播磨國(兵庫県)泉屋鉄山

           播磨國(兵庫県)泉屋鉄山

1. 初めに

   某オークションで入手した「播磨国泉屋鉄山札」をHPにアップして間もなく、兵庫県の石友
  Nさん夫妻から『兵庫県千種町の天児屋鉄山遺跡に行ってきました。広大な石垣が残った
  たたらの遺跡には圧倒されました。鉄滓はあちこちに落ちていました』 と写真を添えた
  メールをいただいた。

    天児屋(てんごや)鉄山跡/たたら公園【撮影:Nさん】

   天児屋鉄山のあった千種町は鳥取、岡山両県に接し、夫妻が住むところとは同じ兵庫県とは
  言え、東西の端にあたりその行動力の素早さには驚いた。また、夫妻からは千種町のたたら
  製鉄の歴史をまとめた―ちくさ鉄とその周辺―と副題がついた鳥羽 弘毅著の「たたらと村」と
  いう450ページ近い本と千種町の資料さらに天児屋(てんごや)鉄山の鉄滓を恵与いただいた。
   これらの資料を一気に読み、改めて「播磨國(兵庫県)泉屋鉄山」のページをまとめてみた。

   (1)泉屋鉄山があった千種(古くは千草)のたたら製鉄は、風土記の書かれた年代以前に
      遡る古い歴史をもっていた。泉屋は、その歴史のほんの1コマを受け持ったに過ぎない。
   (2)鉄山を請け負っていた「泉屋」とは、1つの商家だけかと思っていたが、泉屋甚兵衛
      はじめ泉屋理三郎、泉屋羽三郎そして泉屋真七郎(真七)など諸家があった。
   (3)「泉屋鉄山札」には、”5匁”2種のほか、”1匁”2種、”3分””2分””1分”など数種類
      あった。同じ額面でも、鉄山によって違ったデザインになっていた。
   (4)千草で造られた鋼(和鋼:玉鋼)は、備前(現在の岡山県)の刀工たちから珍重され
      備前長船に代表される備前の名刀として現代にも残っている。
       千草鉄と私は全く関係ないと思っていたが、我が家に伝わる室町期の備前の古刀が
      千草鉄で鍛えられた可能性が高いことを知り、これも何かの縁だと思っている。

    泉屋鉄山があった兵庫県千種町の近くには、中瀬鉱山、加保坂、夏梅鉱山、明延鉱山
   そして大身谷鉱山など魅力的な有名鉱物産地が目白押しで、これらを訪れる際に
   泉屋鉄山跡に立ち寄って見たいという気持ちがますます高まっている。
    貴重な資料を恵与いただいたNさん夫妻に厚く御礼申し上げます。
   (2005年9月調査)

2. 千草鉄(宍粟鉄)の歴史【神代〜幕末】

    兵庫県宍粟(しそう)市(旧宍粟郡)千種町でたたら製鉄が始まったのは「風土記」に
   記述が残されている7世紀中ごろまで遡ることができ、それ以前から行われていたことは
   確かであろう。
    明治になって、西洋式製鉄法が導入され鉄の価格が下落し、最後まで残っていた
   天児屋鉄山が明治18年(1885年)に閉山(一説には、明治24年)、宍粟郡内の鉄山は
   終焉を迎えた。
    千草鉄(宍粟鉄)の歴史を鳥羽 弘毅著の「たたらと村」をもとに紐解いてみたい。

 2.1 「播磨風土記」に残る鉄の産地
     風土記は和銅6年(713年)頃、元明天皇の命で、各国の地名の由来・産物・古い
    伝説などを書いて差し出した書で、現在の兵庫県分は「播磨風土記」として伝え
    られている。
     その中で、鉄を産する地域として、3ケ所が記述されている。

     (1)敷草村(千草村)
        『 桧、杉・栗・・・等生(お)ふ。鐵(まがね)を生(いだ)す。狼・熊住めり』
     (2)御方(みかた)里(一宮町)
        『 大内川・小内川・金内川  大きなるは大内と称(い)ひ、小さきは小内と
         称ひ、鐵を生すは金内と称ふ。・・・・・・』
     (3)讃容郡(さよぐん:佐用郡)
        『 鹿を放ちし山を鹿庭(かにわ)山と号(なず)く。山の四面(よも)に12の
         谷あり。皆、鐵を生す。難波豊前(なにわとよさき)の朝廷(みかど)に
         始めて進(たてまつり)き、見顕(みあらわ)しし人は別部の犬、・・・・・』

     難波の豊前の朝廷は、孝徳天皇在位の大化元年(645年)から白雉5年(654年)
    までの10年間であり、風土記が書かれた半世紀も前から製鉄が行われていた
    ことは確かである。

 2.2 中・近世の千草鉄(宍粟鉄)
     その後も、この地域では製鉄が続けられていたものと思われる。保元平治の乱
    (1156〜1159年)以降、全国は争乱の時代を迎え、それは応仁の乱(1467年)を
    経て、大阪夏の陣(1615年)で徳川幕府による全国支配が確立するまで続く。
     「下克上」に示されるように、この時代は武士だけでなく誰彼が刀剣を持ち
    刀剣・武具の需要が急増し、鉄の生産地附近に刀工たちが集落を作り居住した。
     その1つが、備前(現在の岡山県)の吉井川流域の長船(おさふね)などで
    平安時代から多くの有名な刀匠を輩出し、鎌倉時代には、わが国の作刀の
    中心地となり、以後室町時代末まで続く。
     現在、国宝や重要文化財の刀剣800振余りの半数以上が備前系といわれ
    その原料として千草鉄(宍粟鉄)の役割が大きかったことは多くの文書から
    知ることができる。明和年代(1770年ごろ)の「察刀規矩」に、『播州宍粟鉄叉
    千草鉄という・・・・・・・備前の鍛冶多く此の鉄を使う』とある。別書である天明4年
    (1784年)の「鉄山必用記事」に『播州宍粟の刃鉄(はがね)名物なり 
    ツルギに鍛冶(かぬち)て切味疾ヨシ』とある。

     子供の頃、読んだか聞いたかした「備前の刀で切られた武士が、川を渡り対岸に
    着いた途端、真っ二つになったほど切味が良かった」という話を思い出した。

 2.3 宍粟藩・天領時代の鉄山

  (1)「勤方覚書」にみる鉄山経営の実態
     関が原の戦(1600年)の軍功で播磨國の太守になった池田輝政の4男輝澄が
    元和元年(1615年)宍粟郡山崎に入り、宍粟藩が成立した。
     幕末の安政6年(1859年)、山方役所が生野代官所に提出した「勤方覚書
    (つとめがたおぼえがき)」から、寛永2年(1625年)に宍粟藩は雑木座・鉄座を設け
    鉄山支配に乗りだしたことが明らかになっている。
     しかし、池田輝澄は寛永14年(1640年)家臣騒動で領主の座を追われ、慶安2年
    (1649年)には、千草谷(千種町)ほかが幕府の直轄領になった。いわゆる天領である。
     さらに、延宝6年(1678年)領主がわずか6歳で死亡、宍粟藩は断絶。延宝7年(1679年)
    本多肥後守忠英が入封したが、3万石のうち1万石を領有し「山崎藩」が成立、残り
    2万石は天領となり、宍粟郡北部の産鉄地は先に天領となった千草谷を含め全て
    天領となり、明治維新を迎えることになる。
     この前後の鉄山経営者(請負人)、稼行年、運上銀(税)、鉄山名を一覧表に
    まとめ直してみた。

