私のHPの掲示板に「五十島鉱山を教えて」という書き込みがあったのが、頭の隅に
あったのか、「山梨県南部町十島の透輝石」を採集し、五無斎こと、保科百助流に言
えば、「十島(とおしま)」+「五十島(いがしま)」=「六十島」で、還暦を迎えた私に
相応しい産地シリーズとなることから、「五十島蛍石鉱山」を候補地に挙げた。
五十島蛍石鉱山に関する情報は少なく、古い文献や聞き込みをしながら訪れたが
入口のところで不安になり引き返して、通りかかった地元の方に確認して、再び鉱山
跡へと歩を進めたほどであった。
歩き始めて、間もなく、”吸血鬼”の群生地であることを思い知らされた。立ち止まると
長靴やズボンの上を”尺取虫”のように這い上がってくる。
かすかな踏み分け道も途中から追跡できなくなり、勘と経験(??)で、絶壁のように
スリリングな箇所を何箇所もトラバースしながら、3時間かかって、鉱山跡と思しき場所
に到着した。
しかし、一面草木に覆われ、ズリらしきものは全く見当たらず、鉱山跡なら沢筋に必ず
鉱石が落ちているはずだが、蛍石のカケラすら見当たらない。正直、途方にくれた。
鉱山勘(やまかん)で、ここぞと思う場所を掘ってみると、10cmあまりの肥沃な土の
下から、蛍石ズリがでてきた。大声で 「 あったぞ〜!! 」 とMさんを呼び寄せ、採
集した。
1時間足らずの採集であったが、透明〜ピンク〜緑〜青〜黒と色とりどりのものや
自形結晶を示す良標本も入手できた。
少なくとも、2006年になって訪れたのはわれわれ2人だけで、産地は手付かずの
状態で、ジックリ採集すれば、数センチの自形結晶もありそうな雰囲気であった。
再訪したいが、”吸血鬼”を考えると、2の足を踏んでいる。
( 2006年6月採集 )
文 献 名 | 著 者 | 出版年 (西暦) | 記 述 内 容 | 備 考 | 日本鉱物誌(初版) | 和田 維四郎 | 明治37年 (1904年) | 記述なし | 本邦鉱物標本 | 和田 維四郎 | 明治40年 (1907年) |
第820号 越後東蒲原郡五十島産 淡緑色半透明にして o の晶面を現わす群晶 なり(新) |
(新)とあるのは 新たに標本に 加えられたことを 示すと推測 |
日本鉱物誌(第2版) | 福地 信世 | 大正5年 (1916年) |
越後國五十島の蛍石は 単独の脈をなして産す 色淡緑にして半透明なり しばしば結晶をなす その最大なるものは 径7センチに達す 結晶面は o aにして、 oを主とするものと a を 主とするものとあり | 蛍石及蛍石鉱床 | 門田 重行 | 昭和18年 (1943年) |
位置及交通 地形及地質 鉱床(第一号坑〜第四号坑 鉱量 品質 付記 |
7ページにわたり 記述されている |
日本鉱物誌(第3版) | 伊藤 貞市 桜井 欽一 | 昭和22年 (1947年) |
淡緑色半透明にして a または o を主とする 結晶をなし、径7cmに及ぶ |
第2版を写した だけ? |
明治37年(1904年)の「日本鉱物誌(初版)」に記述がなく、明治40年(1907年)の「本
邦鉱物標本」に新標本として記載されていることから、明治30年代末に知られるように
なったものと考えられる。しかし、五十島が「五十島蛍石鉱山」を指しているのかは
検討の余地がある。
「蛍石及蛍石鉱床」には、産地についてついて、次のように記述されている。
( )は、私の注記
『 磐越西線五十島駅の南方道路に沿ふて約10kmの距離で、・・・・阿賀野川の支流
五十島川(五十母川の誤り)の渓谷に沿ふて約8km、通称一本杉の貯鉱場に達する。
・・・・・・・一本杉から山元に至る間は険阻な山道で登坂難渋である 』
山元に至る山道は、至るところで寸断され、五十母川を横切ったり、河原を歩き、その
続きを探しながら進む。
途中、忽然とカラミ煉瓦を積み重ねた、「持倉鉱山の製錬所跡」が出現し、ビックリさせ
られると同時に、このような芸術的な建物を建設した、当時の名もない職人さんの
美意識には、感嘆させられる。
「日本鉱産誌」によれば、持倉鉱山は、1700年ころに発見・稼行したと伝えられ、高温接
触(スカルン)鉱床の黄銅鉱、閃亜鉛鉱、磁鉄鉱そして蛍石などを採掘した。銀が20〜100
g/トン含まれていた。明治末〜大正年間に盛況を迎え、明治41年(1908年)〜大正4年(19
15年)の7、8年の間に、粗鉱105,000トン、型銅1,900トンを産出した。また、硫カドミウム鉱
の主な産地の1つ、と同書にある。
