金石舎 鉱物標本とかかわった人々<BR>     − 高木勘兵衛・長島乙吉・宮沢賢治 −

      金石舎 鉱物標本とかかわった人々
     − 高木勘兵衛・長島乙吉・宮沢賢治 −

1. 初めに

   某電子部品メーカーさんから招請をいただき、技術コンサルタントとして2008年
  1月末、千葉県に単身赴任し3ケ月が過ぎた。『3日、3月、3年』、と言われるように
  もともと「石(鉱物)なし県」と言われた千葉県内の主な産地はこの3ケ月の間に
  ほとんど回り終えた。

   5月に入っての半月あまり、GWの間もどこの産地にも行かず、たまにオークション
  に出る標本を眺めていた。
   そんな中に、岩石・鉱物組標本(ブック型標本)があった。それぞれ100種、合計
  200種あり、説明では欠品は1点だけという。写真で見ると、鉱物名・産地表も添付
  していて、シッカリした標本店製のものと読んで、強気に入札した。
   落札値は○万円、と妻には言えない高値だったが、送られてきた標本を見ると
  『 金石舎宝石店標本部撰 』、とあり、掘り出し物だと思った。

   読者の中にはご承知の方もおられると思うが、「金石舎」は、”トパーズ勘兵衛”
  とあだ名された岐阜県中津川出身の高木勘兵衛が明治20年(1986年)に創立し
  明治32年(1990年)から大正2年(2013年)まで、長島乙吉氏が働いていた。
   この間、長島氏によって「ブック型組標本」が考案された、と伝えられ、今回入手
  したものは氏が関わった可能性が高い。
   大正7年(1918年)宮沢賢治は金石舎を訪れ、岩谷堂産の「蛋白石」の見本を
  送ることを約束し、翌大正8年(1919年)には、元手が少なくても始められる「鉱物
  標本・宝石店」の起業を目論んでいたことが書き残されている。

   鉱物100種には、未入手だった日本産鉱物50種にある「秋田県太良(だいら)
  鉱山の方鉛鉱」が含まれている。さらに、「蛋白石(オパール)」は福島県宝坂
  (ほうさか)産で、T大某教授から以前問い合わせいただいた宿題もこれで決着
  した。
   ( 2008年5月入手 )

2. 金石舎 鉱物標本とかかわった人々

 2.1 ”トパーズ勘兵衛”(高木 勘兵衛)

     高木勘兵衛氏の足跡、人となりについては「日本希元素鉱物」、「苗木地方
    の鉱物」などに詳しいので、引用してみよう。

    『 ・・・・苗木の水晶は恐らく徳川時代から採集加工されていたものであろう。
     この水晶類に目をつけたのが筆者(長島乙吉)の旧主人、中津川の高木勘
     兵衛翁であった。翁は、風変わりの奇行に富んだ人物であった。
      水戸天狗党の武田耕雲斎一行が戦に敗れて中山道を下り、中津川の本陣
     に泊ったとき、苗木地方から沢山の刀を集めこれを売ろうと持参したが、耕雲
     斎も路用(所持金)少なくなった時で、利を博することはできなかった。
     ( 水戸天狗党が挙兵したのが元治(げんじ)元年(1864年)3月で、加賀藩の
      手で捕らえられたのが同年12月であるから、この間の出来事であろう )
      また、豚を飼ったが流行病で死んでしまい、木曽川に捨てた等、面白い人
     であった。この逸事から、人々は彼を”豚勘”と渾名した。
      明治初年、東京には時々内国博覧会があって、勘兵衛翁は水晶を出品し
     た。これが縁となって時の大学教授、地質調査所長・和田維四郎先生の知
     遇を受けることになった。
      彼の蒐集熱は高潮し、苗木地方の砂鉄と異なる黒い砂の鑑定を和田先生
     巨智部忠承先生に乞い、砂スズと教えられ、後に土地の有志と共に鉱区権を
     設定、杉邨次郎氏の紹介で、三井物産に売山した。