 「勤方覚書」にみる鉄山経営の歴史
    経営者
   請負人
   稼行年
   (”年”略)
  運上銀
  貫・目
  鉄  山  名  備  考
千草屋源右衛門
(初代)
寛永2〜万治2
1625〜1659
12・470+α鹿早(ししはい)・内海
広路(ひろじ)
鹿早が主
千草屋源右衛門
(二代)
万治3〜延宝6
1660〜1678
134・433+α鹿早・万ケ谷・内海
赤西(あかさい)・滝谷
野々角(ののすみ)
樅ノ木・手洗(てあらい)
鍵掛(かんかけ)
カラノ谷・溝谷
釜土の採掘も含む

寛文末期から
宍粟郡の諸鉄山を
独占請負

千草屋源右衛門
(三代)
延宝7〜元禄4
1679〜1691
10・320+α樅ノ木・因州吉川村
(現鳥取県若桜町)
   
英賀屋喜三兵衛
(あがや)
慶安2〜明暦2
1649〜1656
12・900広路・有ケ原・中ノ小屋   
英賀屋六郎兵衛承応3〜寛文10
1654〜1670
93・375阿舎利・溝谷余り鉄吹き含む
     ?万治2(?)〜寛文4
1659(?)〜1664
20・210大段(おおだん)
阿舎利・梨ノ木
寛文4年は1ケ月分
米屋五郎兵衛明暦3〜万治2
1657〜1659
1・720八条   
江戸多賀屋甫閑延宝8〜天和3
1680〜1683
上音水(かみおんずい)   
大津屋伝右衛門貞享2〜元禄2
1685〜1689
11・180赤西   
  合   計296・608+α   

     @寛永2年(1625年)以降、報告があった安政6年(1859年)までの230年余りの間
       1年間も途切れることなく鉄山の稼動は続いている。
     Aそれは、田畑に恵まれない山間部では、今でいう”雇用確保”を図り民の生活を
       安定させる上で、鉄山の稼行と製鉄に必要な炭の生産、それらの運搬に携わる
       仕事が必要であった。
     B直接鉄山・炭山からの運上銀(税)のみならず、鉄山で消費される米をはじめとする
       諸物品にかかる”小物成(こものなり)”(雑税)収入は、藩や幕府の財政に少な
       からず寄与した。

  (2)「山崎千草屋」の衰退と倒産
      このように、鉄山経営は民・領主の両方にとってメリットがあったことが長く続いた
     理由の1つであった。
      しからば、鉄山を請け負った経営者から見るとどうかといえば、「鉄山が盛んな
     ときは運上銀として利益を吸い取られ、鉄の産出が思わしくないときは自分の財産の
     持ち出し」となり、鉱山の例に漏れず、鉄山経営は楽ではなかったと思われる。
      短期間に鉄山主が交代しているのはその証しであろう。それらの中で、山崎
     千草屋は例外的に130年余り続いた大鉄山師であったが、宝暦6年(1756年)に倒産
     している。
      この原因の1つに挙げられているのが享保期の鉄価の暴落である。享保時代に
     なるとじりじりと鉄の値段が下がり、享保20年(1730年)1月には、正徳(1711〜
     1716年)期の約半値の1束=16=60kgあたり、銀30匁となっている。
      享保時代、米価が上昇し諸物価も上がったのに、なぜ鉄の値段だけが下がった
     理由は今もって明らかになっていない。その後、幕府の「米価引き上げ政策」に伴って
     鉄価も享保20年(1730年)3月には40匁、翌21年(1731年)には42匁まで急回復し
     元文元年(1736年)には55匁と享保の初め頃の値段まで回復している。
      したがって、享保期の鉄価下落だけに「山崎千草屋」の衰退と倒産を結びつける
     ことは難しい。米価引き上げに幕府が採った政策は元文元年(1736年)に「正徳の良貨を
     改悪」、悪貨を大量に造り、流通量を増やし、米価引き上げを図った。
     ( 正徳小判の金の含有率が86%、元文小判は65%である上、目方(量目)も正徳の
     73%で 金の含有量=(0.65/0.86)×0.73=0.55 つまり、半分近くに減っている )
      その結果、諸物価が高騰し、鉄山の諸設備の建設費用、職人の飯米、給銀(お給料)
     雇百姓の賃銀、運搬駄賃なども急騰した。元文2年の盆前後の賃銀を比較してみると
     次の通り、50%以上アップしている。

山方(鉄山)労働者の賃銀推移
  職  名旧賃金
(目・分)
新賃金
(目・分)
アップ率
 (%)
   備    考
大工
(村下と呼ばれる山内職人の棟梁)
1・502・30 53吹鉄10駄(1200kg)に付き
炭坂
(炭焼き)
0・751・15 53吹鉄10駄(1200kg)に付き
番子
(製鉄労働者)
1・402・10 50月63匁÷30日
鍛冶
(製鉄労働者)
0・752・10 58月30日労働

       確かに、諸物価が50%以上アップしたとはいえ、釈然としないものが残る。近世最大の
      産鉄量を誇った奥出雲(現島根県)の藩政策や鉄師(奥出雲での鉄山師の呼び名)と
      宍粟郡内の鉄山師の性格を比較してみると、その違いが歴然となり、千草屋倒産の
      理由も明らかになる。

宍粟郡と奥出雲の鉄山経営の違い
 項  目     宍粟郡     奥出雲   備    考
鉄山師(経営者)商家
(時として、投機的経営)
大水田地主・大山林地主
   (安定的経営者)
    
山林所有面積千種町総面積
  9,400町歩
大山林地主・田部家
     9,600町歩
1個人が1つの村に相当
山林の所属領主・幕府直轄原野個人所有   
水田所有面積岩野辺村石高
  870石
田部家
  820石
1個人が1つの村に相当
水田所有者への
迷惑料支払い
銀750匁(米20石相当)を
村人に支払い
不要    
鉄山・運搬労働者賃銀・扶持米を与えた雇い人所有水田の小作人小作人をたたら労働者
運搬労働者として使役

