湯之奥金山博物館 - 金山史研究フォーラム 2017 -














       湯之奥金山博物館  - 金山史研究フォーラム 2017 -

             ( THE Yu-No-Oku MUSEUM OF GOLD MINING HISTORY
                              Gold Mine Forum 2017 , Yamanashi Pref. )

1. はじめに

    2016年の年末だったかに山梨県身延町(旧下部町)にある湯之奥金山博物館から送ってもらった会報で、
   今年も恒例の「金山遺跡・金山史研究フォーラム」が開催されると知った。しかも、「発表予定者と演題」の
   中に私の名前と演題「岐阜県中津川市の砂金」があった。
    開催日が2017年2月4日ということで、パワーポイントでのプレゼン原稿の作成は2週間前の1月20日ごろから
   始めれば間に合うだろうと思った。

    今年の冬は例年になく厳しく山にも行けそうもない日が続いたので、20日がくる前からプレゼン原稿をつくり始
   めた。過去、中津川の砂金を探しに行った2006年〜2010年ごろにHPにアップした写真や図をダウンロードして
   パワーポイントに貼りつけて、紙芝居風に話をつなげていくだけなので、さほど時間はかからず、延べ2日くらいで
   一応の原稿は出来上がった。
    ただ、HPに載せている写真は当時のネット回線の通信速度の制約で画素サイズが大きいものでも 300×240
   ピクセル程度なので、プロジェクターで映したときに粗くて不鮮明になってしまう懸念があった。
    元の画像データを探したのだが、次のような問題があって、ほとんど利用できなかった。

    @ 2010年以前のMOに記録しておいたデータは、ほとんどが読み取り不能 → MOはすべて廃棄
    A 前のPCのデータを外付けHDDに記録しておいたが、かなりの部分が読み取り不能
    B 2015年に購入したPCのHDDがクラッシュし、記録しておいたデータが消失

    手持ち標本の写真はもう一度取り直せばよいのだが、その標本がどこにあるのか、家探しをしなければ出て
   こないのでこれも断念した。

    その後も読み直しては追加・修正を繰り返し、1月末に小松学芸員からレジュメ用の原稿提出の電話をいた
   だき、その日のうちに24ページ分を抜き出してお送りした。
    こうして、発表当日を迎えた。
    ( 2017年2月 発表・編集 )

2. 「金山史研究フォーラム」

    正式名は、「金山遺跡・金山史研究フォーラム」で2017年で5回目を数える。孫娘を含む私の家族が会員
   として加入している「博物館応援団Au(金)会」が主催し、湯之奥金山博物館との共催になっている。

    発表者と参加者合わせて80名前後が、地元だけでなく関東・甲信各都県や岐阜、愛知、兵庫、島根など
   から集まり、砂金や金山に関心を持つ人の多さを感じた。神奈川の・O妹、横浜・T夫妻など砂金にも関心が
   ある(砂金がメイン?)石友も参加していた。

    発表プログラム
発表
No
 時 間       内 容 ・ 発 表 題 目         発表者 (敬称略)
  13:00 開会式
 @  13:05〜 2016年度後半の金山博物館周辺事業 湯之奥金山博物館館長
出月 洋文
 A  13:40〜 飛騨の金山 〜松谷鉱山追加調査と森茂金山を歩いて 広瀬 義朗
 B  14:00〜 岐阜県中津川市の砂金を求めて 中川 清
 C  14:20〜 ・フラットパン・ターボパンで細かい砂金が逃げているか?
 という疑問に対する実験
・ 2016年世界砂金掘り選手権大会参加報告
  (アメリカ・カルフォルニア州)
野村 敏郎
 D  14:40〜 越中諸金山の考察 中村 軒一
   15:00〜 休憩(15分)
 E  15:15〜 デジタル技術によるカッチャの製作 福井 玲
 F  15:35〜 砂金採り体験場巡り(西日本編) 石田 政明
 G  15:55〜 塩川流域の金山遺跡A 〜増富金山〜 釈迦堂遺跡博物館副館長
八巻 与志夫
 H  16:15〜 3次元レーザースキャナを用いた
湯之奥金山中山金山の定量解析
松江高専
久間 英樹
   16:40〜 全体質疑応答(15分)
   16:55〜 閉会式・総評

