保科五無斎と川端下産 『鎌形水晶』











      保科五無斎と川端下産 『鎌形水晶』

1. 初めに

   2005年の冬は例年になく寒く、日本海側を中心に豪雪に見舞われ、その余波で
  例年なら12月でも採集ができた長野県川上村の産地も30cm近い積雪であった。
   長野県の石友・Yさんと林道近くにある湯沼鉱泉社長が開拓してくれた新産地で
  「灰鉄柘榴石」を採集して、ほうほうの態で引き上げたのは既報の通りである。
   フィールドでのミネラルウオッチングは難しいと悟り、古書店を覗くと、昭和42年(1967年)
  五無斎こと保科百助生誕百年にあたり三石勝五郎氏が五無斎の想い出を詩歌に綴った
  「詩伝・保科五無斎」という本があるのが眼に止まり、早速購入した。
   三石勝五郎氏は、明治21年(1888年)南佐久郡臼田町に生まれ、今からちょうど
  100年前の明治39年(1906年)8月、野澤中学5年生のとき、長野市にあった「保科塾」
  に学び、五無斎の素顔を目近で見た一人であった。
   著書の中には、「焼餅石」「武石」など、五無斎が発見(中央に紹介した)鉱物に因む
  詩とともに、『 鎌形水晶 』という詩があるのが眼に止まった。
   詩の内容から、川上村川端下(かわはけ)で産出した水晶で、”鎌の形をした水晶”の
  ことらしい。
   2005年6月、兵庫県の石友・Nさん夫妻を案内し川端下を訪れた時に、3cm余りの
  小さな日本式双晶を妻がズリの表面で採集した。その形が、”鎌”の形にソックリで
  あったことを思い出し、”鎌形水晶”とは、”日本式双晶”のことだと合点がいった。
   日本式双晶は”夫婦(めおと)水晶”とか”蝶形水晶(バタフライ・ツイン)”などと
  呼ばれることがあるが、”鎌形水晶”の呼び名は初めて聞いたので、まとめてみた。
   しかし、”鎌形水晶”という呼び名が、三石氏の造語なのか、五無斎はじめ当時の
  人々が呼び慣わしていたものかは判然とせず、今後の課題である。
  ( 2006年1月調査 )

2. 五無斎と三石勝五郎

  (1) 三石勝五郎氏の略歴
      簡単に、三石勝五郎氏の略歴を記す。

      明治21年(1888年)   11月25日 南佐久郡臼田町に生まれる。
      明治39年(1906年)8月 野澤中学5年生のとき長野市にあった「保科塾」に学ぶ。
      大正 2年(1913年)   早稲田大学英文学科卒業
      大正 4年(1915年)   韓国釜山日報記者となる。
      大正14年(1925年)   東京で易占業を始める。
      昭和20年(1945年)   戦災で郷里で帰農
      昭和51年(1976年)   8月19日逝去

  (2) 五無斎と三石勝五郎の出会い
      三石氏は、明治39年(1906年)8月、野澤中学5年生のとき、長野市にあった
     「保科塾」に約1ケ月学び、五無斎の謦咳に接した一人であった。

      三石氏は、「保科塾」に入る経緯を次のように書き残している。

     「 明治39年(1906年)野澤中学5年生であった。7月下旬、学期試験がすんで
      暑中休暇の始まるや、寄宿舎の舎監・高松良先生に呼ばれて一室に入った。
       『 お前は五無を知っているか 』
       『 消しゴムは知っているが、盗んだ覚えはありません 』
       先生は笑いながらに
       『 五無とは、保科五無斎のことだ。お前は五無斎に似ている。どうだ、一度
        会ってみる気はないか 』
       と勧められ、先生に連れられて長野市妻科の保科塾をたずね、初めて
      五無斎保科百助という人物を知ったのである。
       高松先生が 『 五無、この青年を頼みたい』 というや、一目見て私の
      滞在を許してくれた 」

      8月半ば過ぎに、突然五無斎が保科塾の閉鎖を決めた。その前後の様子を
     三石氏は、次のように記している。

     「 その当日は朝から出掛けて昼近く帰ってくると、フロックコートに正装して
      式場に現われ、まず勅語を奉読した。お歴々の来臨の前で、塾の経営難を
      語り、いずれ再起を願うものの如くであった。
       塾は閉鎖されたが、五無斎は教え子達に出て行けとは言わなかった。それは
      各自の考えに任せ、所謂”ニギリギン式”の現われであった。通学生達は別れを
      惜しみながら自宅に帰っていった。寄宿生はいずれも2、3日滞在して、途方に
      暮れた。私は先輩のある坊さんに勧められて一緒に県庁通りの鴻静館支店に
      移った。そして、ときどき保科塾を訪れた。閉鎖後の五無斎は、まだ後片付けの
      ため残っていたが、8月30日をもって、愈々最後の別れをした 」

