茨城県真弓山の「大理石(寒水石)」

        茨城県真弓山の「大理石(寒水石)」

1. 初めに

   私の鉱物趣味のジャンルの1つに、「鉱物組標本」を集めることがある。「組標本」とは、
  数十種の鉱物がマス目の中に納められたもので、「ブック型標本」とも呼ばれ、考案者は
  長島乙吉氏である、と言われている。
   主に戦前(1945年以前)、当時の小学校(現在の小学校から中学校)の理科や中学校
  (現在の高校)の博物学の副教材として生徒が購入したものが多い。

   某オークションや地方の骨董市にときどき出るので、未入手のものは極力購入するよう
  にしている。
   2008年12月、千葉県の骨董市を訪れると、「組標本」が置いてあった。女店主の言い値は
  3,000円だったが、『山梨県金峰山の水晶』が欠品になっているなどの理由(難癖?)をつけ
  半額にしてもらった。
  ( 欠品は、手元にあった2008年11月のミネラル・ウオッチングで採集した金峰山の水晶で
   すぐに補充した )

     ブック型鉱物標本【2009年1月購入】

   「組標本」の鉱物種と産地の組み合わせには、『定番』ともいえるものがあり、それらの
  例を下表に示す。

 
鉱  物  種   産       地  備        考
水晶甲斐国(山梨県)金峰山黒平や水晶峠を含む
石英福島県石川郡中野 現 石川町
白雲母、黒雲母そして長石の 定番産地
瑪瑙北海道瀬棚郡利別珍古辺(ちんこべ)
名前に品がないというので
「花石」に改称

   千葉県の骨董市で入手した「組標本」の中に『茨城県久慈郡真弓山の大理石』があった。
  この産地の「大理石」は、別名「寒水石(かんすいせき)」で、「組標本」の定番の1つである。

       
           標本            ラベル【真弓山産「大理石」を含む】
              真弓山産「大理石」【2009年1月購入】

   数日後、茨城県に単身赴任していたとき懇意にしていただいた古書店の店主・Oさんから
  『寒水石を産する山』 の特集が載った資料を送っていただいた。

   これらを元に、『茨城県真弓山の大理石(寒水石)』について調べてみた。茨城県に単身
  赴任していたとき、何度となく目にした産地なのだが未だに一度も訪れていない。いつか、
  訪れてみたいと考えている。
   茨城県の単身赴任地を去って7年が過ぎようとしているのに、いつまでも心に掛けてくれ
  ている人たちがいることに感謝したい。
  ( 2009年1月調査 )

2. 産地

   常磐道を水戸から日立方面に向かい、久慈川を渡る頃、進行左手に標高300m前後の
  山々が連なる中に、採石場と思われる真っ白い岩肌が見える。

      真弓山

   もともと、「真弓山」の名は、平安時代後期に蝦夷(現在の東北地方)の反朝廷勢力を制
  圧した源義家(八幡太郎)の伝説に由来するらしい。義家が父・頼義とともに軍勢を率いて
  久慈郡にさしかかったときはまだ14歳だった。当時は、元旦ごとに1歳を加える数え方を
  し、15歳を祝うべき良い年まわり(元服)としていた。
   6月(旧暦水無月:みなづき)1日だったが、この日を元旦とし、神前に松竹を飾って義家の
  15歳を祝った。さらに、武運長久を祈っていると、炎天が一転して激しい雪なり、瞬く間に
  降り積もった。
   父子は、神慮に叶って我が軍の勝利疑いなし、と兵たちを励まし、馬たちもそれに呼応
  するかのように力強く前進した。馬が踏み固めた雪は、眩いばかりの白い「寒水石」に変わ
  った。

    「真弓山」という山の名前は、山頂にある神社に義家が戦勝を祈願し(あるいは、帰路に
   戦勝に感謝し)朱塗りの弓を奉納したので、真弓山(真弓は、弓の美称)、と呼ぶように
   なった、と伝えられている。

    このように、古い伝説をもつ真弓山で「寒水石」と呼ばれる大理石を採掘し、江戸時代
   水戸藩がこれを御用石としたことは文献にもある。
    江戸時代後期に編まれた「新編常陸国誌」の土石―金玉石土の項に、『・・寒水石・・・・
   久慈郡真弓村、多珂郡諏訪村より出る 』、と記されている。
    真弓村は現在の常陸太田市真弓町、諏訪村は日立市諏訪町のあたりで、真弓山より
   北になる。
    同書には、『・・・・・また一種あり、久慈郡の大森、瀬谷二村より出るを縞(しま)寒水石
   という 』、ともある。
    大森村は、現在の常陸太田市大森町で真弓町に隣接し、瀬谷村は真弓町の一部に
   なっている。

    いままで頻繁にでてきた「真弓山」の形と頂上がどこかはっきりしない。上の写真から
   お分かりのように、一帯には小さな峰と谷がいくつもあって、山容をとらえにくい。

出典山頂の位置標高(m) 備  考
茨城の神事
茨城県神社庁編
真弓神社329 
常陸太田市史
通史編上
 300 
国土地理院
2万5千分の1地形図
表記なし 表記なし 
角川日本地名大辞典
 
