湯之奥金山博物館 - 2013年11月 秋の遺跡見学会 -










              湯之奥金山博物館
          - 2013年11月 秋の遺跡見学会 -

1. はじめに

    私が家族会員になっている湯之奥金山博物館では、年間を通して、いろいろな催しを
   企画していて好評だ。たとえば、夏休みに開催する行事の1つに、2001年に始まり、今
   年で13回目を迎えた「砂金掘り大会」がある。

    ・ 湯之奥金山博物館  - 2013年砂金掘り大会 -
    ( THE Yu-No-Oku MUSEUM OF GOLD MINING HISTORY
                  GOLD Panning Championship 2013 , Yamanashi Pref. )

    秋から冬にかけては、金山遺跡の見学会や各種のセミナーが開催されるのを楽しみ
   にしているのだが、ここ3年間、正確には6年近くの間、週末は単身赴任先に留まること
   も多く、参加したいと思っても、できない状態が続いていた。

    単身赴任先から山梨に戻って半年余りが過ぎ、ようやく生活のペースも取り戻した頃、
   湯之奥金山博物館から大月市と上野原市の2箇所の金山跡を巡る「秋の遺跡見学会」
   の案内が届き、すぐに参加を申し込んだ。

    (1) 大月市・金山金山(かなやま きんざん)遺跡
    (2) 上野原市秋山・金山金山(かねやま きんざん)遺跡

    11月の土曜日、中央道南甲府IC近くにある「山梨県立考古博物館」の駐車場で身延
   町の小型バスに乗り、大月市を目指す。谷口館長と小松学芸員からこの日訪れる金山
   遺跡の概要説明があった。どちらの金山も初めての訪山なだけに、期待が高まる。

         
                  谷口館長                         小松学芸員
                               車内での説明

    大月ICで高速を降り、浅利川沿いに上流の金山(かなやま)集落を目指し、民宿・「河
   野(こうの)園」で車を停めた。
    当主・河野正雄氏に、庭に置いてある精錬用の磨り臼などを見せていただき、「河野
   園」近くの坑道(「裏坑」か?)に案内していただく。坑口の粘板岩の中に石英脈が見ら
   れる。
    この後、小松学芸員に急斜面にある坑道跡の「金山洞」や露天掘り跡などを案内して
   いただいた。金鉱石と思われる石英脈を含むズリ石が点々と落ちているのでいくつか拾
   って、ここまで来れない足弱な人たちに差し上げた。

    再びバスに乗り、上野原市の秋山地区を目指す。1時間ほどで到着だ。ここでも、説明
   役の星野氏ほか地元の方々が「金山資料館」前で待ってくれていた。ちょうど昼食時に
   なり、熱々の「キノコ汁」や「炭うどん」など地元の食材を振舞っていただいた。

         
                 「キノコ汁」                        「炭うどん」
                                  昼食

    「金山神社」から日彰(影?)沢の坑道を案内してもらうと坑口には白い脈がいく筋か
   確認できる。旧金山神社から千足道に入り、「つつみの平」の露天掘り跡まで約1時間
   の登山だった。露天掘り跡と言ってもズリ石がゴロゴロしているわけではなく、石英を含
   む石すら疎(まば)らだが、いくつか拾ってきた。
    星野氏が個人で整備した「金山資料館」には、金山稼行時代をしのばせる磨り臼など
   が並べられている。

       秋山金山資料館

    この地区名産のユズやカリンなどをお土産にいただき、上野原ICから中央高速に乗り、
   「山梨県立考古博物館」の駐車場に戻ったのはちょうど17時だった。

    この日は、小さなピックハンマーとパンニング皿を持参したが、ズリ石そのものが少な
   く、ピックハンマーの出番はほとんどなく、パンニング皿に至っては全く用なしだった。
    山梨県は、甲府盆地の「国中(くになか)」と今回訪れた県東部の「郡内(ぐんない)」の
   の2つの地域に分けられ、歴史や文化も若干違うようだ。山梨県に住んで四半世紀(25
   年)になる私だが、郡内地域は馴染みが薄く、ミネラル・ウオッチングで訪れたのも数え
   ほどしかない。
    初めての金山遺跡を案内していただいた谷口館長、小松学芸員はじめ関係者に厚く
   御礼申し上げる。
    ( 2013年11月 参加 )