       このように、その出会いは約1ケ月で、2人の生涯からみれば、一瞬ともいえる
      短いものであったが、多感な青春時代にあった三石勝五郎に少なからぬ影響を
      与え、後年このような本を書かせるに至った、と思われる。

      五無斎と三石勝五郎

3. 鎌形水晶

  (1) 鎌
       「鎌」という農具が都市部ではほとんど使われず、しかも”柄”のついた鎌しか
      見たことがないので、”鎌形”とはどんなものか、想像できない読者も多いと思う
      ので、説明しておこう。
       刃金(はがね)をつけた包丁鉄を図に示すような三日月形に鍛錬し、同時に
      ”コミ”と呼ばれる柄を付ける部分をつくり、裏側は打ち凹ませて”樋(ひ)”と称
      する溝を造る。樋は、鎌の腰を強くし曲りを防ぐ。

      鎌

       越前(今の福井県)武生で造られたいわゆる越前鎌が全国に出回るようになった
      のは、江戸中期以降のことである。しかし、越前鎌の歴史はそれより300年ほど
      さかのぼる。一説によると、京の刀匠・千代鶴国安が越前府中の武生に移り住み
      刀剣製作のかたわら片刃鎌を造ったのが始まりとされている。
       江戸中期以降は、藩の有力な財源として、積極的な助成と統制を受け、飛躍的に
      成長をとげた。
       越前鎌は武生の鎌問屋から各地の金物問屋へ卸された。別に、鎌行商人による
      行商が活発に行われ、越前鎌を広める上で大きな貢献をしたといわれる。
       この行商人のほとんどが漆かき職人だった。漆の樹皮に鎌で切り込みを入れ
      流れ出る樹液を採取する職人である。
       江戸時代、漆は漆器や武具の製造、船の塗料などに欠かせないもので、諸国で
      その栽培が奨励され、農家副業として重要な地位を占めていた。しかし、漆の採液
      期間は6月上旬から12月上旬までとされ、農繁期と重なる。このため、農地に
      恵まれない地域では、漆掻きのため、遠くへ出稼ぎすることになり、彼らは旅に
      出るとき必ず越前鎌を余分に持参し、出稼ぎ先でこれを売り広めた。
       幕末、明治期に、武生地域の出稼ぎ人は、毎年200人を超えたと伝えられる。

       このように、全国に広まった片刃鎌を使った農作業を描いた切手が日本で発行
      されている。昭和12年(1937年)に発行された「稲刈り」と呼ばれる1銭切手である。
       発売当時、稲を刈っているとされる手つきが、”麦刈り”のものだと物議をかもした
      とも伝えられている。
       ( この当時は、農村人口が50%前後を占め、農作業の実際を知っている人が
        多かったから、このような指摘も出たのであろう )

      「稲刈り」1銭切手

  (2) 『鎌形水晶』の詩
       三石氏による、『鎌形水晶』は、「赤毛布(ゲット)」と題する25編の詩の中に収め
      られている。以下、全文を引用させていただく。

      『    鎌形水晶
        千曲の源流川上の
        金峰山下霧はれて
        妻呼ぶ鹿の声も川端下(かわはけ)注)
        信玄掘った金坑の
        跡から出てきた水晶は
        鎌の形もめずらしく
        五無斎ながめて何と言いしや 』

        注) ”川端下”を”かわはげ”と濁って誤読し、地元・長野県の石友・Yさんに
           注意された事があったが、勝五郎は正しく”かわはけ”と清音で振り仮名を
           つけている。

  (3) 『鎌形水晶』とは
        『鎌形水晶』という単語を今まで見たことも聞いたこともなく、どのようなものなのか
       推理してみた。詩の内容から”鎌形水晶”は

       @ 千曲川の源流・長野県川上村にある信玄が金を掘ったとされる坑道から
         産したものらしい。
          五無斎の「長野県地学標本採集旅行記」の明治42年(1909年)5月13日の条
         にある「水晶山」であろう。
       A その形は独特で、”鎌”の形をしている。
       B 五無斎も直接”鎌形水晶”を見ていたと推測でき、五無斎が採集したもので
         ある可能性も否定できない。

        2005年6月、兵庫県の石友・Nさん夫妻を案内し川端下を訪れた時に、3cm余りの
       小さな日本式双晶を妻がズリの表面で採集した。
        その形が、”鎌”の形にソックリで、”鎌形水晶”とは、”日本式双晶”のことだと
       合点がいった。

           
           採集風景                鎌形水晶
             川端下(かわはけ)の産地と日本式双晶

       その日泊まった湯沼鉱泉の社長に見せると、小さいが『 良い(いい)もんだ 』
      と褒めてくれた。形がシンメトリーで美しい乙女鉱山など甲斐(山梨県)産の
      日本式双晶に比べ、非対称で先端が尖ったり、場合によっては六角柱・六角錐面に
      なっていたりする上、蝕像で表面に凹凸があり、肌が綺麗でないのが川端下の
      双晶の特徴だとも話してくれた。
       社長に言わせると