     2016年から、発表だけでなく「ポスターセッション」が設けられ、会場の壁面にはA1サイズのポスターで展示し
    てあり、その前のテーブルには、山口県長登銅山のカラミ(鉱滓)なども展示してあった。

         
                 発表の部                         「ポスターセッション」
                                発表会風景

3. 発表内容梗概(ダイジェスト)

    私以外の発表のダイジェストをご紹介する。

  @ 「2016年度後半の金山博物館周辺事業」

    
 湯之奥金山博物館が開館以来19年にわたって
館長を勤められた谷口氏が2016年6月急逝され、
後任として出月氏が館長に就任した。

 着任してからの事業の内容報告と今年(2017年)
4月に湯之奥金山博物館が開館20周年を迎えるので、
その展望を話された。


  A 「飛騨の金山 〜松谷鉱山追加調査と森茂金山を歩いて」

    
 以前報告した続編として飛騨の金山の追加調査報告が
あった。

 坑口などの跡を明らかにすることはできなかったが
金山で使われた石臼と同じ質の石材の露頭を確認し
”ノミ跡”らしきものも観察できた。


  B 「岐阜県中津川市の砂金を求めて」

    
 発表の様子を石友・Tさんが撮影していてくれ、
写真を送っていただいたので、追加で掲載する。

 発表の詳細は、4項で報告します。


  C 「 フラットパン・ターボパンで細かい砂金が逃げているか?
                       という疑問に対する実験」
    「2016年世界砂金掘り選手権大会参加報告
                      (アメリカ・カルフォルニア州)」

    
 改良したパンニング皿を自作している先生が、
フラット・パンと呼ぶ同心円の段差がついたパンニング皿と
ターボ・パンと呼ぶ左巻、右巻きのパンニング皿で
砂金採集確率(見逃し率)を大・中・小サイズ各10個
の砂金を砂質土砂に混ぜて、パンニングして、何個
発見できるか(見逃すか)を評価した。

 フラット・パンでは100%採集(見逃し0%)
 ターボパンは、サイズによっては最悪40%くらいを
 見逃す。

 世界砂金掘り選手権に参加し、全部発見したが
17位で決勝進出ならず。(15位まで決勝進出)
 外国選手とのパワーの差を思い知らされた、との由。


  D 「 越中諸金山の考察」

    
 古い文献にある越中(富山県)の金山を
何か所か回って砂金採集を試みた。
 ほどんどの場所で、粒は小さいがかなりの数が
採集できた。


  E 「デジタル技術によるカッチャの製作」

    
 砂金掘りの道具の”カッチャ”を作る”野鍛冶”の
ような人が少なくなって、自分で使いやすいカッチャを
入手するのが難しくなっている。

 フリーソフトや市販ソフトを使い画像処理して
3Dプリンターでカッチャを製作し、これをもとに鉄工所
などに製作を依頼する計画。


  F 「砂金採り体験場巡り(西日本編)」

    
 東日本編の続編。いくつか回ってみて、
湯之奥金山のように、手取り足取りコーチして
くれる施設は少ないこと。
 大人は一回しか入れない施設があったり、
温水になっていないので秋口でも冷たくて
音をあげてしまう施設など、湯之奥金山との
違いもわかる。


