2015年 ミネラル・ウオッチング納め 『生野鉱山の鉱物』











         2015年 ミネラル・ウオッチング納め
              『生野鉱山の鉱物』

1. はじめに

    初日の最後にN夫妻が案内してくれたのは、日本を代表する銀山だった生野鉱山だった。ここを初めて
   訪れたのもN夫妻に案内してもらった2003年11月だった。

    ・ 兵庫県生野町生野銀山の鉱物
     ( Minerals of Ikuno Silver Mine , Ikuno Town , Hyogo Pref.)

    12年ぶりに訪れるにあたって、次のような期待を胸に秘めていた。

     @ 生野鉱山でミネラル・ウオッチング
        オークションに、「生野鉱山金香瀬産蛍石」がでていた。小さいが自形結晶で、紫外線を当て
       ると強く青色に蛍光するするもので、ぜひとも手に入れたいと思っていた。
     A 和田標本との再会
        12年前に訪れたとき、「生野鉱物館」には、和田 維四郎が収集した標本をはじめ4,500点の
       収蔵品の内、1,500点が展示してあり、世界的にも有名な三菱ミネラルコレクションの展示場所
       の一つだった。
        乙女鉱山産の両翼40センチはる巨大な日本式双晶をはじめ、私が住む山梨県産のすばら
       しい標本がこれでもか、これでもかというくらい並んでいた。
        これらを越える標本の採集は無理にしても、この12年間で私のコレクションがどれだけ近づけたか
       を確かめるためにも、もう一度見直してみたかった。

     ( 2015年12月 訪問 )

2. 場所

    樺阪鉱山から播但道と並行して走る国道312号線に出て北上。生野峠を下ると生野の町だ。生野
   駅を過ぎてすぐの「口銀谷」交差点を右折し、「生野銀山」の標識に従って4キロも進むと観光施設が
   出迎えてくれる。

3. 史跡「生野銀山」

    「生野鉱物館」前に駐車し、正門に戻ると菊の紋章がついた門柱がある。この門は、明治9年
   (1976年)製鉱所の正門として設置され、その後ここに移設され。

       
                全景                              記念写真
                             史跡「生野銀山」

    最近買って読んだ「日本の鉱山を巡る」によると、この正門はお雇い外国人・コワニエ(フランス人)が
   築造させたもので、門柱はインチの寸法単位で設計されているらしい。翌日、明延鉱山を訪れたが、
   ここでもコワニエの名を聞くことになる。
    寸法を確認しようとメジャーを持参するつもりだったが、忘れてしまった。12年前に見たときには気づか
   なかったが、門柱の石材が剥離していた。大谷石で作られているようだが、雪が多いここでは、寒暖の
   差で層状に剥離してしまうようで、早目の対策が望まれる。

    史跡「生野銀山」の地図が載ったパンフをいただいたので引用させてもらう。

    
                  史跡「生野銀山」マップ

    施設内には、「鉱山資料館」、「吹屋資料館」、そして金香瀬(かながせ)坑道を利用した「観光
   坑道」があるが、これらは12年前に見たのとあまり変わっていないようなので、観光坑道を抜けた先の
   「金香瀬(かながせ)旧坑 露頭群」へと急ぐ。

    往年の生野銀山の採掘跡が理解しやすいように、Nさんからいただいた「兵庫自然史ハイキング」の
   コピーの図に加筆してみた。

    
                 「金香瀬旧坑露頭群」マップ

    観光坑道を抜けた先には大谷川沿いに遊歩道が整備されている。その両側には岩壁が迫り、その
   ところどころに穴(坑口)や露天掘跡を観察できる。鉱脈が何条もあったことを知る。

