島根県花仙山(かせんざん)の碧玉

           島根県花仙山(かせんざん)の碧玉

1. 初めに

    2009年の夏、神奈川県の石友・Hさんから、島根県花仙山の碧玉(ジャスパー)を送っ
   ていただいた。家族旅行で訪れたときに入手したものだとメールにあった。
    花仙山の碧玉には、いろいろな想いがある。

    @ 「宝飾の道(ジュエリー・ロード)」
        「甲州(山梨県)の名物は、葡萄と水晶」、と言われ、現在でも甲府市は『宝石の
       街』と謳っている。私はそのルーツが、古代出雲(島根県)の玉作部(たまつくりべ)
       で、出雲→京都の珠細工・小浜の瑪瑙(めのう)細工→甲州 というルートで玉作り
       (宝石研磨)の技術が伝わったと考え、このルートを「宝飾の道(ジュエリー・ロー
       ド)」と名付けてみた。

       「宝石の街」【甲府駅前2010年1月】

    A 「鉱物採集は水晶に始まり水晶に終わる」
        碧玉の化学式はSiO2で、水晶(石英)の仲間だ。2009年10月、小学生の『出前
       授業』で、私たちと永い付き合いのある身近な鉱物として紹介した。
        出雲の碧玉は、弥生〜古墳〜奈良・平安時代に管玉や勾玉などの宝飾品に
       加工され、全国各地の古墳などから発見されていて、骨董市でこれらをいくつか
       入手し、子どもたちにも披露した。

       ・出前授業 「君も水晶博士になろう!!」
        ( Presentation for Schoolchildren " Let's Study QUARTZ " , Nagano Pref. )

        ミネラル・ウオッチングを始めた20年以上前に購入した「原色鉱物図鑑」には、
       『佐渡の赤玉(あかだま)、出雲の青瑪瑙(めのう)』が載っていて、平成元年(19
       89年)、山梨県に転勤して間もなく、山梨県六郷町(現市川三郷町)三沢川岸で
       碧玉を採集した。その後、何回か訪れ、2002年にHPに記載した。

       ・山梨県六郷町三沢川の碧玉
        (Jasper of Misawagawa , Rokugo Town , Yamanashi Pref.)

      新春、古書店をのぞくと、日立製作所が発行した「技術史の旅」という1冊があり入手し
   た。この本には、『出雲玉作遺跡』という1章があり、島根県玉湯町の花仙山で採れる
   碧玉などを加工した玉作り遺跡と出土品が紹介してある。さらに、オークションに花仙山
   の碧玉産地を描く絵葉書が出品されたので入手した。こうして、材料はそろったので、
   このページをまとめてみた。

    このように、『出雲石』とも呼ばれる「花仙山の碧玉(青玉)」について総合的にまとめ
   るキッカケを与えてくれた石友・Hさんに厚く御礼を申し上げる。
    ( 2010年1月 情報 )

2. 花仙山の碧玉

 2.1 産地

     
 島根県松江市から宍道湖を時計周りに
回ると玉湯町に玉造温泉があるがある。

 玉造温泉は、「出雲風土記」に、『一たび
濯(すす)げば形容(かたち)端正(きらきら)
しく、再び浴(ゆあみ)すれば万(よろず)の
病(やまい) 悉(ことごと)に除(のぞ)こる』

とある名湯だ。

 玉造温泉の東にある200m弱の小高い
山が花仙山だ。

          花仙山周辺地図

 2.2 産状
      花仙山の碧玉は、火山の噴出物の中に脈状や塊状に成長したようだ。噴出物が
     風化しても風化に強い碧玉はそのまま残り、山土の中から掘り出して採掘したようだ。

      採掘の様子を描く絵葉書を見ると、山腹に掘り込んだ穴の中でハンマーとタガネを
     使って玉の材料に適した良質の部分を欠き採っているのがわかる。

      採掘の様子

      採掘跡には、碧玉(青瑪瑙)が落ちていたらしく、父親と一緒にそれを拾う子どもた
     ちを描く大正〜昭和初期の花仙山の絵葉書もある。

      青瑪瑙拾い

 2.3 花仙山産碧玉
      碧玉【Jasper:SiO2】は、水晶と同じく鉱物名は石英【QUARTZ:SiO2】である。極微
     粒の石英に含まれる鉄イオンのため青緑色に見える。
      一方、酸化鉄を含むものは、赤色に見える。このため、『佐渡の赤玉(あかだま)、
     出雲の青瑪瑙(めのう)』 と言い習わされているが、「瑪瑙(めのう)」ではなく「碧玉」
     だ。
      めのう細工店の製品パンフレットや大正〜昭和初期の絵葉書を見ると、地元では、
     『出雲石』、と呼んでいる(いた?)ようだ。