2. 大月市・金山金山(かなやま きんざん)遺跡

 2.1 位置
      中央線下りで大月駅が近づくと右手にドームのような岩体の岩殿山が見える。この
     北西に金山があった賑岡町奥山地区がある。桂川の支流、浅利川に沿って4kmほど
     上流だ。

      
                     大月市・金山金山の位置

      昔あった500円札の裏に、雁ガ腹摺山(がんがはらすりやま)からの富士山が描か
     れていたが、林道が整備されるまでは、この集落を経るルートが最短登山コースだっ
     たらしい。

      
                    雁ガ腹摺山からの富士山
                       【500円紙幣の裏】

 2.2 地質および鉱床
      付近の地質は中生代小仏(こぼとけ)層群に属する粘板岩と砂岩の互層よりなる。
     鉱床は、粘板岩中に胚胎(はいたい)する含金銀石英脈で、金に比べ銀の含有量は
     少ない。(つまり、金の純度が高かった)

      鉱床は、南北、東西があり、このうち、金場川左岸にある2号ヒ[金通](下の図にある
     「第二昭和坑」のことか?)の東西ヒ[金通]が後半もっとも稼業された。鉱脈の走向は
     N45°E、傾斜は50°SEである。
      脈幅は狭く平均20cm程度だが、金品位は比較的高かった、という。

      
                大月・金山金山配置図

 2.3 金山稼行の歴史
      この金山は近代操業時には「都留(つる)鉱山」とも言った。都留鉱山は明治以前
     に開坑したと言われてるが、詳細は明らかでない。かつて、「賑岡(にぎおか)鉱山」
     と称し、大正から昭和ににかけて稼業し、搗鉱製錬場を建設するなど、一時は重要
     鉱山に列したこともある。戦後は開発されることなく、休山した。

      河野園・河野氏から断片的だが鉱山が稼行していたときと、その後の学術調査の
     様子を伺い知ることができた。

      (1) 「信玄公のころ、役人が馬に乗ったまま坑道に入った」、という言い伝えがあ
         る。
      (2) (タガネの跡が残る)手掘り坑道も残っていて開坑は古い。
      (3) 鉱山が稼行していたのは、(金山整備令がでた)昭和16年まで。
      (4) 製錬鉱夫だった河野氏の父親の話では、「製錬した金が一斗カンに200kgも
         入っていた」、というくらい、金の品位は高かった。
      (5) かつて、東大の山内教授(?)が鉱山跡を調査した。

 2.4 金山遺跡と遺物

  (1) 石臼類
       河野園の玄関脇や庭先に置いてある鉱山臼、搗(つ)き臼、そして磨(す)り臼、
      などを前に、谷口館長から解説していただいた。

         
                鉱山臼と搗(つ)き臼                     磨(す)り臼
                              河野園所有・保管の石臼

       (1) 鉱山臼の供給孔と軸穴が同じで、中心から外れている(偏芯)「黒川型」、と
          よぶ臼で「湯之奥型」、と違っている。
           偏芯させることで、鉱石を擦(こす)る動きが大きくなり、”粉成(こなし)”の
          効率が良くなった。
                 (2) 黒川よりも大きくて、素朴な造りから、黒川よりも古い可能性がある。
       (3) 石臼の表・裏を使い、大きいのは愛知県の津具金山とも似ていて、時代が
          古い。
       (4) 石臼は、新潟県にあった”越後黄金山”の形と同じで、鉱山技術者が同じ
          だった可能性が高い。