地元では、「五十島蛍石鉱山」よりも「持倉鉱山(銅山)」の方が良く知られており、「製錬
所跡」は、前の日に夕食を摂った店の女性も知っていた。
ここで、感慨に耽っている余裕は全くなかった。ここまで、全工程の1/15も歩いていない
ことになり、先を急ぐ。
間もなく、”吸血鬼”の群生地であることを思い知らされた。立ち止まると長靴やズボンの
上を”尺取虫”のように這い上がってくる。休憩をするたびに、”吸血鬼”どもを杖代わりの
ツルハシの柄で擦り落とそうとするが、執念深く、なかなか落ちない。
やがて、本格的な山道となり、渓谷の崖を、人一人がやっと歩ける幅に削ってこしらえた
鉱山道やスリリングな箇所を何箇所もトラバースしながら、進んでいく。後ろを振り返ると
Mさんの姿が見えない。数メートル下から、Mさんの声がする。夏草に覆われた鉱山道を
踏み外して、滑り落ちたらしい。こんなアクシデントを、お互いに何回も繰り返しながら、
2時間近く歩く。
かすかな踏み分け道も、沢の出水などで消え去り追跡できなくなり、勘と経験(??)で
探し出す。疲れること、甚だしい。
Mさんと顔を見合わせると、「 もう引き返しましょう 」 とどちらかが先に言い出すのを
お互いに待ち望んでいる顔つき。
3時間近くたって、鉱山道の傍らに鉄パイプやウインチなどの機材が次々とあらわれ
鉱山跡が近いことを予感させ、ようやく元気を取り戻し、先を急ぐ。
この巻取機は、対岸にあったとされる”坑口”から鉱石を選鉱場に運搬するためのもの
であった、と考えられ坑口や選鉱場が近くにあるはず、と読んだ。
鉱山道の脇や鉱山跡には、結晶質石灰岩や磁鉄鉱の大きな塊がみられ、石灰岩の
巨大な露頭も遠望できる。古生代の石灰岩に花崗岩が貫入した接触交代(スカルン)
鉱床と考えられる。
採集は、選鉱場跡と思われる箇所に広がるズリを掘り返すことにことになる。ここは
標高がさほど高くなく、豪雪、多雨地帯で土砂崩れや草木が生い茂り、ズリは厚いの土
の下に隠され、簡単に探し出せなかった。
以前、私のHPの掲示板に「 五十島鉱山を教えて 」との書き込みがあったが、今回
訪れるまで、産地を知らなかったのは真実です。くれぐれも、”嘘を疲れた”などと
誤解なさらないで下さい。また、非常に危険な箇所が多い上、判り難い産地で、”吸血鬼”
も多数生息しているので、訪れるにはそれ相当の覚悟が要ります。
(2) 「蛍石及蛍石鉱床」によれば、五十島蛍石鉱山が探鉱されたのは昭和12年(1937年)
頃であったらしい。
この背景には、「岐阜県平岩鉱山の蛍石」のページでも紹介したような事情があった。
『・・・昭和12年(1937年)頃迄は蛍石の需要(供給?)の大部分を朝鮮・中華民國等
に仰いでいたため、僅かの鉱山が窯業用としての鉱石を産出していたに過ぎない。
しかるに、1937年支那事変の勃発に伴う・・・国内各地の探鉱開発が急速に行わる
に至った。』
(3) したがって、「本邦鉱物標本」や「日本鉱物誌(2版)」にある「五十島の蛍石」とは、
五十島蛍石鉱山のものではなく、「持倉鉱山(銅山)」のものであろう、と考えている。
(4) ”吸血鬼”が群生していることは、予め情報として入手していたので、それぞれ対策を
準備していった。
石川県の石友・Yさんからは、『長靴とズボンの間をガムテープで巻き、長靴に
農薬の硫酸ニコチンを塗る』という秘策を伝授してくれた。しかし、硫酸ニコチンは
簡単に入手できず、仮に入手できたとしても、草露に濡れた鉱山道を長時間歩き
時には膝まで濡れて渡河を繰り返しているうちに効力を失いそうである。
結局、私は見つけ次第取り除く以外、何も対策しないことにし、Mさんが採った対策
は次の通りである。
@ 地下たびとズボンの間にガムテープを巻く。
A 靴下に塩をまぶす。
B スプレーに塩水を入れて持参し、見つけ次第吹き付ける。
@は、皮膚に食いつかれるのを遅らす意味で効果があった様だが、A、Bの効
果は??
多くの人から、「”吸血鬼”は上から降ってくるのですか?」と聞かれることがある。
学生のころ読んだ泉鏡花の「高野聖(こうやひじり)」には、木の上から降ってくる記述が
あったように記憶している。
ここ、五十島鉱山のものは、明らかに地表の枯れ木や落葉の上に生息し、下から
這い上がってくるのである。
(5) その前の日訪れた福島県のマンガン鉱山で「硫カドミウム鉱」を採集し、不思議に
思っていたが、「日本鉱産誌」に持倉鉱山が硫カドミウム鉱の主な産地の1つとある
のを読んで、納得した。
これについては、近いうちにご紹介したい。