      石友・Hさんから送っていただいた「花仙山の碧玉」と「佐渡の赤玉」を紹介する。

        
              青碧玉                       赤玉
             【花仙山産】                   【佐渡産】

3. 出雲玉作遺跡

    「技術史の旅」によれば、玉湯町には多くの玉作遺跡がある。

     


 玉作遺跡のうち、宮垣地区、宮ノ上地区
そして玉ノ宮地区の3ヵ所が、大正11年
(1922年)に「出雲玉作跡」として国史跡に
指定された。

 考古学的な調査が行われたのは、明治
後期からで、本格的調査でその実態が
明らかになったのは、まだ近年のことである。

 昭和44年(1969年)〜46年(1971年)に
宮垣地区の発掘調査が行われ、古墳時代
前期から奈良・平安時代に至る玉作工房
跡が約30棟発見された。
 同時に、数万点の玉未完成品や砥石な
どが出土し、昭和52年(1977年)に国の重要
文化財に指定され、出土資料は「出雲玉作
資料館」に収蔵、展示されている。

 この地域には、多くの古墳が残っており
玉作りが首長(リーダー)の下、組織的に
行われていたことがうかがえる。

  玉作遺跡の分布【「技術史の旅」から引用】

     玉作遺跡のほぼ中心に「出雲玉作湯神社」がある。この神社を描く絵葉書のキャプ
    ションを引用する。

     
 この神社は、清和天皇の貞観13年
(971年) 従四位下を授けられた式内の
古社である。
 御祭神・櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)
は神代の昔、この地花仙山に産する原石
『出雲石』を以ってこの地において宝玉作製
を業とし玉(ママ)ふ。
 時に素盞鳴尊(スサノオのみこと)は簸川
上より高天原に向かい給う。この時、櫛明
玉命は尊を奉迎して奉るに、『八坂瓊
五百津箇御統玉』を以ってし給う。
 尊は大いに喜び之を受け、還御の後、天照
大御神に奉りて友愛の誼(よしみ)を保全し
玉えり。
 即ち、三種御神宝の一なる『八坂瓊曲玉』は
本神社御祭神の命の献じ給えるものなり。



    つまり、三種の神器の1つ『勾玉』は、ここで作られた、とされている。

4. 玉作り技術

 4.1 玉作り工程と加工法
     玉作りは図に示すような工程で、家族労働で、各家ごとに一貫作業で行われていた
    らしいことが住居跡の発掘から明らかになっている。

     

【管玉(くだたま)の例】

@ 原石を荒割りし、四角柱を
   つくる。

A 外周、端面を水をつけながら
   砥石で研磨

B 糸を通す、孔をあける。



    管玉製作工程【「技術史の旅」から引用】

     最大の難工程は、「孔あけ」で、穴に残っている擦痕(さっこん)から、錐(きり)を回転
    しながら穿孔したことが推測でき、錐らしい鉄製品も発見されている。金属が使われる
    以前は、縄文時代のヒスイ加工のように、竹管や竹ヒゴが使われたようだ。
     錐の先端に研磨剤となる砂粒と水を介在させる、『研削(けんさく)』加工なので、錐
    自体の硬さは必ずしも必要ではなかった。

     これら、玉作りに使われた工具類を描く大正〜昭和初期に発行された絵葉書を入手
    したので紹介する。

      玉作り砥石と坩堝片

 4.2 玉作り技術と伝承
      玉を作るためには、「材料」、「道具」そして「熟練した技能者」が必要だったはずだ。
     この地域には、「玉作部(たまつくりべ)」と呼ばれる『部民』集団が暮らしていた。
      「玉造」の地名が残る全国の他の地域の玉作りは5世紀末に衰退・消滅してしまった
     のだが、櫛明玉命を祖神として祀る花仙山の工人たちは、4世紀の終わりころから
     奈良・平安時代まで1000年近く玉作りに従事していた。

