甲斐国鋳造 寛永通宝 「飯田銭(いいだせん)」







       甲斐国鋳造の寛永通宝 「飯田銭(いいだせん)」

1. はじめに

    趣味の『鉱物』が昂(こう)じて、「鉱物切手」、「鉱山絵葉書」、「水晶細工」、さらに「鉱山貨幣・
   鉱山(炭鉱)札」、と際限なく収集ジャンルが広がっているようで、我ながら、”ゾ〜ッ”、としている。
    ( ”こんなもの”を遺されても、始末に困る家族の方は迷惑しているかも知れない )

    2013年12月、甲府市にある中銀「金融資料館」を訪れ、甲斐国で鋳造したとされる「飯田銭」な
   る鉄でできた寛永通宝を眼にし、手に入れたいと思っていた。願えば叶うもので、関東地方の骨
   董店を訪れると、店の片隅にあった古銭が入った箱の中から1枚だけ見つけた。
    実は、11月に甲府駅前のデパートで開かれた古書市で、地方史の雑誌の山の中から、赤岡氏
   の『甲斐貨幣の変遷』が連載された号をはじめ、「鉱山」、「鉱物(石)」、「貨幣」などをキーワード
   に10冊近くを買っておいた。
    さらに、12月中旬、山梨県立図書館を訪れ、地方史関係の古い雑誌をめくっていると、西海(に
   しがい)氏による『甲斐国鋳造の寛永通寶について』の中に、「飯田銭」の記事をみつけ、借り出
   した。

    こうして、”現物”と”文献”が揃ったので、このページをまとめる気になった。

    寛永通宝は、寛永3年(1626年)に鋳造されたのが始まりとされている。明治初年まで、240年
   あまりの間、全国に銭座をもうけて鋳造され、庶民の銭貨として親しまれた。
    寛永通宝の中に、明和2年(1765年)から5年まで、4年間甲斐国飯田で鋳造されたとされ、『飯
   田銭』と呼ばれる一種がある。その特徴から、”玉点寶(ぎょくてんほう)”、と通称される。

    「金融資料館」のページでも触れたように、鋳造時期が元文5年(1740年)から寛保元年(1741
   年)までの1年間とする説や鋳造場所は甲斐ではなく信州飯田とする説まであるようだ。

    西海氏は、古文書を調べ、明和年間の鋳銭は疑問としている。元文5年から「寛永通宝」鉄銭が
   鋳造されたのは確かだが、詳細な場所や鋳造されたのが”玉点寶”なのか、そしてなぜ「飯田銭」
   と呼ばれるのか、不明としている。できるなら、発掘をベースにした、今後の研究に期待している。

    このページを作成するに当たり、西海氏の論文をはじめ、参考文献に挙げた資料を参照させて
   いただいた。
    ( 2013年11月〜12月 入手・調査 )

2. 『飯田銭』

    今回入手した「飯田銭」の表裏写真を下に示す。

       
                   表                                裏
                              『飯田銭(大字玉点寶)』

    「飯田銭」の特徴は、他の寛永通宝に比べて、”「寶」の字のウ冠の点が異常に大きく突き出て
   いる”、ことで、古銭界では、”玉点寶”と呼びならわされている。
    点の形状が橋の欄干などに取り付けられている「擬宝珠(ぎぼうし、ぎぼうしゅ、ぎぼし)」に似て
   いる、とも言われる。そう言われて見ると、下が丸く、てっぺんが尖っているところなど、ソックリだ。
    日本古来の植物とされる「ギボシ」は、その花の蕾の形が「擬宝珠」に似ているところから名づけ
   られたとするが、Y農学士、この説や如何?