  (2) 採掘跡と遺物

   a) 「裏坑」
       河野園から100mほどのところにある、「裏坑」と思われる坑道を河野氏に案内
      していただいた。

         
                 入口                        坑道内部
                             「裏坑」

       坑道の断面は真四角で、トロッコなどが通れる幅があり、背を屈めば立ったまま
      歩ける高さがあり、近代の坑道だ。
       入口の露頭は粘板岩で、狭い石英脈が観察できたので、「金鉱石」として持ち
      帰った。

      
                含金石英脈を含む粘板岩
                【大月・金山金山「裏坑」】

   b) 「金山洞」周辺
       小松学芸員に金場川左岸にある「金山洞」をはじめとする坑道群と露天掘り跡と
      思われる場所を案内していただいた。
       林道が整備される以前は、民宿からつり橋を渡って急斜面を登って「金山洞」を
      見学したようだが、そのつり橋も朽ちて渡れる状態にはない。今回は、林道から急
      な斜面を下りて「金山洞」などを見学した。

         
                     「金山洞」                     古い坑道
                                 「金山洞」付近

       坑道の前や露天掘り跡と思われる場所の前には、ズリ石が残り、それらの中には
      含金石英脈の入ったものもあった。当時の坑夫たちが使ったと思われる陶器の破
      片も観察でき、明治期以降のものらしく、この辺りを採掘したのは近代になってから
      のようだ。

         
                    含金石英                      陶器片

3. 上野原市秋山・金山金山(かねやま きんざん)遺跡

 3.1 位置
      桂川が相模湖にそそぎ込む辺りで川を渡り、南下し、「金山」の標識に従って進む。
     狭い曲がりくねった道を5kmも登って行くと、旧秋山村の金山集落だ。山梨県の東の
     端で、神奈川県に接し、丹沢山地の北方だ。

      
                     秋山・金山金山の位置

 3.2 地質および鉱床
      2,000万年〜1,000万年前の海底火山活動で堆積した新第三系中新統丹沢層群
     (御坂層群)で構成されている。この地層は丹沢山地中心部を広く構成する酸性(珪
     酸が多い)深成岩体を取り囲むように分布している。
      丹沢中心部の石英閃緑岩体の陥入上昇により、地層が全体として中心部より外側
     に向かって傾斜している。

      秋山・金山金山については、星野家の伝承以外に古文書や記録が皆無のため、
     鉱床の種類、分布などは不明だ。
      白い脈として、御坂層に伴う沸石脈はあるのだが、明らかな含金石英脈となると、
     短い見学時間の中では発見できなかった。

 3.3 金山稼行の歴史
      星野家(現当主五俊氏)の伝承によれば、金山採掘の開始時期は、室町初期の
     応永年間(1394年〜1427年)にまで遡(さかのぼ)る。九州福岡八女郡の金山衆で、
     南朝側だった星野正実(まさたね)の一族は滅ぼされ、故郷を追われ九州の地と似
     た秋山に逃れ、この地で正実が開坑した、と伝えられ、「星野金山」、とも呼ばれる。
      金山金山の操業は、星野、金子、有賀の三姓を名乗る人々が中心に行ったとされ
     る。星野姓が金山の頭目(山師?)で、金子姓が掘り子、有賀姓が鍛冶屋(製錬?)
     であった、という。
      金山神社の由来は、永享4年(1432年)に社殿を造営し、鉱山の神様・金山彦命
     (かなやまひこのみこと)を祭神して奉斎したとある。

      江戸時代の延享5年(1748年)と記銘された鉱山臼の転用または模造と考えられる
     石に「南無阿弥陀仏」と刻んだ供養塔がある。星野家の伝承では、「八代将軍・吉宗
     の時代(1716年〜45年)、柳沢甲斐守由里が管理し金山開発に力を入れたが、鉱脈
     の採掘中に犠牲者が多く出たため中断」の記述が見られ、同じ18世紀前半にあたる
     ことから、採掘事故の犠牲者を弔う供養塔であった可能性も考えられる。
      犠牲者を弔うものでないとしても、供養塔に磨り臼を使用した背景には、金山衆とし
     ての意識がうかがえ、この地域で古くから金の採掘が行われていた証だろう。