表記なし 約300 

    これらの状況から、真弓神社が建っている場所が山頂で、採石場を含む一帯の標高
   300m前後の峰峰を総称して「真弓山」と呼ぶのが妥当らしい。

3. 「寒水石」の成因と特長

 3.1 「寒水石」の成因
     「寒水石」とは、いわゆる「大理石」である。大理石の名前はご承知の読者も多いと
    思う。この石を多く産する、中国雲南省北西部の都市「大理」に由来する。

     大理石とは、マグマの熱などで石灰岩が熱変成を受け、再び結晶する(再結晶化)
    過程で方解石の集合体になったもので、正式な呼び名は「結晶質(あるいは単に晶質)
    石灰岩」である。

     真弓山を含む産地は、宮城県南部から続く阿武隈山地の南端部のうち太平洋と里川
    に挟まれた範囲にある多賀山地とも言われる。
     この地域には砂岩、泥岩、石灰岩、火山岩、凝灰岩などが変成作用を受けてできた
    種々の変成岩が広く帯状に分布している。
     これらの変成岩の元が生まれたのは、古生代の赤道付近だった。石灰岩は、堆積岩
    の一種で、炭酸カルシウム(CO3)からなる珊瑚などの死骸が海底に積もって生まれた。
     その後、プレートの移動で、現在の位置にたどり着き、地殻の隆起によって地上に出た。
    変成作用があったのは、今から約9千万年前、中生代白亜紀後期で、花崗岩の貫入
    などの火山活動などで変成作用を受け、大理石になった。

 3.2 「寒水石」の特長
     寒水石の特長は、その純白さもさることながら、薄く加工したときに透過する光の色彩
    の優雅さが挙げられる。不純物が入って青い色などの模様がでたものが先に「新編常
    陸国誌」にある「縞寒水石」とみられ、これまた珍重される。

     大理石の一銘柄といえる「寒水石」は、岩石としては柔らかく(モース硬度3)加工しや
    すい反面、花崗岩などより風雨に弱く、風化しやすいため屋外に建てる碑には向かない
    との見方もある。事実、「弘道館碑」のように、風化を防ぐため建物の中に保存してある
    ものもあるほどだ。
     表面を磨いたものは、白く輝いて美しく、また文字もはっきりしており、他の石材には
    ない趣があり、建築物として利用され続けている。

4. 「寒水石」の利用

4.1 「寒水石」採掘の歴史
     「常陸太田市史」によれば、寒水石は江戸時代初期から細工物に利用されたらしいが
    石材として本格的に利用されるようになったのは、水戸藩9代藩主・徳川斉昭の時代に
    なってかららしい。水戸藩では、産地の真弓山を『御留山(おとめやま)』、として一般
    領民が寒水石を採掘するのを許さなかった。
     明治維新になって、禁制が解かれると、建築用材にするため、小規模な採掘が始ま
    った。

     明治14年(1881年)  現在の日立市多賀町の長山佐七が本格的な採掘を始める。
                   常陸太田の町内の江幡富重がこれに続く。
     明治36年(1903年)  地元・真弓の黒沢幸造も採掘に加わる。
                   ここでは、良質な石材を採れた。
     大正 7年(1903年)  常陸太田に設立された茨城大理石株式会社が黒沢の採掘場
                   を引き継ぐ。

                    このころ、自動車や鉄道が発達していなかったので、採石場
                   からふもとまではカシの木で作った橇(そり)、その先は馬車で
                   運んだ。

                    この後、採掘者や採掘会社に多くの変遷があった。

     平成17年(2005年)  常陸太田市磯部町に本社・工場を置く常陸大理石株式会社
                  ほか1社が操業している。

 4.2 「寒水石」の利用
     江戸時代、真弓山は水戸・徳川家の領地で、水戸藩は真弓山の寒水石を御用石と
    して採掘し、藩内だけでなく全国各地の建造物に利用した。それらのうちのいくつかを
    年代順に紹介する。

    (1) 水戸光圀寄贈の寒水石手水鉢【奈良県大和郡山市・江戸前期】


 奈良県大和郡山市に、茶道石州
(せきしゅう)流の改祖・片桐石見守
貞昌が設計した茶室をもつ慈光院
がある。
 ここには、「黄門様」で知られる
水戸藩第2代藩主・徳川光圀が
寄贈したと伝えられる寒水石で作った
手水鉢がある。
        寒水石製 手水鉢
       【常陽藝文から引用】

         江戸時代前期、石州から茶の湯を学んだ水戸光圀が石見守に贈ったもので
        京都の石州の屋敷に永く置かれていたが、明治時代に屋敷が取り壊されたとき
        慈光院に移されたという。

    (2) 水戸八景碑【常陸太田市ほか・天保5年(1834年)】
        水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(なりあき)は、中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけ
       い)にならって、領内の景勝地8ケ所を選び「水戸八景」とした。選定は天保4年
       (1833年)、翌年には8ヶ所それぞれに自らが隷書体で書いた漢字4文字の景勝名
       を碑にして建てた、と伝えられる。
        それらのうち、次の3つには、寒水石が使われている。