    大谷川を渡った場所に立つと、左から右に、慶寿露天掘跡、下川戸坑口、そして慶寿掘切のパノ
   ラマが一望できる。

    
         慶寿露天掘跡           下川戸坑口            慶寿掘切

    慶寿露天掘跡と慶寿掘切は大谷川で分断された一つの鉱脈を掘った跡だということが現地に立っ
   てみるとスンナリと理解できるはずだ。
    堀切を見上げると、同じ三菱系の鉱山でもある佐渡金山のシンボルにもなっている『道遊の割戸
   (どうゆうのわれと)』を連想させられるのは、私だけではあるまい。

    
              佐渡金山 『道遊の割戸』 絵葉書

    堀切の左側に、坑夫がタガネと鎚で刻んだ「線刻」が残されている。何が刻んであるのか私には判断
   できかねたが、説明板には”仏像?”とある。

    
                 「線刻」

    さて、ここでミネラル・ウオッチングをと思ったのだが、ズリと表記のあるあたりは無論、それ以外のところ
   にも鉱石らしいものは極めて少ない。生野鉱山はもともと金銀山だったので、鉱物は白い石英脈に伴
   うはずだが、石英そのものが少ないのだ。たまにあったとしても、”綺麗すぎる石英”で、金銀などの鉱物
   噛んでいそうもないものばかりだった。

   【後日談】
    2日目の夜、Nさん宅に泊めていただいたときに、昔むかし、生野鉱山で採集したという標本をいくつ
   か恵与いただいた。
    ひとつは、念願だった「蛍石」で、もう一つは「閃亜鉛鉱」だった。「蛍石」は小さな水晶を伴う石英
   の晶洞の中に、小さいながら六面体の自形結晶を示している。念のため、紫外線を照射してみたが
   蛍光しないタイプのものだった。
    「閃亜鉛鉱」は手に持つと”ズシリ”と重く、ルーペで観察すると、「方鉛鉱」や「黄銅鉱」も混じって
   いるから、たぶん銀も含まれていて、生野鉱山の代表的な鉱石だ。

       
                  「蛍石」                     「閃亜鉛鉱・方鉛鉱・黄銅鉱」
                               【N夫妻恵与品】

    帰宅後、生野銀山でもらった各種パンフを読み返していると、その中の一つに【体験コーナー】で、
   次のような体験ができるとあった。

    ・ 金・銀・錫と天然石のすくい採り
      600円だったかを払って30分間の間に水槽の中からパンニング皿で採集し、持ち帰ることができる。

      
               金・銀・錫すくい採り

    ・ ○○○での鉱石採集(10名以上・要予約)
      ここに行けば、ミネラル・ウオッチングできそうだったが、後の祭りだった。

4. 「生野鉱物館」

    入り口左側に「生野鉱物館」がある。建物の外観は12年前に訪れたときと同じようにみえた。

    
                  「生野鉱物館」

    入場料大人100円を投入し、2階の「生野銀山文化ミュージアム」に上がってみて、12年前と雰囲
   気が違うのを感じた。初めてきた2003年には「和田コレクション」の世界に誇れる標本がズラリと並び、
   私が住む、山梨県(甲斐國)の標本だけでも、垂涎ものが、これでもかこれどもかとばかりに並んでい
   た。

    私のミネラル・ウオッチングはこれらを越える標本は無理にしても、これらの産地を探索し、標本を
   採集する(自力・現金を問わず)ことを一つの目標にしてきたことは確かだ。苦節12年(大袈裟か)、
   「黒平向山産燐灰石」を除いては入手できた。
   ( 20回前後訪れている向山で燐灰石が本当に採れるのか、今では疑問に思っている )

        
            小尾八幡山             黒平向山
                    山梨県産燐灰石

        
        金峰山産天河石          黒平産トパーズ

        
            灰重石           乙女鉱山産日本式双晶
                               【両翼40cm】
              「和田コレクション」山梨県産の一部
                   【2003年訪問時】

    しかし、それらが1つもないのだ。2011年3月、これら「和田コレクション」の標本のすべてが三菱マテリ
   アル(株)の手で引き上げられてしまった。
    その後を埋めるように、生野鉱山に勤務したOBたちが寄贈した鉱物標本を展示している。いずれも
    生野鉱山のいろいろな鉱床で産出した標本が中心で、永年働いていた人ならでは入手できたもの
    で、和田コレクションとは違った意味で貴重だ。