      秋山・金山金山の採掘は近代になっても行われていた。明治・大正時代にも山師
     が入り、採掘を行ったが、どこを掘っても掘り進むと古い坑道に当った、という。昭和
     12年に「産金法」が制定され、探鉱奨励金・精錬選鉱設備補助金・金山道路開発資
     金などの補助金が交付され、金山金山でも、星野五俊氏と原田良盛氏の先代によっ
     て、金の採掘が行われた。また、金山沢の下流では、つい最近まで、砂金の採取が
     行われていたらしい。

 3.4 金山遺跡と遺物

      星野氏が、「金山・金山採掘鉱跡」として、A3サイズの地図に露天掘り跡、坑口や
     主要な建物、住宅などを書き込んでくれたものを頂いたので引用させていただく。

      
                          秋山・金山金山採掘鉱跡
                            【星野 五俊氏作成】
  (1) 金山神社
       金山川に沿って東西600mほどの範囲に住宅が散らばっている集落の中央部に
      金山神社がある。2002年(平成14年)、金山川砂防工事によって金山神社の神域
      が埋まり、現在の位置に移設された。元の位置は、500mほど上流の、ダムの底だ。

         
                       全体                    石燈籠
                                         【天保7年(1836年)銘】
                                 「金山神社」

       金山神社の変遷については、諸説を裏付ける文書などがないため口承・伝承の
      域をでないが、江戸期以降の事柄については、石段、燈籠などに刻まれた年号と
      時代的に照合し、単なる伝承とは言い切れない部分もある。
       たとえば、「享保2年(1717年)、本殿改築とある」が、調査の結果「享保」と記銘さ
      れた本殿の一部と見られる石片が発見され、この記述と照合する事が確認された。
       「御由緒」には、「安政2年(1855年)本殿改築、元治元年(1864年)雨屋改築とあ
      る」のに対し、上の写真の石燈籠の銘は天保7年(1836年)7月7日、とあり、年代が
      ほぼ一致する。
       さらに、本殿の改築は安政元年(1854年)11月4日と5日に東海地方を襲った安政
      の大地震(マグニチュード8.4)の翌年であるところから、地震で倒壊したことによる
      改築ではなかったかと推測される。

  (2) 採掘跡と遺物

   a) 「日彰(影?)沢坑」
       金山川の支流のひとつで、神社の南にある日彰(影?)沢の右岸に坑道(図の
      No12)がある。ズリ石が最少になるように、鉱脈を追うように掘ってあり、比較的
      古い時代のものだろう。

         
                     坑口付近                       坑道内部
                                「日彰(影?)沢坑」

       写真からもお分かりのように、坑の中に白い脈が見られるが、含金石英脈なのか
      遠目からでは確認できなかった。

   b) 「つつみの平」
       星野氏に、「つつみの平」、と呼ぶ尾根がテラス状になった場所まで案内していた
      だいた。星野氏の話では、「”鼓”の胴を思わせるような地形なので名付けられた
      場所」のようだ。
       ここでは、露天堀跡やほとんど埋まった坑口跡などが観察できたが、鉱山につき
      ものの”ズリ石”が全くと言ってよいほど見当たらないのは不思議ですらあった。
       つつみ平にいたる沢筋にはイノシシが暴れまわった跡がアチコチに残り、つつみ
      平は、陽当たりが良く、山肌には落ち葉に混じって、楢、クヌギなどの”ドングリ”が
      大袈裟にいえば地面が見えないほど落ちていた。これらを狩猟・採集し食料にした
      昔の人々にとってはとても暮らしやすい場所だっただろう。