  G 「塩川流域の金山遺跡A 〜増富金山〜」

    
 昨年に続いて塩川流域の金山遺跡として
増富金山について報告

 私が知っている銅藍や硫砒銅鉱で有名な
「増冨鉱山」とは違う場所の話だった。


  H 「3次元レーザースキャナを用いた 湯之奥金山中山金山の定量解析」

    
 3次元レーザースキャナーを用いて坑道内の寸法や
露天掘り跡の地形を計測した。

 坑道内の断面積から坑道から運び出した鉱石の量を
もとめ、鉱石の品位から産金量を推計した。
 ある坑道では、鉱石量は31立方メートル。鉱石の比重を
2.4とし、金の品位を1トンあたり10グラムとすると、金の含有
量は、 31 × 2.4 × 10 = 744 グラムだが、
当時の選鉱技術では50%しか回収できなかったとして
歩留50%だから、744×0.5=372 グラム

 金の価格をグラム当たり4,800円とすると180万円となる。

 信玄が見たであろう露天掘りの地形も再現してくれた。


    先生は、計測した3次元データをもとに3Dプリンターで作成した品をプレゼントとして、毎年出席者全員分を
   準備してくれている。2017年は、パンニング皿のストラップを製作してくれた。材料代だけでも1個800円だといので、
   出席人数分となると結構な金額だ。

    
              K先生のプレゼント

4. 「岐阜県中津川地域の砂金を求めて」

    私のプレゼン内容を紹介する。

    
 同じようなタイトルで、2016年のフォーラムで
広瀬さんと石田さんが発表されているので、
「2番煎じ」にならないよう、できるだけ新しい
知見を加えて紹介したい。

 ストーリーは、中津川の位置づけから
結論と今後の課題、そして最近感じている
「採集(収集)雑感」にも触れたい。


    
 岐阜県中津川市は「日本3大ペグマタイト
産地」として知られている。
 ほかには、福島県石川町(地方)と
滋賀県の琵琶湖の南にある田上山
(たなかみやま)だ。
 個人的には、私が少年時代を過ごした
茨城県の山の尾も挙げたい。

 しかし、これらの産地は既に絶産、あるいは
立ち入りが制限されており、長野県南部から
甲府の北部で、現在でも入山料を払えば
採集できる「甲信産地」がお薦めだ。


    
 「ペグマタイト」というのは、岩石を構成する
鉱物の結晶が大きくなったもので、花こう岩
(御影石)に使われる。
 俗に「鬼御影(おにみかげ)」とも呼ばれて
いる。


    
 ペグマタイトは鉱物の結晶が自由に成長
できる空間、晶洞(ガマ)への道しるべとなって
いる。

 ペグマタイトがあれば、その内側に「文象
花崗岩(ぶんしょう、あるいはもんしょう)花崗岩」
があり、その内側に「石英帯」があり、さらに
内側に晶洞がある可能性がある。

 私たちは、石英脈を追いかけ、その太くなった
場所で晶洞を発見することも多い。


    
 晶洞の中には、何ものにも邪魔されず
水晶、長石、雲母などの結晶が成長して
いる。


    
 小学生、大学生、そして私と同じ年代の
石友たちとペグマタイト産地を訪れ、
”開けゴマ”ならぬ、『開けガマ!!』を念じて
石英脈を追いかけると、”ぽっかり”とガマが
姿を現すことがある。

 これは1,200万年前に生まれたものだが、
苗木地方のペグマタイトは恐竜が絶滅して
間もない約6,000万年前に生まれたとされる。

 永い年月の間に水晶の表面は「褐鉄鉱」で
覆われているが、塩酸などでクリーニングすると
”ピカピカ”の水晶だ。


    
 中津川市では明治から大正にかけて砂錫が
木積沢(きちみさわ)を中心に採掘された。
 ペグマタイトの花崗岩が風化して砂になっても
硬くて重たい錫石は水に流されても摩滅せずに
層をなして堆積していたのを採掘したのだ。


    
 錫鉱採掘の始まりと地元民による採掘の終焉を
記録した石碑 『錫鑛記念碑』が2箇所ある。

 2006年に『錫鑛記念碑』について聞きたいことがあって
長谷川さん宅を訪れたところ、「向こうは公のものだが、
実は私のところにも石碑があるから見て行かまいか」、と
案内していただき紀念碑があることを知った。