     「擬宝珠」【京都・三条大橋】

3. 甲斐国鋳造の寛永銭の研究

 3.1 『飯田銭』」と『横沢銭』
      甲斐国で鋳造されたとする寛永通宝鉄銭は、『甲斐飯田銭』、と呼ばれ、平成元年発行の
     「山梨百科事典」に次のように記述してある。

      『 明和2年(1765年)から明和5年、山梨郡飯田村で鋳造された。・・・・銭文(寛永通宝の字)
       は、明和長崎銭と同人筆で、幕府内史・蜷川八衛門親雄筆という。長崎および甲府は幕府
       所領であったから両銭は直接の許可ではなかろうか。銭文に2種あり、収集仲間では、
       大字玉点宝と小玉点宝に分類していいる。玉点宝とは銭面の「宝」の字の最初の点が「ギ
       ボシ」のようになっている。飯田村鋳銭座は現在のNHK甲府放送局の敷地         』

        NHK甲府放送局は、2012年秋、甲府市飯田町から甲府駅近くの丸の内に移転している。

      一方、「図録 日本の貨幣」には、この『甲斐飯田銭』と並んで、『甲斐横沢銭』が紹介されて
     いる。これらは、文政期の冒険家・近藤 正斎(重蔵)の書いた「銭録」にもとづいている。

      『 明和甲斐飯田鉄銭
        右明和二年より同五年まで甲斐国北山筋飯田村にて
        鋳るところなり
        [一書] 横沢細耳鉄銭元文四年三月至九月甲斐国山梨郡横沢
             所鋳有二様飯田新町役人太田久右衛門           』

      「銭録」では、甲斐で鋳造された寛永通宝には、明和期の『飯田銭』があり、一書によれば、
     元文期の『横沢銭』もあった、と記している。
      これに対し、昭和11年(1936年)、貫井 銀次郎氏が「貨幣」誌の中で、「甲斐飯田銭に就い
     て疑義」と題した論文を発表し、これが現在の定説になっている。

      『 甲斐国での寛永銭鋳造は、元文期の横沢銭と明和期の飯田銭である  』

      これらに対して、西海氏は、「甲斐国鋳造の寛永通寶について」のなかで、次のような疑問
     を呈している。

      (1) 元文期の鋳銭(『横沢銭』)については実態が全く不明で、現物が見つかっていない。
      (2) 明和期の『飯田銭』については、”明和二年より同五年まで甲斐国北山筋飯田村にて
         鋳造”ということ以外、具体的な時期、鋳造にかかわった人物、鋳造量などが不明

 3.2 甲斐国寛永銭の鋳造時期

  (1) 「甲斐国志」
       甲斐国志(かいこくし)は、甲府勤番・松平伊予守定能がまとめた江戸時代の地誌。元文
      期よりも70年余り後の文化11年(1814年)に成立。これには、次のような記載がある。
 

       ・ 元文5年 府中横沢で鉄銭を鋳る
       ・ 7月19日より始めて、翌年の5月御差し止め(中止)になる
       ・ 鋳銭を始めた理由は、甲州金の吹き替えが休止したことにより、金座で働く者の生活が
         立ちいかなくなったため
       ・ 差し止めた理由は、1両=4貫文の公定相場が、7〜8貫文の銭安小判高、つまり、銭が
         多すぎてインフレ状態になり、庶民が困窮している

  (2) 「甲府勤番日記」
       甲府勤番(こうふきんばん)は、江戸幕府の役職。江戸時代中期に設置され、幕府直轄領
      の甲斐国に常在し、甲府城の守衛や城米の管理、武具の整備や甲府町方支配を担った。
       甲府城下で日々起こった出来事を記録したものだ。

       ・ 元文5年に町人の願いが叶い、『七月ヨリ始、翌酉年(寛保元年)五月迄』鋳銭
       ・ 6月3日には『役所引ル』
(銭座が廃止)

  (3) 甲府町年寄 坂田家・山本家 「万(よろず)当座控帳」と「鋳銭座控」

       ・ 『 (元文5年)4月26日
           新青沼町鋳物師 源蔵・善六(の2名)方ヨリ
           徒く銭願相叶候申談儀候間 今日九時両人共可被参候徳と如此ニ候 』

       ”徒く銭”とは、”ズク銭”のことで、たたら製鉄でできる鋼と銑鉄(ズク)のうち、ズクを原料
      にした鉄銭を指している。鋳物師・源蔵と善六両名のズク銭鋳鋳造願いが叶いそうで、この
      日、九時【午(うま) の刻(現在の午後零時)】に二人が(江戸に)参上することになった。

