2015年 ミネラル・ウオッチング納め 『樺阪鉱山の鉱物』











         2015年 ミネラル・ウオッチング納め
              『樺阪鉱山の鉱物』

1. はじめに

    「丹波竜」発掘現場の次にN夫妻が案内してくれたのは、兵庫県多可(たか)郡多可町加美(かみ)区
   観音寺の樺阪鉱山だった。平成の大合併前まで、加美町観音寺と呼んでいた場所だ。
    「日本産鉱物 五十音配列産地一覧表」の樺阪鉱山の項には、この産地で採集できる鉱物の筆頭
   に 『サーピエリ石』 がある。それくらい有名な産地・鉱物だ。

    産地に着くと小ぬか雨が降り、風も強かったが採集ポイントについてミネラル・ウオッチングを始めるころ
   には傘が吹き飛ばされるほど風は強かったものの雨は止んでいた。
    青色、緑色、そして白色の二次鉱物が目には入るのだが、東日本では産出が希な「サーピエリ石」が
   どれなのかが解らない。はやばやとN夫人が見本を探してくれ、それを頼りにルーペでいちいち確認しながら
   の採集だった。
    ( 2015年12月 採集 )

2. 産地

    国道427号線を北上、多可町加美区に入り、国道と並行して流れる杉原川を渡ると、道路脇には
   最近建てられたと思われる「樺阪鉱山・青倉神社」への方向・距離を示す標識が立っているので、
   初めて訪れる人には参考になるだろう。
    地図の中に、「観音寺」、「豊部」、そして「牧野」など、江戸時代にあった銅山の名前を見つけること
   ができる。

        
                   地図                            標識

    樺阪鉱山は明延鉱山などと同じく中世(16世紀)に稼行したという伝承が地元にはあるようだが、「日
   本鉱山史の研究」によれば、近世(徳川時代)初期以降に開発されたようだ。

    『 播州多可郡において元禄以前に開坑されたと思われる次の銅山がある。
      観音寺村・豊部村    樺坂・寺谷
      ・・・・・・
      ・・・・・・
      牧野新町         妙見山・金掘

      右の内、妙見山・樺坂・寺谷は、元和6年(1620年)、江戸・忠八という山師が稼ぎ、16、7年間
     盛り、寛文3年(1663年)より大阪・十時源兵衛が請けた。同8年多可郡は生野支配となり、延宝
     元年(1673年)から5年までかなり栄えたが、その後休坑となった。
      元禄初年(1688年)ごろと思われるが、大阪の者、寺谷を5か年銀50枚を以て請座を願ったが、
     却下された。
      元禄4年(1671年)江戸より山師・岩城屋長左衛門来たって検分した際、同地方の庄屋3人は
     山師稼ぎは悪水
(鉱山からの鉱毒排水)に無頓着であるとて、寺谷を5か年銀100枚の運上に出願
     したが、その結果は不明である。
      明和4年(1767年)の記録に、樺坂は元禄11年(1698年)まで丹波の井山伝右兵衛、この年より
     大阪・泉屋吉左衛門、ついで観音寺村・寺村仁右衛門が稼いだ。・・・・・・

      宝永5年(1708年)、代官の勘定所宛の伺書に、生野・明延・小畑・亀井谷・樺坂・金掘・妙見
     山の7か所は元禄15年(1702年)より稼山を許し、相応の運上を取立て、翌年に口銀
(くちぎん:鉱
     山営業税として納める銀貨)については当分山主前入用多く出銅少なきため、1分5厘〜2分を間
     歩に応じて取立てることを勘定所に経伺したが、宝永2年(1705年)出銅増加し運上高も多くなり、
     3、4年と著増したから、口銀も2分〜3分5厘取立てることを申請している。             』

      樺阪鉱山の当時の生産量がどのくらいか、宝暦12年(1762年)全国の主要銅山から大坂に送ら
     れた銅の重量から追ってみよう。

国 名(現府県名)   鉱 山 名      登     高 (重量/比率)
   (斤)   (トン)  (%)
出羽(秋田) 秋田 1,278,324 767 34.8%
出羽(山形) 永松 215,000 129 5.9%
陸奥(秋田) 尾去沢 596,000 358 16.2%
陸奥(宮城) 熊沢 20,778 12 0.6%
但馬(兵庫) 生野 397,214 238 10.8%
播磨(兵庫) 栢木(かしわぎ) 36,370 22 1.0%
勝浦 16,307 10 0.4%
樺坂 14,855余 9余 0.4%
金掘 13,025余 8余 0.4%
備中(岡山) 北方 16,164余 10余 0.4%
吉岡 91,391余 55余 2.5%
石見(島根) 笹ガ谷 67,223 40 1.8%
摂津(大阪) 多田 25,663余 15余 0.7%
伊予(愛媛) 別子・立川(たてかわ) 766,036余 460余 20.9%
紀伊(和歌山) 永野 19,398余 12余 0.5%
日向(宮崎) 延岡 99,551余 60余 2.7%
   合       計 3,673,299余 2,204余 100.0%

