山梨県下部町川尻金山の金鉱石

山梨県下部町川尻金山の金鉱石

1.初めに

 私が家族会員になっている、山梨県下部町にある「湯之奥金山博物館」では
金山遺跡見学会や講演会を開催している。
 2003年秋の遺跡見学会は、下部町にある「川尻金山」であった。
 下部町には、湯之奥金山と総称される、中山・内山・茅小屋の3金山のほかに
川尻・常葉・栃代(とじろ)の3金山、合わせて6つの金山遺跡がある。
 湯之奥金山は、稼行されたのが、戦国時代〜徳川初期(16世紀〜17世紀)であり
詳しい実態が調査されたのは、中山金山だけですが、川尻・常葉・栃代の3金山は
近代になっても稼行してたため、昭和初期に、ここで働いていたという人々から
話を聞くことができます。
 しかし、時間とともに、これらの産業遺跡は自然に埋もれていき、かつて金山が
あったことすら忘れられてしまいます。
 今回、川尻金山の見学会に参加し、その歴史を知り、実際に坑道や選鉱場跡に
足を運び、金鉱石を採集できたのは何よりでした。
 案内いただいた、谷口館長はじめ、職員の皆様に御礼申し上げます。
(2003年10月採集)

2.産地

 2.1 位置
  川尻金山は、雨ケ岳(1,771m)の麓、本栖湖の南西にある。

  川尻金山の位置

 2.2 川尻金山の歴史
    本栖湖の南西にあるため‘本栖鉱山”とも呼ばれる。栃代金山のほば裏側に
   位置している。
    天子山系雨ケ岳に続く尾根を振り分けて、栃代金山とは同質の鉱脈を引き合い
   坑道の周辺を水源とした金山沢が流れる。
    川尻金山は武田信玄が開坑したという大旧坑が山頓にあり、また信玄坑という
   坑道名が残っていることから、相当古くから開発されたものと想像されるが
   詳細は明らかでない。
    富士麓金山に根を張っていた金山衆・竹川一族が川尻金山にも勢力を伸ばして
   いたという伝承もあり、”川尻千軒”という言葉も残っているように、最盛期には
   かなり盛大なものであったといわれているが、経営の内容や経過については明らか
   ではない。ただ、寛永21年(1644年)の文書に川尻村の石高割付が見えることから
   武田滅亡後も新たな支配体制の下で細々と採掘が続けられていたものと考えられる。
    大正の初期、露出していた鉱石が偶然発見され、昭和10年ごろまでは細々ながら
   採鉱され、掘り出された鉱石はカマスに詰められ、本栖湖を小船で渡り、富士吉田
   までは馬車や馬の背に頼り、ここから茨城県日立鉱山精錬所まで送られて精錬されて
   いたという。ただし、このような運搬経費がかかったことが経営困難に陥るきっかけ
   だったようである。
    戦時体制下には産金国策に従い、全国の優良金山中10番目という華やかな時代も
   あったが、金山整備令で、昭和18年に閉山され、以後採掘はまったく中止されたまま
   であった。

 2.3 川尻金山年表

   1644年(寛永21年)   ”川尻村”とある文書によると、石高11石一斗5升の割付が
                 なされている。
   1910年ごろ(大正初期) 良質の金鉱石が偶然発見され、金山としての再出発。
   1930年ごろ(昭和初期) 龍栖金山と称し、各津三太郎が再開発する。
                 富岳鉱業鰍フ経営に移り富岳鉱山となり、後に川尻金山と改称
   1930年(昭和 5年)   鉱山師・立川某が入山、昭和金山として第1回目の採鉱を開始
                 以降、1944年まで連続的に日立鉱山に売鉱した実続がある。
   1935年(昭和10年)   採掘権が深沢正敏に移る。
   1943年(昭和18年)   金山整備令により帝国鉱業開発鰍フ所有となり、同年8月31日、閉山。
   1948年(昭和23年)   9月、堀内義雄が鉱業権を譲り受ける。
   1951年(昭和26年)   10月、第一鉱業鰍フ所有となる。
   1955年(昭和30年)   完全閉山。残務整理は31年で終了。

