和歌山県瀬戸鉛山(かなやま)考

       和歌山県瀬戸鉛山(かなやま)考

1. 初めに

   HPに「 ” Y ” のはなし」を掲載し、同じころ骨董市で入手した「瀬戸鉛山」局の
  消印を押したハガキの消印部分を「今月の採集品・観察品」に掲示した。
   アップして間もなく、奈良の石友・Yさんから一通のメールをいただいた。

   『 大兄のH.Pに和歌山県瀬戸鉛山村消印の切手が掲載されていたのを
    拝見致しまして驚きました。
     ここは私が高校卒業まで過した白浜では有りませんか! スタンプまで
    集めておられるのですね。感嘆します。    』

   切手やハガキの印面に押された「消印」は、私たち”郵便趣味”(略して「郵趣」)
  仲間(英語で、フィラティリスト)の間では、収集ジャンルの柱の1つなのですが
  Yさんにかかっては、”スタンプ”と片付けられてしまいます。
   「瀬戸鉛山」の位置を描いた地図の載った絵葉書や「瀬戸鉛山」局の消印は
  すでにいくつか入手していたが、”せとなまりやま”と読むものだとばかり思って
  いた。HPに掲載するにあたり、どのような鉱山があったのか、調べてみると
  ”かなやま”と振り仮名がしてあるではないか。
   「金山」と書いて、”かなやま”と読むのは普通だが、「鉛山」と書いて”かなやま”と
  読むのに出会ったのは初めてである。そこで、Yさんから寄せられた情報や手持の
  資料で、「瀬戸鉛山」と”かなやま”について調べてみることにした。
   「鉛山鉱山」とその周辺の歴史、風物について教えてくれたYさんに、御礼申し
  上げます。
   ( 2006年3月情報 )

2. 「瀬戸鉛山」局消印

   「瀬戸鉛山」局の消印が押されている切手は、大正15年(1926年)から昭和6年
  (1931年)に発行された新大正毛紙切手と呼ばれる、着色した繊維を漉き込んだ紙に
  印刷したものである。額面の1銭5厘は、当時のハガキの郵便料金で、赤紙(召集
  令状)にも貼られたので、「兵隊は1銭5厘で集まるが、軍馬を集めるのはもっと
  金がかかる」などとも言われた時代でもあった。

 この消印は、E欄にある半月状の部分に
縦の線があり、その形が髪を梳かす
「櫛」に似ているところから「櫛型印」と
呼ばれている。

 A欄・・・発信局名で:瀬戸鉛山
 B欄・・・日付で 2.1.15は
      昭和2年1月15日 を示す
 C欄・・・時間帯で、Y型3時間刻みで
      (后)6-9
 D欄・・・E欄と同じように「櫛」型になって
     いるのが普通だが「山歌和」と
     県名が右書きに入っている。
     珍しい!!

            「瀬戸鉛山」局消印

   このハガキが出される前の年、大正15年(1926年)12月25日に大正天皇が歿し
  当日をもって「昭和」と改元された。従って、昭和元年は12月25日から31日までの
  わずか1週間で終わってしまった。
   昭和2年は、全国民を挙げて喪に服し、新年恒例となっていた「年賀状」も極めて
  少なく、この絵葉書も当時の感覚では正月にあたる1月15日に発信されたにも
  拘わらず、”お祝い”の言葉は文面に見あたらない。

   昭和5年(1935年)に発行された「逓信六十年史」によれば、瀬戸鉛山の郵便局が
  開局したのは、明治8年(1875年)12月1日で、集配区域は、西牟婁郡鉛山村全域で
  あった。Yさんの話では、『 昭和15年(1940年)に白浜町となるまで瀬戸鉛山村と
  称してた 』、とあり町に昇格すると同時に、65年の歴史に幕を閉じたと思われる。

3. 「瀬戸鉛山」とは

   瀬戸鉛山の局名から、鉛などを採掘した鉱山があったのではないかと推測される。

 3.1 「日本鉱産誌」
    「日本鉱産誌 銅・鉛・亜鉛」の分冊を紐解いてみると、「鉛山(かなやま)鉱山」が
   記載されている。

項目         記               述備  考
位置西牟婁郡白浜町鉛山 
交通 紀勢西線白浜口駅からバスで西方6km 
地質および鉱床 第三紀の砂岩頁岩互層中の鉱脈 
鉱石 閃亜鉛鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱
方鉛鉱(少量)、石英(水晶?)
 
現況(1956年)
その他
 探鉱中(1954年)
 従業員 30名
 昭和鉱業(株)
 

   ”鉛山” と称しながら、方鉛鉱にはわざわざ”少量” と注記されているほどで、鉛は
  ほとんど採掘できなかったようです。1952年(昭和27年)に、亜鉛精鉱48トンを生産した
  のが、唯一記録に残っている。(鉛は、ゼロ)

 3.2 Yさんの情報
     大学に入るまで、ここで過ごしたYさんは、少年時代の思い出を交えて、鉛山鉱山と
    白浜町の鉱業について教えてくれた。以下、引用させていただく。

    『 江戸時代に湯崎地区で鉛を採掘していた事にちなみます。唯、貧鉱であった為か
     何回も紀州藩は採掘を奨励したようですが何時も暫くすると中断したようです。
      私達が子供の頃、「湯崎地区の山中にはマブ(間歩、砿?)と云う徳利形の穴が
     有り、落ちたら絶対に助からないので決して行っては行けない」と親からきつく
     言われていたものでした。
      狸掘りした坑道の跡が有るようです。白浜温泉には現在でも「まぶゆ、砿湯」
     (現在は牟婁の湯)と云う坑道から湧き出したらしい泉源名が残っています。