    樺阪の産出量は全体の0.4%とわずかだった。東北の出羽・陸奥で約2/3を占め、ついで別子が20%
   強、そして生野が10%強だった。

    【蛇足】
    全体の生産量の0.4%は、わずかで取るに足りないと思われるかもしれないがそうではないだろう。私が
   住む山梨県の人口は80万人余で、全人口の0.6%くらいで、樺阪鉱山産の銅と同じ位置づけだ。
    山梨の人口がなければ、2015年のノーベル賞を受賞した大村先生もいないことになる。そう考えると、
   マイノリティの重要さにも気づかされた2015年だった。

    戦後の樺阪鉱山の稼行状況は、「日本鉱産誌」の金・銀編と銅・鉛・亜鉛編の2冊に記述されている。
   鉱床・鉱石・品位・(1950年代の)現況などを抜き出してみる。

  地質および鉱床  鉱  石 品位および鉱床量    現況その他   出  典
第三紀石英粗面岩中の鉱脈
走向E-W,傾斜50〜60°N
主脈2条,延長1,000m
・黄銅鉱
・方鉛鉱
・閃亜鉛鉱
・磁硫鉄鉱
・石英
・Ag 400g/t
・Cu 2%
・Pb 1%
・Zn 15%
稼行中(1953)
粗鉱23t/月
(Ag 40g/t,Cu 1.7%)
高木三郎
日本鉱産誌 T-a
(金・銀編)
第三紀石英粗面岩中の鉱脈
走向E-W,傾斜60〜80°N
主脈1条,延長1,500m,幅0.2m
・黄銅鉱
・閃亜鉛鉱
・磁硫鉄鉱
平均
・Ag 400g/t
・Cu 2%
・Pb 1%
・Zn 15%
稼行中(1955)
1954年
粗鉱61t/月(Cu 0.5%)
  1t(Zn 7%)
従業員20名
東日本鉱業(株)
日本鉱産誌 T-b
(銅・鉛・亜鉛編)

    1953年と1955年の鉱山の状況を比較してみると鉱脈の主脈は1条に減り、その傾斜はきつくなり、
   延長は500mも伸びている。つまり、鉱脈が枯渇しかけてきて、深くて傾斜がきつくて条件の悪い場所を
   掘らざるを得なかったようだ。
    さらに、採掘の主体が銀から鉱価の安い銅、亜鉛に移ってきたため、採掘量を増やして売り上げの維
   持を図ったのだろう。

    当時、兵庫県、いな日本を代表する鉱山だった生野鉱山と明延鉱山の鉛・亜鉛の産出量を樺阪鉱
   山のデータがある2年間について比較してみる。

鉱山名 種類 採掘粗鉱中金属含有量(単位 t)
1952年 1953年
生野 646 682
亜鉛 5,217 5,097
明延 874 1,015
亜鉛 7,133 7,522
樺阪 0 0
亜鉛 34 14

    生野、明延の両鉱山が鉛・亜鉛あわせて6,000〜8,500トンをコンスタントに産出しているのに対して、
   樺阪鉱山は14〜34トンと規模が2桁以上違っていて、早くに閉山に追い込まれたのだろう。

3. 産状と採集方法

    N夫妻の話では、山の上の方には坑道もあるようだが、採集する場所は谷筋の広い範囲に広がって
   いるズリだ。ズリの山際には鉱山の道しるべとされるシダ類の”ヘビノネコザ”が生い茂っている。

     
                     ズリ
                【”ヘビノネコザ”が繁茂】

    ズリを掘るという方法もあるようだが、掘り出したズリ石には粘土質の土が付着していて目的の2次鉱物
   が着いていてもわからない。
    結局、青や緑の2次鉱物が付着している石の表面をルーペで観察し、標本になりそうなら新聞紙で
   包んでそのまま持ち帰り、なりそうもなければハンマーで割って新鮮な部分に出てくるか試してみる、この
   繰り返しだ。

4. 採集鉱物

    ここでは、「黄銅鉱」、「方鉛鉱」、「閃亜鉛鉱」など2次鉱物の原鉱物が観察できるのだが、全国どこ
   の産地でも見られる塊状のものがほとんどなので、やはり「サーピエリ石」などの2次鉱物が狙いだ。
    ただ、肉眼での鑑定は難しいものが多く、間違いないだろうと思われるのは、「サーピエリ石」と「青鉛鉱」
   くらいだった。