 2.4 川尻金山鉱産量
    近代まで稼行していた川尻金山については、その採掘量、品位などの記録が比較的キチンとした
   かたちで残っています。
    昭和5年から閉山までの鉱産量は、金が約80kg、銀もほぼ同量そして銅は5トン余りだったようです。

年次 西暦 採掘鉱石量(t) 金品位(g/t) 含金量(g)
昭和 5年 1930年 37 14.0 514
昭和 6年 1931年 64 25.2 1,603
昭和 7年 1932年 10 47.6 461
昭和 8年 1933年 401 29.1 11,673
昭和 9年 1934年 296 17.4 5,149
昭和10年 1935年 185 14.5 2,684
昭和11年 1936年 34 34.8 1,198
昭和12年 1937年 91 42.7 3,894
昭和13年 1938年 51 36.6 1,869
昭和14年 1939年 75 16.7 1,260
昭和15年 1940年 10 63.6 614
昭和16年 1941年 238 33.8 8,054
昭和17年 1942年 324 49.9 16,139
昭和18年 1943年 174 38.6 6,711
昭和19年 1944年 9 23.8 212
昭和27年 1952年 123 39.9 4,896
昭和28年 1953年 123 31.9 3,938
昭和29年 1954年 137 41.8 5,752
昭和30年 1955年 10 67.7 656
合   計 2,392 34.8 77,277

 2.5 川尻金山聞き語り
    川尻金山は、山梨県の金山(鉱山)としては珍しく、戦後まで稼行していた、数少ない鉱山の
   1つです。
    稼行当時、ここで働いていて、下部町内に住む赤池氏が当時の模様を語ってくれています。

  質問1『赤池さんはこちらで何年くらい金山の仕事に従事したんですか?』
  赤池氏『ここで働くきっかけっていうのは、ここの所長の娘さんのお婿さんが友達で
      来てくれってことで、金なんていうのを掘るのは初めてで。最初は入口の橋かけを
      始めて、いろんな雑務でしたけど、そんなことを手伝っているうちに選鉱をするように
      なって、それで3,4年働いたんですね。
       しかし、掘ったのは2年くらいです。昭和26年から28年くらいまで、この川尻で働き
      その後山形県に転勤になった。当時所長が次々と変わり、私が掘っていた当時
      事務系統をやっていた人が白井さんという方で事務していたが、採掘していた時は
      フジモトという人で、その後はジンヂさんという九州から来た人がやっていました。
       ここで採鉱した鉱石を、カマスにつめて湖水までリアカーで運んで、フネで本栖湖まで
      運んだ。昭和29年にこっちの道路があいたが、この道が出来る前まではフネで本栖湖まで
      運んでいた。』

  質問2『浩庵荘の赤池さんが最後の所長ということですか?』
  赤池氏『斎藤信明さんも浩鹿荘がやっていた頃にちょっとここにいたんじやないですかね。
      その前は山麓の堀内さんという方がやっていて、その後東京の方で森岡さんという人が
      山を買って、ここで金山を採掘してたんです。どこかの会社の重役をしていて。
       満州の探鉱で大分活活躍されていました。その会社をやめて、ここの山を買って
      他にもここと群馬と山形に山を持っていたんですが、どこの山も採算が取れなくなって
      みんなやめていったそうです。』

  質問3『ここは入口から平らな土地が多いような気がしますが。』
  赤池氏『入口から飯揚(はんlカが多く残っているんです。で、入口にあるのは新しい坑口だと
      思います。私が山形にいった後に掘ったのかどうか定かではないが、あれが何時
      掘られたものかは知らない。

  質問4『現揚に当時の面影が残っていますか?』
  赤池氏『大分河川工事をしてしまっていて、分からない。私は5、6番坑を掘ったが、その穴は5尺
     (1m65cm)、8尺(1m98cm)の坑口でした。しかし潰れてしまったのかも知れない。
      金脈をさぐっていったわけ。酸化したような鉱石の中に。ここは石英系統の中に金が
      入っているからそれを目印にしていくわけです。
       採鉱機のようなもので採ったわけではなく、いい鉱石だけ手選鉱でとるわけです。
      だいたい手のひらに乗る程度の鉱石を、ある程度の大きさ(直径3センチから5センチくらい)
      に砕いて、さらに30g、40g、50gと重さも拾い分けしてカマスに詰め、馬に載せ
      日立の精錬所に送った。