       このように、奥出雲の鉄師のたたら製鉄に必要な砂鉄・炭・米・労働力の自給率の高さ
      に比べ、これらを所有していない宍粟郡の鉄山師との大きな違いとなり、”明暗”を分けた
      と考えられる。
      ( 現代でも、借金経営の企業が倒産するのに、”○○○銀行”とも称される企業が年々
       業績を伸ばしているのに似ている )

  (3)「鳩屋孫右衛門」の鉄山経営
       宝暦6年(1756年)有ケ原鉄山と斉木(さえき)鉄山を請け負っていた山崎千草屋が
      「 源右衛門儀 借銀(今の借金)高に相成り鉄山御請負なり難き旨願い上げ奉り」と
      まだ3ケ年の年季途中で倒産した。
       後を継ぐことになったのは、須賀村の鳩屋孫右衛門であった。鳩屋はそれまで、薪炭を
      手広く扱っていたが「鉄山経営には全く知識も経験がない」ことを理由に、三日月藩
      (朏藩あるいは陣屋があった地に因み乃井野藩)の要請を再三断っていたが、遂に引き
      受けざるを得なかった。
       藩の殺し文句は「鉄山が休山すると、そこで生計を立てている村々が衰微する」で
      あった。
       宝暦7年(1757年)、鳩屋は有ケ原鉄山の請負証文を乃井野役所に提出している
      これ以降、三代孫五郎に至るまで、80年間余り宍粟郡内の諸鉄山を請負い、千草屋に
      次ぐ長期稼行したが、この間いろいろと困難な問題に遭遇した。

       @「鉄座」・・・・・幕府による鉄の統制
          老中・田沼意次が安永9年(1780年)8月、真鍮座とともに「鉄座」を11月に大坂に
         開設するという触書を出し、全国で生産する鉄を全て幕府の統制下におくことに
         なった。触書の要旨は
         1)諸国で生産した鉄・刃金・銑(ずく)は全て山元より大坂の問屋を通じて「鉄座」へ
           売り渡す。
         2)その代銀は鉄の種類により値段を定め、「鉄座」が買い入れ問屋に払う。
         3)問屋は「鉄座」が定めた値段で仲買人に売り渡し、鉄の欲しいものは仲買人より
           買う。
         4)藩が直接取引きすることを禁止。
         5)大坂の鉄問屋、仲買の人数は「鉄座」で定め、それには株札を渡す。
           問屋の口銭は、仕切り値段100目につき銀1匁、仲買人には「鉄座」売りさばき
           代銀100目に付銀2匁。

          幕府は、「鉄座」で買い取り値段を低く抑え、買い入れ問屋に売る値段との差益で
         収入増加を図り、幕府財政の建て直しの目論んだ。
          触書が出ると、「鉄座」開設前から各地の鉄山師たちから反対の声があがった。
          その理由は、
         1)地元や北国、九州に出荷したものは、直ちに現銀あるいは米・大豆・茶・塩などと
           交換し、鉄山で働く人夫たちの賃銀や食料になり、余った銀を次の仕入れに
           遣えるなど、”資金の回転”が良かった。
         2)今まで、地方で売る量が産鉄量の半分以上で、大坂へは半分以下しか出荷して
           いなかったが、それを全部大坂に出荷すると資金回収の見通しが立たず、次の
           仕入れに差し支える。
         3)鉄山師は、大坂までの運送料を余分に負担しなければならず、地方の鉄商人
           鋳物師や鍛冶屋は、大坂まで往復の運賃が加算された高い値段で買わされる。
         4)鉄座ができる前から鉄の値段が下落しはじめ、操業が成り立たなくなっていて
           この傾向が続くのを畏れた。

           田沼 意次が失脚した翌天明7年(1787)10月、7年間関係者を苦しめた「鉄座」は
          廃止された。

       A天明の大飢饉
         江戸時代260年間に長雨・旱魃・風水害・冷害・いなごなどで全国的な飢饉は30回
        あまり数えられている。それらの中で、享保・天明・天保は3大飢饉とされ、天明の
        飢饉は田沼の失脚を早めた要因の1つとされている。
         宍粟郡の村々も例外でなく、飢饉の深刻な状況が文書に残されている。
         「河崎村庄屋文書」に『御大切な農業打ち捨て』 と、農民が離村したことや農機具
        から種籾(たねもみ)まで、山崎あたりの商人に質入したことなどが残されている。
         見かねた鳩屋孫右衛門は、宍粟郡北部の雑木・鉄山付村々の百姓の食料の手配
        年貢の三分の一銀納分の立替をおこない、駄賃や日雇い賃銀の中からわずか返済
        させただけで、ほとんどが焦げ付いて”回収不能”となった。

         鉄山の名前を縁起の良い名前に改名してまでこのような悲惨な状況を打開しよう
        とした鳩屋孫右衛門の苦心の足跡が万願寺(波賀町安賀)の過去帳に残されている。
        まさに、”神仏にすがる思い”であったろう。
         ○音水山・・・・・天明6年(1786年)より、億駄荷山と改名
         ○万ケ谷山・・・寛政4年(1792年)より、万荷ケ谷と改名

       鳩屋孫五郎がいつ孫右衛門のあとをついで三代目の鉄山師になったかは明らかで
      ないが文政3年(1820年)、山方役所の役人を鉄山に案内した文書が残されており
      この年以前に相続したことは明らかだが、なぜか弟が孫右衛門を襲名している。
       文政7年(1824年)千草谷11ケ村の内の5ケ村、三方谷の12ケ村が上州館林(現群馬県)
      の領主松平右近将監の預かりになり、陣屋は刃物の町として有名な三木にあった。
       孫五郎は、松平家から銀30貫目を拝借し岩野辺村で砂鉄採集にかかった。松平家は
      鳩屋からの運上銀で利益を上げていた上、宍粟鉄を原料にした有名な三木の刃物を
      ”松平ブランド”で専売して利益を目論見、”ウインウイン”の関係だったので貸し与えた
      ものと思われる。
       ところが、天保元年(1830年)、松平家預かりの村々が天領に戻ることになり、松平家
      から借銀の残りを至急返済するように催促されたが、鳩屋は「にわかの儀にて如何とも
      仕るべき手段もこれなく」と困り果てた。このころから、鉄山請負の権利を次々に手放した
      ようである。