      2008年12月、千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」を訪れたときに、一番
     興味をおぼえたのは、 『進上水精玉壹佰伍拾顆事』 、とある出雲国(現在の
     島根県の一部)から奈良の中央官庁に提出された文書「計会帳」の断裁(切れ端)
     だった。

     ・国立歴史民俗博物館の鉱物
      ( Minerals of National Museum of Japanese History , Sakura City , Chiba Pref. )

      これによると、天平5年(733年)ごろ、出雲から都【奈良の平城京】に水精玉(水晶
     製の切子玉)が100個、150個と、まとまった数が「調」の一部として送られていた訳で
     このころも玉作りが活発に行われていたことがわかる。

      出雲国計会帳
          ↑                                ↑
                                      
         100個                              150個
                        『進上  水精玉』

      出雲国には、花仙山の他、安来(やすぎ)平野、意宇(いう)川下流平野、大東町の
     4つの玉作遺跡があった。花仙山周辺の地域には最も多くの玉作遺跡が集中してい
     て、全国的にみても最大の玉の生産地であった。
      これらのことから、「出雲国計会帳の水晶玉」は、花仙山周辺で作製された可能性
     が極めて高い。

      この技術は現在でも受け継がれているようで、北関東の骨董市をのぞくと「出雲の
     特産 めのう細工」があったので入手した。

       出雲めのう細工【松江市のめのう店製】
     

 4.3 玉製品
      出雲の玉作遺跡で作られた玉製品には、「管玉(くだたま)」、「勾玉(まがたま)」
     そして「切子玉」など各種ある。
      遺跡からは、上の絵葉書にもあるように、ガラスを溶解した坩堝(ルツボ)も発見さ
     れており、ガラス製の「ガラス玉」も作製されていたことも推測される。
      「出雲国計会帳」には、『 進上 真珠 参拾顆 上一十顆 中五顆 下一十五顆』
     とあり、「真珠(しんじゅ)」の加工など、幅広い宝飾品の加工を行っていた、とも考え
     られる。

      代表的な玉製品である「管玉」と「勾玉」の原石と完成品、私が入手した「青碧玉と
     赤玉石の管玉」を下の写真に示す。

         
             原石と完成玉                       管玉
         【「技術史の旅」から引用】              【マイ・コレクションの一部】

5. おわりに 

 (1) 「出雲の水精玉」
      2008年12月、千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗資料館」で見た、出雲国計会
     帳にあった「水精玉」が気になっている。

      @ 古代中国では、現在の「水晶」を「石英」と呼んでいた?
          「鉱物」はじめ、益富先生の著書にそのような記述がある。しからば、誰が
         いつのころから「石英」を間違って「水晶」と呼ぶようになったのか、知りたい
         ところだ。
          益富先生は、江戸時代の学者・貝原益軒だろうとしているが本当にそうなの
         だろうか?

          すでに、天平時代(8世紀)には、透明な「水晶」で作った「切子玉」を「水精
         玉」と呼んでいたことは「出雲国計会帳」の記述からも明らかで、江戸時代か
         ら誤った呼び方が始まったとは考えられないのだ。
          マイ・コレクションにある古墳時代の遺跡から出土した「水晶玉(=切子玉)」
         は、写真のように、透明で、今われわれが「水晶」と呼んでいるものだ。

          


水晶製の切子玉

常陸国(現茨城県)
出土品



      A 水晶の産地は?
          「出雲国計会帳」にある水晶玉の原料になった水晶はどこで産出したものか
         気になっている。
          「技術史の旅」には、花仙山で産出した(する?)原石を使った玉製品が載っ
         ている。上で紹介した「碧玉」、「めのう」以外に「水晶」も産出するとあり、これ
         で作製した「水晶の管玉」も地元の「出雲玉作資料館」に展示してあるようだ。

