『 大正14年(1925年)頃、希元素鉱物探索の目的で東京帝国大学鉱物学教室の
方々が、大橋川(金田川・観音山の下)の川底の土砂を採集しヨナゲました。
( 注:ヨナゲとは、パンニング(椀掛け)のこと )
その結果、自然蒼鉛、褐簾石、紫紅色のコランダムと共に砂金が採集されました。
町の歴史民俗資料館に展示されている砂金は、その折、小学生で参加されていた
桜井 欽一博士からその時の1個をいただいたものです。』
以前見た砂金は、肉眼でもハッキリわかる5mmを超える大きさで、石川町立
歴史民俗資料館発行の「石川の鉱物と岩石」に記載されていたものがそれと思われる。
( 桜井博士は、大正元年(1912年)のお生まれですから、このとき13歳で、今でいう
小学6年生あるいは、中学1年生で、その早熟ぶりがうかがえるエピソードです )
今回、白河市「福島県文化財センター 白河館」での「たたら製鉄体験」の前に訪れ
金田川でパンニングを試み、小さなものだが数粒確認でき、桜井博士の遺徳を偲ぶことが
できた。
( 2005年11月採集 )
旧石川中学(現石川高校)の化学の教師であった菅谷 熊一郎先生は、昭和8年(1933年)の
「我等の礦物」に「石川山放射鉱物産地案内」と題して、『 石川で、放射性鉱物を採集したときの
土砂中にはどこでも砂金が発見できる 』 と書いています。
その名の通り、金田川には”金”の文字が入り、源流・大橋川の近くには、「小金塚」や
「金堀」の小字があり、「金子山光国寺」というお寺もあり、古くから”金”と縁があったことを
うかがわせます。
石川の金田川で鉱業権を設定した本格的な砂金採掘が行われたキッカケも、『昔、金が出た』
という、言い伝えだったようです。
今は亡き古老の話では、大正2年(1913年)から10年間、東京の岩井 喜八氏(一説には
磐井 初弥氏)が、和久の金田川で、夏だけ砂金採りをした。その採掘の様子は、
@金田川にあった水車の近くの河原を深さ7尺(2.1m)、幅3尺(90cm)ずつ掘り進む
A川の中に長さ9尺(2.7m)の浅い箱に目の荒いムシロを敷いて沈めておく。
B掘った土砂をかき上げて、箱の中の上流側に入れてヨナゲる。(水洗比重選鉱)
水の流れで、大きな石はそこに残り、小さい石は下流に流れ、砂金や希元素鉱物の
ように、重くて小さい粒はムシロの下に落ちたり、目にはさまる。
軽い泥や砂は流れていく。
Cムシロの上の石は、子供を雇って取り除かせた。(日給15銭〜20銭)
この中には、水晶や柘榴石があるので、喜んで拾った。
Dムシロの下に落ちたり、目にはさまったものは、1日でカマス(藁で作った袋)1袋分
貯まった。これを東京からきた人夫が、薄い木の盆(直径30cm)に入れ、川の流れで
ヨナゲる。
ここで、コルンブ石、サマルスキー石、柘榴石、電気石などを拾い上げ、最後に
残った重い砂を直径15cmくらいの麻袋に入れた。この重い砂は、カマス1袋から
5合(0.9リットル)くらいとれた。重い砂の中には、ゼノタイム、モナズ石、コルンブ石
などと一緒に、水の中で青白く黄色に光る砂金や金の入る鉱石が入っていた。
砂金の輝きは、水の中でトカゲか青大将の光に似ている。
E重い砂は、東京に送られた。
採取された砂金の量はわからない。
F砂金が取れると聞いて、こっそりヨナゲする人が来るようになったので、某氏が監視役を
頼まれた。
G岩井市は旅館に泊まり、技師・人夫は近くの民家に泊まった。
(2)このほか、柘榴石などに混じって、小さなものだが、褐簾石、コルンブ石、サマルスキー石
モナズ石そして変種ジルコン(苗木石)などの希元素鉱物が一通り見られます。
(2)今回も、パンニングによって砂金はじめ各種の希元素鉱物を採集できた。当分の間
パンニングに ”ハマリそう” です。