  (4)大茅鉄山と「生谷(いぎだに)屋」
      生谷屋武兵衛は、大茅村(岡山県西粟倉村)の御林山(天領の山林)で鉄山炭焼き稼ぎを
     願い出たのは文化6年(1809年)のことであった。岡山県にかかわる話であるが、「泉屋」が
     登場するので、書き進めることにする。
      「1ケ年およそ200坪伐り払い候つもり」と代官所に答えたところ「木を切り倒して、苗木でも
     植える積りか」と皮肉を言われながらも、「砂鉄は播州から取り寄せる。砂鉄が採れる場所が
     見つかったら拡張をお願いする」と答え、権利の確保と運上銀の節約を図ったものと思われる。
      翌文化7年(1810年)、生谷屋はいよいよ操業を開始しようしたが、早くも行き詰まり文化8年
     (1811年)「御山一式」を抵当に、泉屋から銀25貫目を借用した。その条件は、期限がきても
     返金できない場合、鉄山名義を泉屋に切り替える。名義変更しても引き続き生谷屋が運上銀
     諸掛りを支払うのであれば、鉄山操業か休山かは村方の意向にまかせる、という銀主(泉屋)に
     有利なものであった。
      生谷屋の砂鉄採掘に対して、吉野川筋の村々が反対を唱えたため砂鉄採掘もままならな
     かった。
      文化13年(1816年)8月、生谷屋は武兵衛跡(あと)弥之助の名前で「大茅山鉄山預手形之事」
     を村役人に提出した。生谷屋は息子の弥之助の代になっていたらしい。その要旨は
      @大茅山を請負ったが経営不振で同11年(1814年)には、村人の日雇賃・駄賃の支払いや
        (大茅)村が引受人(保証人)になっている方々からの借銀の返済見込みもない。
      Aそのため、この春から休山している。
      B当年から3ケ年間、鉄山所設備・道具一式を借銀返済の代わりに村方に渡すので、他に
        銀主(出資者)をさがすか村方の自由にしてもらいたい。

       これ以前の”見込みがない”と判断した時点で、泉屋は大茅山から手を引いていたと思われる。
       困った大茅村は、「村請(むらうけ)」(村の連帯責任)という形で、鉄山を稼行させたが
      相変わらず下流の村々の反対もあり、細々とした規模の製鉄であったらしく、文化14年
      (1817年)生野代官による大茅村への「年貢割付状」小物成(雑税)の部に『銀550目
      亥年(1815年)より卯年(1819年)まで5ケ年季 炭焼並に鉄山運上 去子同』と前年子年
      と同額の鉄山運上銀を上納している。

  (5)「塗師(ぬし)屋善蔵」と「中村屋利兵衛」
      樅木山(一宮町)は享保年中まで千草屋源右衛門が請負い、その後留山になっていた。
     鳩屋が文化2年(1805年)から10ケ年季で請負ったが、文化7年(1810年)には、山崎町の
     塗師屋善蔵の手に渡っている。銀主(出資者)は、大坂日吉橋の中村屋利兵衛であった。
      しかし、事が思うように運ばず、文化9年(1812年)善蔵の後見・理右衛門が中村屋の
     代人宛に「差入申一札之事」を差し出している。
      @中村屋から仕入銀が止められている。
      A2年前から支払いができていない日雇賃・米代銀10貫660目の支払いを村方衆に責め
       立てられている。
      B代人・中村屋宇兵衛にとりなしを頼んだが聞き入れてもらえない。

      村方衆からの働きかけも奏効し、「運上銀、仕入銀、村方からの借銀を世話する」ことに
     なった。その代わり、中村屋へ鉄山一式の権利を譲り、借銀の返済ができたときに権利を
     戻してもらう取り決めを結んだ。
      しかし、樅木山は休山、文化11年(1814年)の年季明けになっても、塗師屋から中村屋に
     鉄山一式が渡った様子がない。文化13年(1816年)塗師屋は山内諸設備一式を銀12貫
     500目で公文村文右衛門に譲渡した。その売った代銀の中から、村方借財分10貫200目を
     差し引いて残銀を塗師屋が受け取った。
      村方からの借銀がソックリ残っていることから、中村屋も途中で手を引いたようである。

  (5)「山崎藩・大野但見(ただみ)」と「徳久(とくさ)屋平九郎」
      「本多藩覚書」の天保12年(1841年)6月17日の条に
     『 大野但見此度永の御暇(いとま)下され候に付 鉄山引渡しの儀 徳久屋平九郎より
      曽根入江清兵衛へ引渡し御なしに相成り 不正の儀これなき様精々相心得申すべき旨
      相達し候様 元〆(締)方へ申し達し候』 とある。

      @大野但見=山崎藩と鉄山との関係
         大野但見は、天保4年(1833年)に10石10人扶持の家督を相続、天保6年(1835年)
        金穀方吟味与力 御横目格になっている。横目格は、家臣の監督・取締役で藩重役に
        重用されていたことがわかる。
         但見は、毎年2回、鉄山を公務で訪れ、数日間逗留していたことが「本多藩覚書」に
        残されており、山崎藩が鉄山経営に関与していたことを窺わせる。つまり、表向きは
        徳久屋が請負い、内々は山崎藩営であった可能性が高い。
         しからば、そのその鉄山とは、徳久屋が所有し、天保11年(1840年)正月と同年5月に
        「鉄山札」を発行している鍵掛鉄山と考えられる。
         天領という私藩の権力の及ばないところで、鉄山経営を行い藩財政を立て直そうとして
        山崎藩が採った苦肉の策であろう。なぜなら、本多氏入封当初の延宝7年(1679年)から
        藩財政は赤字続きで、大坂の豪商からの借金、領内の商人や豪商に御用金を課し
        最初は返済が約束されていたが、財政逼迫につれ永納(永久借り上げ)となり、その
        見返りに、苗字帯刀を許したり、地子(屋敷税)免除、裃・羽織・盃の下賜などを行って
        いる。
         文政11年(1828年)には家臣の俸禄を半減する「半知」を行い、その後も減俸を重ね
        下級武士は内職しなければ生活できない状態だった、と記されている。

      A大野但見「永の御暇」の理由
         但見が、山崎藩から「永の御暇」(永久追放)処分を受けた理由は、「本多藩覚書」に
        処分が公表される前日の条に「大野但見 所行御家風に相叶わず」とあるだけで
        これからは何も判らない。(家風に合わない臣が8年間も藩重役から重用されるか??)
         安政3年(1856年)、大野家は禄高は下がったものの息子が家名を復興している。
         私見ではあるが、天領での鉄山稼行が公儀(幕府)に対して憚るところがあり
        大野但見が”詰め腹”を切らされ、ほとぼりが冷めた15年後に息子に家督を継がせた
        考えるのは思い過ごしであろうか。

      B徳久屋平九郎が鉄山を引渡した理由とその後
         徳久屋はその後も鉄山請負を続け、運上銀を先納するなどのほか200両を献上し
        その功績が山崎藩に認められ天保14年(1843年)「苗字帯刀御免」とあり、これ以降
        志水姓を名乗っている。
        ( 帯刀にもランクがあり、最上位の”他所帯刀”で、何時でも何処へでも刀を差して
         でかけることができた)
         同年、百目中仕掛筒1挺、百目中長筒1挺(どちらも軍用軽砲)に玉・火薬料10両を
        添えて献納し、褒美として肴料として5両下賜されている。
         このように、藩から重要視されている商人が「此度余儀なき訳」で鉄山を取り上げ
        られる理由が見当たらない。
         鍵掛山不動尊奥の院正面の参道両側に奉納があり、右側には”徳久屋平九郎”
        左側には”志水平九郎”と銘があり、天保14年(1843年)に奉納とある。
         2年前の天保12年(1841年)に入江氏に引渡された鍵掛鉄山が徳久屋の手に戻った
        かと思わせる。