      明治17年(1884年)、勘兵衛翁は上京し、東京神田に「金石舎」と称する、
     金銀・宝石鉱物標本店を開業した。この頃は、鉱物標本は東京御茶ノ水の
     科学博物館で製作各学校に配布していたが、次第に民間の業者に任せる
     ことになり、博物館の標本材料が東京の金石舎、京都の島津製作所、その
     ほかに払い下げられたことなどもあって、金石舎も盛大となった。
      苗木地方の砂スズは、ペグマタイトやペグマタイト性の鉱脈が分解してできた
     漂砂鉱床で、各種の鉱物が含まれ、まさに鉱物の標本室である。この砂鉱の
     うち、水晶と思われていたものがトパズと教えられ、高木翁は無傷の湯飲み茶
     碗大のもの他約200個を愛媛県市ノ川鉱山産の輝安鉱と共に、明治25年
     (1892年)米国・シカゴの世界博覧会に出品し銅牌を得た。
      ( 金を送れば、金牌といわれたが銅で我慢した )
      この湯飲み大のトパーズとは、直径5cm、高さ6cmのもので、福岡村や苗木
     の川流れ品で、結晶面は擦れているが内部は無色透明、無傷で、1個5円か
     ら25円くらいに売れたらしい。
      ( 現在の価格で、5万〜25万円であろうか )
      翁は、更にトパズの採集に力を注いだので、郷里の人は翁を呼ぶのに”豚勘”
     にかえて”トパーズ勘兵衛”を以ってした。
      トパーズがひすいと共に日本の宝石として世界に知られた由来である。
      錫鉱を採掘した際に出た”選鉱滓”が時々東京の「金石舎」にもたらされ、
     その中から「フェルグソン石」、「苗木石」、「サファイア」そして「金緑石(クリソ
     ・ベリル)」などが発見され、明治37年(1904年)の「日本鉱物誌初版」に載せ
     られた                                          』

     
      明治末期(1900年)頃の「金石舎」
    【「中津川市鉱物博物館展示」から引用】

 2.2 長島 乙吉
     明治23年(1890年)、岐阜県苗木町津戸(現 中津川市)に生まれる。明治32年
    (1899年)、東京神田小川町の「金石舎」(鉱物・宝石商)に奉公する。
     ( わずか、9歳 )

     上の写真にある金石舎にいる時、生徒用ブック型標本を考案したと伝えられ
    る。今回、私が入手した組標本(ブック型標本)は、長島氏が調製した可能性が
    高い。

     高木 勘兵衛翁が、明治44年(1911年)に亡くなって間もなく、大正2年(1913年)
    23歳の年、独立して東京神田三崎町に鉱物標本店を開く。

 2.3 宮沢 賢治
      宮沢賢治は幼いころ『石っこ賢さん』、と呼ばれるほどの”石好き”で、彼の
     作品にも鉱物がいくつか登場する。

      賢治が何回か「金石舎」と交渉をもったことが記録として残されているので
     それらを引用してみる。

      大正7年(1918年)12月30日(月) (賢治22歳)
       日本女子大学在学中の妹トシが入院したため、東京に出てきていた。
       病院で父あてに手紙を書いた。

        「 拝啓・・・・・・・・・ 尚当地滞在中私も兼て望み候通りの職業充分に
          込相附き候。
          蛋白石、瑪瑙等は小川町水晶堂、金石舎共に買ひ申すべき由
          岩谷堂産蛋白石を印材用として後に見本送附すべき由約束致し
          置候                                敬具」

       これを読むと、賢治が岩手県岩谷堂産の蛋白石(オパール)を印材用と
      して、「金石舎」などに売り込もうとしたことがうかがえる。

      大正8年(1919年)2月2日(日) (賢治22歳)
        前年12月より東京帝国大学医学部附属病院小石川分院(永楽病院)に
       入院中の妹トシに、引き続き付き添う。
        問題は賢治の東京での職業についてで、賢治はこの日、一層の具体案
       を父に述べた。

        「 神田水晶堂・金石舎などに見る如く、随分利益もあり、しかも設備は
         極めて小。仕事の内容は、

         一、飾石宝石原鉱買入およぴ探求
         二、飾石宝石研磨小器具製造
         三、ネクタイピン・カフスボタン・髪飾等の製造
         四、鍍金
         五、砂金および公債買入
         六、飾石宝石改造