  質問5『何人くらいで勘いていたんですか?』
  赤池氏『ここでは採鉱と粉砕までをしていました。精錬は日立精錬所と決まっていましたから。
      で、最盛期は選鉱夫から含めてだいたい邦人くらいが働いており、その人数が6番坑とか
      5番坑など掘場を振り分けられて作業に従事していた。
       ここには鍛冶小屋があったりして休憩所としてや、ノミを焼いたりしていた。
      だから道具は現地で作っていたんです。掘り方としても、削岩機ではないから鉱脈を
      ずりと鉱石とで最初に分けると言う掘り方が出来るんです。ちなみに副産鉱物はここはなく
      専ら金だけ採掘されていた。

  質問6『どんな石を鉱石として採掘するんですか?』
  赤池氏『ここの山に対しては、黄鉄鉱が目印でしたね。これは場所によるのですが、どこの山でも
      そういうわけではなく、ここの山においては、そういう傾向であるというだけですがね。
       ちなみに博物館に展示されている“糸金”は亜鉛鉱の中に入っている。クロム鉱と
      言って金鉱脈の中の亜鉛に混ざって、いるんですが、当時、発破かけて坑道が開くと
      そこにばーっとあったわけです。
       終戦後、家に持って帰って朝鮮の人が物々交換に来るわけです。坑道は一般の人は
      入れないから作業に携わった係員だけが、目で見ていい部分を家に持って帰ったという
      ことはよくあることでした。
       多いときには月に10キロくらいの鉱石を、金鉱の選鉱した後に持って帰ったことも
      あります。

  質問7『よく写真で見るような枠のある坑道はここにはなかったんですか?』
  赤池氏『入口の枠は普通はやるけど、坑道自体が堅いとつぶれないから、大丈兎5mから10m掘れば
      だいたいしっかりするから、枠はつけない。化粧枠っていうやつがあるけど、だいたい
      本脈にはそういう立派なやつをつけますけどね。金鉱山というのはだいたい岩盤が
      堅いが、マンガンとか褐鉄鉱とかは岩盤が柔らかいから、ちやんと木枠でしっかり
      させないとつぶれてしまうんです。』

  質問8『採掘当時、この場所に臼なんかが転がっていたことはなかったですか?』
  赤池氏『臼は事務所の前辺りに小さいのがあったが、たくさんはなかったで丸当然、採掘作業や
      粉砕でこんな臼を使った人は誰もいない。現代的なものを使っていねだから、臼は
      昔のものでしょうね。』

3.産状と採集方法

  川尻金山付近の地質は第三紀御坂層の砂岩・真岩および石英閃緑岩と石英斑岩からなっており
 また鉱床には頁岩中の金銀鉱染網状鉱床と金銀石英脈の2種類がある。
  鉱石鉱物は自然金のほか黄鉄鉱、方鉛鉱、もしく閃亜鉛鉱である。

  坑内図

  鉱石は、選鉱場(貯鉱場)跡や坑口付近に点在していますので、それらを叩いて
 探します。

     
     古い坑道【信玄時代?】       5号坑道
             あちこちに残る坑口

     
       山の神の祠        テラス【石組みの平坦部】
           あちこちに残る生活の跡

  選鉱場跡

4.産出鉱物

(1)金鉱石【Gold Ore:    】
    褐鉄鉱に覆われたズリ石を割ると、石英脈に黄鉄鉱、黄銅鉱、閃亜鉛鉱、方鉛鉱を含む
   鉱石があります。
    ここに、小さな自然金が見られることがあります。

  金鉱石

5.おわりに

(1)ここを訪れたのは、2003年10月中旬でしたが、暖冬の影響か、紅葉が見ごろでした。

  金山沢の紅葉

(2)沢の崖には、金が濃縮するといわれ、金山の道しるべともなる「やぶむらさき」が
   実をつけていました。

  やぶむらさき

6.参考文献

1)湯之奥金山博物館編:川尻金山遺跡現地見学会パンフ,同館,2003年
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