  (6)信州松本藩より職人借用依頼
      安政7年(1860年)3月末、信州松本藩の奉行・真木仁右衛門ほか2名が「鉄山の儀に付
     御当家掛り御役人に面会の上 折り入って相頼み申し度儀これあり」と山崎藩にきた。
      この月の初め、井伊大老が桜田門外で水戸浪士らに暗殺され、世情騒然としていた
     中で無理を承知の依頼であった。山崎藩は、無碍に追い返すこともできず対応に苦慮した。
      4月7日〜10日に、鉄山を案内し、「知っていることは全て話した」し、鉄山の支配人や
     職人も対応したので、これで一段落と思っていたが、4月19日になって、松本藩士からの
     「新しいことなので、聞いたことは理解したつもりだが、自信がない。職人3名貸して欲しい」
     との申し出があったがこれは断った。職人の話では、「松本藩士が持参した砂鉄は質が
     悪く、とてもよい鉄が吹けそうにない。もし、良鉄ができなければ自分達の名折れになる」と
     もっともな言い分であった。
      松本藩士は、「砂鉄が悪いと言うが、実際に鉄を吹いてもらえば、良鉄ができても
     できなくても、(国元も)納得できる」と引き下がる様子もない。山崎藩側は「当方の鉄山は
     天領であり、表向き徳久屋(二代目)になっているが、内実は藩営」で、松本藩の依頼を
     簡単に引き受ける訳にもいかない。とは言え、松本藩士が、昔たたら職人だった者と直接
     話し合うようなことになれば、さらに話は面倒になると、腹をくくり、「村下職2名、山子1名を
     100日間(往復の日数含め)」貸すことにした。
      この後の職人達の足取りや松本藩での製鉄事業については、両藩どちらにも資料が
     残されていない模様である。

      信濃での製鉄事業は、私のHP『長野県佐久町大日向鉄山の「天然磁石(磁鉄鉱)」』に
     まとめたように、1848年(嘉永元年)、諏訪の金物商人・土橋 長兵衛が南佐久郡
     大日方村(現在の佐久穂町大日方)の茂来山(大日方鉄山)から採掘した磁鉄鉱を
     原料にした製鉄事業に始まる。
      しかし、1853年(嘉永6年)に事業が失敗し、経営権は他の経営者に移され操業が
     継続された。松本藩士が、山崎藩を訪れたのは、この頃であった。1862年(文久2年)
     山火事で「高殿」(たたら製鉄所)が焼失したことによって休止した。それまでの
     全出荷量は、約300トンと推定されている。

      安政7年(1860年)に松本藩士が持参した砂鉄(磁鉄鉱)は、もしかしたら大日方鉄山の
     ものであったかも知れないし、山崎藩の職人3名が実際に鉄を吹いてデモしたのも大日方
     鉄山だった可能性も捨てきれない。

3. 泉屋と千草谷の鉄山

 3.1 泉屋の鉄山直接経営
  (1)幕末宍粟郡内鉄山の状況
     永年鉄吹きが続いたため、文化期(1800年ごろ)から炭木・砂鉄・仕入銀の調達に苦しむ
    ようになり、紛争、休山や倒産などが相次ぎ、鉄山師が目まぐるしく交代した。
     幕末世情の混乱、外国船に対する海防などで武器・武具の需要増加などを要因として
    鉄の増産要求に応えるべく、従来は銀主(出資者)として宍粟郡内の鉄山に関わりを持って
    いた大坂の鉄商・泉屋が千草谷の山々(鉄山)を直接経営することになった。

  (2)泉屋とは
     慶長(1600年)のころ、住友小次郎政友が京都市内で「富士屋」と称して書籍、鉄
    薬種を商っていた。姉は京都五条の銅商・蘇我理右衛門に嫁いだ。
     養子に迎えた蘇我理右衛門の次男・友以は理兵衛と呼ばれ、政友の娘を娶り実家の
    屋号「泉屋」を称して銅の吹屋(精錬)及び販売を業とした。
     寛永7年(1640年)大阪に移り、淡路町に本店を構え、内淡路町に吹所(精錬所)を
    設け、手広く銅業を営み、繁昌した。
     この友以が住友家第2代、銅商・泉屋の祖である。当時全国の鉱山から産する粗銅の
    中には、僅かながら金・銀が含まれていた。これを単なる銅として国内で使い、外国に
    輸出していた。外国では、この銅を精錬し金銀を回収し、莫大な利益をあげていた。
     天正19年(1591年)「白水」という南蛮人が泉州(現在の大阪)堺に来た時に
    蘇我理右衛門は銅から金銀を吹き分ける方法を学び、これは、泉屋の秘伝となった。

     ”いずみ”であれば、”和泉國”にあるように”和泉”と書くのが普通であるが、”白水”の
    恩に感じて、”白”+”水”で”泉”としたとされる。

 3.2 泉屋鉄山の盛衰
     住友の分家・泉屋理助家は初代友房が鉄商を営み、因州(現鳥取県)、雲州(現島根県)
    御用達として、その地でも鉄山に関係していたようである。
     宍粟郡内では「泉屋」という1つの商家が全ての鉄山を経営したとばかり思い込んでいたが
    Nさんにいただいた「たたらと村」を読むと、いくつかの「泉屋」が並存していたことが判った。
     それら諸家の関係がわかりやすいように、私なりに表にまとめて見た。

                        泉屋鉄山主の系譜
           

     これから、宍粟郡で鉄山に関係した泉屋を名乗る家には4つの系統があり、5人の人物の
    足跡を「たたらと村」から読み取ることができる。なぜ、このように多くの「泉屋」が並立した
    のかを理解するためには、 「泉屋(住友)」の雇用制度、職制などを知っておくと判りやすい。

   (1)住友の雇用制度
      住友の修史室報の「宝暦・明和期(1750〜70年)の住友の店員について」他によれば
      @奉公に上がると「子供」と呼ばれ、子飼いの奉公人。
      A16〜21歳で”元服”すると「手代」となり、幼名を改め、どこかの部署を受け持つ。
      B相当の年数を無事に勤め上げると、主人(住友本家)から休息を申し渡され
        ”家督銀”を渡され、別家を興す事を許される。
      C手代の中から選ばれた者が「支配役」となる。
      D大人になって奉公した、いわゆる”中途採用者”を”中年奉公”といい、勤めぶりに
        よっては、子飼いと同等の待遇が与えられた。
      E大きな商家にあった「番頭」という職位は住友にはなかった。
        ( 死後追贈されることはあったらしい)
      F住友の分(本)家の当主の名前には”理三郎”のように”理”を使うが、これとて
        例外がないわけではない。