 この碑を『第2錫鑛記念碑』と名付けた。


    
 『錫鑛記念碑』の表には、錫鉱を発見した高木氏や
この碑を建設した人々の名前が刻されている。

 苔むした裏面には、錫鉱の発見から地元民による
採掘の始まりと地元民による採掘の終焉までの歴史を
漢文で掘ってある。


    
 明治17年   トパーズ勘兵衛と呼ばれた高木勘兵衛に
          が錫鉱発見
 明治19年   三井物産が経営、地元は潤った。
 明治24年   安保氏ら数十人が結社経営
 明治29年   小川氏ら5名で20年経営
 大正2年    栃木県の山奥にあった西沢金山を
          明治中期に経営した高橋源三郎に
          経営権を譲渡
          地元民による経営は終わった。


    
 2006年に当主・長谷川氏に『第2錫鑛記念碑』を
案内していただいた。

 左側が裏面で、長谷川家による錫鉱採掘の
歴史が刻してある。


    
 碑文は漢字カタカナまじりで、長谷川氏の
祖父の出自と錫鉱発見から経営権をこれも
高橋源三郎氏に譲渡するまでの錫鉱採掘の
歴史が記されている。

 昭和天皇の即位式が行われた昭和3年に
建てた。


    
 漂砂鉱床の錫石は「樋(とい)流し」や
「パンニング」による、”比重選鉱”で採掘
された。

 働いていたのは、農閑期の農民や主婦で
地元を潤した。

 しかし、稼いだ金を中津川の料亭で散財して
しまった人も少なくなかったことが当時のザレ唄に
残されている。


    
 中津川周辺では昭和の初めごろから
花崗岩の採石業が興った。

 昭和30年代から40年代には、災害復興や
日本列島改造の建設ブームで活況を呈した。
 このころ、採石に伴ってガマが発見され
水晶、トパズなどが採集できたと聞く。

 昭和40年代のおわりごろから、外国産の
石材が輸入され、中津川の石材業は採掘から
加工に重点が移っていった。

 私が中津川を訪れるようになった平成に
入ると採石場は閉鎖が相次いだ。


    
 鉱物関係者の間では苗木地方と呼ばれる中津川が
鉱物産地として有名になった蔭には「金石舎」鉱物標本に
かかわった多くの人々がいた。

 ・ 高木勘兵衛
   明治17年上京した勘兵衛は金銀鉱物標本を
   販売する「金石舎」を創業。中津川産の鉱物を
   鉱物学者やアマチュアに紹介した。
 ・ 長島乙吉・弘三親子
   乙吉は9歳で「金石舎」奉公。勘兵衛死後に
   鉱物標本店を開業。国内外で採集を重ねる。
   子息・弘三と「日本希元素鉱物」執筆
 ・ 保科五無斎
   勘兵衛に「金石舎」の採集人になるよう勧誘され
   されたが謝絶。
 ・ 宮沢賢治
   ”石っこ賢さん”と呼ばれるほど無類の石好き
   だった賢治は今年生誕120年を迎える。
   岩手県産の鉱物売込みで金石舎を訪れた。


    
 中津川周辺での鉱物採集方法には「露頭叩き」
「フルイ掛け」そして「パンニング」がある。

 採石場が閉鎖されたり、立ち入り禁止になり
「露頭叩き」は難しくなっている。


    
 私が中津川で鉱物採集を始めたころ、トパーズ
などを採集するのは、沢や川の土砂をすくってフルイ掛け
するのが一般的だった。

 私が採集対象としている希元素鉱物やトパーズなどの
宝石鉱物は比重が石英の2.7よりもやや大きいので、
パンニングで揺り分けられるのでないかと思い、
試してみたところ好結果を得た。

