鉱物ファンにとって見逃せないのが、和田 維四郎標本を収める「生野鉱物館」
である。
日本には、まとまった形で和田標本を収納する場所として、次の5箇所が
知られている。
@宮城県細倉鉱山
A新潟県佐渡金山
B東京大学
C埼玉県三菱マテリアル総合研究所
D兵庫県生野鉱物館
「生野鉱物館」には、三菱鉱業(現マテリアル)が、所有する鉱山はじめ、日本の
鉱山が稼動していた時期に収集した国内産鉱物の逸品4,500点が、所狭しと
展示してあります。
是非一度は訪問されるのをお奨めします。
(2003年11月訪問)
3.2 歴史
大同2年(807年)開坑との口碑が伝えれレているが、史実として
裏づけがあるのは、16世紀の中ごろ以降のようです。
天文11年(1542年) 山名祐豊が銀石初めて掘出し、蛇間歩(じゃまぶ)と号す。
天正 5年(1577年) 羽柴秀吉が生野銀山占領。
慶長 5年(1601年) 関が原合戦後、徳川の手に移る。
若林・蟹谷(かにだに)・樫木(かたぎ)の開坑
元和 7年(1621年) 藤川甚左衛門が生野銀山奉行に任命される。
(補佐役は、佐渡金山奉行 竹村九郎衛門)
元和 8年(1622年) 枡形・鉄(くろがね)山・三原・梓ノ木など開坑
極盛期を迎える。
万治 3年(1660年) 大火により、鉱夫たち多田銀山他に走り、一時衰退
元禄 5年(1692年) 760貫(2,850kg)余と20年来の産銀量を記録
宝永 5年(1705年) 若林坑は、1升の鉱石中に銀300匁を含有する優良鉱採掘
山主の菊屋勘兵衛が山神祭に「御見石(みいし)」と称する
山車を引き回した。
明和 4年(1767年) 若林山坑内で出水事故。以後一時凋落
(3万両をかけて、坑道掘削)
寛政 8年(1796年) 金香瀬福寿山が盛況
(以降、大盛(たせい)山が維新まで隆盛を誇る)
文政10年(1827年) 大亀山も栄える。
慶応 4年(1868年) 黒田清隆が生野鉱山占拠
官営に決定し、仏人地質家コワニーを招聘、近代化を推進
明治 9年(1876年) 復興なり、生野鉱山機械落成式挙行
明治16年(1883年) 名称を生野鉱山局に改める。
明治21年(1888年) 帝室財産に編入され、御料局生野支庁と改称。
明治29年(1896年) 民間へ払い下げ決定。三菱合資会社が落札
このとき支庁長が、和田維四郎でした。
大正 7年(1918年) 三菱鉱業株式会社を新設
昭和27年(1952年) 太平鉱業株式会社を経て、三菱金属鉱業株式会社と改称
昭和48年(1973年) 採鉱部門を廃止し、歴史に幕を閉じる。
平成 4年(1991年) 鉱山公園として、リニューアルオープン
@観光坑道
A鉱山資料館
B吹屋資料館
C生野資料館
Dジュエリーショップほか
4.1 観光坑道
コアニェが開坑したと伝えられる、「金香瀬坑本坑」を中心とし、「慶寿ひ坑」
「大丸ひ坑」そして「滝間歩坑」を一巡する坑道を観光坑道としている。
江戸時代のノミと鎚による手掘りの時代から、近代的な採掘機械まで、鉱山の
歴史を学べるようになっている。
4.2 鉱山資料館
大同2年(807年)に開坑し、織田・豊臣・徳川の各時代を経て明治元年には政府直轄と
なり、その後、皇室財産にまでなった大鉱山・生野鉱山。その栄光の歴史をパネルなどで
展示している。
徳川時代の雁木(がんぎ)梯子、竹樋(坑内の水を汲み上げたポンプ)をはじめ
当時の鉱山の様子を詳細に描いた絵巻物や鉱石標本などの資料も豊富に展示している。
4.3 吹屋資料館
徳川時代、幕府に献上する「上納銀」を作るために、丹念に、辛抱強く製錬を繰り
返していた吹大工(製錬工)たち。昔は製錬のことを「吹く」といい、それに従事する
人々のことを「吹大工」と呼んでいた。
吹屋の作業は、@素吹きA真吹きB南蛮絞りC荒灰吹きD上銀吹の5つの工程に
分かれていた。ここでは、電動人形がそれぞれの工程を再現しています。
4.4 生野鉱物館
世界的に有名な三菱ミネラルコレクション。和田 維四郎が収集した標本をはじめ
4,500点の収蔵品の内、1,500点が展示してある。
私の住む、山梨県(甲斐國)の標本だけでも、垂涎ものが、これでもか
これどもかとばかりに、並んでいます。
4.5 ジュエリーショップ
青白く、清楚な光を放つシルバージュエリーをはじめ、宝石、貴金属の数々を
リーゾナブルな価格で販売しています。
奥さんや、恋人はお連れしないほうが・・・・・・・・・・。
この他に、生野銀山の盛時を偲ぶ、「慶寿ひ」の堀跡などを散策するコースもあります。