   (2)住友の職制
       鉄山と銅山は同じ鉱山稼業で、その職制も似ていたと思われ、別子銅山の職制を
      参考に掲げておく。銅山の従業員は奉公人と稼人に大別できる。
       これは、戦後しばらくの時期まで、大企業等で、”社員”と”工員”の身分制が残って
      いたのと同じであろう。

       奉公人・・・・・・・・山師家内と呼ばれる店員。大坂から派遣されたものと現地採用の
                 者があり、現地採用者には「手代」として「籍貫」に入れられるものと
                 「中間(なかま)」という補助員のような者があり、中間のうちから
                 手代格に取り立てられる者もあった。
       稼人・・・・・・・・・・採鉱・精錬・運搬などに携わる現業員。

      これらから、”理三郎”は住友の分家と思われるが、それ以外は、大坂・泉屋理助の手代
     であったと思われる。
      以下、諸家の足取りを追ってみたい。

   (3)泉屋甚兵衛
       泉屋甚兵衛は、住友本家9代住友甚兵衛友聞がでてくるが、友聞は理三郎の義父に
      あたり時代的に合わない。
       甚兵衛の事跡として、残されているのは、慶安3年(1650年)から26年間、宍粟藩の
      小物成(雑税)の記録である「年々鉄山白箸雑木分一運上」にある次の1件だけである。

      『 慶安3寅年分
             銀1貫718目    雑木白箸分一運上
                            泉屋甚兵衛請 』

        これは、炭を焼くための雑木林を泉屋が請負ったと思われる。すでに、このころから
       泉屋は、資金の提供だけであったかも知れないが、鉄山経営に関与していることが
       窺われる。

   (4)泉屋羽三郎
       甚兵衛のあと、泉屋が登場するのは、80年あまり後の天保3年(1832年)である。
      西河内村甚五郎ほか5名が泉屋羽三郎宛に出した「預かり申す銀子のこと」という
      借用証文が残されている。

      『 貴殿御請負鉄山御運上手当銀の内 前書きの銀子(318匁6分4厘)・・・・・』

       これによると、遅くとも天保3年(1832年)には、泉屋が鉄山経営(請負)に乗り出して
      いたことが判る。鉄山名は書かれていないが、長永寺(浄土真宗:千種町)に残る羽三郎
      の母・おとせの過去帳に記載されている天小(児)屋山と思われる。

      『 大坂泉屋手代羽三郎為母也 天小屋元場 引受人
         速徳院妙照日脱霊     文久元(1861年)酉    おとせ
                              5月28日    行年74才
        右は、山崎町法花宗明証寺且帳にこれある人にて真七郎殿より当寺に改寺に参り
        拙寺28日に登山いたし・・・・・・・・・。
        手代万助上り物 白米2升 札6匁  上々縞袷木綿少々・・・・・・・  』

         山崎町にあった羽三郎の菩提寺は、住友家が信仰していた法華宗であった。
        このことから、羽三郎の父の代(それ以前)から「泉屋」と関わりがあったと思われる。
         母が亡くなったとき、息子の羽三郎は生存していたことが明らかなので、宗門改め
        が厳格であった当時、母の「改寺」という大事なことを依頼するのに、何故羽三郎
        自身が寺に来なかったのか私には腑に落ちなかった。
         しかし、このとき、羽三郎が商用で大坂・泉屋など遠方におり、羽三郎の下で
        働いていた真七郎(後述)が代理で来たと考えると素直に了解できる。ただ、この
        2ケ月余り後に、真七郎自身が死ぬとは、神ならぬ身、知る由もなかったろう。
         泉屋の手代・万助が持参した”上り物”(供物)の中に、”札6匁”とあるのは
        鉄山札のことで通貨と同等に、一般に受け入れられていたことが窺える。
         6匁という”半端な金額は、””6文銭”にちなんで、”銀1匁札”を6枚供えたもの
        であろう。

         羽三郎に関する事跡を拾ってみる。
        ○万延元年(1860年)    大茅村が立木を抵当に羽三郎から銀500目借用
        ○慶応元年(1865年)    西河内村の百姓が砂鉄採掘し、天児屋の羽三郎に売る。
        ○慶応2年(1866年)     万延元年の借銀が元利合計銀960目余りになり
                         年貢も納められない大茅村が立木を羽三郎に売却
        ○慶応4年・明治元年    三室山を請負っていた羽三郎が生野代官所に
              (1868年)     1,000両拝借を嘆願

         嘆願書には、凶作で地元で米が買えず、物価も高騰し鉄山経営の出費が嵩み
        休山したいが、そうするとその日から山内に生計の基盤をおく人々が飢え死にする
        と苦衷を訴えている。これには、西河内村役人も連署しており、事の深刻さが読み
        取れる。

       『 ・・・・当年の儀は稀なる凶作、土地にて穀物買入れ仕り候儀相なり申さず・・・・・・ 
        近年諸色高値につき、入用のみ相嵩み・・・・・・・当暮穀物買い入れ必至と差しつまり
        ・・・・・・休山も仕るべき処、さ候ては山内一統の者、其日より飢命に及び・・・・・・   』

   (5)泉屋真七(新七または真七郎)

     1)真七の出自
       生年、没年がはっきり読み取れたのは、初代泉屋真七だけである。住友家関係の
      久本寺(大阪市南区)の祖師堂の「住友番頭衆諸霊位牌写」の中に次のようにある。

       『 文久元酉年(1861年)7月17日
         忠正院道義日晴    初代真七

         明治28年(1895年)1月1日
         真正院晴富日道    二代真七   』

      また、千種町西蓮寺(浄土宗)の過去帳に、初代真七と同じ戒名で次のようにある。

       『 天児屋山  三嶋真七事 行年68才  山崎妙性寺  導師当山寺檀ノ勤故印置 』

       真七の苗字は三嶋(三嶌)で、羽三郎が請負人になっていた天児屋鉄山に勤めていた
      ことになる。同じ西蓮寺の過去帳に三嶋真七の出自(出身)を示す手がかりがあった。

       『 天保5午年(1834年)3月27日
         光誉照山信士     雲州能義郡安来町
         西方町旦那 頼み状来り引導ス    大茅山元場  真七弟 』