         
                     露天掘り跡                     テラス(平坦部)
                                 「つつみ平」

 3.5 金山資料館
      平成25年(1912年)秋、「金山の歴史を後世に伝えたい」、という星野五俊氏の思い
     から、地元地域住民有志が協力し、星野家の物置を改装した「金山金山資料館」が
     オープンした。
      四畳半ほどのスペースに、星野家に残されていた金山関係の採掘道具や歴史を
     紹介している。
      金磨り臼、カンテラ、鞴(ふいご)など、戦国時代から近代まで、往時の金山の様子
     を伝えている。

         
                  金山金山年表                     磨り臼
                                             【戦国時代?】

         
                  鋳鉄製搗き臼                       金山鉱業所印
                 【鉱石分析用?】
                                  戦前の資料

      鋳鉄製搗き臼の左にあるのは、大理石の花瓶と原石だ。秋山には大理石を産する
     山があって、製品化が試みられたらしく、上の地図にも「旧大理石工場」の名が見ら
     れる。

4. おわりに

 (1) 『 黄金の国・甲斐 』
      今回、二か所の金山遺跡を案内していただいた。大月市の浅利川上流には金山
     があったことは2006年に次のページをまとめ、知っていた。

     ・山梨の峠と鉱物
      ( Minerals from Pass in Yamanashi , Yamanashi Pref. )

      一度、浅利川に砂金を探しに行ったことがあったが、一粒も見つけられず、HPにも
     載せていないはずだ。

      上野原市の旧秋山村は、”落人伝説”の村として、中央道脇の看板かなにかで見た
     記憶がある程度で、金山金山(かねやま きんざん)があったことなど今回案内して
     いただき、初めて知った。

      このように、甲斐・武田の勢力が及んだ範囲には、私が初めて知るようなものまで
     含めるとたくさんの金山があり、まさに『 黄金の国・甲斐 』、だった。

      逆に言えば、甲斐国(山梨県)は稲作に適した水に恵まれた平地が少なく、お米
     の代わりに他国との交易の支払いに充てられるものとして”黄金”を領内(現在の長
     野県、静岡県、愛知県など)で血眼になって探すしかなかったのだろう。

      これを裏付けるように、甲斐国の米の生産高は時代別に次の通りだ。

      慶長年間(1600年)       24万石
      柳沢時代(1700年)       27万石
      宝暦年間(1750年)       31万石
      昭和25年(1950年)       43万石

      これらから推察するに、武田氏時代の甲斐国の総石高は約20万石と見積もられる。
     「五(四)公五(六)民」なら、10(8)万石が租税の実収入だった。これに、各種の課
     税を加えたものが武田氏の総所得だった。
      甲斐を取り巻く、穀倉地帯を領する越後の上杉氏、相模平野を抱える北条氏、
     温暖で不作を知らない今川氏、などとは比較にならない貧しさだ。

 (2) 過疎の村
      今回、旧秋山村を初めて訪れた。同じ山梨県とは言っても、私が住む甲府盆地とは
     違った歴史と文化を持っている。
      星野氏の話では、「終戦直後(1945年)には20世帯あったのに、今は10世帯だけ」、
     で過疎化が進んでいるようだ。「金山資料館」の金山神社の古い写真を見ると、小中
     学生がたくさんいた時期があったことがわかる。
      一人でも多くの人を呼び寄せようと、星野氏をはじめ皆さん、”地域起こし”に躍起な
     理由がひしひしと伝わってくる。神社の桜の木は、春と秋に花をつけるようで、満開で
     私たちを迎えてくれた。

         
               古い金山神社の写真                       満開の桜

      今回案内していただいた2箇所の金山跡を訪れるのは初めてで、短時間での見学
     ではパンニングをする時間もなく、金の産出を確認できなかったのが心残りだ。
      パンニングによる砂金探しには水量も減り、水勢も弱まる冬が一番適している、とも
     言われ、近いうちにもう一度訪れたいと考えている。

5. 参考文献

 1) 赤岡 重樹:甲斐貨幣の変遷 甲斐路No3,山梨郷土研究会,昭和36年
 2) 湯之奥金山博物館編:2013年秋の遺跡見学会 資料,同館,2013年
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