      『 オラほうの双晶は、こういうもんだ 』 とのことである。

4. おわりに

 (1) 日本式双晶は”夫婦(めおと)水晶”とか”蝶形水晶(バタフライ・ツイン)”などと
    呼ばれることがある。
     前者は、2つの水晶が寄り添うように仲良く並んでいる形から、黒平や金峰山
    周辺の古老が呼び習わしたといわれる。
     後者は、西洋でバタフライ・ツインと呼ばれたものがそのまま、あるいは和訳
    して蝶形水晶と呼ばれている。
     しかし、”鎌形水晶”という呼び名が、三石氏の造語なのか、五無斎はじめ
    当時の人々が呼び慣わしていたものかは、判然とせず、今後の課題である。

 (2) 神津博士が昭和12年(1937年)に岩石鉱物鉱床学誌に掲載した「水晶の日本式
    双晶に就て(T)」を読むと、次のような記述がある。

   @ 海外に於ける日本式双晶の産出
     『日本式双晶と言ふても本双晶が日本のみに限らるゝのではない。1829年に
    S.ch.WeissがDauphineのLa Gardette産の珍しき双晶を記載したが実は其れは
    日本式双晶である。其後1902年にA.Johnsenがこの双晶について記載した時には
    其産地は数へる程しか知られていなかった。1919年にR.Braunsがこの双晶に
    就いて記述した時には其産地は25ケ所であった。1928年F.Heideが日本式双晶を
    論じた時には其産地が30ヶ所以上も知られていたと記している。現在(昭和12年)
    に於いては猶一層産地の数が増して居るだらふとは容易に想像される。

   A 日本式双晶の命名
     『日本式双晶なる名称は何人によって始めて提唱されたかは吾々の手元にある
    文献によると、V.Goldschmidtである様である。彼の論文”Quartz-zwilling
    nach r=10"中の173頁の脚注に次の様に書いてある。

     Es Moge dies Gesetz als Japaner Gesetz bezeichnet werden, da Zwillinge
    von dort in grosser Zahl gekommen und in allen Sammlungen zu finden sind.
    Von anderen Funden hat man nur vereinzelte Examplare.

     若し V.Goldschmidt が命名者で此時に始めて発表したものとすれば日本式なる
    呼称は比較的近年で1905年頃である。然し日本産のこの式の双晶が欧州に知られた
    のは遥かに以前で G.Vom Rath は既に1874〜1875年に甲斐の水晶の(1122)による
    心臓形双晶を記載している。
     本図の本である実物は当時函館(Hakodadiと綴ってある)に居った Dr. Mohnicke
    から独逸に送ったもので、 Rath が他の産地の同じ双晶を呈する石英と共に研究した
    ものである。然し此種の双晶の産地は1914年頃迄は他に多く知られないので、多くの
    鉱物標本中には日本産の結晶が一般に見られるとの記載が種々の文献に記されている。
    (Klockmann,1907;Miers,1902;F.Zyndel,1914;etc)

    要するに、日本産此種双晶は既に60年以前(1874年)に、独逸で記載されたが
   日本式双晶と呼ばれるに至ったのは約30年以前(1905年)であると推られる。』

    これからすると、2005年は、「日本式双晶命名100周年」に当たっていたことになる。
    この記念すべき年に、五無斎縁の産地で縁の鉱物を採集できたことに感慨深いもの
    がある。

 (3) 神津俶祐(しゅくすけ)博士は、明治13年(1880年)、五無斎と同じ長野県北佐久郡
    (現佐久市)に生まれ、日本岩石鉱物鉱床学会や日本火山学会の設立に貢献した。
    日本の新鉱物「神津閃石」にその名を残している。
     神津博士は、造岩鉱物のX線的研究や熱的研究がご専門だったようだが、日本式
    やドフィーネ式など双晶に関する論文もいくつか残されていることも最近知った。
     これも、何かの縁なのであろうか。
   

5. 参考文献

 1)三石 勝五郎:百助生誕百年 詩伝・保科五無斎,高麗人参酒造株式会社,昭和42年
 2)益富 壽之助:鉱物 −やさしい鉱物学− ,保育社,昭和60年
 3)神津 俶祐:水晶の日本式双晶に就て(T)」,岩石鉱物鉱床学誌第17巻第1号,昭和12年
 4)日本岩石鉱物鉱床学会編:岩石鉱物鉱床学会誌 総目録
                    第1巻(昭和4年)−第42巻(昭和33年),同学会,昭和34年
 5)宮島 宏:日本の新鉱物 1934-2000,フォッサマグナミュージアム,2001年
 6)奥村 正二:小判・生糸・和鉄 −続江戸時代技術史−,岩波書店,1973年
 7)佐久教育会編:五無斎 保科百助全集 全,同会,昭和39年
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