 (1) サーピエリ石【SERPIERITE:Ca(Cu,Zn)4(SO4)2(OH)6・3H2O】
      青緑色〜空青色のガラス〜真珠光沢の針状結晶が集合して産出する。肉眼や倍率が低いルー
     ペでは針状に見えるが、短冊状(細長い板状)結晶だ。
      同じような色合いで皮膜状で見られる鉱物があるがサーピエリ石なのか判断がつかず、N夫妻にサン
     プルとしていただいた”同心円状に広がった菊花状”のものを探した。これとても、結晶形は同じだが
     真っ白い色のものが隣接していて、これは単に ”3H2O” が脱水したものなのか、はたまた別鉱物なの
     か、鑑定には悩まされる。

        
                   全体                               拡大
                                 「サーピエリ石」

      サーピエリ石に似た鉱物に「デビル石」【DEVILLINE:CaCu4(SOSUB>4)2(OH)6・3H2O】があり、樺阪
    鉱山でも産出が確認されている。

      両者の化学式を比べてみると、サーピエリ石はデビル石の銅(Cu)の一部を亜鉛(Zn)で置き換えた
     だけで、Zn>Cuというわけでもなさそうだ。亜鉛が常に特定の位置を占める結晶構造なので独立した
     鉱物種として認められているようだ。

 (2) 青鉛鉱【LINARITE:PbCu(SO4)(OH)2
      濃い青色、ガラス光沢の板状結晶が集合して産出する。ジックリ観察すると”ポツ、ポツ”と結晶が
     ついたものは見られのだが、これだけたくさんの結晶がついたものは少ない。

     
                  「青鉛鉱」
                【N夫人恵与品】

5.おわりに

5.1 産業遺物
 (1) 「螺灯(らとう)」
      ズリの表面に落ちていた”サザエの殻”を拾った。N夫人から、「ここでは”牡蠣殻(かきがら)状方解
     石”が採集できる」と聞いていた。牡蠣の殻のように真っ白で薄く剥げるところからこの名が付いたよう
     うで、その層に挟まれるように黄銅鉱や方鉛鉱が産出する。

      そんなわけで、この産地の炭酸塩鉱物の(CO)3の起源は、”貝殻”ではなかろうかなどと、
     トンチンカンなことを一瞬思い浮かべてしまった。

          
               ”サザエの殻”                  ”牡蠣殻状方解石”

       この”サザエの殻”は、現物は見たことはなかったが、ものの本で読んだり写真で見ていた”螺灯
      (らとう)”と呼ばれ、江戸時代から明治中期まで使われた「照明器具」だと思い至った。
       当時、サザエの殻に魚油などを入れ、浸した燈心に火をつけて明かりとして使う方法があった。坑
      夫たちは手に手に「螺灯」を持って狭くて真っ暗な坑道を行き来し、採掘する間は坑道壁に吊るし
      たり、岩棚に置いて手元を照らした。魚油が燃えるときの臭いと煙は坑夫たちを悩ませたことだろう。

       この後訪れる予定の生野鉱山で、「螺灯」に触れる機会があろうとは夢にも思わない一行だった。

 (2) 「カラミ」
      樺阪鉱山では、鉱石を溶かして精錬までやっていた。その証拠に、鉱石を炉で溶かしたときに出る
     金属を取去って残ったガラス質の滓(かす)、カラミ(鉱滓:こうさい)がズリに落ちている。
      鉱山によっては、精錬技術が稚拙でカラミに銅分が残り、青や緑色の2次鉱物が生じていることある
     のだが、ここのカラミには見られず、精錬技術が優れていたことを示している。
      これには、樺阪鉱山の経営に大阪の泉屋吉左衛門(後の住友)が参画したことが関係しているか
     もしれない。なぜなら、泉屋は粗銅から銀や金を抽出する『南蛮絞り』の技術で財を成したことから
     もわかるように、優れた精錬技術を保持していたからだ。