 以来、ご一緒する石友にはパンニングをお勧めし、手ほどきも
して差し上げ、現在ではパンニングをする人がほとんどだろう。


    
 しかし、希元素鉱物や宝石鉱物の比重は金に比べると
1/5くらいしかない。
 サファイアなどは六角薄板状という形状から、私が
”波乗り小僧(小娘?)”と名付けたように
慎重にパンニングしないと流してしまう。
 その上、微細なものも多いので現地で最後まで揺り分けて
いては時間がなくて採集にならない。

 そこで、現地ではやや比重の大きいものはすべて回収し
帰宅して”ジックリ”パンニンングする自称『精密パンニング法』を
開発した。


    
 タッパーなどに回収した重鉱物を漆塗りの皿や塗り椀のフタ
などに移し、水桶の中でゆっくり揺り分ける。

 残ったものを紙の上に広げ乾燥させる。


    
 百均で購入した、かす揚げや茶こしなどの網目を
つかい、大き目のものだけを残す。

 実体顕微鏡でのぞきながら、鉱物を選び
先を唾液で濡らした楊枝で吸い上げて、種類別に
分類する。


    
 このようにして、「希元素鉱物」、「宝石鉱物」
そして昔鉱石として採掘していた「錫石」などが
採集できる。


    
 2010年7月、K氏のブログに、『中津川で砂金採集!?』
という情報がアップされた。
 過去30年近く中津川を訪れていて、一度も砂金を採集した
事がない私には、驚きの”!”であり、本当に採れるのだろうか
という半信半疑の”?”でもあった。

 どこで、採れたのかを知りたいのだが、
@ 人に聞くのは、”自力採集”がモットーのMHとしては
  プライド(?)が許さず葛藤があって、自力で探すこと
  にした。
A ネットで調べても、産地情報は全くなかった。
B 文献とC博物館 の情報からは得るものがあった。


    
 先に紹介した長島乙吉氏の「苗木地方の鉱物」という
小冊子に、砂金産地として、「山ノ田川」と「馬場川」が
載っていた。

 地元、中津川市鉱物博物館に砂金の標本が展示してあり
そのラベルの産地名は「中津川市苗木浅間」とある。

 これら3つがキーワードだ。

 なお、「苗木浅間」の読みは、”なえぎせんげ”だ。


    
 国土地理院の地形図で、キーワードの川の名前や地名が
あるか探してみた。

 ・ 「馬場川」の名前はないが、「馬場」と「馬場上」という
   字名があり、このエリアを流れる川
 ・ 「山ノ田」はないが、「山之田」の字名はあり、このエリアを
   流れる川
 ・ 「山ノ田川」ではないが、「山の田川」はあり、浅間山に
   源があり、途中字名「山の田」、「苗木」を通り、木曽川に
   合流する。

 この3か所を探査候補として、地図に落としたが、そのエリアは
一辺が1〜2キロある広大な範囲だった。


    
 まず、一番可能性が高そうな「山の田川」の下流部を探査
してみた。

 大きく蛇行する場所を選んでみたが、流れはゆるかで、
水深も深く、川底は泥のようで砂金は見つからなかった。


    
 思いあまって、K氏に場所を聞くと、「木積沢」だと教えてくれた。
確かに、木積沢の「外洞(そとぼら)橋」の上流、下流の川床には
岩盤があり、比重の大きな鉱物が堆積していそうだ。

 過去に石友を案内したり、ミネラル・ウオッチングを開催し
何度も訪れているが、砂金を採集した人は誰もいなかった。

 2010年8月に、妻と訪れたが多量の「錫石」のほかに、
「トパーズ」や「サファイア」は採れたが、「砂金」は姿を見せて
くれなかった。


    
 思い余って、恥も外聞もなく、K氏に砂金採集の御指南を
お願いしたところ快諾いただき、同じ月にK夫妻とわれわれ
夫婦の4人で木積沢での砂金採集に挑戦した。

 暑い日だったので、パンニング更に土砂を入れ、橋の下の
日陰に運んで揺り分けるほどだった。

 4人で3時間、延べ12人・時間やっても”粉金”すら採れ
なかった。
 われわれ夫婦のパンニングの腕前は”超”がつく”ヘボ”だが、
Kさんの奥さんは、砂金掘り大会でメダルを獲得している腕前
だから、”流している”とは思えない。