  (4) 坂田家文書 「甲州飯田銭記録」
       これは下書き、あるいは控えと思われるが、昨元文5年夏からの多量の鉄銭鋳造によって、
      銭の価値が下がり、困窮しており、鋳銭を止めて欲しいとお願いしたところ、この6月に停止と
      なり有難く思っている、との内容だ。

       ・ 『       乍恐口上書を以奉願上候
           一今度銅銭座願人之有由及承左候而者国中之
             困窮ニ罷成候付銭座相立不申様ニ奉願候 去申夏ヨリ
             鋳銭座被仰付通用仕候処御国之儀船着之
             場所とハ違他国之通路駄賃等之掛リ多払方不自由ニ而
             當所ニ銭たたまり金廻り之手支ニ罷成国中之
             難儀ニ可罷成候奉存候得共其程疾をも相知レ不申と
             御訴茂不被申上罷在候処ニ銭出盛ニ相場段々
             引下商売仕候品々之代銭度々下リ利分之
             儀者扨置元銭を失ひ難儀至極仕候付去五月頃ハ
             町々之者共御訴訟申上度名主方返申渡候町茂
             有之所當六月鋳銭座御停止被為仰付相助リ
             一同難有奉存候
             ( 以下略 )                               』

       「恐れながら、口上書をもって、御願い上げたてまつりそうろう」、の紋切り型の書き出しで
      始まる、願書である。
       書き出しを読むと、「この度、銅銭座を願い出る人あるやに承るが、そのようになっては
      国中困窮することになるので、銭座を造らないようお願いする。」となっており、実例として、
      申年(元文5年)夏からの鋳銭座が稼行を始めてからの諸問題が書き連ねてある。
       この願書は、当年(寛保元年)6月に鋳鉄銭を停止した後にも「銅銭座」を造る申請があっ
      たようにも読める。

       (1)〜(4)の文書のうち、鋳銭と同時期に書かれた(2)〜(3)に共通している内容は
      信憑性が高い、と言えるだろう。それらから、鋳銭時期を次のように導き出せる。

        甲斐国で寛永鉄銭が造られたのは、元文5年(1740年)7月から翌寛保元年5月、公式に
       は鋳銭座が廃止された6月まで
、と言えるだろう。

        安価な素材の鉄を使った寛永通宝の鉄銭が初めて造られたのは、元文4年とされる。江
       戸深川十万坪、仙台石巻、江戸本所押上などの銭座で鉄一文銭の鋳造が始まりそれから
       1年たらずで始まった甲斐国での鋳鉄銭は早い時期にあたる。

 3.3 甲斐国寛永銭の鋳銭地
      鋳銭した期間が明らかになった元文期の鋳銭がどこで行われたのかをいろいろな文献から
     追ってみる。

  (1) 「御用当座控帳」

       元文5年5月25日の記述

       ・ 『 鋳銭場千五百五十二坪百石町三ケ所ニ而相渡候 』

  (2) 「甲府勤番日記」

       ・ 下横沢町裏の畑に(鋳銭座)役所を立て・・・・・・

  (3) 「甲府下横沢町御用留帳」

       ・ 『 ・・・・・於甲府徒く(ズク)銭座・・・・・・』

      元文期の鋳銭座に関連して出てくる地名(町名)は、「百石町」、「下横沢町」そして鋳物師・
     源蔵と善六の住む「新青沼町」の3か所だ。現在の地図の上に古い町名を落して、それらの
     位置関係を見てみる。「飯田」の名をつけた「飯田新町」と「山梨百科事典」の記述にある(元)
     と(現)NHK甲府放送局の位置もプロットしておく。

      
                       甲斐国 寛永通宝 鋳銭座の候補地

      赤丸で囲った3ケ所の鋳銭座候補地は、甲府城の西に位置し、塀で囲まれた城郭の外に
     ある。一番北にある「下横沢町」から一番南の「百石町」まで、直線距離で1km足らずだ。

      3つの候補地から、鋳銭地を絞り込むことはできていない、というのが結論だ。今後、発掘調査
     を行い、鋳造したままの状態の枝銭(えだせん)や鋳型として使った銅などの母銭(ぼせん)
     などが出土すれば確定できるだろう。

      
                 枝銭(えだせん)