       西蓮寺の墓地に、同じ戒名で『雲陽安木産 俗名三嶌権六良』の墓石とあり、故人の
      名前が権六良であったことがわかる。さらに、このときの大茅山の元場(山元支配人)が
      真七であったことも判り、泉屋が請負っていたことになる。
        真七の弟が大茅山の元場であったと解釈できないことはないが、戒名の格など
      からその可能性は低い。また、真七は雲州能義郡安来町の出身であることが判る。
       私見ではあるが、真七は現在でも砂鉄採掘作業が元になったとされる”安来節”や
      ”安来ハガネ”で有名な雲州(現島根県)安来町で鉄山稼業に従事していた家の七男に
      生まれ、雲州藩の御用商人として出入りしていた泉屋が本格的に宍粟郡で鉄山経営に
      乗り出すにあたり、請われて移ったものと思われる。兄(弟ではない)権六良(六男で
      真七の兄)も相前後して移ったが真七が41才の時、死亡したと思われる。
       真七親子2代が「住友番頭衆諸霊位牌写」の中に名前を記録され、これから述べる様に
      鉄山札に名前を記し、数々の石造物を残しているのは大坂から派遣された形、現在の
      ”本社採用”だったからではないだろうか。

     2)泉屋鉄山札
        「泉屋鉄山札」には、”5匁”2種のほか、”1匁”2種、”3分””2分””1分”など数種類
       あった。
        下の”一匁札”には、「堀 作次」と並んで「三嶌 真七」が裏書した形になっている。
        これがどこで発行されたものかは、鉄山札から読み取ることはできない。この後
       高羅鉄山で発行されたものには、鉄山名や引受人(共同出資者)の名前が入っている
       ことから、これは泉屋が初めて鉄山経営に当った、天児屋鉄山のものと思われる。
       ( 泉屋の鉄山は1つしかないので、鉄山名を入れる必要性がなかった)
        また、”鉄山元場”の上に”井(いげた)”の印がある。著者の鳥羽氏は、鉄山札の
       引受人の井筒屋であるとされているが、そうだとすると、「堀 作次」は井筒屋の関係者
       であろう。
        私見では、”井”は、住友が販売する超硬合金の商品名が”イゲタロイ”であったように
       単に住友(=泉屋)の”商標”を入れたのではないかと考えている。
    

        泉屋一匁鉄山札【たたらと村より引用】

     3)荒尾(あろう)鉄山
        荒尾鉄山跡入口附近にお地蔵様を彫った供養碑がある。その碑文は、次の通り
       である。

       『 嘉永2酉年(1849年)7月24日
         大願人    大坂泉屋
                  曽(曾)根紀ノ国屋
         発起人    山奉行安兵衛
         人足合力   山内中            』

        願主として「泉屋」と「紀ノ国屋」が並んでおり、荒尾鉄山は、紀ノ国屋の出資を仰ぎ
       共同経営となっていた。これ以降も、有力商人との共同経営や資金援助を仰ぐ例が
       みられ、幕末の鉄山経営環境の厳しさを窺い知ることができる。
        「大坂泉屋」とあるが、実際は支配を任されていた羽三郎か真七であろう。

     4)畳道供養碑
        真七は高羅鉄山を(も)任されていたのか、安政元年(1854年)、鉄山の荷物を運ぶ
       牛負い衆の通行困難な泥濘む道に石畳を敷く改修工事を行い、その完成時に安全を
       祈願して「畳道供養碑」を建てた。
        Nさんから送っていただいた写真を見ると、今は何もない田んぼの中にポツンと建って
       いるが、往時はひっきりなしに通る牛馬を見守っていたことであろう。

        畳道供養碑【撮影:Nさん】

        碑文には、次のようにある。
       『 南無妙法蓮華経 畳道供養 
         施主     高羅鉄山勘定場
         発起     泉屋真七郎
         安政元年卯年寅年季冬吉晨
         東河内村建立             』

     5)高羅鉄山札
        高羅鉄山札3種が掲載されているが、額面は”匁”の1/10にあたる”分”である。
       これには相仕(あいし:共同出資者)・井筒屋七兵衛の名前が、大きく書かれている。
        井筒屋は石原姓で(堀ではない)、千草町で酒造業を営む傍ら、岩野辺村民に
       炭焼きをさせそれを販売したり、因州(現鳥取県)からの板・小豆などまで手広く
       扱った商人であった。
        このころになると、泉屋の資金繰りも苦しくなり、地元千草町の有力商人から資金
       援助を受けていたようである。

        高羅鉄山札【たたらと村より引用】

   (6)泉屋理三郎
       理三郎は、名前に”理”がついていることからも解る通り、毛並みの良い出自だが
      短命で、理三郎家は彼1代で絶えている。
       理三郎友敬は、京都中島利助の4子で、住友本家の9代・住友甚兵衛友聞の
      娘・寧と結婚、嘉永6年(1853年)に分家した。以来、宍粟郡公文村の樅木山を
      稼行、安政4年(1857年)休山、翌安政5年(1858年)に亡くなっている。
       したがって、直接鉄山経営に携わったのは3、4年しかなく、目覚しい足跡を
      全く残していない。

4. 明治以降の鉄山

 4.1 鉄山経営の推移
     明治に入り、泉屋羽三郎が生野役所に1,000円の借用を願い出るなど、鉄山経営を
    取り巻く環境は、益々厳しさを加えていた。そういう中でも、地域の振興を図る上で
    鉄山稼行には強い期待が寄せられ、それを受けた形で、鉄山稼行にチャレンジする
    ものも後を絶たなかった。

   (1)大茅村永昌山
       明治6年(1874年)、東粟倉村の木曽吉太郎が大茅村百姓惣代・宮崎定右衛門と
      連署で北条県参事・淵辺高照宛に提出した「奉願上諸請稼并大鍛冶之事」を示す。

      『 1.鈩        1ケ所
        1.大鍛冶     2軒
        右請け負い稼ぎ御採用なし下しなされたく候。・・・・・・・・・・・・・ 
        ・・・深山にて是まで古杉残り木に相成りおり候分まで、相応の値段にて炭用木に
        相成り申すべく、かつ土地柄雪国につき冬春中農業出来ざる時分、樵夫炭焼き
        諸荷物運搬賃持ち稼ぎ、女は縄ない莚(むしろ)打ち鉄包み菰(こも)など仕りたく
        実に近傍貧民のため・・・・・・・・・                              』

        木曽の願いは、100年以上前の宝暦期に「鳩屋孫右衛門」に対して、三日月藩が
       申し述べたと同じ、”村民救済”であった。
 

        こうして開鉱したが、経営は行き詰まり、鉄山一式を鳥取県に寄留していた河野某
       に売却、彼は伊予國保川貞次郎に転売した。明治9年(1877年)保川が永昌山の
       操業許可の願書とともに提出した「砂利踏鞴目論見(もくろみ)」が残されている。
        これによると、4200駄の砂鉄を採掘、35回のたたら製鉄操業で、利益が675円70銭
       得られる見通しであった。