          
          花仙山産水晶製管玉【「技術史の旅」から引用】

      これらを確かめるため、ぜひこの地を訪れたいと思っている。

 (2) 「宝飾の道(ジュエリー・ロード)」
     『宝石の街 甲府』のルーツはどこなのだろうか。縄文時代の翡翠加工の集落跡が
    新潟県糸魚川市の長者ケ原遺跡だ。
     縄文時代中期(5,000〜3,500年前)の集落跡で、ヒスイの玉や蛇紋岩製の石斧の
    生産・交易拠点としても知られている。
     ここで加工された「大珠」は、青森県の三内丸山遺跡でも発見されるなど、縄文時
    代の『宝飾品加工センター』だったようだ。

     糸魚川地区には、「奴奈川姫(ぬなかわひめ)伝説」がある。「奴奈川姫」は「古事記」
    「出雲風土記」に登場する高志国(現在の福井県から新潟県)の姫であると言われ、
    出雲国(今の島根県)の大国主命(おおくにぬしのみこと)が沼河比売(=奴奈川姫)
    に求婚に来た、とある。

      求婚、つまり何を求めて遠い出雲から来たのか、次のように解釈できる。
       @ 玉の原石=翡翠 を求めて
       A 玉の加工技術を求めて
       B 出雲国と高志国の同盟(政治・軍事)を求めて

      花仙山で豊富な原石が採掘できるのだから、Aだったろうと私は考えている。
     そうなると、宝石の加工技術は、高志国(越国)から出雲に伝わったことになり、ルー
     ツは新潟県に遡ることになる。

      蛇足だが、Bも考えられる。
      最近、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡や茶臼山遺跡で大型建物跡や青銅鏡
     の発見が相次ぎ、邪馬台国が大和か九州かで論争が賑やかになっている。邪馬台
     国の女王・卑弥呼が天照大御神と同一だとする説も説得力がある。
      「古事記」などによれば、天照大御神によって出雲に追放された素盞鳴尊の子孫が
     大国主命である。
      私は、九州にあった邪馬台国に叛旗を翻した狗奈国のリーダーが素盞鳴尊で、出
     雲に流された後、大国主命の代には九州勢に恭順の意を表し、285年とされる神武
     東征と呼応して大和の勢力を北から攻めるよう高志の豪族たちに働きかけてた、と
     も考えられる。
      越国から擁立された継体天皇が樟葉宮(大阪市枚方市)で即位するのは、およそ
     200年後の507年2月4日だった。

      このように、いろいろな意味で興味深い地域なので、いつか訪れたいという気持ち
     がさらに高まってきた。

     このようなキッカケを作ってくれた石友・Hさんに厚く御礼申し上げる。

 (3) 「つむぎのぶんきち」
     ”つむぎのぶんきち”、と聞いて清水次郎長を思い浮かべられる読者がいれば、博学
    (雑学豊か?)な方である。
     山梨県で碧玉が採集できる六郷町(現市川三郷町)三沢川岸の字は、「鴨狩津向」
    で、「津向」と書いて”つむぎ”と読むとごく最近知った。

       碧玉産地

     『津向の文吉』は、文化7年(1810年)津向村の名主の二男に生まれ、暇と金にあか
    せた”サイコロいじり”から本職の博徒になった。
     武居村(現笛吹市八代町)の安五郎、通称・武居の吃安(どもやす)と富士川の河原
    で喧嘩出入りを繰り返した。
     嘉永元年(1848年)3月、2回目の喧嘩出入りがあり、吃安側の”助っ人”についたの
    が清水の次郎長以下、大政、子政そして森の石松だった。
     このとき、文吉が鉄砲を使ったことを代官所に咎められ、”草鞋をはいた”。この年の
    暮、故郷の津向に舞い戻った文吉は親類の密告で捕らえられ、三宅島に流罪になっ
    た。のちに、さらに遠い八丈島に移されたが明治維新の大赦令で許され明治16年(18
    83年)、73歳で亡くなった。

     これら『東海遊侠伝』の世界を静かに見守った碧玉産地脇を今も富士川が滔々と流
    れている。

6. 参考文献 

 1) 柴田 秀賢、須藤 俊男:原色鉱物岩石検索図鑑,北隆館,昭和48年
 2) 益富 壽之助:鉱物  −やさしい鉱物学 -,保育社,昭和60年
 3) 飯塚 一雄:技術史の旅,株式会社 日立製作所,昭和60年
 4) 富田 徹郎:卑弥呼と神武天皇,フジテレビ出版,1995年


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