 3.4 誰が鋳銭したか
      上の「鋳銭座控」には、鋳物師・源蔵と善六の鋳銭願いが叶った、とある。山梨県内に残る
     梵鐘の銘などから、この時期の鋳物師の消息がわかる。甲斐の鋳物師としては、沼上、雨宮、
     小田切、山田、有泉などの名があげられる。これらの中で、勅許鋳物師は、沼上と雨宮だけだ。
      「鋳銭座控」」にある源蔵は、時期的に二代目・沼上源蔵藤原巻次だと考えられる。

      「甲斐の落葉」に、次のようにある。

       ・ 『 此ノ銭を鋳ル許可を得タルモノハ、ナマカミ(本字不詳)ト申者
          横沢ノ飯田河原ニテ(今ノ相川河原ノ北)鋳タルナリ・・・・・        』

      ”ナマカミ”は、”沼上(ぬまかみ)”が誤り伝えられたものだろう。鋳銭したのは、鋳物師・沼上
     源蔵と善六だろう。
      雨宮、小田切、山田、有泉などは、山梨県に多い苗字だが、沼上は珍しい。

 3.5 元文期の鋳銭高
      甲斐国では、元文5年から寛保元年までの1年足らずの間に、どのくらい寛永通宝の鉄銭が
     鋳造されたのか。
      「甲府勤番日記」に次のようにある。

       ・ 『 洗銭一万貫程モ鋳上納スル之由 』

      これを裏付けるように、「鋳銭座控」の9月7日の条に、次のようにある。

       ・ 『 今日、鋳銭千貫文納申候 』

      「甲府勤番日記」に 『七月ヨリ始』とあり、操業から2ケ月で1,000貫文の洗(ズク)銭を鋳造し
     たことから、翌年の5月一杯までに1万貫文は鋳造できただろう。
      一般的に、1貫文は、銭1,000枚だが、当時は銭96枚を藁や麻紐に通して緡(糸へん、民の
     下に日)で”ゼニサシ”と呼び、百文として通用したので、1貫文は銭960枚だ。1万貫は、960万
     枚になる。

      「飯田銭」の重さを計ってみると、およそ3gだ。960万枚では、30トン以上の銑鉄を使った計
     算になる。

      960万枚、にビックリするかも知れない。2010年、元文から100年後の文久年間(1860年頃)、
     仙台藩領(現岩手県)の「文久山鉄山」で鉄銭を鋳造したことをHPに載せた。

      ・ 鉱山札の研究 「文久山鉄山札」
       ( Study on Mine Note "Bunkyuyama Iron Works Note " , Iwate Pref. )

      「文久山鉄山」では、年間2500万枚、「飯田銭」の2.5倍の鉄銭を鋳造したのだから、960万枚
     は、驚くほどの量ではない。事実、元文期の日本全体の鋳造量は、確認されているだけでも
     約600万貫、60億枚を越える。これに、幕府の許可を得ないで鋳造した”密鋳(みっちゅう)”分
     を加えるとさらに増える。甲斐の鋳造量は、全体の1/60 ≒ 1.6% にしか過ぎない。

 3.6 元文期鋳銭のまとめ
      元文期に甲斐国で鋳造されたとする、寛永通宝についてまとめてみると次の通りだ。

       1) 銭の通称     : 『横沢(細耳)銭』
       2) 材質        : 鉄
       3) 鋳造時期     : 元文5年(1740年)7月〜寛保元年(1741年)5月
       4) 鋳造者       : 鋳物師・沼上源蔵藤原巻次(新青沼町住)
       5) 鋳造場所     : 「百石町」、「下横沢町」、「新青沼町」のいずれか
       6) 鋳造高       : 一万貫文( 960万枚)+α
       7) 銭文(せんぶん) : 不明(拓本、現物とも発見されていない)
                       「銭文」は「泉文」とも言い、「寛永通寶」の文字
       8) 銭の特徴     : 「細耳銭」と伝えられているので、図の「耳」あるいは「輪(りん)」
                      が細い(=狭い)、と考えられる。

                        
                                  耳または輪(りん)