       @ 「山寺晩鐘(やまでらばんしょう)」  常陸太田市稲木町
       A 「巌船夕照(いわふめせきしょう)」  大洗町
       B 「水門帰帆(みなときはん)」      ひたちなか市和田町

            
              「山寺晩鐘」            巌船夕照
              寒水石製 水戸八景碑【常陽藝文から引用】

    (3) 水戸弘道館碑【茨城県水戸市・天保12年(1841年)】


 水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(なりあき)
が天保12年(1841年)に開設した藩校
弘道館。ここには、斉昭が藤田東湖に
建学の趣旨をまとめさせ、寒水石に彫って
「弘道館碑」として建立した。
 現在も碑文が読み取れる状態で「八卦堂」
の中に保存されている。

        八卦堂の弘道館碑
       【常陽藝文から引用】

 4.3 絵葉書に描かれた「寒水石」
     江戸時代から採掘されている寒水石は、茨城県内のみならず広い地域の建築物に
    使われ、それらのいくつかは地元の名所として絵葉書になっている。

    (1) 偕楽園吐玉泉【茨城県水戸市・天保13年(1842年)】
         水戸藩主・斉昭が弘道館の関連施設として、『領民が皆楽しむ』ための公園』
        として、天保13年(1842年)に開設したのが「偕楽園」である。この公園内に今も
        こんこんと湧き出ている清水「吐玉泉(とぎょくせん)」の井筒に寒水石が使われ
        ている。
         寒水石の井筒は流水に浸食され40年足らずしかもたず、現在のは4代目にな
        る。開園と同時に設けられた最初の井筒は大正3年(1914年)まで72年持ったが
        これは途中で上下を逆にし、上の浸食部分を替えて私用したため持った、とも
        言われる。2代目の井筒は昭和25年(1950年)に3代目と交代、昭和62年(1987年)
        に現在の4代目となった。
         4代とも真弓山から切り出して運んできた寒水石である。2代目までは、丸い筒
        形に加工して用いていたと見られ、3代目からは切り出した巨大な塊を生かし、
        中央をくり抜いただけにしてある。ちなみに、現在のものは、幅2.5m×奥行1.6m
        ×高さ1mの塊で、重量は約10トン。

         下の「吐玉泉」を描く絵葉書は、古書店で100円で入手したもので、井筒が丸く
        宛名面の中央に仕切り線があり、大正7年(1918年)以降に発行されたものなので
        2代目である。

          偕楽園・吐玉泉【2代目】

    (2) 成田山寒水石橋【千葉県成田市・年代?】
         「常陸太田市史」によれば、江戸時代後期・文政5年(1822年)の「太田村御用
        留」という文書に、『江戸御用御橋石壱つ真弓村ニて為御取候』、とある。これは
        江戸での橋作りに必要な御用石として真弓村の寒水石を切り出した、と解釈で
        きる。この頃、橋の材料として寒水石が切り出されていたkとを示している。

         下の絵葉書は、千葉県成田市の成田山新勝寺境内にある「寒水石橋を描くも
        ので、本当に真弓山産の寒、水石を使っているのか、さらに建築年代まで調べ
        きれていないが、古そうな感じである。

          成田山・寒水石橋

5. おわりに 

 (1) 大理石の想い出

    @ 秩父鉱山
       関東周辺で大理石(結晶質石灰岩)が採集できる場所は限られているのではないだ
      ろうか。

       鉱物採集を始めて間もない今から25年ほど前、初めて埼玉県秩父鉱山を訪れた時
      大黒坑の下流で真っ白い石を発見した。これが大理石とのはじめての出会いだった。

       ”ざらめ状の白砂糖”、とでも表現すべき外観で、このような鉱物がどのようにして
      生まれたのか不思議に思ったものだ。

    A 三ツ岩岳
       すでに、私のHPで報告したように、群馬県三ツ岩岳の日本式双晶の産地の近くに
      レンズ状石灰岩が変成を受け、大理石(晶質石灰岩)になった露頭を石友に案内して
      もらったことがあった。

       地質模型をそのまま見るような露頭で、それらが崩れた大理石に隣接して珪灰石
      も採集できた。

        大理石露頭【三ツ岩岳】

    B イタリアの大理石
        日本では、大理石は一般的な建築材料ではない気がする。一方、ヨーロッパ
       特にギリシャやイタリアなどでは、彫刻や建築に広く使われている。
        「ミロのヴィーナス」などの彫刻は大理石抜きに考えられないだろう。磨き上げた
       大理石は色白の人肌を思わせる肌理の細かさを表現でき、彫刻のために生まれ
       た石材のような気がする。

        イタリアからは、大理石を切り出す採石場を描く切手が発行されているのも理解
       できる。

6. 参考文献

 1) 川口 芳広編集:常陽藝文(No264) 寒水石を産する山 常陸太田市・真弓山とその
               石材利用地,常陽藝文センター,2005年
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