      又、私が中学生の頃(昭和35年頃?)に観光名所になっている湯崎地区の
     三段壁(さんだんべき)の近くを友人達と探検?していると四角い形をした金色の
     鉱物を見つけ、「金を見つけた!」と興奮した想い出も残っています。今になって
     思うに、パイライト(黄鉄鉱)だったのだろうと思いますが、その時は喜んだもの
     でした。

      2年前にその時の事を思い出し再訪して見たのですが、そこは観光開発され
     埋立られてしまいパイライトと思しき鉱物は、見つけられず少し残念でした。

      白浜には名前の通り石英砂からなる真白い白良浜(しららはま)と云う名前の砂浜が
     有ります。これは近くの水晶山から寺谷川を伝い流れて来た砂が溜まったものです。
     ここの砂を明治の終わり頃から大正年間迄、ガラスの原料として出荷していたよう
     です。しかしこれは紀州の高名な南方熊楠と云う博物学者が、「砂浜を売る!こんな
     事をしてはいけない」、と叱責したとも聞いています。甲州では雨宮勘解由と云うと
     皆さん御存知の様に、紀州では南方熊楠は郷土の英雄なのですが、他県の方には
     民俗学や粘菌類に興味の有る方しかご存知が無いのが残念です。

      しかしこの砂を売るという事業は結構な金を生んだようですが、ガラスの原料変更
     により大正の終りには中止になったとの事です 』

 3.3 鉛山の風物詩
     Yさんからのメールには、「鉛山の風物」を伝える次のような一文も添えられていた。

    『 蛇足、余計な御世話、無駄話乍、白浜の御土産に「鉛山煎餅」(かなやませんべい)と
     云う瓦煎餅の小型の様な御菓子が有り、そのお菓子の本社は我家の近くに有ります。
      美味い、不味いは人夫々ですが、割りと硬い煎餅であると子供心に思った事が有り
     ます。灯台元暗しで、40〜50年位食べた事が有りませんので最近の味、硬度は知りま
     せん。
      もうそろそろ、潮岬では鰹の水揚げが始まっているだろうな、と白浜の事を思い出す
     ままに筆を取りました 』

4. かなやま考

   Yさんから、追っかけて、次のようなメールがあった。

    『 普通”かなやま”と云うと「金山」か「銀山」と書きますが紀州白浜では「鉛山」と書いて
     ”かなやま”と読みます。私達土地っ子は何の不思議も無く”かなやま”と読んでいたの
     ですが云われてみると不思議ですね。
      こんな読み方を○○大兄は何処で調べられたのでしょうか?お調べになられた本に
     書かれていたのでしょうかね、将に当用外の漢字です 』

   私が、「鉛山」を”かなやま”と読めた種明かしは、上に書いた通りです。確かに、「鉛山」を
  ”かなやま”と読むのは、今回初めて知った次第です。
   私のパソコンで”KANAYAMA”と入力して、漢字変換すると、「金山」→「銀山」→
  「カナヤマ」の順で出てきますが、「鉛山」はありません。
   「金山」は、「金山沢」、「金山谷」など、金銀はじめ金属鉱物を産した地域によく見かけ
  ますが、「銀山」ですら、”かなやま”と読む実例を不肖知りません。ましや、「鉛山」に
  至っては。

5. おわりに

 (1) 『 大和の春はお水取り(2006年は、3月12日)が終わらないとやって来ない
      と云いますが、家に籠っているのもそろそろ退屈して来ました。暖かくなるのを
      首を長くして待っています。
      早く採集に行きたくてウズウズしています 』 とあった。

    皆さん、フィールドに出るのを首を長くして待っているようです。

 (2) 私も、本格的なミネラルウオッチングを前に、足腰(身体)と頭(情報)のウオーム
    アップを入念に行っています。
     フィールドで皆さんとお会いできるのを、楽しみにしています。

 (3) Yさんのメールに「白浜の珪砂」の話があったので、「日本鉱産誌」の「主として
    窯業原料となる鉱石」の分冊をペラペラとめくってみた。
    ( この分冊は興味が薄く、ほとんど読んだことがなかった )

     すると、「その他の白珪石鉱床」の章に、「万珠(まんじゅ)鉱山」があるでは
    ないか。「 栃木県塩谷郡玉生村にあり、岡田源吉氏が経営していた 」、とある。
     これは、2005年秋に、栃木県の石友・Sさん一家に案内していただいた、モット
    ラム石と紫水晶で有名な「万珠鉱山」であろう。

     まさに、「 瓢箪から駒 」 である。いろいろな情報を寄せていただいたYさんに
    改めて御礼を申し上げます。

6. 参考文献

 1) 澤本 健三編纂:逓信六十年史,逓信六十年史刊行会,昭和5年
 2) 日本鉱産誌編纂委員会編:日本鉱産誌 銅・鉛・亜鉛,東京地学協会,昭和31年
 3) 日本鉱産誌編纂委員会編:日本鉱産誌 主として窯業原料となる鉱石
                     東京地学協会,昭和25年
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