4. 明和期の甲斐国鋳造の寛永銭

 4.1 「飯田銭」の現状
     私の座右の書の一冊に、「日本貨幣カタログ」最新版がある。現在2013年12月だが、すでに
    2014年版が手元にある。
     これを見ると、「飯田銭」は、名称が『大字玉点宝(飯田)』、年代は明和2年(1765年)になって
    いる。上の行の『背長(長崎)』が鋳造されたのは(肥前)長崎だし、下の行の『平永(山城伏見)』
    は京都伏見だ。そうすると、(飯田)は、信州(長野県)の飯田の意味なのだろうか。
     ちなみに、価格は状態の良いものだと1枚8,000円、悪いものでも3,000円と、普通の寛永通宝
    の10倍以上の高値だ。

     
                       「寛永通宝」カタログの一部

 4.2 「甲斐飯田銭」明和期鋳銭の根拠
      それはさておき、明和2年に鋳造されたとする「甲斐飯田銭」は本当に造られたのだろうか。鋳
     銭の根拠になっている貫井氏の論文は次の通りだ。

       『 京都中嶋泉貨堂を訪ひ、同氏秘蔵の父祖伝来の泉書及び拓本を見せていただいた。
        偶ま、稲垣本に名古屋の集古文斎 柳沢保之が改訂を加へた寛永銭譜を閲覧して居た
        るに、同冊子の間から一葉の拓本を貼った書附が出てきたのである。          』

        

      『 甲斐飯田銭 明和2年鋳銭 』、という貫井氏の説は、昭和11年以来、この書き付けの発見
     で決定づけられたことになっている。

      書き下してみると次の通りだ。
      「 2つの銭とも赤銅彫刻なり。(種銭、あるいは母銭とよぶ鋳型)
        明和2年より5年に至るまで、甲州飯田新町で鋳るところの(銭)
        その(銭)文に2種類あり。鉄銭である。

        近頃、甲州の人がこの書き付けと種銭(たねせん:鋳型)を持参した。         」

      怪しげな(失礼!)、書き付け1枚が根拠のようで、こんなところから次のような疑問が生ま
     れる。

 4.3  明和期鋳銭への疑問
  (1) 「甲斐国志」と「甲府勤番日記」
       100年以上古い元文期の鋳銭については記録が残されているが、明和期の鋳銭について
      は、何も残されていない。
       そのような事実はなかった、と考えるのが妥当だろう。むしろ、当時、鋳銭は行なわれて
      いなかったとすると納得できる文書がいくつか残されているので紹介する。

  (2) 「鋳銭願」
       明和4年(1767年)、巨摩郡宮原村 甲州金座・松木源十郎と新青沼町 勅許鋳物師・雨
      宮十佐衛門、武佐衛門から、甲府勤番支配宛に出された願い文の下書き、または控えだ。
       町年寄・坂田家の「御用日記」の明和4年12月2日の条に、松木や雨宮が洗鋳銭座を願い
      出た旨が記されており、この文書が提出されたのは間違いないだろう。

       ・ 『 (前欠)
          一今度願上候鋳銭被為仰付被下候は、□御上納
           直段(値段)の儀は、当時江戸表ニては鋳銭被付候ニ付
           御上納御直段の儀御吟味の上御下知次第□被為仰付下
           置候様奉願上候、尤(もっとも)たたら吹壱ケ所ニて壱ケ年ニ
           弐万貫文宛無相違御上納可仕候、且又御上納の儀は、月々
           吹出研磨出来次第御上納仕候上ニて右代御金被下置候様
           奉願上候、鋳銭座御場所御用相勤候年数の儀も、乍恐
           御下知次第何卒相勤候様奉願上候
            ・・・・・・・・・・・・・・・・・                          』

       当時、江戸・亀戸では、上のカタログにもあるように明和2年から鋳鉄銭が続いていた。こ
      れを知っていた松木と雨宮が甲斐での鋳鉄銭を願い出たものだろう。

       上の地図からわかるように、鋳物師・雨宮が住む新青沼町から直線距離で700mくらいしか
      離れていない「飯田新町」で明和2年から鋳銭が行われていたことを知らないで、この願書を
      出したことになるが、このような事はあり得ないだろう。

  (2) 「甲府町年寄御用留帳」
       明和5年7月から年末にかけ、甲府城下で銭が不足していた記録が残っている。

       ・ 七月二十六日 『 銭之儀払底ニ候哉                  』(両替商)
       ・ 九月廾二日   『 銭之儀、此節追日払底ニ罷成差支候段・・・・・ 』
       ・ 十二月三日   『 他国ヨリ銭入可申哉奉伺度旨・・・・・       』