   (2)鉄山借区切替願に川筋村々の反対
        明治12年(1879年)、鉄価が上昇、砂鉄採掘山のある村々は活気づいた。中には
       操業期限(従来から、秋の彼岸〜春の彼岸まで)を守らない稼人も出てきた。
        稼人の中には、小倉某のように、旧暦の3月15日にあたる4月20日までは操業しても
       よい筈だ、など明治5年(1873年)の太陽暦採用を逆手にとって、”屁理屈”を言い出す
       者まで出てくる始末であった。(この年の春の彼岸は、3月17日)
        翌明治13年(1880年)も鉄価は引き続き好調であったが、9月15日、「稀代の洪水」が
       おき、吉野川流域の村々が災害を受け、休山を求める声があがった。請負人・小倉が
       提出した「鉄山借区継続願」に下流の村々は合意の判を押さなかった。いろいろな
       経緯があり、請負人・小倉は従来どおり操業させるよう津山の裁判所に今でいう
       ”地位保全”を申し立てた。裁判所は、「新規の開坑でなく、先年からの継続だから
       異議なく調印するよう御勘解(和議勧告)があった。これは、小倉の言い分を認めた
       ものであり、時代(国)の要請でもあった。

        先に、「大茅鉄山と生谷屋」の項で述べたように、吉野川流域の鉄山操業反対で
       鉄山主は、砂鉄の入手に苦労してたが、世が明治になり、「殖産振興・富国強兵」の
       旗印の下、”多少の不都合があっても我慢しろ”という姿勢に変わってきた。
        それは、明治5年(1873年)の布達によく表れている。

        『 鉱山稼ぎの儀は、国中廉立ちたる産業にて、世間必需の物品に候えば・・・・・・
         濁水故障など彼是旧弊もこれあり、畢竟(ひっきょう:つまり)自己の勝手のみ
         申し立て・・・・・・・・・・・・自今右様の故障申し立てず、互いに国産盛大に相成り候を
         心掛け申すべし』

         国の環境行政に対するこの姿勢は、足尾銅山はじめ多くの鉱害を黙殺し続け
       現在問題になっているアスベスト問題も根っこにあるものは同じと思われる。

 4.2 宍粟郡内のたたらの終焉
      鉄価は明治15年(1883年)ごろから下落し始め、『当村鉄山稼ぎ方 活計相立たず候』
     という村々が増え続けた。
      河内村三室鉄山の全戸が明治15年(1883年)から6年間に岡山県に移住するなど
     まだたたら製鉄が続いていた土地だけでなく、生野・明延・神子畑などの鉱山へ移住した
     人々も多かった。
      明治15年(1883年)宍粟郡内の諸鉄山が閉山、最後まで残っていた天児屋鉄山も
     明治18年(1886年)閉山、宍粟郡内のたたら製鉄は終わった。

 4.3 たたらの終焉のその後
   (1)中国製鉄株式会社
       大正5年(1916年)、大坂の中国製鉄株式会社が「千種村内に製鉄工場を建設致したく」
      との請願書を村長に提出し、村会もこの申し出を意見書を付け決議した。
       しかし、その後一向に工場が建設される気配もなく、この話は立ち消えになった。

   (2)太平洋戦争中の鉄滓供出
       たたら製鉄で”カス”として捨てられていた金糞(鉄滓)の中に、鉄分が30%残って
      いる。戦局が悪化をたどり、銅、鉄などの供出が始まり、昭和18年(1943年)1月
      千種村長から各区長に「日鉄・広畑が村内に埋蔵されている鉄鉱に着眼し、発掘を
      希望している。就いては、打ち合わせたし」との案内が送られた。
       これ以降、昭和20年(1945年)8月の敗戦まで、毎日、トラックで2〜4台の鉄滓を
      送った。
       供出を免れた(?)貴重な”鉄滓”をNさん夫妻からいただいた。

       鉄滓【採集:Nさん】

5. おわりに

 (1)某オークションで入手した1枚の「播磨国泉屋鉄山札」から、播磨國(兵庫県)宍粟郡に
   あった鉄山の歴史を文献で調査することが出来た。
    鳥羽 弘毅著の「たたらと村」に引用されている古文書やデーターについて著者と
   見解の違う個所もあるが、このHPがまとめられたのはこの本に負うところが大きく
   著者に感謝いたします。
    さらに、この本や鉄滓など、貴重な資料を恵与いただいたNさん夫妻に厚く御礼申し
   上げます。

 (2)千種(古くは千草)のたたら製鉄は、記録に残されているだけでも7世紀から明治初期まで
    1200年以上の歴史があり、「泉屋」は、その歴史のほんの1コマを受け持ったに過ぎない
    ことがわかった。
     それぞれの時代背景、厳しい自然環境を乗り越えて、たたら製鉄が脈々と伝えられ
    これと同じ原理で造られた鋼が、現在世界の電気カミソリ刃の80%以上に使われている
    ことを知ると、「日本の生産技術」の底力には自信を与えられる。

 (3)鉄山を請け負っていた「泉屋」の雇用制度や職制は、今でも充分通用する部分が多く
    優れたシステムで、老舗の強みの1つがここにあったと改めて感心する。
     「鉄山札」については、取り上げるスペースが少なかったが、これについては
    別な機会に、と考えている。

 (4)「鉄山経営目論見書」を見ると、利益率は25%を超えているにも拘わらず、結果としては
    ほとんどの鉄山が休山や倒産に追い込まれている。
     何が目論見から外れたのかなどを研究するのも面白そうである。
     鉱山の経営では『1に市価、2に探鉱、3、4がなくて・・・・・』といわれるが、単に
    鉄の価格が下がっただけとも思えない。また、「たたら製鉄」の原理、操業の流れなども
    HPにまとめて見たいと思っている。

 (5)千草鉄と私は全く関係ないと思っていたが、我が家に伝わる室町期の備前の古刀が
    千草鉄で鍛えられた可能性が高いことを知り、これも何かの縁だと思っている。
   泉屋鉄山があった兵庫県千種町の近くには、中瀬鉱山、加保坂、夏梅鉱山、明延鉱山
   そして大身谷鉱山など魅力的な有名鉱物産地が目白押しで、これらを訪れる際に
   泉屋鉄山跡に立ち寄って見たいという気持ちがますます高まっている。

6. 参考文献

1)平塚 正俊編:別子開坑二百五十年史話,株式会社住友本社,昭和16年
2)日本貨幣商組合編:日本貨幣カタログ,同組合,1997年
3)神坂 次郎:今昔おかね物語,新潮文庫,平成6年
4)美鈴ハサミ株式会社HP:播州刃物の歴史 http://www.misuzu-hasami.co.jp/banshuu.html
5)鳥羽 弘毅:たたらと村 ― 千草鉄とその周辺 ― ,千種町教育委員会,1997年
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