灰柱石【Meionite:Ca4[Al6Si6O24](CO3,SO4)】に
   区別され、それらが混じったものは、「曹灰柱石:Mizzonite」あるいは「灰曹柱石:Dipyre」と
   呼ばれる。川上村産のものは厳密には「曹灰柱石」であるが、「川端下」産のものは
   「曹柱石」とされている。「甲武信鉱山」産のものは、灰重石や方解石と共生することから
   「灰柱石」だろうと思われがちであるが、分析の結果は曹柱石に近いものらしい。

産 地  産出標本
川端下水晶坑
甲武信鉱山露頭
試掘坑(?)

     柱石の結晶は正方晶系なので、四角柱で両端が四角錐面になっているのが基本の形で
    あるが、頭付きのものは極めて稀であり、付いていたとしても錐面は不明瞭である。
     「ペグマタイト」誌には、甲武信鉱山産柱石の理想結晶図が記載されているので引用させて
    頂いた。

    理想結晶図【「ペグマタイト」の図を合成】

5. おわりに

 (1)今回、甲武信鉱山と川端下の「柱石」産地として知られていた場所と新たに再発見した
   場所で代表的な産状の標本を採集することができた。
    新しい産地を案内していただいた石友・Mさんと産地情報をいただいた湯沼鉱泉社長に
   御礼申し上げます。

 (2)化学式のお遊びと言ってしまえばそれまでだが、柱石は長石とは兄弟(姉妹?)であることが
   分かる。

    曹柱石=3[曹長石]+塩(NaCl)
    灰柱石=3[灰長石]+方解石(珊瑚:CaCO3)

    これを見ると、古い昔、海の底に堆積した珊瑚が長石と出会って、姿を変えて、今では
   2000mの山の上にあることになり、壮大な地球の営みの一部を垣間見る気がします。

 (3)新鮮な柱石を産する露頭は、10年余り前に新たに発見された産地であり、100年以上前
   から知られていた産地のものより標本としての”見た目”は良い。
    昔の鉱物採集は良かったということを端的に表現する言葉として 『君、鉱物採集を
   始めるのが30年遅かったよ』
 がある。
    確かに、鉱物採集の主たる目的が「×鉄鉱」「△銅鉱」などの金属鉱物であった40年以上昔は
   金属鉱山が稼動している時期に事務所を訪れると歓迎してくれ、今なら博物館級の標本を
   無料でいただけたこともあったようです。
    しかし、今では金属鉱物よりも、「○○塩鉱物」や「2次鉱物」が好まれ、金属鉱山が稼動して
   いるか否かは、新鉱物や良品を採集できることと関係ないような気がします。
    したがって、『鉱物採集を始めるのに、早い遅いはない』 と思います。

6. 参考文献

 1)藤本 治義編:南佐久郡地質誌,南佐久教育会,昭和33年
 2)松原 聰:日本の鉱物,滑w習研究社,2003年
 3)高田 雅介・原田 明・萩原 昭人:甲武信鉱山産鉱物の結晶形態―その4
                        柱石の結晶形態,ペグマタイト 第43号,2000年
 4)益富地学会館監修:日本の鉱物,成美堂出版,1994年
 5)和田維四郎著:日本鉱物誌第1版,和田維四郎,明治37年(1904年)
 6)神保 小虎、瀧本 鐙三、福地信世:日本鉱物誌第2版,丸善,大正5年(1916年)
 7)伊藤 貞市、桜井欽一:日本鉱物誌第3版,中文館書店,昭和22年(1947年)
 8)原田 準平監修:日本鉱産物文献集,日本鉱産物文献集編集委員会,19597年
 9)櫻井 欽一:軍需鉱物資源肉眼鑑定法,柁谷書院,昭和19年
 10)櫻井 欽一:重要鉱物肉眼鑑定法,柁谷書院,昭和24年
 11)佐久教育会編:五無斎保科百助全集 全,信濃教育会出版部,昭和39年
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