       明和5年、甲府城下は深刻な銭不足に陥っていた。元文期、1年足らずの期間に1万貫の
      鋳銭で甲府城下は”銭余り”状態になり、銭の価値が下落し、皆が困窮した。
       それなのに、明和2年から5年まで、4年間も鋳銭を続けたら、”銭余り”にはなっても、”銭
      不足”は起こり得ないだろう。

    (1)、(2)、(3)の事実から、明和期の甲斐国での寛永通宝 『飯田銭』 の鋳造は行なわれ
   なかった、と考えるのが妥当なようだ。

5 .おわりに

 (1) 『甲斐飯田銭』
      元文期に『横沢銭』なる鉄銭が甲斐国で鋳造された可能性が高いが、銭の現物や拓本が
     残されておらず、鋳銭地も特定できていない。
      ”細耳”という特徴は、現在『甲斐飯田銭』、と呼ばれている銭とも合致しない。

      明和期に鋳造されたとされる『甲斐飯田銭』だが、この時期に甲斐国での鋳銭はなかった、
     と考えるのが妥当なようだ。

      しからば、現在『甲斐飯田銭』、と呼ばれている鉄銭は、いつ、どこで、誰が鋳造したのかを
     甲府だけでなく、広い視野で調べ直さないとならないだろう。
      また、『横沢銭』の鋳銭地を特定し、発掘品からどのような図案(銭面)だったのか判れば
     『甲斐飯田銭』が甲斐で鋳造されたものか否か、答えが出るだろう。

 (2) 科学的な取り組み
      先週、T元教授に久しぶりにお会いすると、「山梨で造られた鉄銭があるそうですね」、と声を
     かけられ、興味津津の様子だった。『中銀 「金融資料館」』のページをアップした直後だった
     ので、読んでいただくようお話しした。このページも読んでいただければ幸甚だ。

      古銭はじめ「骨董品」への科学的な取り組みは遅れていて、意図するしないにかかわらず、
     ”贋物(がんぶつ)”が多いのも事実だ。以前、奥熊野鉱山の銅を使って紀伊(和歌山県)で
     鋳銭された寛永通宝の『一ノ瀬銭』を掲載したことがあった。

     ・ 一ノ瀬銭
      ( Old Coin "Ichinose-sen" , Tokyo )

      科学的に古銭の成分を分析した結果、微量元素の量から、従来から言われている紀伊や
     長崎で造られた可能性は低いことが明らかになった。

      西海氏が、文献考証学的にアプローチされ、元文期の鋳銭の時期や鋳銭高を明らかにし、
     通説だった明和期に鋳造された『甲斐飯田銭』は造られなかった可能性が極めて高いことを
     立証されたのは、大きな成果だ。
      妻に聞くと、西海氏は、考古学が御専門との事なので、発掘調査で『甲斐飯田銭』に決着を
     つけていただければ、と期待している。

6. 参考文献

 1) 赤岡 重樹:甲斐貨幣の変遷 甲斐路No7:山梨郷土研究会,昭和38年
 2) 小川 浩著:古銭の収集<新版>,徳間書店,昭和41年
 3) 倉本 修武:紀伊一ノ瀬銭のてんまつ記 収集,書信館出版,1979年
 4) 斎藤 et al:近世銭貨に関する理化学的研究 -寛永通宝と長崎銭の鉛同位体比分析-
                  2000年
 5) 西海 秀人:甲斐国鋳造の寛永通寶について 甲斐路No107:山梨郷土研究会,2005年
 6) 西海 秀人:近世甲斐の造幣請願の動きと挫折 甲斐No111:山梨郷土研究会,2006年
 7) 山梨中央銀行編:山梨中銀 金融資料館 リーフレット,同行,2013年
 8) 山梨中央銀行編:山梨中銀 金融資料館,同行,2013年
 9) 山梨中央銀行編:お金のはなし あれこれ,同行,2013年
10) 日本貨幣商協同組合編:日本貨幣カタログ 2014,同組合,2013年
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