         そして設備は、

         足踏研磨器一台              約50円
         鉄槌・鑿(のみ)その他            20円
         電池                        5円
         薬品・研磨剤                  25円
         横炉(飾屋が用いるもの)           10円
         飾石・原鉱買入                 30円
         公債およぴ砂金(非常予備金)買入   若干円

        を当初の資金とし、家も借間で構わない。

        「 最初は随分見すぽらしき室にて只一人にて石を切つたり磨いたり
         労れたるときは鍍金をしたり、石を焼いたり煮たり、夜は勉強をしたり
         休んだり、そして作った石がさっぱり売れず、始めの資本をすっかり
         失い、全く失敗したとすればそれも仕方がない。その時はメッキとか
         宝石の売買か何かで生計は立てられる」

         と述べた。いずれにしても

        「 これがいかにて失敗するやを観察致すもよき学問に有之、一つしく
         ぢらせる積りにてやらせてほしい」

         と父に本心を吐露している。

          なぜ、賢治が東京で「鉱物標本・宝石店」を起こそうと思ったのかは
         定かではないが、妹・トシの病状が重篤なのを間近に見て、妹思いの
         賢治として、東京に付き添い看病しながら新しい職業を考えたのでは
         ないだろうか。

3. 金石舎 鉱物標本

    今回私が入手した鉱物標本は、岩石標本とセットになったもので、それぞれが
   100種、合計200種ある。
    標本は、ブック型と呼ばれるスタイルで、1段に25枡(種)があり、それが4段
   重なって、1つの本(ブック)のようになっている。
    升目の内側寸法は、31mm×47mmで、やや大きめの標本も収納できるように
   なっている。
    それぞれの標本には、番号、鉱物(岩石)名、英語名、産地を示す「目録」が
   付属している。

      「金石舎」製 ブック型標本

      上:岩石100種 下:鉱物100種

 3.1 いつごろのものか?【製作年代】
     製作年代を示す年号などを目録などに認めることはできなかった。製作年代を
    推測できるいくつかの手がかりはある。

    (1) 「蛍石」「白雲石」「滑石」の産地が満州国
         満州国が誕生したのが昭和7年(1932年)、消滅したのが昭和20年
        (1945年)であり、その期間中
    (2) 「鋼玉(コランダム)」の産地が北米北コロラド州
         (1)の期間中でアメリカの標本が入手できたのは、昭和16年(1941年)
        の日米開戦以前
    (3) 「苗木石」「コルンブ石」「ヂルコン」など、普通のブック型標本ではお目に
       かかれない『希元素鉱物』や「黄玉(トパズ)」など苗木地方の鉱物が多数
       含まれ、この標本を調製した人の思い入れが感じられる。

        『希元素鉱物』と言えば長島乙吉氏だが、氏は昭和13年(1938年)から
       昭和20年(1945年)まで、朝鮮半島や満州、台湾での希元素鉱物の調査に
       従事し、この標本を調製する暇はなかっただろう。

      これらから、このブック型標本は昭和10年(1935年)前後に、長島乙吉氏が
     関わったものだろうと想像している。

 3.2 注目の標本
     このブック型鉱物標本100種の中で私が注目した標本には次表のようなもの
    がある。
     特に、「秋田県太良(だいら)鉱山産の方鉛鉱」は、岡本先生と桜井先生が
    選んだ「日本産鉱物50種+番外」にもある古典的な名品で、未入手だった。

     「苗木町の苗木石」は原産地のものだし、「苗木町の黄玉」「石川の石榴石」
    ともに大ぶりで、昔の標本らしい。

     「琉球ラサ島(北大東島)の燐鉱」には何故か思い入れがあり、関連する品を
    かなりの数集めたことになる。

No  鉱  物  名産  地 標  本  写  真 備 考
4自然砒福井県赤谷(あかだに)鉱山金平糖
5砂金埼玉県秩父郡野上村 
16方鉛鉱秋田県太良(だいら)鉱山幻の鉱物
36蛋白石福島県宝坂賢治ゆかりの鉱物
63苗木石岐阜県苗木町希元素鉱物
64コルンブ石福島県石川希元素鉱物
65燐灰石神奈川県玄倉 
66燐鉱琉球ラサ島 
76黄玉岐阜県苗木町65カラットの大物
81柘榴石福島県石川町直径3cmの大物
96琥珀岩手県大川目直径3.5cmの大物