    
 木積沢はギブ・アップして、文献などで調査して一番可能性が
高い「山の田川」に移動した。

 下流部は単独探査で見込みがなかったので、上流部を
探査してみたが、砂金の気配が」なかった。
 少しずつ下って、中流部に移動した。


    

 そこは川床が岩になっていて、岸辺には土砂もタップリと
堆積していた。
 水面よりも少し高い岩には草や苔が生えていて、これらを
引き抜いての採集もできそうだった。

 私は岩の下の岸辺の堆積土砂を掘り下げて、出て来た
岩の窪みに溜まった土砂を、
 K夫妻は少し下流側の右岸の堆積土砂を、
 妻は涼しい橋の下に分かれて、パンニングした。


    

 私がやった窪みには、赤さびた鉄くずや鉛の鉄砲玉が
溜まっていて、それを取り出し終わったころ、パンニング皿の
底に黄金色の砂金が残った。
 ほとんど続けて砂金がパンニング皿に残ったのだが、
回収に失敗して、流してしまった。

 結局、この日は私だけが2粒発見し、1粒だけ回収できた。
産地はここで間違いないと思われ、翌9月にK氏とわれわれ
夫妻の3人で再び「山の田川」を訪れた。

 朝のうちに、私が前回の続きの場所で1粒、妻が岩の上の
苔を洗って1粒採集できた。
 しかし、それ以上やっても砂金は姿を現さなかった。

 「山の田川」での採集の結果
 ・ 2回で2人が採集できたので、再現性はある。
 ・ しかし、延べ30人・時間で4粒と産出は希と思われた。


    
 「山の田川」での産出を確認できたので、
翌日、「山之田」と「馬場」地区を探査した。

 「山之田」の地区の川は、全くダメだった。

 「馬場」地区の川で、川床が見えていて、砂金が
あれば溜まっていそうな場所でパンニングを繰り返したが
なかなか出てこない。
 夕方近くになって、K氏がようやく1粒採集した。


    
 「山の田川」で採集した重鉱物を『精密パンニング』
したところ、「木錫(もくしゃく:Wood Tin)を確認できた。

 木錫には、白や茶褐色の縞模様(累帯構造)が
確認でき、熱水鉱床で熱水に含まれる「石英」が多く
茶褐色の部分は「鉄」が多いとされ、錫石ができる
過程で熱水の成分が繰り返し変化したことが推測できる。

 「山の田川」の砂金は次のような理由で熱水鉱床で
生成した、と推測できる。
 ・ 熱水鉱床せ生成する木錫と共生
 ・ ペグマタイト鉱床や気成鉱床に多い
   トパーズや錫石が少ない。


    
 中津川しの砂金探査の結論として、

(1) 長島乙吉氏の「苗木地方の鉱物」に砂金産地とある
   「山ノ田川」は、「山の田川」であり、
   「馬場川」は、「馬場」や「馬場上」地区を流れる川だと
   考えられる。
(2) 「山の田川」の砂金は「木錫」と共生し、ペグマタイトや
   気成鉱床に多いトパーズや錫石が極めて少なく、熱水
   鉱床起源だと考えられる。