 (1) 「藤原寅勝コレクション」
      大正11年(1922年)から昭和38年(1963年)まで41年間、元生野鉱業所地質課で地質・測
     量業務一筋に勤務した故藤原寅勝氏が平成4年(1992年)6月寄贈した609点の鉱物標本。
      氏は、「明治以降の生野鉱山」の著者でもある。

        
                   全体                         生野鉱山産
                             「藤原寅勝コレクション」

      生野鉱山と言えば、「生野鉱」や「桜井鉱」などもあるが、私などはへき開が特徴で判りやすい
     「自然蒼鉛」に魅力を感じる。また、生野鉱山産「蛍石」は2つの坑のものが展示してあり、いずれ
     もみごとな結晶だ。
      それと、握りこぶし大の「鶏冠石」の標本が陳列してあるが、独特の朱色はとうに抜け落ちて、
     茶褐色の”グズグズ”の塊に変質してしまっていて、鉱物標本の保存の難しさも痛感させられた。

        
                 「自然蒼鉛」                             「蛍石」
                                                【左:千珠本ひ 右:金盛ひ】

 (2) 「小野治郎八コレクション」
      戦後採鉱課長として生野鉱山に赴任し、その後昭和33年(1958年)から昭和36年(1961年)
     まで第17代生野鉱業所長を務めた故小野治郎八氏の収集品で、昭和63年(1988年)7月寄贈
     した155点の鉱物標本。
      「藤屋の紫水晶」は購入したものを持っているが、ぜひとも自力採集してみたいと念じている。
  

         
               「小野コレクション」                   「鳥取県藤屋産紫水晶」

 (3) 「鉱物標本セット」
      三菱OBの伊藤真一郎氏と同じくOBと思われる尾形氏が寄贈した鉱物や岩石標本が展示して
     ある。これには、「生野鉱」も含まれている。
      伊藤氏が寄贈した標本メーカー製の「鉱物岩石9種セット」は、かつて生野小学校で5年生の
     教材として使われていたものだ。

      
                  「三菱OB寄贈標本」
                【左:伊藤氏 右:尾形氏】

 (4) 「螺灯(らとう)」
      2階に生野産鉱物に手を触れて観察できるコーナーがある。そこで、「自然蒼鉛」や「蛍石」を
     見ていると、妻が「あっちに、サザエの殻がある」と教えてくれた。
      行ってみると、サザエの殻にキャンドル(ロウソク)を立てたもので、「螺灯(らとう)」の現代版のよう
     なものだ。インターネットで”螺灯”で検索すると、これを作って販売している人がいるようだ。

      
                 現代版「螺灯」

      午前中、樺阪鉱山で「螺灯」に使われたサザエの殻を発見して、その使い途を妻に説明した
     ばかりだったが、その現物に近いものを見られるという、余りのタイミングの良さに”びっくり ポン”だ
     った。

 (5) 「灰吹銀(はいふきぎん)」
      江戸時代、生野の銀は「灰吹法(はいふきほう)」と呼ぶ方法で精錬していた。銀鉱石を溶かし
     てできた「鉛銀(なまりぎん)」を動物の骨灰を敷き詰めた”るつぼ”の上で空気を送りながら加熱す
     ると、酸化した鉛は灰の中に吸い込まれ、皿の上に銀だけが残る、という方法だ。

      もう10年以上昔の2002年8月、湯之奥金山博物館主催の「こども金山探検隊」に参加し、
     自分が金鉱石を粉にして揺り分けた砂金を「灰吹法」で精錬する体験をさせていただいたことが
     あった。
      下のページの写真を見ていただければ、なぜそうなるのか理論は判らずとも結果は納得されるは
     ずだ。

      ・ 湯之奥金山博物館企画-こども金山探検隊-
      (Experiences of Gold Mining Works of old days at
         Yunooku Gold Mining History Museum , Shimobe Town , Yamanashi Pref.)