 3.3 そのほかの標本

  (1) 地元・山梨県の鉱物
       私の地元・山梨県の鉱物が4標本含まれている。「乙女坂、竹森の水晶」
      「宮本村の灰重石」そして「上佐野のクロム透輝石」である。
       灰重石は、甲府市宮本村とあるが、乙女鉱山産であろう。「ライン鉱」なら
      申し分なかったのだが、それは欲、と言うものだろう。

  (2) 単身赴任先・千葉県の鉱物
       千葉県産の鉱物として、「君津郡の砂鉄」がある。これは未だ採集して
      いないので直近のターゲットになりそうだ。

  (3) 欠品
       良心的な出品者で、入札した段階で欠品が1点あることはわかっていた。
      出品者は『焼け(焦げ)た』、と説明していたので何だかわからなかったが
      欠品は「愛知県北設楽郡振草村の硫砒鉄鉱」だった。
       焼け焦げたのではなく、硫砒鉄鉱が酸化して(錆びて)生じた硫酸でケー
      スが腐食し、標本が脱落したようだ。

       これは、すぐに穴埋めができる。

5. おわりに

 (1) 金石舎と保科五無斎
      このHPの掲示板に千葉の石友・Mさんが書き込んでくれたように、保科
     五無斎こと百助と金石舎とは明治32年(1899年)に関わっていた。

      五無斎のフィールドノートの明治42年7月29日のページに次のようにある。

    『 二万は河南村へ角閃剥岩を採りに、両大家は高津屋へ砂質片麻岩、晶質
     石灰岩等を採集に、五無斎は豊島病院へ日参。
      八木教諭(貞助:「信濃鉱物誌」の著者)は、電気石の好標本1個を採集した
     との事。

      想起す今より十年の昔、東京の標本屋・金石舎の主人(名称忘れたり)某
     五無斎を標本採集人として召し抱へんと東京なる某旅館に来り、ビールやら
     洋服の装飾品を贈りて五無の歓心を買はんとしたる折示したるものと同一
     なるを。当時五無の一商人の召抱人とならぬを見て取り産地を秘してコソコソ
     と逃げ帰りたる事のありたるが、今や其産地を確むるを得たり。然れども
     其産出の多からざる由なるぞ遺憾なる 』

      ”某”が、高木勘兵衛であり、五無斎を標本採集人(ミネラル・ハンター)として
     雇い入れようと思ったようだ。
      このとき、勘兵衛は『穴沢の電気石』の標本を持参し、その産地を五無斎
     から聞き出そうとしたようだ。
      五無斎は、明治31年に川端下や御所平を訪れた記録が残っていて、「電
     気石」を入手しているのだが、産地を知らなかったようだ。

      この年、長島乙吉氏が金石舎に丁稚奉公に出ている。長島氏は、五無斎が
     調製し各方面に頒布した鉱物標本を目にしたことがあったはずだ。これを
     みて、もっと簡便な標本を、と思い『ブック型鉱物標本』を考案したとも考え
     られる。

 (2) 金石舎の蛋白石
     以前、T大学の某教授から金石舎標本について問い合わせいただいたこと
    があった。
     宮沢賢治との関係で、金石舎標本にある蛋白石が福島県宝坂産のものか
    どうか、教えて欲しい、との内容だった。すぐに、調べてお知らせしたいと思い
    ながらも、回答できなかった。

     今回入手したブック型標本から、『宝坂産』 に間違いないことが明らかになった。

     このように、お問い合わせいただきながら、回答が遅くなってしまうことが
    時々あり、申し訳なく思っている。

     先日も、福島県の水晶山に関する問い合わせのメールをいただき、地図を
    準備したのだが、アドレスを失念してしまった。
     お心あたりの方、お手数ですが連絡願います。

6. 参考文献

 1) 長島 乙吉、弘三:日本希元素鉱物,日本鉱物趣味の会,昭和35年
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