 今後の課題として、中津川の砂金は仲間3人が採集しただけで
第3者による産出確認が必要。
 発見された方は、写真を添えてメールください。

    
 採集(収集)について、最近考えていること。

 松原先生他が2016年に出した「鉱物の博物学」を読むと
鉱物に興味を持つ人は増えたが、「美しい」、「大きい」
「珍しい」鉱物や結晶を「多量に」採る傾向だとある。

 その結果、引き起こされる弊害として
  ・ 産地に通い詰めて、産地が荒廃
    (場合によっては、採集禁止)   ・ 目立たない共生鉱物を損なう

 では、どうすれば良いのか。2000年に加藤先生が書いた
「ペグマタイト鉱物」に、次のようにある。

 ・ 目立たない地味な鉱物にも目を向ける。
 ・ どのようにできたかを考える。

 自戒を込めて、ご紹介する。


5. おわりに

 (1) Au会の新年会
      発表会の後は、毎年新年会を開催しているようだ。今年初めて参加してみた。知ったところでは、神奈川
     のO妹も参加していた。
      博物館近くの下部温泉の老舗「下部ホテル」に移動し、開会の19時まで、初めてお会いした方から北海
     道での砂金採集談、とりわけ熊さん対策などを伺った。
      われわれがロビーで雑談していると、観光バスが停まって子どもを含む団体客が”ドッ”と入ってきた。話して
     いる言葉から春節の休暇で訪れた中国(台湾か?)からの観光客のようだ。あたりかまわず大声で話すのが
     いつも見かける光景なのだが、おとなしくて身なりもわれわれよりも小奇麗で、??だった。
      思うに、中国経済が減速し、本当に豊かな人達しか外国に行けなくなり、自然と質が向上したからだろうと
     思われる。

      待ち時間に温泉を利用させてもらったが、やや熱めのアルカリ泉質で、肌がスベスベするのがわかる。さすが
     「信玄公の隠し湯」だ。

      19時から新年会が始まった。おいしい料理をいただきながら、前に座った出雲高専のK先生と発表の続きを
     周りの人たちも交えて話し合った。
      T大の学生を甲武信鉱山に案内し、第2テラスの坑口の前で、「坑道に入らないで坑道の長さを推計する
     方法を問う」たことがあったことを先生に紹介した。

      ・ 甲武信鉱山 第2テラス坑道探査
      ( Investigation of No2 Terrace Shaft of Kobushi Mine , Nagano Pref. )

      すると先生から、「兵庫県・多田銀山でズリの量から坑道の長さを推計したら、実測値とほゞ同じような
     値になった」、と聞き、我が意を得たりだった。

      飲み食い(私は車の運転があるのでジュースとお茶)しながら、全員の自己紹介をしていると、時間があっ
     という間に経ち、最後に記念写真を撮って、われわれ日帰り組がホテルを後にしたのは、21時30分を回って
     いた。

       
                美味しい料理                         記念写真

 (2) 立春
      立春が過ぎた。野菜の収穫にMH農園に行くと1月の寒々としたときの風景と違ってなんとなく春
     めいて、冬枯れの色から緑色が濃くなったようだ。昨年初めて植え付けたブロッコリーの苗の蕾が
     膨らんできていて、食べごろのものをいくつか収穫した。
      もう一か月もすれば、フィールドに出るリハビリができそうだ。

      
              蕾が膨らんだブロッコリー

6.参考文献

 1) 山田 賀一:金属鉱物の選鉱法,岩波書店,昭和8年
 2) 藤浪 紫峰( 桜井 欽一):おにみかげ紀行 我等の鉱物,昭和8年〜昭和9年
 3) 長島 乙吉:苗木地方の鉱物,岐阜県中津川市教育委員会,昭和41年
 4) 草下 英明:鉱物採集フィールド・ガイド,草思社,1988年
 5) 加藤 昭:ペグマタイト鉱物,関東鉱物同好会,2000年
 6) 宮島 宏:日本の新鉱物 1934-2000 ,フォッサマグナミュージアム,2001年
 7) 松原 聰、宮脇 律郎編:日本産鉱物型録,東海大学出版会,2006年
 8) 中津川鉱物博物館:第11会 企画展 石に聞こう! 20億年のあゆみ −岐阜県の石−
                 同館,平成19年
 9) 国立科学博物館、毎日新聞社編:金GOLD 黄金の国 展示図録
                         科学博物館、毎日新聞社,2009年
 10) 松原、宮脇、門馬:鉱物の博物学,秀和システム,2016年
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