川俣線で鉱石を運んだ蒸気機関車のその後

川俣線で鉱石を運んだ蒸気機関車のその後

1.初めに

長島親子の著になる「日本希元素鉱物」の川俣地方を読むと、
長島乙吉氏が川俣を訪れた経緯が書かれている。
「松川駅(東北本線、松川事件の舞台)にとまっていた貨車の荷札を
見て川俣が相当なケイ長石産地なるを知った為である。」
この本のペグマタイト産地の地図を見ると、この本が書かれた昭和35年には、
松川から岩代川俣まで鉄道が通っていた事が分かる。

川俣線とペグマタイト産地
そんな折、今尾啓介著「地図で歩く廃線跡」が古書店で目にはいり、
購入して読んでみると川俣線が記載してありますので、ご紹介致します。
(2001年7月情報)

2.川俣線

1926年(大正15年)に開通した国鉄川俣線は、全長12.2km、途中駅は
岩代飯野だけのいわゆる「盲腸線」であった。行く行くは阿武隈山地を越え、
太平洋岸の常磐線浪江駅と結ぶ筈だったが、結局実現はしなかった。
川俣水晶山のペグマタイトは、鉄道が敷設される約10年前の大正5年頃、
坪田某氏と岡村安太郎氏が共同開発にかかったのが初めとされている。
最初の10年間は、山頂から露天掘を行い、次第に坑道堀に移ったようです。
従って、鉱山の最盛期にさしかかった頃に運搬に便利な鉄道が開通したので、
関係者の喜びようが察せられます。
しかし、1928年(昭和3年)に鉄道省による省営バスが福島-川俣-浪江間に
開通した。鉄道は松川での乗り換えがスムースなら、所要時間こそ50分と10分ほど
短かったが、運賃が40銭と10銭高かったこともあり、利用者の足が遠のき、
戦時中の1943年(昭和18年)から2年半ほど休止していた。
戦後は一時的に盛り返したと思われるが、1972年(昭和47年)5月14日に廃止の
憂き目を見た。

3.川俣線の機関車のその後

ここで使われた蒸気機関車は、関西、山陽方面で活躍したもので、川俣線を引退
した後、あるものは栃木県の真岡鉄道で動態保存され、下館-茂木間を1〜2
往復しています。(運転日注意)
そこで、日曜日に真岡に行き、煙を吐いて、実際に客車を引っ張っている勇姿を
撮影した。

真岡鉄道で煙を吐いて、客車を引っ張る勇姿

4.おわりに

(1)今尾啓介著「地図で歩く廃線跡」には、川俣線以外にも、都市と鉱山を
結んでいた多くの廃線が紹介してあります。
幌内線(北海道)・・・・・・・・幌内炭坑
尾小屋鉄道(石川県)・・・・・・尾小屋鉱山
北陸鉄道小松線(石川県)・・・・遊泉寺銅山
加悦(かや)鉄道(京都府)・・・大江山ニッケル鉱山
同和鉱業片上鉄道(岡山県)・・・柵原鉱山
(2)これらの廃線や鉱山跡が産業遺跡として、保存されればと願っています。
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