      「灰吹銀」の実物が展示してある。その純度は99%(不純物1%)らしい。

      
                 「灰吹銀」

      この「灰吹銀」が”ホンノリ”と黄色味を帯びているのにお気づきだろうか。生野の「灰吹銀」には
     わずかに金が含まれていて、コワニエが指摘するまで、この【不純物】にだれも気づかずに出荷して
     いたようだ。

      この後、隣のミュージアム・ショップに行き、前にも買った記憶がある「生野銀山史の概説」を購入
     した。
      そうこうしていると、閉館時間が迫ってきたので、生野の町を後にして今夜の宿に向けて車を走ら
     せた。

5. おわりに

 (1) 『銀の馬車道』
      「銀の馬車道」の正式名称は「生野鉱山寮馬車道」で、生野銀山と飾磨津(現在の姫路港)
     の間約49キロを結ぶ馬車専用道路として明治6年(1973年)に着工し、明治9年(1976年)に
     完成した。”日本初の高速産業道路”ともいえる。
      設計・施工の責任者は、コワニエの妻の弟レオン・シスレーだった。

      
                     銀の馬車道

      生野銀山の採掘・製錬に必要な機械や日用品などの物資、産出した銀の輸送ルートとして
     大きな役割を果たした。しかし、明治28年(1895年)に開通した播但鉄道(現JR播但線)にその
     役割を譲り、現在ではその大部分が国道や県道に姿を変えている。

          
           生野局          姫路局                 明治末の飾磨港絵葉書
         【大正元年】       【明治42年】            【オークションの落札品が届かないので・・・】

 (2) 「モンテローザ」の夜は更けて
      N夫妻が予約してくれたこの日の宿は、生野から10キロほど離れた神河(かみかわ)町長谷にあ
     るホテル「モンテ・ローザ」だった。とんがり屋根のスイスのホテルを思わせる外観で、それほど高くは
     ない紅葉した山々がせまっていた。
      部屋にはベッドと畳敷きのエリアがあり、老齢の私たちでもくつろげた。

         
              紅葉に囲まれたホテル                      部屋

      19時からの夕食まで、1時間以上あるのでまずはお風呂だ。ジャグジーのついた広い浴槽で、
     手足を伸ばし、前日からの疲れをとる。露天風呂に入ろうと外に出ると冷気が”ピリリ”と膚を刺して
     気持ちが良い。

      19時から夕食だ。ここはフランス料理も気軽に楽しめるようだが、老齢の私たちのために季節の
     食材をかわいらしくまとめた1日限定10食の和食膳を注文しておいてくれた。
      口取りの瀬戸内産鰆(さわら)からメインの神戸牛ではないと思うが分厚いステーキまで、ビールと
     一緒にいただき、そのうえデザートまで出てきたので妻も大満足だった。
      食べるのに夢中だったのと、高級感のある場所で、田舎モン丸出しでフラッシュを焚いて写真を
     撮るのもどうかと思い、写真は翌朝朝食前に撮った。「N夫人、小顔に写ってますよ」。

      
              ホテル「モンテ・ローザ」

      夕食の後、N夫妻の部屋にお邪魔し、ワインをいただきながら、明日の予定などを話し合っている
     と、「モンテ・ローザ」の夜は静かに更けていった。

6. 参考文献

   1) 地学団体研究会編:兵庫自然史ハイキング,創元社,1994年
 2) 大阪地域地学研究会編:関西地学の旅 宝石探し,東方出版,1998年
 3) シルバー生野編:生野銀山史の概説,同社,平成13年
 4) 朝来市埋蔵文化財センター「あさご館」編:きらめく金銀のものがたり,同館,平成26年
 5) 園部 利彦:日本の鉱山を巡る 上,弦書房,2015年
 6) 銀の馬車道ネットワーク協議会編:銀の馬車道,同会,2015年








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