       カラミにネオジム磁石のような強い磁石を近づけると吸引され、産地で見られる「磁硫鉄鉱」や
      「黄鉄鉱」起源の鉄分が入っていることを示している。

       
                  ”カラミ”
                【磁石を吸引】

       当然、精錬された銅の中にも鉄は含まれていたはずだ。私の数ある趣味の一つに古銭の収集が
      ある。
       江戸時代初期の寛永3年(1626年)から明治2年(1869年)まで250年近くにわたって鋳造され、
      庶民に最も親しまれた貨幣が「寛永通宝」だ。材質は、最初銅だったものが、時代が下るにしたが
      って銅の不足や価格高騰などで、真鍮や鉄なども併用されるようになり、全国各地で鋳造される
      ようになった。
       大阪高津新地で鋳造された寛永通宝は鋳造を開始した寛保元年(1741年)に因んで背面に
      ”元”の字が鋳込まれているので「高津背元銭」と呼ばれ、識別(鑑定)は楽だ。
       この「高津背元銭」もやはりネオジム磁石のような強い磁石を近づけると吸引され、鉄分が入って
      いることを示している。
       樺阪鉱山の銅は生野など播但の鉱山の銅と一緒に大阪に送られたので、寛永通宝に姿を変え
      ているものもあり、それを今私が手にしている可能性もある、と思うとロマンを感じる。

          
                   表                                裏
                【磁石に吸引】
                                 「高津背元銭」

 (3) 生活雑器
       樺阪鉱山は記録にある範囲だけでも元和6年(1620年)から昭和30年(1955年)まで、300年
      以上にわたって断続的にしろ稼行してきた。その間、坑夫たちとその家族がここで生活を営んでいた。

       1955年の従業員は20名の記録が残っているが、江戸時代は何人くらい働いていたのだろうか。
      宝暦12年(1762年)の銅の生産量が9トン余となっている。銅品位を2%とすると、この50倍、つまり
      450トン余の鉱石を掘り出したことになる。仮に、500トン掘り出したとする。

       一人の坑夫が一日に30センチ立法の鉱石を掘り出すとすると、比重を3.5として、その重さは、
      0.3×0.3×0.3×3.5 = 9.5 ≒ 10 キロ= 0.01トン。年間300日働くとして、500トンの鉱石を
      掘り出すためには、
       500÷300÷0.01 = 166 、つまり166人が必要となる。当然、坑道を維持管理する支柱夫、
      運搬する背負子、鉱石と屑石を選り分ける選鉱婦、精錬夫、鍛冶職人などのほかに鉱山を管理
      する人などを含めると200人を優に超えていただろう。
       仮に稼行していたのが300年余りの間の1/3の100年としても、延べ2万人が生活したことになる。
      坑夫は独り者が多かったようだが、家族を含めればこの人数はさらに増えるはずだ。

       これら多くの老若男女が生活した痕跡として、陶器やガラスの破片が落ちている。真っ先に目に
      ついたのは、肉厚のガラス製品だ。薄いピンク色で内側にバラと思われ花のレリーフが施され、女性
      が使った容器のフタのようだ。

       ガラスの色合いを見て、「ウランガラス』だろうと”ピン”と来た。ウランガラスとは、着色剤として微量
      のウランを混ぜたガラスで、黄色や緑色をしているものが多いが、微量の金を加えると、ピンク色に
      なり、”バーミューズガラス”と呼ばれている。
       1789年、ドイツの化学者クラップロートは、ピッチブレンド(閃ウラン鉱)から新しい金属元素を発
      見し、1781年に発見された新惑星・天王星(Uranus)の名をとってウラニウム(Uranium)と命名し
      た。
       1938年にドイツのハーンらが、ウランの核分裂で膨大なエネルギーを取り出せることを発見するまで
      ウランの利用法として考えられたのがガラスの着色材だった。1830年ころ、チェコ・ボヘミア地方のガラ
      ス工芸家フランツ・リーデルが初めてウランガラスを作りだしたとされている。その後、英国・フランスな
      どヨーロッパ各地で、花瓶や食器など各種のウランガラス製品が大量に作られた。1900年代には
      米国でも作られ、日本でも大正から昭和の初めにかけて大量に製造された。写真のガラス製品に
      は気泡が多いことなどから大正ころのものと思われる。

       ウランガラスの特徴は、真っ暗な中で紫外線ランプをあてると、黄〜緑色の蛍光を出すことで、
      このガラスも長波長の紫外線を当てると緑色に蛍光する。

         
                   太陽光                           紫外線
                  【ピンク色】                          【緑色】
                                  ウランガラス

6.参考文献

 1) 日本鉱産誌編纂委員会編:日本鉱産誌(BT-a)金・銀その他,東京地学協会,昭和30年
 2) 日本鉱産誌編纂委員会編:日本鉱産誌(BT-b)銅・鉛・亜鉛,東京地学協会,昭和31年
 3) 小葉田 淳:日本鉱山史の研究,岩波書店,1987年
 4) 山田慈夫:日本産鉱物 五十音配列 産地一覧表,クリスタル・ワールド,2004年
 5) 桜井 弘:元素111の新知識,講談社,2009年
 6) 松原 總:日本の鉱物,学研教育出版,2011年








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